復活したハリストスが食べたもの~ルカ伝24章42~43節
イイスス・ハリストスが十字架にかかる前に弟子たちととった食事、これを「最後の晩餐」と名付けたのはいったい誰なのでしょう? 「最後の晩餐」は、「最後の」晩餐ではないのです。なぜなら、ハリストスは、死から復活して、その後、弟子たちと食事をしたからです。確かに、「最後の晩餐」が、ハリストスが弟子たちととった最後の「過ぎ越しの祭」の食事だとするならば、それはハリストスの地上における「最後の」過ぎ越しの食事であることは間違いありませんが、それならば、「最後のペサハ(過ぎ越しの食事)」と呼ばれるべきで、「最後の晩餐」は正確ではないことになります。
そもそも「最後の」という言い方に、ハリストスの「死」しか見ていない見方が反映されています。言い換えれば、ハリストスの復活を見落としている、さらにはハリストスの復活を否定する見方だとも言えます。調べていないのでわかりませんが、おそらく神中心の世界観から、人間中心の世界観へと移っていった16世紀以降の時代、西洋のどこかの国の人が「最後の晩餐」と言い始めたのかもしれません。
正教会は、伝統的に「最後の晩餐」ではなく、「機密の晩餐」と呼んできました。「機密」とは、「聖体機密(聖体礼儀)」を意味しています。ハリストスは「機密の晩餐」において、正教会がいつも行なっている「聖体礼儀」を制定されたという見方です。例えば、有名な山下りんのイコンの中にも、きちんと「機密の晩餐」と題が書かれています。もし「最後の晩餐」と書かれていたならば、イコンの伝統、正教会の伝統を無視していることになります。ただし、もはや一般用語となってしまっていますので、便宜上、正教会の中でも「最後の晩餐」という言葉は使用されます。しかし、正式には「機密の晩餐」であり、ハリストスの復活を無視した「最後の晩餐」という用語は不適切だという認識をもっていなければならないと思います。
では、復活したハリストスは、本当に「食事」をしたのでしょうか? 福音書は、次のように証言しています。
ルカによる福音書24:36~43
「こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕 彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか.わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、
イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。」(他にもヨハネによる福音書21:9~15などを参照。)
注意しなければならないのは、ハリストスの復活は、単なる「蘇生」ではないという点です。いったんは死んだけども奇跡的に息を吹き返したというのではない、ということです。もしそうならば、ハリストスは、単なる人間にしかすぎなくなりますし、もう一度死ななければならなくなります。ハリストスの「復活」とは、まったく新しい生命に変容したという意味をもっています。だから、本当は、体の滋養のための「食事」は不必要なのです。ダマスコのイオアン(ヨハネ・ダマスキン)が次のように教えています。
「ハリストスは死から復活した後、そのすべての欲求、すなわち腐敗や空腹や渇きや睡眠や疲労や、そういったものすべてを棄てた。ハリストスは復活の後、食べ物を味わわれたけれども、それは本性の法則であったが故にそうしたのではなく(復活の主は空腹を感じなかった)、摂理によって、我々に復活の現実を悟らせるため、また苦しみを受け復活したのは一つの同じ肉体であることを悟らせるために、そうしたのである。」(Exposition
of The Orthodox Faith Ⅳ:1)
さて、その「復活の現実」を弟子たちと分かち合うためにとった復活後の晩餐の中で、ハリストスが食べた物は、何だったでしょう? 先に引用したルカ伝の部分の翻訳を比較してみましょう。
(口語訳)「彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、 イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。」
(新共同訳)「そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」
(文語訳)「かれら炙りたる魚一片を捧げたれば、之を取り、その前にて食し給へり。」
(明治訳)「炙たる魚と蜜房を予ふ。之を取て其前に食せり」
(ラゲ訳)「彼ら、焼き魚の一切と一房の蜂蜜とを呈したるに、彼等の前に食し給い、残りを取りて彼らに与え給えり。」
(正教会訳)「彼等は炙たる魚一片と蜜房とを彼に与えたれば、取りて彼等の前に食へり。」
以上のように、「口語訳」「新共同訳」「文語訳」は、単に「魚」だけですが、「明治訳」「ラゲ訳」そして「正教会訳」では、「蜜房(蜂蜜)」が追加されています。
「蜜房」とは、ギリシャ語原語では「メリッシオス」といい、「メリッサ(蜜蜂)によって作られたもの」という意味です。「蜜蜂の巣(巣蜜)」という意味にもとれますが、単に「蜂蜜」とイメージしてかまわないと思います。一説には、「炙りたる魚」につけるソースではないかとも言われています。ちなみに、蜂蜜はギリシャ語で「メリ」と言います。
さて、「蜜房」がない聖書と、ある聖書、この違いは、「写本の違い」から来るものです。聖書というものは、最初から活字として印刷されたものが天から降ってきたわけではなく、神様が添付ファイルでメール送信した書物でもありません。まだ活版印刷が発明されていない時代に人間が書き、それを書き写して、すなわち「写本して」、次の時代、次の時代へと伝えていったものです。その聖書のギリシャ語写本を作り、伝えたのは、「正教会」に他ならないのです!
