第六話

「生命を施す者」~聖神゜(前半)

イイスス(イエス)とは

 これまでイイスス・ハリストスとは「人となった神」であることを異端との比較によって浮彫りにしてきました。そもそもイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)という呼称自体が、すでに正教会(キリスト教)の信仰を如実に表わすものなのです。イイスス(イエス)という名の人がいたけれども、その人は単なる人間ではなく、実はハリストス(キリスト)なのだ、と信じるのがキリスト教徒である、という意味です。

 「イイスス」という正教会の固有名詞表記は、ギリシャ語の発音をもとにしています。ただし古典ギリシャ語では、二番目の「イ」は、「エ」と発音していたようです。それで古典ギリシャ語にならえば「イエスス」となりますが、最後の「ス」は、子音だけの発音で日本語の翻訳では普通省略されてしまうことが多いので、「ス」をとって「イエス」と一般では表記されるわけです。正教会は、ビザンチン時代から現代ギリシャ語にいたるまで(新約聖書が書かれた「コイネー」と呼ばれるギリシャ語の時代からという説も)、「エ」ではなく「イ」と発音してきたので、「イイスス」という表記の方が、伝統的なギリシャ語にならった表記と言えます。

 さて、この「イイスス」は、もともとヘブライ語の「ヨシュア(原語の発音に近い表記をすれは「イェホーシュア」)」という人名です。旧約聖書にモーセの後継者として「ヨシュア」という人物が出てきますが、「ヨシュア」をギリシャ語に変換したら「イイスス」となったということです。人名にはそれぞれ意味があるように、ヘブライ語の「ヨシュア」にも意味があります。それは「ヤハウェ(YHWH)は救う」という意味です。「ヨシュア」の「ヨ」の部分が、旧約で啓示された神の名「YHWH」の「YH」の部分で、「シュア」が「救う」という意味です。

 マタイによる福音書によれば、養父ヨセフに現れた天使が、「彼女(マリヤ)は男の子を産むであろう。その名を『イイスス』と名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」と言いました(マタイ1:21)。「救う者」が「イイスス(ヨシュア)」の意味を説明しているわけです。

 「イイスス(ヨシュア)」という名は、一般的によくつけられた名でした。聖書には、他にも「ユストとも呼ばれるイイスス」(コロサイ書4:11)、「バラバ・イイスス」(マタイ27:16 写本によって相違)、「シラの子イイスス」(『シラ書』の作者)という同名の別人がいます。ハリストスと信じられたイイススは、出身の村の名前をつけて「ナザレのイイスス」と呼ばれることがあります。


「ハリストス(キリスト)」とは

 「ハリストス」という正教会の固有名詞表記は、やはりギリシャ語の発音をもとにしています。最初の文字「Χ」は、「フ」でもなく「ク」でもなく、日本語にはない発音なのでカタカナ表記が難しいのですが、日本正教会では「ハ」と表記しています。ちなみにクリスマスのことをΧmasと書きますが、この「Χ」は英語ではなくギリシャ語です。つまり一般の人々も「ハリストス」の「ハ」の部分のギリシャ文字だけは知っている、ということになります。

 「ハリストス」というギリシャ語は、「油をつけられた者」という意味をもっています。「ハリー」の部分が「油を塗る」を意味しています(英語のクリーム(軟膏)のクリーの部分も同じ語源)。「ハリストス」とは、ヘブライ語の「メシア(正確に近い表記をすれは「マハーシア」)」を翻訳した言葉です。つまり、「メシア」とは「油をつけられた者」という意味をもっています。

 旧約聖書の時代、「油つけられた者」とは、祭司、預言者、王、の三職を指していました。中でも、旧約の中で最も人々に慕われていたのがダビデ王であり、国を失ったイスラエルの人々がタビデ王のような「油つけられた者」の再来を願い、いつしか「油つけられた者」=メシア=救い主という意味になりました。「ハリストス」とは、直訳的には「油つけられた者」という意味であり、意訳的には「救世主」という意味になります。

 ナザレのイイススはハリストス=救世主である、と信じるのがキリスト教です。ただし、この「救世主」とはいかなる意味をもつか、で、いろいろと解釈が千差万別となり、さまざまな異端まで生じてきてしまったのです。

 正教会は、三位一体の神の「神・子」が人となったお方がイイスス・ハリストスであり、「ハリストス」とは、神の藉身と十字架と復活によって人を罪と死から救うという意味での「救世主」であると言います。


