第二話

「信じること」と「理解すること」

『信じること』

 第一話で述べたように、「信じる」という言葉には、さまざまな意味が含まれていました。『信念』においては、単に自分の考えを述べるという意味で「信じる」と言います。例えば「私は幽霊は存在すると信じている」などといいます。『信心』においては、自分の快適さの実現のために何か神秘的な力を当てにするという意味で「信じて」います。例えば、「この御守りを持っていれば必ず幸福になれると信じている」などといいます。

 しかし『信仰』 においては、神という相手に自分自身を委ねるという意味で「信じる」と言います。例えば「私は神さまを信じているので希望を失いません」などといいます。教会が「信じる」という言葉を使う時、必ず『信仰』の意味における「信じる」であることを忘れてはいけません。

 さて、神さまを「信じる」と言っても、もう少し具体的に整理すると、いったい神さまの何を信じているのでしょうか? ここで指針となるのが、『ニケヤ・コンスタンチノープル信経』です。正教会において毎回聖体礼儀の中で歌うこの『信経』は、「我、信ず」という言葉で始まります。『信経』は、すなわち私たちが何を信じているのかを箇条書きにまとめたものです。
  
  我、信ず、一(ひとつ)の神・父、全能者、天と地、見ゆると見えざる万物を造りし主を。 
  又、信ず、一(ひとつ)の主イイスス・ハリストス、神の独生(どくせい)の子、万世(よろずよ)の前(さき)に父より生まれ、 
  光よりの光、真(まこと)の神よりの真(まこと)の神、生まれし者にて造られしに非らず、父と一体にして、万物、彼に造られ
  我等、人々のため、又、我等の救いのために天より降り 
  聖神(せいしん) 及び童貞女(どうていじょ)マリヤより身を取り人となり 
  我等のためにポンティイ・ピラトの時、十字架に釘うたれ、苦しみを受け葬られ  
  第三日(だいさんじつ)に聖書に叶(かな)うて復活し 天に昇り父の右に座し  
  光栄を顕わして生ける者と死せし者を審判するためにまた来たり 
  その国、終りなからん、を 
  又、信ず、聖神(せいしん)、主、生命(いのち)を施す者、父より出で、
  父 及び子と共に拝まれ讃められ、預言者を以てかつて言いし、を  
  又、信ず、一(ひとつ)の聖なる公(おおやけ)なる使徒の教会を 
  我、認む、一(ひとつ)の洗礼、以て罪の赦(ゆるし)を得る、を、 
  我、望む、死者の復活、並びに来世(らいせい)の生命(いのち)を アミン  

 まず、私たちは、「一つの神」を信じていると告白します。それから、その神が「父」であること、「全能」であること、「万物」を創造した方であることを信じます。また、イイスス・ハリストスが、父である神と全く同じ 神であること、その神であるハリストスが、童貞女マリヤによって人となったことを信じます。そして、「復活」し「昇天」し「再臨」することを信じます。

 ここまでくると、普通、「そんなこと信じられない」と思ってしまいます。唯一の神さまがおられるとしても、その神が人となったとか、復活したとか、再臨するとか言われると、私たちの理解を越えていて、空想だとか神話だとかに思えて、事実として受け止めることができないのでそう思うわけです。しかし、ここで注意したいのは、「信じること」と「理解すること」は違うということです。

 私たちは、神さまの本質を理屈で理解することは絶対にできません。否、理解しようとしてはならず、信じようとしなければならないのです。理解できないはずの神さまの本質を理解しようとするから、言い換えるなら、自分の狭い思考の枠の中に押し込めようとするから、理解することができないと嘆き、つぶやき、否定してしまうのです。「そんなこと信じられない」というのは「そんなこと理解できない」と言っているのと同じです。しかし、理解できないからこそ「信じよう」とする態度が、私たちには求められます。「不合理なるが故に信ず」と言った聖人もいます。神さまのことを学ぶのは、「理解できない」ことを「理解する」ためだと言えます。

 神さまは、私たちの理解を越えています。神が唯一であること、全能であること、創造主であること、人となったこと、復活したことなどなどすべて「理解すること」ではないので、「我、信ず」と言うのです。


『理解すること』

 上に述べたように、私たちは「信じること」と「理解すること」をしばしば同じ意味で用います。「あんなことするなんて信じられない」などというのは、「私には理解できない」という意味です。しかし、信仰と理解は別ものです。例えば「彼はあんなことをする人ではないと信じている」というのは、彼を「理解している」というよりも、「彼の誠実さ」を「信用」しているという意味です。その「信用」の上に、彼への理解が深められます。

 同じように、私たちの信仰は、理解の上に成り立っているのでなく、理解が信仰の上に成り立っています。「我、理解す、一つの神を」とは言いません。また、「我、信ず、愛の教えを、謙遜の徳を」などとも言いません。言い換えれば、神さまご自身を理解することはできない一方、神さまの教えは理解しなければならないことと言えます。

 私たちが「信じている」神さまは、私たちに何を教えておられるのでしょうか? それを知るためには、やはり聖書を読まなければなりません。前回「私たちが信じるのは言葉そのものではなく、その言葉を語る相手自身なのです」と書きましたが、その相手の語る言葉そのものは、「信じる」というよりは「理解する」ものなのです。そして、「理解する」だけではなく、それを「実践」します。「実践」するために「理解」が不可欠であると言ってもよいでしょう。

 例えば、有名な山上の垂訓の一節、「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分の体のことで思いわずらうな。命は食物にまさり、体は着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」という教えを、私たちは「なるほどそのとおりだ」と納得し、自分の中へ受け容れ、消化し、身につけることが必要なのです。

 もちろん、ここでは、天の父なる神が鳥や草花やすべての被造物を養っておられるという『神の摂理』への信仰(これは理屈で理解できるものでない)が土台になっています。神の摂理を信じる信仰の上に、ハリストスの教え(「思いわずらうな」)を理解し、そうしてその信仰と理解が、実践を生んでいくわけです。

 また「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」という聖句も、「ああ、人間は肉体だけではなく、心の面も大切にしなければならないということなんだな」と、勝手に一人合点してはいけません。そんな簡単なこと、誰もが知っているようなことを聖書がわざわざ教えるでしょうか?

 この聖句を「理解する」ためには、神さまが私たちの生命を支えているという『信仰』の土台が必要です。言い換えるなら、生命を施す者としての神を信じることによって、「人はパンだけでは生きない」ことが理解できます。「神の口から出る言葉によって」とは、人が人と言葉によって交わるように、人と神との人格的な交わりによって、という意味です。その交わりがあって初めて人は本当の意味で「生きる」ものであるということを、この聖句は教えています。

 「信じること」と「理解すること」は区別しなければなりません。神さまの本質は、「理解すること」ではなく「信じること」です。神さまの教えは「信じること」ではなく「理解すること」です。しかし、その「理解」は必ず「信仰」の上に立っていなければなれません。そして、その「理解」は実践につながります。しかしながら、私たちは、こうした『信仰』や『理解』や『実践』から、何とほど遠い所にいるでしょう。自分自身の薄っぺらな信仰と、底の浅い理解と、おぼつかない実践とを、「自覚する」ことから、全てが始まるのかもしれません。


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