「正教会」には神・聖神゜の導きが働いています。つまり「正教会」が伝えた聖書には神・聖神゜の働きがあってここにある、と信じられているからこそ「聖書」です。しかし、だからと言って、「すべてが完璧」であるかというと、そうではありません。神・聖神゜の働きを受ける人間自体は不完全であるという現実は認めなければなりません。
つまりは、神・聖神゜の導きがあるにもかかわらず、罪深い人間が写本していくうちに、聖書には語句の違いというものが多々(そのほとんどは非常に些細な違いばかりですが)生じて来たのです。つまり、聖書には「写本の違い」というものがあります。「写本」には、古い写本と比較的新しい写本とがあります。聖書の原本は失われていて「写本」しかありませんので、どの写本のどの言葉が「より原文に近いか」を推測する学問があって、「本文批評」と言われます。
さて、問題のルカ伝の24:42-43の部分ですが、「蜜房」という言葉が書かれているものは、主に8世紀から14世紀くらいの比較的新しい写本に多く、「蜜房」が抜けているものは、主に4世紀から6世紀くらいの比較的古い写本に多く認められます。つまり、「本文批評」からすれば、「蜜房」という語句は、何らかの原因で後で付加されたものであって、その語句がない写本の方がより信頼を置ける、という結果になります。その影響を受けたギリシャ語聖書を原本とする口語訳や新共同訳の聖書では、「蜜房」は翻訳されていない、というわけです。
しかし、そもそも「本文批評」という学問自体が、あまりにも人間中心的な発想であって、新しい写本に価値を置かないことは、正教会の中で神・聖神゜の導きによって聖書が伝えられてきたという真実を見落としているように思えます。「蜜房」という言葉があることによって、深い意味が汲み取れるからこそ、正教会は、この言葉を(聖神゜によって)聖書の言葉としている、と言えます。ニッサのグリゴリイという聖師父は、次のように教えています。
「律法の戒めによれば、人々は奴隷の苦しさを記憶するために過越祭において苦菜を食べた。しかし、復活の後、食べ物は蜜房と共に甘くなった。」
旧約時代の出エジプトを記憶する「過越祭」では、神の民は「子羊の肉」や「種入れぬパン」だけでなく、エジプトでの「苦い思い」を忘れないために「苦菜」を食べていました(出エジプト記12:8)。しかし、新約を開いたハリストスの復活は、もはや「苦味」ではなく、「復活の喜び」を表わす「甘さ」をもたらした、ということです。このように、「蜜房」は、ハリストスの復活が旧約を成就した、という神学を表わすものと解釈されています。また他の聖師父は次のように言っています。
「炙った魚は、この世の海を泳ぐ我々の本性(ほんせい)が、神性の火で焼かれて聖なる食べ物になったことを意味し、そして神に捧げるために蜜房で甘くされたのである。また蜜房とは、神の啓示の甘味による観想の生活をも意味する。」
蜜房の甘さは、私たち自身が善きものとして神様にささげられるべきこと、そして私たちが神様と交わる時の喜びを表している、というわけです。
さらに、正教会の祈祷文には次のような言葉があります。
「ハリストスは、膽(い)を嘗(な)めて、古(いにしえ)の嘗むることを癒し、今は、蜜房と共に、原祖(げんそ)に光照と己に与る甘き分とを賜う。」(聖使徒フォマの主日・早課・第四歌頌)
「膽を嘗めて」とは、十字架上でハリストスが味わった「酸いぶどう酒」のことです(ヨハネ12:9他)。「古の嘗むること」とは、禁断の木の実を味わうことで犯したアダムとエワの罪、すなわち人類の罪を意味します。つまり、ハリストスは、十字架によって人類の罪を癒したと言っています。そしてハリストスは、復活によって、「原祖」すなわち「アダム」すなわち「私たち」人間に、復活という「光」と「甘味」を与えたと言っています。その「甘味」を表わすのが「蜜房」です。十字架上で口にした「膽」(苦味)と、復活して口にした「蜜房」(甘味)のコントラストがみごとに浮き上がっている祈祷文です。
以上のように、ハリストスが復活した後に食べた「蜜房」は、その復活によって私たちに与えられるかけがえのない復活の喜びを表しています。「蜜房」は、決して聖書から落としてはならない聖句ではないでしょうか。私たちがあずかる復活のすばらしさを証するものだからです。