いつからハリストスと呼ばれるうるか

 では、ハリストスが「油をつけられた者」という意味なら、イイスス・ハリストスは、いつ「油をつけられた」のでしょう? 正教会は、それは神・聖神゜によって生神女マリヤの中で神・子が人間性を受け取った時、と教えます。つまり、ここでいう「油」とは、物質の「油」ではなく、「聖神゜(せいしん)」を意味しているのです。天使ガウリイルは、マリヤにこう言いました

 「聖霊(聖神゜)があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。」

 この中の「聖神゜が…覆う」というフレーズは、旧約聖書の創世記の冒頭にある天地創造の時の次のような言葉を連想させます。

 「神の霊が水の上を覆っていた。」

 この部分の正教会訳は、「神の神゜、水の面を覆育せり」と訳しています。「覆育」とは「天地が万物をおおい育てること」という意味の古語で、原語のヘブライ語「ラハフ」のニュアンスを伝える名訳です。

 

「神゜(しん)」という語について

 ここで注意したいのは、日本正教会では、「霊」ではなく「神゜」という独特の用語をもっている点です。正教会には古くから、人を「肉体」と「霊」と「神゜」に分けて見る見方があります。英語で言えば、Body とSoulとSpiritです。ギリシャ語ではソーマ、プシケー、プネウマです。難しいのは、「霊」と「神゜」の区別です。明確な線引きや定義づけが困難ではありますが、大胆な言い方をすれば、動物には「肉体」と「霊」しかないが、人間には、それに加えて「神゜」があるということができるでしょう。すなわち、「神゜」は、人間と動物を区別する要素と言える、ということです。

 動物に「心」はあるでしょうか? もちろん、犬はしっぽをふって喜び、ネコは毛を立てて怒りを表し、馬は涙を流して悲しみ、猿は仲間と戯れて楽しむでしょう。そういう意味では「感情」
という名の「心」は、動物たちにもあります。これも「霊」の一つの要素かもしれません。こうした感情は「霊」をもつ「人」にも「動物」にもあるわけです。

 しかし、実は、聖書の用語においては、「霊(ヘブライ語「ネフシュ」ギリシャ語「プシケー」)」は、どちらかというと「肉体」の方のカテゴリーにより近いものです。聖書の中での「霊」は、単に「生命」とも訳せます。

 一方、「神゜(ヘブライ語「ルーアッハ」ギリシャ語「プネウマ」)」は、まさに「見えない部分」であり、動物にはなく人間にしかないものと言えます。一例をあげれば、「自由意志」の所在と言えるかもしれません。もしそうなら、人が罪を犯すのは、「神゜」がある故と言うことができます。「神゜」を持たない動物には「罪」はありません。どろぼうネコは、窃盗罪を犯したネコではなく、「どろぼうをした」と、人間の徳の観念から「人間によって評価された」ネコにすぎないのです。言い方を変えれば、「道徳」というのも「神゜」のなせる業です。

 他にも「愛」「信仰」「希望」「祈り」といった、人間にしかない要素も「神゜」の部分です。今、「人間しかない」といいましたが、実は正確ではありません、「神゜」は「天使」も持っているからです。というより、天使は「肉体」や「霊」はなく、「神゜」のみの存在です。

 一般では、こうした「霊」と「神゜」の区別をあいまいにしていて、すべて「霊」で片付けてしまっているので、正教会の「神゜」の見方が分かりにくく感じることでしょう。そもそも「ブネウマ」に相当する日本語がないところに苦労があります。日本正教会は、苦肉の策として、「プシケー」には「霊」という漢字を当てて「たましい」と読ませ、「プネウマ」には、「神」という漢字に「 ゜」を付けて「しん」と読ませることにしました。

 「神゜」という漢字は、一般では通用するものではありません。それで、右肩の○はつけずに単に「神」という漢字に「しん」とルビを振って表記することもありますし、文脈や熟語から振り仮名をつけなくとも、「しん」であることが分かるようにすることもあります。

 ただし、「神」という漢字を「プネウマ」という意味で使用することは、正教会という限定された世界のみでの用法ではなく、実は、すでに一般に浸透して使用されているとも言えます。例えば、「精神的」の「神」は「神(かみ)」ではなく「神(しん)」という意味ですし、「神父(しんぷ)」も決して「神(かみ)のような父」という意味ではなく、「神゜の(スピリチャルな)父」という意味なのです。


