第六話

「生命を施す者」~聖神゜(後半)

三位一体のペルソナとしての聖神゜

 聖神゜は、ご自身を隠すお方だとしても、神そのものです。神によって造られたものではなく、神の力の部分の呼称でもなく、三位一体の神の一つの位格(ぺルソナ)である神です。それを説明するために、『信経』では「聖神゜、主、生命を施す者、父より出で、父と子と共に拝まれ、讃められ」と言います。「主」とは、ハリストスの章でも説明したように、「キリオス」であり「アドナイ」であり、「ヤハウェ」であり、神様に対する呼びかけです。「生命を施す者」は、すべてのものに生命を与えるお方という意味であり、そういう方は神以外にはいませんので、すなわち神そのものであると言っているのと同じです。もし聖神゜が造られた存在だとしたら、「生命を施される者」になってしまいます。

 複雑な問題になってくるのは「父より出で」というところです。神・子は、神・父より、そのすべての神性をもらいました(この言い方は時間的な制約を受けている表現なので正確ではないことに注意が必要ですが…)。そのことが「父より生まれ」という言葉で表現されました。これは、神・父と神・子は同じ本性をもつ神であることを意味する表現です。同じように、神・聖神゜も、神・父より、そのすべての神性をもらいました。しかし、これを「父より生まれ」と、神・子と全く同じように言ってしまうと、神・子と神・聖神゜の区別がつかなくなってしまいます。神・聖神゜は、神・子とは区別されるペルソナをもつのです。その区別のために、聖書の伝統によって「出る」という言葉が選ばれました。

 この「出る」(名詞的には「発出」と呼ばれることも)には、実は、二つの「出る」(発出)があることを忘れてはいけません。ハリストスにも二つの「生まれ」(誕生)がありました。一つは、「万世の先に父より生まれ」たという、永遠の世界での三位一体の神の関係を表す誕生です。もう一つは、「マリヤより身を取り人と」なったという、この世の世界での、神の摂理における誕生です。

「フィリオケ」

 同じように、聖神゜には、永遠なる三位一体の神そのものとしての「神・父からの発出」と、この世に「遣わされ」、人々のもとにやってきて恵みを与えるという意味の(この世的な、時間的な)「神の摂理における発出」の二つがあるのです。この第二の時間的発出においては、聖神゜は、神・父より、神・子をとおして、「出て」きて、私たちのもとに降ってきます。

 ところが、その「この世への発出」を「永遠の発出」にも当てはめてしまい、「父と子より出で」と言ってしまうのは、おかしな話になります。この「と子」という言葉が、ラテン語では「フィリオケ」といい、西欧のキリスト教において、『信経』の中に付加されてしまいました。こうして「フィリオケ」問題が生じてしまいました。

 正教会はこの「フィリオケ」を間違った考え方であると断言します。三位一体の三つの「神格(ペルソナ)」を混合してしまうからです。聖神が「父と子」の両方から「出る」としたら、 本源が二つになってしまい、それでも本源は一つだとするなら「父と子」の区別がつかなくなってしまいます。そうして西欧のキリスト教では、神の三つの格(ペルソナ)を強調するよりも神の一つの本性、同一性の方を強調する傾向になってしまいました。つまり「三位一体」の捉え方が、西のキリスト教と正教会では、微妙に(だいぶ?)違っていて、ひいては教会の在り方をどう考えるか、人間とはどうあるべきか、などの世界観も異なってしまう、とうことなっていきます。

 正教会は、父のみが一つの本源であり、父と子と聖神は区別されながら、しかも完全に一致していると主張します。だからこそ、個々の教会、個々の生命は大切であり、且つ愛における一致が大切なのです(三位一体については改めて次項で扱う予定です)。

聖神゜への祈り

 永遠の世界で「父より出た」聖神゜は、この世にいる私たちのもとに、「出て」降ってきます。そして、私たちにさまざま賜物をお与えになります。私たちは、いつも聖神゜の降臨を願って、次のような祈りをします。

 「天の王、慰むる者よ、真実の神゜、
  在らざる所なき者、満たざる所なき者よ、
  万善の宝蔵なる者、生命を賜う主よ、
  来りて、我等の中(うち)に居(お)り、
  我等を諸々の穢れより潔くせよ、
  至善者よ、我等の霊(たましい)を救い給え。」

 このように、正教会は、聖神゜を「慰める者」(別の漢字表記では「撫恤者」と書いたりする)と呼んでいます。これは、ギリシャ語の「パラクレートス」の訳で、一般では「助け主」とか「弁護者」と訳されたりしていますが、もともと「そばに呼び寄せられた者」という意味をもっています。正教徒は、聖神゜を私たちのそばに降りてきて、私たちを苦難、苦悩、罪、そして死から救い慰めるために、ハリストスと私たちを一つにしてくれるお方として、日々その降臨を祈り求めています。

 「真実の神゜」という言葉は、ハリストスがおっしゃった次のような言葉に典拠をもっています。「父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをする。」(ヨハネ伝15:26)《正教会訳では「我が父より爾等に遣わさんとする撫恤者(なぐさむるもの)、真実の神゜、父より出る者は、来たらん時、彼、我の事を証せん。」》

