「人となった神~イイスス・ハリストス」(後半)
『「神であって人ではない~単性論」』
では、イイスス・ハリストスの神性と人性についての正しい答えと何か、それは、ハリストスは、一つの格(神格)と二つの本性(神性と人性)をもつお方であり、そして、その二つの本性は、「混じらず変らず分かれず離れず」に完全に一致している、というものです。
この「混じらず変らず分かれず離れず」という言い方は、第四全地公会、すなわちカルケドン会議(451年)で打ち出されたものです。カルケドン公会で決定したのは、以下のような答えでした。
「イイスス・ハリストスは、神性において完全であって、人性においても完全なる者である。すなわち真の神゜と霊魂と肉身より成る真の人であって、神性においては父と一体であり、人性においては我等と一体であって罪以外はすべて我等と同じである。…ハリストスのもつ二つの性質は混じらず変化せず分れず離れない。一つになったからといって二性の個別は失われない。すなわちそれぞれの固有の性質を一位(格)に合わせたのであり、二つの位(格)に裂かれ分れることもない。」
カルケドン会議が「分かれず離れず」と表現するのは、神性と人性は「明確に分けられて」いてやがてまた「離れてしまう」としたら、結局は、今までの異端を繰り返すことになるからです。「仮現論」のように、人性は「見かけもの」「一時的にもの」に過ぎないことになり、「養子論」のように、神性は、部分的に付与されたものに過ぎないことになり、「ネストリウス」のように、神性と人性を「神格」と「人格」であるかのように完全に分離させることになるからです。
カルケドン会議が「混じらず変化せず」と表現するのは、ハリストスの人性は神性の中に溶け込んでしまってもはや無いのに等しいと唱える「単性論」の異端を退けるためです。「単性論」は、ハリストスの藉身の瞬間、偉大なる神性の中に小さな人性は変化し消失したと言います。
「単性論」的に言えば、神性と人性は、はるかに大きさや本質が違います。まるで、太平洋の中に水を一滴こぼしたかのように、または太陽の中にマッチの火を投げ入れたかのような比較です。もはや水は海水に混じってしまい、火は太陽の炎に吸収されてしまうように、ハリストスに「人性がある」とは言えなくなってしまうということです。
これでは仮現論に逆戻りしたように思えてきます。しかしながら、もっと端的に言えば、「単性論」と「正教」の違いは、実は、「格(person)」と「本性(nature)」の混乱にあると言えるでしょう。
イイスス・ハリストスは何ですか?と聞かれたら、「正教」は、「完全に神であり、また完全に人である」と答えます。しかし、「単性論」の人にとって、この答えは「ネストリウスの異端」の主張のように聞こえてきます。「何ですか?」とは「本性(nature)」を聞いているのですから、「神性と人性の二つを持つ」、と答えているのですが、これをあたかも「神格と人格の二つを持つ」と主張していると勘違いするわけです。
一方、イイスス・ハリストスは誰ですか?と聞かれたら、私たちは「神です」としか答えられません。「誰ですか?」とは「格(person)」を聞いているですから、ハリストスは「神としての格」をもっているのであって「人としての格」はないのです。ところが、この「格」を「本性」に置き換えてしまうと「単性論」になってしまいます。すなわち、ハリストスは「神としての本性」をもっているのであって「人としての本性」はないと、聞こえてしまうのです。
ハリストスは神であって人ではない、という主張を、「本性」に関することとしてとらえると、忽ち単性論の異端になりますが、「格」に関することとしてとらえると「正統」となります。
ハリストスは神であり、かつ人である、という主張を、「格」に関することとしてみると、忽ちネストリウスの異端になりますが、「本性」に関することとしてとらえると「正統」となります。
正解は、「イイスス・ハリストスは、一つの神格をもつ、神性と人性の二つを兼ね備えたお方である」です。
「人としての意志はあるか~単意論」
さて、問題は、より複雑になってきます。イイスス・ハリストスには「意志」はいくつあるか、という問題です。ある人たちは、言いました。「一つの格(ペルソナ)」をもつハリストスには、神性と人性が合わさった一つの存在として、一つの行動と意志しかない、と。一つの意志しかないと主張するので「単意論」と呼ばれます。
例えば、ここにAさんとBさんという意見を戦わせている二人の人間がいるとします。そこには意志はいくつあるでしょう? 普通は、「二つ」と答えるでしょう。なぜなら、AさんとBさんは、違う意志を個別にもっていて、互いに意志する方向性が異なるからです。なぜ意志が異なるかというと、AさんとBさんは、異なる「格(person)」だからだと言えます。では、「意志」というものは、「格(person)」に属するものなのでしょうか?
