第四話

「すべてを創造した神さま」

『父なる神』

「我、信ず、一つの神、、全能者」

  私たちは神様を「父」と呼びます。これは、まず第1に、神・子ハリストスの「父」という意味です。「父」と言うだけで、「子」がいることを明示しています。ひいては「父と子と聖神」の三位一体の神がすでに「父」という語の中に暗示されています。

 第2に「父」とは、私たちの「父」でもあるという意味です。ハリストスと父の関係は、本質的な父子ですが、私たちと神・父の関係は本質上ではなく、恩寵による親子関係です。聖書の中には、神様を「父」と呼ぶことがたくさん出てきますが、それは、私たちが、神様に似せて創造されたという原点にさかのぼります。

 「父」とは、神様が、人格的で、生きたお方であり、私たち人間と、生きた関係をもつ存在であることを教えます。つまり、汎神論や理神論の無人格的な神観を否定します。しかし、気をつけたいのは、私たちが人格的だから、それを投影して神は人格的であると言っているのではなく、その逆で、神が『生きた神』であるから、その似姿をもつ私たちが『生きた存在』なのだということです。言い換えれば、神様は、すでにご自分の中で、父と子と聖神という三つの生きた交わりを持つお方である故に、私たち人間も、人間同士、そして神様とも、生きた関係を持つことができるわけです。人間が人格的なのは、神様が三位一体であるからです。

 その神様と人との関係が、まるで父子関係のようであるために、大胆にも、私たちは神様を「父」と呼ぶことができます。神様の人への愛は、父が子を愛する時の愛によく似ているわけです。父は、自分の子が「よい子」になってほしいと願い、そう教育しますが、「よい子」でなくなると愛さなくなるなどということはありません。子の善し悪しが、父の愛を左右するのでなく、父の愛が、子の善を望み、子の悪を矯正していくものです。神様は、同じように、私たちを愛しておられます。「父」という言葉には、神様の愛が含まれています。


『全能の神』

「我、信ず、一つの神、父、全能者

  「全能」とは、「全て」のことが「可能」である、神様には何でもできる、神様にできないことは何もない、という意味です。すべてを創造し、すべてを摂理し、すべてを支配し、すべてを意のままに行うことができるからこそ「神」であり、そういう「神」は当然「唯一」であるわけです。「全能」という言葉は、多神論や単一神論を否定しています。

 しかし、この「全能」という言葉を、感情的にとらえたり、理屈でこね回したりしてはいけません。「神様は何でもできるんだったら、なんでこの世の不条理をなくさないんだ。こんなひどい現実を見れば、神様なんていないんじゃないのかと思う」とか、「もし、全能であれば、自己を消滅させることもできる筈で、もし自己を消滅させると存在がなくなるわけだから全能ではなくなる。つまり神は全能ではありえない」などと言うのは愚かなことです。

 神様は確かに「全能」ですが、「できない」こともあるのです。矛盾しているように聞こえますが、この「できない」という言葉は、正確に言えば「絶対にしない」という意味です。例えば、極端な例ですが、私は自分の愛する息子を憎んで痛めつけるなどということは「できません」。それは能力として「できない」のではなく、愛している者を憎んで傷つけるということは自己矛盾しているので、そういうことは「絶対にできない」という意味です。神様にとっても自己矛盾することは「できない」のです。

  神様は、人に「自由意志」を与えました。この「自由意志」こそが人間が人間たる根源です。もし、神様が人間の「自由意志」をすっかりぜんぶ取り上げてしまったら、人間が人間でなくなります。神様は、そういうことを「絶対にしません」。人間は神様のロボットではありません。人間を人間として造った以上、人間をロッボトにすることは神様には「できません」。

 しかし、この人間の自由意志が、罪をもたらし、悪をもたらし、死を生まれさせ、不条理を発生させたわけです。神様は、もちろん罪や死を望む筈がなく、それらを無くそうとされます。しかし、「全能」の力を使って、まるで魔法のように「チチンプイプイ」とみるみる間にこの世を天国にはしないのです。否、人間の自由意志を無視して強制的に天国を造ることは、神様には「できない」のです。