 このように聖神゜は「真理であるハリストスを証(あかし)する」お方です。「真理(真実)」を「証する」とは、私たちを「真理=ハリストス」に導いてくれる、という意味です。(ヨハネ伝16:13を参照)

 つまり、聖神゜は単なる何か名状し難いエネルギイのようなもの、なのではなく、明確に「言葉」によって、「真実(真理)」を明らかにし、そこに導く存在であることを忘れてはなりません。言い方を変えれば、「言葉を施す者」でもあると言えるでしょう。殊に「言葉」との関連性の深さを表現するために、『信経』では「預言者を以てかつて言いし(昔、預言者の口をとおして語ったお方)」と言っています。「主の霊=聖神゜」に満たされた預言者の一人であるエゼキエルは、次のような神様の言葉を残しています。

「わたしがわが霊《神゜》を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させる時、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったことを悟ると、主は言われる」。(エゼキエル37:14)

 このように聖神゜は「生かす」ものであり、かつ、言葉によって「悟り」を与えるものであることが強調されています。そもそも神の言葉が集められた「聖書」そのものが、聖神゜の導きによって出来たものです。

 「預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ《聖神゜に感ぜられて》、神によって語ったもの」(ペテロ第二の手紙1:21)であり、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたもの《神の感ずる所のもの》であって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(テモテへの第二の手紙3:16)のです。

機密と聖神゜

 では、どうしたら、この聖神゜の導きが私たちにも与えられるのでしょうか? 正教会ではそれは、『機密(ミステリオン)』と呼ばれる祈りをとおして、と答えます。

 一つには、「傅膏(ふこう)機密」というものがあります。「傅」とは「つける」という意味です。つまり、聖なる膏(あぶら)を身体に塗ることによって、その人に聖神゜の降臨があるように祈ります。言わば「パーソナル・ペンテコステ」であるわけです。ペンテコステとは、五旬祭という意味で、この日、12弟子たちの上に聖神゜が降臨したことから、聖神゜降臨を意味する言葉となりました。つまり、「傅膏機密」を受けたその人にも、弟子たちと同じように聖神゜降臨があることを祈る機密なのです。

 では、どうして「膏(油)」という物質が用いられるのでしょうか? 聖書の中では、聖神゜は「風」(ヨハネ3:8など)「息」(ヨハネ20:22など)「火」(使徒行伝2:3など)「水」(ヨハネ7:37など)そして「鳩」(マルコ1:10など)という物体的な象徴をもって語られます。そして、旧約聖書の時代から「油」と「霊《神゜》」は密接に繋がっていたことが注目されます。例えば、サムエル記には次のような場面が出てきます。

 「サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。」(サムエル記上16:13)

 ハリストスも聖神゜との関連で「油つけられた者」であることは先に述べました。私たちも「油をつけられる」ことによって、聖神゜をいただくのです。

 「傅膏機密」は、正教会において、「洗礼機密」と共に行われます。「洗礼」によって、人はハリストスと共に死に、ハリストスと共に復活し、「ハリストスのもの」となります。そして「傅膏」によって、人は「油つけられた者(に従う者)=ハリスティアニン(クリスチャン)」として生きていく力を得ます。つまり、信徒として生きるためには、聖神゜の力が必要であるので、「洗礼機密」と「傅膏機密」は切り離せないわけです。

 正教会には「傅膏機密」の他に、聖神゜を受ける「機密」があります。それが「聖体機密」、すなわち毎週日曜日に行われる「聖体礼儀」です。「聖体礼儀」で食す(「領聖する」と言う)パンとぶどう酒は、ハリストスの体と血(「御聖体」と言う)です。ハリストスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。」(ヨハネ6:54~)と言われました。

  御聖体を領聖することは、ハリストスの尊体尊血をいただくことであり、ハリストスと一つになることであり、ハリストスと一つにならせてくれる聖神゜を受けることなのです。私たちは、領聖した後に、次のように歌います。

 「すでに真の光を見、天の聖神゜を受け、正しき教えを得て、分かれざる聖三者を拝む…」

 「洗礼機密」と「傅膏機密」は、一生に一度だけ受けるものです。しかし、私たちの弱い人間性は、すぐにも、せっかくうけた聖神゜を手放してしまいます。だからこそ、聖神゜の降臨を継続させるためにも、聖体礼儀は必要です。もちろん、聖体礼儀を単なる「儀式」としてとらえてはなりません。あくまでも「神゜と真の礼拝」(ヨハネ4:24)として、聖神゜の降臨を祈り願い求めるのです。

  すなわち、聖神゜を受け入れる心・意志・神゜を私たち自身がもつことが、何より大切なのです。ある聖人は「クリスチャンの目的は聖神゜を得ることである」と教えました。私たちが、ハリストスを知ることができるのも、その教えを守れるのも、祈るのも、救われるのも、さまざまな能力を発揮できるのも、そして生きているのも、すべて聖神゜によってなのです。

 


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