第一話

「信念」と「信心」と「信仰」

『信念』とは

 よく「信念を貫きなさい」とか「固い信念を持つ人は強い」などと言われます。『信念』とは、自分はこう思う、こう考えるという主張を強く固めて、それを揺るがないようにすることです。しかし、それは『信仰』とは違います。

 例えば「神さまは存在する」という信念を持つ人がいたとします。しかしその人は「神さま」を信じているのでなく、神さまがいると主張する「自分の考え」を信じているに過ぎません。

 また、自分は「こういう生き方を最善とする」という信念を持つ人がいたとします。しかし、その「生き方」とは、自分が考え出したもの、不完全なもの、結局は自己中心的なものになります。「自己中心的に生きるべきでない」という信念をもったとしても、その信念を貫くためには、自分のその考えを中心に生きていかなければならないのですから、自己矛盾に陥ります。

 時に「自分の考え」というものは変化します。人間の意志とは弱いものです。疲れて挫けます。『信念』はその弱い意志を基礎にしています。「強い意志を持てばよいのだ」と反論があっても、その意志とは結局「エゴ」や「プライド」と同義語なのです。こういう意味で、『信念』は、『信仰』とは違います。

 また「私は神さまはいると思う」「神さまを信じています」と言う人がいます。しかし、それは『信仰しています』という意味ではなく、「私はそう考えています」と言っているに過ぎません。まるで「幽霊を信じている」「UFOを信じている」というレベルで「神を信じている」と言っているようなものです。つまり「それらは存在しているんだろうな」と私は思っているということであって、別にそれらに従って生きていこう、としているわけではありません。

『信心』とは

 よく「日本人は信心深い」とか「私はどうも信心が足りなくて…」などと言います。『信心』とは、その字のとおり「信じる」「心」が大切にされます。言い換えるなら、信じるべき相手は問題ではなく、信じる自分の気持ちが最優先なのです。つまり、これも『信仰』とは違います。  信心には目的があります。それは、「自分が快適であるように」というものです。自分の生活の快適さ、大きく広げてもせいぜい自分の身の回りの快適さのために、もし、それがもたらされるのであれば、何でもいいから信じようとする心が『信心』です。

 「鰯の頭も信心から」と言います。鰯の頭を玄関にぶらさげておけば魔物が入って来ないと言われるからです。しかし、本当に「鰯の頭」という取るに足らないものに、そんな力があると信じているのでしょうか? 信心深い人は、そう信じているのでしょう。でも、結局は、魔物が入ってくると言われると不安だから、何か悪いことが自分の身に起こるといやだから、それを避けるためには手段を選ばないという態度と言えます。

 何かいいことがおきるように、自分の思いが叶えられるように、成功がもたらされるようにという自分のしあわせ(快適さ)のためにも、人はさまざまなものを信じようとします。どうしてそれがそんな力を持つのかについて、そこには論理性は必要ありません。かえって神秘性が求められます。

 「日本人は信心深い」と言われるのは当たっています。七五三や初詣には神社に行き、葬式、供養のためにはお寺に行き、結婚式のためには教会に行き、合格祈願のためには○△へ、交通安全のためには×□へ、若者の間では占いが流行し、不安の解消のため新興宗教に入れ込んだり……。すべて、自分の快適さのためです。

 また『信教の自由』などという時に使う『信教』とは、信じるべき相手を限定した『信心』と言えます。つまり宗教を一つ選んで、その宗教における信心の対象を唯一とする態度です。しかし、元はやはり『信心』ですから、自分のために、その宗教の神や教祖の教えを利用していると言っても過言ではありません。自分が自分のために自分の考えで宗教を選ぶのですから、あくまでも自分が中心であり目的なのです。

 『信念』も『信心』(信教)も、結局は「自己中心」です。そういう意味において、私たちは、この二つを持つべきではありません。ではこれに対して『信仰』とはいったい何でしょうか?