確かに「意志」する主体は、「格(person)」に属すると言えるかもしれませんが、AさんとBさんは、同じ「人間として意志する能力」をもっているからこそ、意見を言うことができるとも言えます。「意志する能力」としては、「本性(nature)」に属するものなので、AさんとBさんは、一つの意志(する能力)を使って、二人がそれぞれ違う意見を述べているのです。
つまり厳密に分けると、意志はいくつあるかという問いには、「意志する主体や方向性」を聞いている場合と、「意志する能力や属性」を聞いている場合があるということです。
普通、私たちの日常の中で、意志はいくつあるか、などという問いはしませんし、「意志する能力や属性」の数など、疑問にさえ思いません。ですから、この「単意論」(正教の主張は両意論)を把握するのはなかなか難しいと思います。
ただ、ハリストスの場合だけが、意志(する能力としての本性)の数が重要なのです。単純に言えば、ハリストスには、神性と人性の二つの「本性(natures)」があるのだから、「神としての意志」と「人としての意志」の二つの意志があるのだ、というのが正教の教えです。そして、その人間としての意志する能力を使って意志される方向性と結果は、神としての意志にいつも必ず従っています。
もし、ハリストスに人間としての意志がない、ということなると、アポリナリオスの異端のように、私たちの人間の意志の部分を神様が受け取らなかったことになり、私たちは、肝心な「意志」の部分だけ置き去りにされて、救われないことになってしまいます。人間に与えられた「意志」こそが、人間を人間たらしめている能力であり、愛することも、祈ることも、赦すことも、信じることもできる根源、また神に背き、罪を犯し、悪を行うこともできる根源なのです。
ハリストスに人間としての意志があることは、私たちの意志を「救う」ために必要な事実です。ハリストスは、人間としての意志する能力を使って、ゲッセマネの祈りの時に「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と言いました。
ただ忘れてはいけないのは、ハリストスに二つの「格(person)」があるのではなく、意志する主体としての「格(person)」は一つだという点です。それを押さえておかないと、二つの意志があることを、二つの格があるかのように思って、勘違いを起こしそうになるからです。
イイスス・ハリストスの「神性」ばかり強調すると「単性論」や「仮現論」側に落ちてしまい、「人性」ばかり強調すると「養子論」側に落ちてしまいます。また「神性と人性」を「神格と人格」と勘違いしてしまうと「ネストリウス」側に落ちてしまい、「人を超えた存在」ととらえて落ち着こうとすると「アリウス」側に落ちてしまいます。
今まで、紹介してきた「間違った答え」は、すべて、人間の「理屈」にスッポリ納めてしまいたいという欲求を満たすものばかりです。しかし、「真理」は、人間の理屈にはまりきれないのです。「正しい答え」としての神の藉身は、理屈に合いません。しかしだからこそ、「理解する」ものではなく、「信じる」ものと言えるでしょう。
神様が人となった~これを信じることがキリスト教(正教)の信仰の要です。教会とは、単にハリストスの教えを信じてそれを実行する人たちの集まりではありません。神様が人となって死と復活を身に受けられたことによって、人は罪や死を超えて神と共にいることができる、と信じて感謝する人たちの集まりです。
「神は描けるか~聖像破壊論争」
旧約聖書にある有名な神様の十の戒め、すなわち「十戒」の中に「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない」というものがあります。その時代のイスラエルの周囲の民族は、偶像を作って、それを「神として」拝んでいましたが、そんなものは「神」ではないのだから、「神ではないものを神として拝んでならない」という戒めです。
だからといって、イスラエルの民は、一切目に見える装飾や像を排除したのかというと、そうではありません。モーセが造営した「会見の幕屋」には、燭台や香炉などが安置され、カーテンにはケルビム(天使)の刺繍がほどこされ、十戒の石板を納めた「契約の箱」の上には、金でできたケルビムの像があり、その像の上に神様が臨在なさると信じられていました(出エジプト記25章以下を参照)。
