第三話

「唯一の神さま」とは

 これまで、「信じる」ということについて説明してまいりましたが、これはニケヤ・コンスタンチノープル信経の冒頭にある「我、信ず」の言葉に関する説明でした。「信ず」とはいったいどういう意味なのかを少し考察してきたわけです。さて今度は、信経の次にある言葉「一つの神」についてお話します。

さまざまな神観

人々は、神を求めます。しかし、その神とはいったいどんな神なのかについて、さまざまなことが言われてきました。ある意味、人が頭の中で「考え出す」神と言えます。私たちが信じる「一つの神」とは、それらとどう違うのかについて以下に比較していきます。それらは大きくわけて『無神論』『汎神論』『理神論』『多神論』『単一神論』となります。


『無神論』

 「神などいない」と主張する考えです。結局、神を求めないわけですから、「神観」とは言えないわけですが、科学万能の今の時代、多くの人が無神論に傾いています。とはいっても、「信心」深い日本人には、真の意味での積極的な無神論者は少なく、何かしらの神観念を持つ人の方が多いでしょう。しかしその神観念とは、霊魂、魔物、植物神、動物神、神秘の力など、絶対的でないあやふやなものばかりです。よく「科学では説明できない不思議な力」などという言葉がテレビや雑誌でもてはやされますが、「無神論ではない」ということだけで安心したい気持ちから来るのかもしれません。

 神を信じる者であったとしても、「もし神さまがいるのなら、どうしてこんな不条理が起きるのか」という自問の末に、「神さまはいない(にちがいない)」と答えを出してしまう人もいます。しかし、不条理の問題は「自問」する問題ではなく「神に問うべき」問題です。自分が疑問に思うこと、合点のいかないことは、自分や他物にぶつけるのではなく、神に直接ぶつけてもよいものだと言えます。旧約には、不条理に苦しむ自分の思いをあきらめずに神に問い続けたヨブという人がいました。


『汎神論』

 汎神論とは、すべてのものの中に神がいるという考え方です。自然の驚異にふれた時、人はその絶大なる自然の力の前に頭を垂れます。その自然の力を、宇宙エネルギイなどと称したり、宇宙全体にみなぎるパワーを、すなわち神と呼んだりするわけです。汎神論の神は、「神さま」とは呼べません。なぜなら「さま」と呼ぶことのできる「相手」ではないからです。汎神論の神に「主、憐めよ」と祈ることはできません。なぜなら「憐み」など持つものではないからです。つまり、汎神論の神は、人格的ではありません。抽象的な目に見えない力というだけのことです。汎神論者は、瞑想や特殊な儀式をとおして、その力と一致しようとしたりします。


『理神論』

 汎神論と双子のような関係にあるのが、理神論で、やはり、人格的な神さまではなく、自然の中の力を神とするのですが、その神は、人間が理論によって理性的に把握することができると主張します。「宇宙の根本原因となったもの」とか「世界の第一原因」などという科学的や哲学的な(と勘違いしそうな)言い回しがよく使用されます。「神がこの世を創造した」とも言うのですが、その創造とは、機械的で自然の理屈に適ったものでなければならないわけです。神秘的ではなく、不可知でもなく、論理的であるところに理神論の特徴があります。


『多神論』

 汎神論や理神論を生みだした親のような神観が多神論で、自然の中に宿る神秘的な者を崇拝します。山や海、木や岩、太陽や星、動物や人間、さまざまなものにそれぞれ固有の人格的な神がいるというわけです。いわゆる宗教というものを列挙すれば圧倒的に多いのがこの神観です。無神論のところで述べた神観念もこれに入るでしょう。この神観をもつ宗教はほとんど、偶像を作って拝みます。私たちはこれらを真の信仰すべき神として受け入れることはできません。一番わかりやすく、一番親しみやすい考えですが、だからこそ、聖書はなんどもこの多神論(偶像崇拝)を否定しています。