 だからこそ、神様は、自ら人となり、十字架にかかり復活し、その恵みにすべての人があずかれるように、教会を導いておられます。神様は、魔法使いでもなく、スーパーマンでもなく、ましてドラえもんではありません。私たち人間が「全能の力」をもつとどうなるだろうと想像して、それを神様に当てはめてはいけません。もし、そうすると、ドラえもんのように自分の都合を何とかしてくれる存在のように、神様を間違ってイメージしてしまうからです。そしてそのイメージと現実が合わないので、神様など信じない、という結論を出してしまう恐れがあるからです。


『創造の主』

  『信経』では、神様を「天と地、見ゆると見えざる万物を造りし主」と言います。「万物」すなわち「すべてのもの」を表現する時に、「天」「見えないもの」と「地」「見えるもの」という分け方をしています。「見えるもの」とは、すなわち、この物質の世界と言ってよいでしょう。動物や植物、水、火、土、星などです。では「見えないもの」とはいったい何でしょう? それは精神的なもの、たましいとか心とか表現される世界、キリスト教的な世界観からすれば「天使の世界」を意味しています。

 「見えないもの」のようで「見えるもの」の範疇に入るのか、はたまた「見えるもの」のようだけども「見えないもの」としてとらえるのか、どちらとも言えるものとして「時間」があります。いずれにせよ、「時間」も、神様が創造したものです。つまりは、神様は「時間」を超越しているお方だということです。

 天使は、「見えない世界」に属するものであり、動物は「見える世界」に属していますが、人間は、「見える世界」と「見えない世界」の両方をもっています。人間だけが、肉体を持ちながら同時に精神をもつ存在です。人間は「天」と「地」の間にいる、つまり「万物の縮図」がある、という意味で、人間のことを「ミクロコスモス(小宇宙)」と呼ぶことがあります。

 神様が万物を創造されたと信じる時に、次の三つのことを注意しなければなりません。

 第1に、造った者と造られたものとは明らかに本質的に違うということです。神様はこの世を造った以上、この世の中にはいません。この世を越えた存在です。「この世に神様などいるものか」と揶揄する言い方もありますが、言葉としては正確です。「この世の中には神様はいない」のです。神様はこの世(見ゆると見えざる万物)を超越したお方です。

 しかし、造られたこの世の中には、その神様の創造の力がみなぎっていることは確かです。「神の力」は、この世のどこにでもありますが、「神様そのもの(本体)」は、この世のどこにもおられません。「万物」の中にある「神の力」の現れを「神々」として拝んでしまうのが多神教と言えるかもしれません。正教会は、その「力」もつ唯一の存在を拝むのです。

  第2に、神様は万物を「無から」創造されました。創造すべき材料が始めからあってそれを組み立てたのであれば、いろいろな宗教にある創成神話と変わりなくなります。つまり、万物には全くの「始まり」があるわけです。「始まり」がないのは神様だけです。「時間」は神様によって創造されたものであることをもう一度強調しておきましょう。神様のことを、正教会では「原(始まりという意味)」 が「無い」と書いて、「無原の父」と言います。

  第3に、神様は万物をすべて「善」なるものとして創造しました。神様が造ったもので、悪いものは何一つありませんでした。つまり、この世のものすべては、基本的に「善」なのです。つまり「物質は悪、精神は善」という二元論的な神観を否定します。私たち人間も、本性としては「善」です。しかし、人間は自分の意志を使って、それを「悪しく」用いることをしてしまうのです。

 神様がこの世を創造された~この信仰からすべてが始まります。だからこそ、聖書の冒頭である『創世記』には、一番最初に天地創造が記されており、「信経」でも最初に言及されているわけです。万物の創造主だからこそ、神様は、「唯一」であり「絶対」であり「全能」であり「父」なのです。そして、創造主として人を救うために、自ら人となり、十字架にかかり、復活したのです。


目次ページへ戻る