旧約の民は、決して「目に見える形」を蔑ろにしたのではありません、それどころか、豊かな芸術性をもった人々が、神の霊に満たされて、多くの「目に見えるもの」を作り出したのです。そして、それらをとおして、神に祈りを捧げました。もちろん、それらは礼拝のための聖なる媒介であって、それそのものが神であるとはとらえられてはいませんでした。だから、聖物を崇敬するとこと、偶像を崇拝することとは全く次元が異なることです。
このように、すでに旧約時代に答えが出ていたものもかかわらず、正教会の歴史の中で、聖像(イコン)は偶像ではないのか、という論争が巻き起こりました。聖像を偶像だと勘違い人たちは、聖像を破壊しました。それで「聖像破壊論争」とか「イコノクラスム」と呼ばれます。
聖像(イコン)は偶像だとし、イコンを否定した人たちはこのように言いました、「神様は目に見えない霊的な存在である。神様を輪郭線で囲って表現することは不可能であり、十戒が教えるようにやってはいけないことである。ところが、人々は、ハリストスを線と色を使って描き、それに向かって拝み、接吻している。これは偶像崇拝に他ならない。」
聖像(イコン)は偶像ではないとし、イコンを擁護した人たちは、このように言いました、「確かに神の本質を輪郭線で囲って色をつけて表現することは不可能であり、また絵や像自体を神として拝むことは偶像崇拝になる。しかし、私たちは、イコンそのものを神として拝んでいるのではない。イコンは、媒介に過ぎない。もちろん聖なる媒介であるため崇敬はするが、崇拝するのではない。」
イコンは「媒介に過ぎない」と言いましたが、しかし正教にとって非常に大切な聖物です。なぜなら、イコンの正統性は、神が人となったという真理がもとになっているからです。神は人として肉眼で見られる対象となったのですから、ハリストスという「見える形」(人性)をとおして、「見えない神(神性)」を見ることができるのです。イコンは、神の藉身という真理を証しするものです。
イコンは絵画とは違います。絵画は、作者の思いや感動や思想を表現したものですが、イコンは「正教」そのものを表現したものだからです。だからイコンは、自ずと描き方が決まって来るわけです。イコンには、線や色や構図などに約束事があります。ちょっと勉強すればイコン風の絵画を描くことはできるでしょうが、しかしそれは「イコン」ではありません。しっかりした信仰と祈りがなければ、イコンは作れません。神の藉身を信じ、受け止めようと心から願う人にとってこそ、イコンは生きたものとなります。
イコンは、愛する人の写真に似ています。特に、その愛する人が身近にいない時に、その写真は大切にされます。その人は、その写真を愛しているのではありません。写真に写っている彼(彼女)を愛しているのです。しかし、時には、その写真を見つめ、思いを募らせ、写真に接吻するでしょう。同じように、私たちは、イコンを見つめ、祈りを深め、イコンに接吻するのです。そこに愛する対象がきちんと映し出されているからです。
こうしてみると、正教会が、「立体像」を使用しない感覚がわかると思います。いくら愛する人が目の前にいないからと言って、彼(彼女)のフィギュアを作る人はいません。もしそんなことをしたら、そのフィギュア自体を愛してしまう錯覚にまどわされる危険性が出てきます。正教会があくまでもイコンを平面の画像としてとらえることは、イコンを偶像化してしまわない知恵だと言えるでしょう。イコノクラスムという歴史の痛みを味わった正教会だからこそ、イコンは慎重に扱われます。イコンは、正教会においてこそ、イイスス・ハリストスという「救い主」へと私たちを導くものとなるのです。
「神の光は見えるか~ヘジカズム論争」
最近、きれいな夕陽を見たことはありますでしょうか。西の空があかね色に染まり、大きくオレンジ色に輝く太陽が、ゆっくりと地平線に降りてゆく様は、真に美しいものです。どうして私たちは夕陽に美しさを感じるのでしょうか。それは、日中はあんなにきつい光線を放っていた太陽が、その高みから降りてくると、穏やかな光となり、肉眼では直視できなかった光を、まじまじと見つめることができるようになるからだと思います。
この夕陽の穏やかな光をテーマにした聖歌が正教会の中にあります。毎週土曜日の夜に行われている「晩課」の中で歌われるソフロニイの祝文、別名「穏やかなる光」という聖歌です。この聖歌は、四世紀ごろ、一説には二世紀ごろまで遡るとも言われているほど、非常に古いものです。