 多くの人は、初日の出を見て、太陽を拝みますが、クリスチャンは、太陽を創造した唯一の神を拝みます。多くの人は、何か都合のいいことが起きた時、幸運の女神に感謝しますが、クリスチャンは、神の摂理への信仰を深くします。多くの人は、魔よけに御守りや御札を当てにしますが、クリスチャンは、神に直接「我等を凶悪より救い給え」と祈ります。

 多神論だと、人も死ぬと「霊魂」となり「神」となり、驚異的な神秘的な力を持つ存在となり、崇拝や畏怖する対象となってしまいます。正教徒は、人の死は互いの愛の関係を断絶することはない(神の恵みによって)と信じる故、死者のために祈りを継続します。  多神論の中には、ある道徳観から出てきた二元論的な神観もあります。もともと世界は、善の神と悪の神から成立したという考えです。物質世界は悪の神がつくり、精神世界は善の神がつくったという考えです。「二元論」によれば、この世界は、二人の神の闘争の場であることになります。そして、いつか必ず善の神が勝利するとも言われます。


『単一神論』

 多神論が発展すると、単一神論になります。つまり、多くの神々の中から優位に立つ者を選んで、その一つだけを崇拝の対象にするというわけです。最高神とか、単一の神とかいわれるその神は、しかし、結局は人間側の都合によって変化します。ある人、ある国、ある時代によって、順位が交替し、トップが入れ替わります。他の神々の存在を否定しない故、多神論ですが、他の神々の能力を否定する故に、「一つの神」を信じていることになります。


『唯一の神』

 私たちが信経で言う「一つの神」とは、決して「単一神論」ではありません。多くの中の一つを私が選ぶのではありません。多くの宗教があるから、信教の自由だから、子供には信仰を伝えない(洗礼を授けない)というのは単一神論的発想です。宗教は、いくつもありますが、「神」は「一つ」です。その「一つの神」を伝えるのが正教会です。信経の中の「一つ」とは、数を数える時の「ひとつ」「ふたつ」の意味ではなく、他には認められない、数に数えられない「絶対的な(対になるものは絶する)」意味での「一つ」です。つまり、私たちは信仰する相手として唯一で絶対的な神を認めます。その「一つの」という表現の中には、超越した全知全能の人格的な万物の創造主という意味も含まれています。では、どうしてそんなことが言えるのでしょう。『唯一の神』という神観だって、神観である限り、人間が考え出したものではないか、と疑いは起きるでしょう。


『不可知の神』

 しかし、正教会は、基本の基として、「人には神そのものを知ることはできない」と説きます。「神は不可知である」ということが大前提なのです。人間が考えだした神なら、人間にわからない、ということはありえません。「わからない」ということは、人の頭でこねくりまわして神観を作り上げたわけではない、ということを意味します。

 では、どうやって、「わからない」神が、「わかる」ようになったのでしょう。それは兎にも角にも、神ご自身が、ご自分を、人間に、知らせた、からです。これを普通「啓示」と呼びます。神が人間に「啓示」なさった分だけ、人間は神を知ることができますが、それ以外は、人にとって神は闇に包まれた存在と言えます。

 神は不可知であるという大前提を忘れないために、正教会は、神について否定文を使って表現する方法をとることがあります。よく「否定神学」などと呼ばれます。例えば、「神は存在する」という言い方の一方で、「神は存在しない」という言い方が成り立ちます。なぜなら、私たち人間のせまい頭の中でとらえる「存在」という言葉の意味には、限界があるからです。「存在する」と言ったとたん、私は、それを時間や空間の中でしか把握できないのです。しかし、神は、物質や生物などがこの世に存在するようには「存在しない」ですし、さらに言えば、天使や悪魔が存在するようにも「存在しない」のです。わかりやすく言えば、否定神学とは、「神は、私たちが考えるうるような○○ではない」と言っていることと同じです。

 しかし、もちろん、神が啓示なさったことをたよりに、私たちは、神を知ることができます。そうでなければ、何もわからない相手を闇雲に信じなければならないような、無理な要求をしていることになります。そうではなく、私たちが「信じる」神について、『信経』は、「父」「全能者」「万物を造りし」「主」という言葉を使って、私たちに「わかるように」教えてくれます。次回は、これらの言葉の説明をします。


目次ページへ戻る