『信仰』とは

 まず、『信仰』とは『信心』とは違い、信じるべき対象が大いに問題になります。いったい誰を信じるのか。何を信じるのか。『信念』は自分の「念い」を「信じ」ますが、『信仰』は「仰ぐ」相手を「信じ」ます。『信心』は信じる相手は誰でもいいのですが、正教の『信仰』は、それは神さま以外にはありません。その神さまとは、聖書を通して、教会を通してご自分を顕した天地創造の神、摂理の神、三位一体の神、人となられた神、義と愛の神、唯一の神です。

 次に、「信じる」とは、自分の思いを断言的に言うこと(『信念』での「信じる」)ではなく、何か神秘的な存在、神秘的な力の働きの可能性を高く見積もること(『信心』での「信じる」)でもなく、『信仰』の意味で「信じる」というのは、その相手を信じてついてゆくということです。言い換えるなら、神さまに従うこと、従順であること、自分を中心とするのでなく、神を中心として生きていくことです。前述のように、たとえ信じるべき相手を神さまに決めたとしても、目的が自分に向いているのであれば「信心」と何らかわりません。

 この点、『信仰』は『信頼』に似ています。私たちはお互いに相手を信頼して自分自身を委託することをよく行います。小さな子供は、親を信頼して自分を投げ出します。患者は医師を信頼して自分の体を任せます。すべて、相手のいうこと相手の行なうこと、相手そのものを、「信じる」からできるのです。その人が言うんだから間違いない、その人がそうするんだから確かなことだと思って、たとえそれが、自分にとって快適でないとしても、自分にとって不都合だとしても、正しいこととして受け入れることが真の意味での「信じる」という行為です。そしてその相手が、人間でなく神さまである時、それを『信仰』と呼びます。

 神さまのおっしゃることを信じるといっても、まさか私たちすべての者の 一人一人の耳に「神の言葉」が直接聞こえてくるなどいうことではもちろんありません。「神の言葉」は、聖書をとおして、教会をとおして与えられています。私たちは聖書なしで、教会なしで『信仰』はできないはずだからです。たとえば、もし外国で病気になったとして、病院に運ばれても、その医師の言葉がまったく分からなかったなら、全面的な『信頼』をおくことができないのに似ているかもしれません。

 しかし、あの分厚い聖書の全部を、一字一句まで神が直接語った言葉の記録(レコード)として聞きなさいというのではありません。聖書は天から送られたファックスでもなければ、イーメールで送られた添付ファイルでもありません。聖書の言葉の一字一句の「かたち」にとらわれるのは危険なことです。私たちが信じるのは、言葉そのものではなく、その言葉を語る相手自身なのです。相手が親だから、医師だから、その言葉を信じます。相手が、神さまだから、その教えや行為を信じます。

 『信仰』の目をもつことによって、神さまは、聖書や教会だけでなく、自然をとおして、歴史をとおして、ご自分を啓示し、私たちと交わりをもたれることが見えてきます。私たち人間同士が、言葉をとおして、顔を合わせて、物を媒介にして、共に生活して、交わりを深めるようにです。そうして、神さまは、常に私たちを絶対的な愛をもって愛しつづけておられることを教え、その愛を信じるように教えておられます。神の愛を信じる人にはその『信仰』が称賛され、神の愛を信じ切れない人には『信仰の薄い者よ』と嘆かれている場面が、聖書の中にはたくさん出てきます。

 『信念』の基礎は自分の考えです。『信心』の基礎は自分の快適さです。しかし『信仰』の基礎は、自分ではなく神さまです。 こうしてみると、『信仰』するのは、いかに困難なことでしょう。自分を捨てて神に従うことが、自己中心をやめて神中心に生きることが、私たちに本当にできるでしょうか。

 『信念』や『信心』は、ある意味では誰にも教えられことなく、誰でも簡単に持つことができます。しかし『信仰』を持つということは難しいように思えます。でも、果たして『信仰』とは「持つ」ものなのでしょうか?「持つ」としたら、結局自分が所有するものという意味になります。『信仰』が自分の所有するものだとしたら、その獲得には自分の力にすべてが懸かっています。そんな力は私たちにはありません。「信頼を持つ」とは言わず「信頼を置く」といいますが、「置く」とは相手に預けること、相手に委ねることです。『信仰』も、神さまに自分を委ねるわけですから、思いきりは必要でしょうが、ある意味では、そんなに困難とは言えません。『信仰』とは、「持つ」ものではなく、『信頼』と同じように「置く」ものだと言えるでしょう。


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