「聖にして福たる常生なる天の父の聖なる光栄の穏やかなる光、イイスス・ハリストスや、
我等、日の入りに至り、晩(くれ)の光を見て、神・父と子と聖神゜を歌う、
生命を賜う神の子や、爾はいつも敬虔の声にて歌わるべし、故に世界は爾を崇め讃む」
修飾語がたくさん連なっているので少しわかりにくいですが、わかりやすく言い換えるとこうなります。「夕方になり、陽の入りを迎える私たちは、暮れてゆく太陽の穏やかな光を見ることができる。この穏やかな光とは、イイスス・ハリストスを表している。昼間の太陽を直視することができないように、私たちは神を直接見ることはできない。しかし、太陽がへりくだって夕陽となった時にはその光を見ることができる。それと同じように、神様は、へりくだってイイスス・ハリストスとなり、穏やかなる光となり、私たちに神を見させてくださった。私たちはそのハリストスをとおして、父と子と聖神゜の三位一体の神を知ることができた。」
夕陽の美しさとハリストスをとおして現れた神の憐れみ・愛、そして救いが折り合わせられたとても意味の深い聖歌です。この聖歌はつまり「神の光を私たちが見る」ということを教えています。
この「神は光であり、その神の光を見ることが私たちには出来るのである」という正教会の信仰をはっきりさせたのが、「グリゴリイ・パラマ」という聖師父です。
「グリゴリイ・パラマ」は、14世紀ごろの人で、ヘジカズムを擁護した人として有名です。ヘジカズムというのは、絶え間ない祈りによって、静寂を保ち、神との交わり、神との一致を実践していくという祈りのことです。その際、ヘジカズムを実践する修道士たちは、「神の光を見る」と言われています。この「神の光」というのは、もちろん物質の光ではなく、かといって単なる象徴でもなく、神ご自身の光、「造られない光」であるとグリゴリイは言いました。
ところが、これに対してバララアムという人が意義を唱えました。「文字通り神の光を人間が見ることは不可能である。またヘジカズムというのも、何か異教的で異様であり、キリスト教的ではない」と非難したのです。
グリゴリイは、これに対して、「神の本質と力は区別される。神の本質は私達には超越していて決して把握することはできないが、神の力は、今、ここで、たましいとからだによって体験されうるものである」と反論しました。これが有名なヘジカズム論争といわれるものです。
グリゴリイの言っていることを、やはり太陽に譬えて言えば次のようになると思います。
天空高く輝く太陽そのものを私達は直接見ることはできません。まして太陽そのものに近づくこともできません。同じように、私達は、神ご自身を直接見ることはできませんし、神そのものに近づくことはできません。しかし、太陽の光は、私達のもとまでおりてきます。私達に大きな恵みをもたらします。私達はその太陽の光(日光)を直接見ることができます。
同じように神の力は私達のもとまで降りてきて大きな恵みを与えています。私達はその神の力を直接見ることができます。太陽電池によって作られた電球の光は太陽の光ではありませんが、太陽の光は太陽そのものです。同じように、神によって作られたこの世の中にある力(自然の力)は神ではありませんが、神の力は神様そのものです。この神の力は「光」として体験されます。
これを論証するためにグリゴリイは、よくハリストスの変容の光を引き合いに出します。変容とは、ハリストスがタボル山で、姿を変えられたという出来事です。
「イイススは、ペトル、イアコフ、イオアンを連れて高い山に登られた。ところが、彼等の目の前でイイススの姿が変わり、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」とマタイ伝に記されています。
このハリストスの顔の光は、神の光です。物質の光ではありません。しかし、弟子たちは、確かにそれを「見た」のですから、単なる象徴とか幻覚ではありません。ヘジカズムによって体験される神の光も、象徴や比喩ではなく、また物質の光や幻覚などでもありません。
ヘジカズム論争も、基本は、神の藉身を正しく認めるか否かの問題です。神が人となったということは、人の肉体も魂も霊も心も意志もすべて神と一つになる道を開いてくださったことを意味します。罪深く、小さな存在に過ぎない人間が、神の光を見るほどに神の恩寵を受けることがハリストスによってできるようになったのです。
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