なぜ聖神゜と呼ばれるのか

 さて、この人間(と天使)のもつ「神゜」が、聖書の伝統によって三位一体の神様の第三位を象徴的に表す用語として使われ、「聖神゜(他教会では「聖霊」)」と呼ばれるようになりました。そもそも不可知である神様を人間の限られた言葉で表すためには、必ず「象徴的」にならざるを得ません。神を「父」と呼び、「真の神よりの真の神」であるハリストスを「子」と呼ぶこと自体、非常に大胆な表現です。神・父と神・子は、実際の人間の父親とその息子と「まったく同じ」なのではなく、その関係に「似ている」ので、そう表現しているだけです。

 ではなぜ、三位一体の神様の第三位を、家族関係の言葉で表現しないのでしょうか? つまり、神・父がいて、神・子がいるのなら、例えば、孫とか兄弟とか母などいう言葉を使って三位一体の第三位がなぜ表現されないのでしょうか? それは、簡単に言えば、それらに「似ていない」からです。

 仮に、父なる神、子なる神、孫なる神と言ってみましょう。そうしたとたん、神様があまりにも人間の一つの家族としてすっぽり人の理解の中に入ってしまうという危険が出てきます。まるでギリシャ神話や日本の神話に出てくるような、人間とたいして変わらない、擬人化された神々に陥ってしまいます。それでは、人が考えだした、人が作った神様になってしまいます。

 そうではなく、神様はあくまでも、不可知で超越した神であるという大前提を私たちは忘れません。聖書という書は、そうした超越の神様みずからが、ご自分を、人間にわかる範囲で、人間に知らせた啓示の書です。その聖書に従えば、「神の神゜」という言葉、「聖神゜」という言葉によって、ご自分を知らせたのですから、それを受け入れることによって、正しく神を信じることができます。分からないからと言って勝手に人間の都合で神様を「似ていないもの」とすり替えることはできません。

とらえにくい聖神゜

 そうはいっても、「神゜なる神」すなわち「神・聖神゜」は、神・父と神・子と比べると、何かとらえにくく、明確で具体的なイメージというものがありません。確かに聖書には、聖神゜のことを「鳩」とか「火」とか「風」というイメージで語る場面があります。そもそもヘブライ語「ルーアッハ」やギリシャ語「プネウマ」には、「風」「息」「気」という意味があります。しかし、それらは人格的なものではなく、また聖神゜を表す一つのイメージにしかすぎないものなので、それだけでは、聖神゜の全体をとらえることになりません。

 なぜ、こうも聖神゜は「わかりにくい」のでしょう。それは、聖神゜はご自分を隠す神様だからなのだ、と正教会は答えます。ウラジミル・ロースキーは次のように言っています。

 「霊(聖神゜)がペルソナ(人格)として来たとしても決して自分のペルソナを表しません。彼は自分の名によってではなく、神・子の名によって来て、神・子について証しをするのです。…だからダマスコのイオアンは、「神・子は、神・父の像であり、神・聖神゜は、神・子の像である」と言いました。それで三位一体の第三の位格だけが、他の位格の内に像を持たないことになります。神・聖神゜はぺルソナとして顕われず、その顕われにおいてでさえ、自らを隠しておられるのです。」

 「聖神゜が自らを隠す」とはどういうことなのでしょうか。例えば、ハリストスはこう言われました。「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」(ヨハネ15:26)。このように聖神゜は私たちをハリストスへと導き、ハリストスは神・父へと導きます。さらにいえば、聖神゜をとおして私たちはハリストスを見ることができ、ハリストスを見ることをとおして神・父を見ることができます。しかし、聖神゜は、「何者かをとおして見る」ということができないわけです。

 つまり、聖神゜を明確に全体としてイメージできないと思う人があっても心配ありません。かえってその方がいいのです。私たちが、ハリストスを明確に正しく受け入れることができ、それによって神・父を「見る」ことができた時、十分に神・聖神゜を受け入れている筈なのですから。

 神様についていろいろな神観があり、ハリストスについていろいろな見解がありましたが、聖神゜の恵みを受け入れることができない場合、それらの誤った考えに陥ってしまう、とも言えます。聖書の言葉をいくら知識として知っていても、「ナザレのイエス」について詳しい研究をしても、「聖神゜を受け入れる神゜」が自分になければ、正しい信仰は生まれないということです。

(後半へつづく)


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