復活したハリストスの第一声~マタイ伝28章9節
イイスス・ハリストスが十字架にかかって息を引き取ったのは、金曜日の午後三時頃とされています。ユダヤ教の習慣として、一日は夕方(日没)から始まりました。つまり、金曜日の夕方はすでに土曜日の始まりでした。ユダヤ人にとって土曜日は、「安息日」という聖なる日であり、仕事をしてはいけない日でしたので、ハリストスの遺体の葬りは、安息日が始まる前に、つまり、わずか二、三時間の間に、とても急いで行われました。
アリマタヤのヨセフという人と、ニコデモという二人の男性が、すばやくハリストスを新しい墓に葬ってあげました。ユダヤ教では遺体に香油を塗ってあげる慣習がありましたが、おそらく十分に時間をかけて丁寧に油を塗ることはできなかったものと思われます。ハリストスを慕って弟子となっていた女性たちは、安息日が終わるのを待って、そのお体に、もう一度、丁寧に香油を塗ってあげたいと思いました。
正教会では、彼女たちのことを「香」を「携えた」「女」と書いて「携香女」と呼んでいます。マルコ伝によれば、携香女たちは「安息日が終ったので、…行ってイエスに塗るために、香料を買い求め」ました(16:1)。安息日の終りは、正確に言えば、土曜日の夕方(日没)です。しかし、携香女たちは、香油を買って、その足ですぐにはお墓に行きませんでした。おそらく日没後、夜の時間帯に墓場を歩くことは避けられたのでしょう。彼女たちは、夜が明けるのを待っていました。
しかし、携香女たちのハリストスを慕う気持ちは、夜明けを待っていられませんでした。ルカ伝によれば「夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った」のでした(24:1)。そこで携香女たちは、空っぽになった墓を見、天使からハリストスの復活を告げ知らされたのでした。「そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」とマタイ伝には書いてあります(28:8)。
さて、今日の本題は、その次にマタイ伝に書かれている言葉です。口語訳聖書から引用してみます。
『すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。』(28:9)
注目したいのは、復活したハリストスが携香女たちの前に顕れて、最初に言った言葉についてです。今、引用しましたように、口語訳では「平安あれ」となっています。ところが、新共同訳では「おはよう」と訳されています。他の翻訳も調べるとだいたい「平安」派と「おはよう」派に分かれています。
文語訳「安かれ」
口語訳「平安あれ」
新改訳「おはよう」
新共同訳「おはよう」
フランシスコ会訳「おはよう」
さて、正教会訳はどう訳しているかというと、「視よ、イイスス、之に遇いて曰えり、慶べよ。」となっています。つまり、正教会訳は「慶べよ」と訳しています。
原語のギリシャ語は、「ヘレテ」(現代ギリシャ語の発音)とあります。「ヘレテ」は「喜ぶ」という意味の「ヘーロー」という動詞の命令形(複数)です。ですから、正教会訳の「慶べよ」という訳は、原語に忠実な、素直な翻訳です。
ではなぜ、他の翻訳では「おはよう」とか「平安あれ」と訳しているのでしょう。それはおそらく、「ヘーロー」を、「あいさつの言葉」として解釈しているからです。実際、古典ギリシャ語では「ヘレテ」もしくは「ヘーレ(単数への命令形)」は、単なる「あいさつ」として使用されているようです。
例えば、「ヘーレ」もしくは「ヘレテ」は、ホメーロス作『オデュッセイア』では「ご機嫌よう」(13:229)、「ようこそ」(1:123)、「あいさつをお受けください」(13:358)などと訳されています。しかし、文脈によっては「喜べ」(11:248)、または「喜んでくれ」(『イーリアス23:19』)と訳される所もあります。<以上、すべて『筑摩世界文学大系
2 ホメーロス』呉茂一/高津春繁訳1980より>
ハリストスが言った「ヘレテ」を古典ギリシャ語の主な用法に従って単なるあいさつに過ぎないと解釈すれば、朝早くのあいさつだから「おはよう」となるのは自然かもしれません。しかし、果たしてそれは聖書的な、そして意義深い翻訳と言えるでしょうか?
さて、ユダヤ人の間では、あいさつの言葉は、昔も今も「シャローム」という言葉が使われます。ですから、ハリストスは、この時、ヘブライ語であいさつしたのだろうから「シャローム」と言った筈だ、ということになります。ちなみに、新約聖書をヘブライ語に翻訳した本を見ると、この箇所を「シャローム」と訳しています(The
New Testament Aramaic Peshitta Text with Hebrew Translation 1986 The Bible
Society Jerusalem)。この「シャローム」に、「平安」という意味があるのです。
つまり、「シャローム」と言ったであろうことを推測して、それを意訳して翻訳したために「平安あれ」という翻訳が生まれたのだと思われます。
しかし、もし本当に「平安」という意味が込められた「シャローム」であるならば、ギリシャ語でも、「平安あれ」という意味の「イリーニー」となっている筈です。例えば、ヨハネ伝では、復活したハリストスが弟子たちの前に顕れて言った最初の言葉は「平安」(原語はイリーニー)でした(20:19)。ですから、ヨハネ伝によれば、復活したハリストスが男性の弟子たちに言った第一声は「平安」で間違いありません。しかし、マタイ伝では、「イリーニー」は使用されておらず、「ヘレテ」と書いてあるのですから、「平安あれ」は原語から離れた訳になってしまいます。
では、旧約聖書において、「ヘレテ」「ヘーレ」はどのように使われているのでしょう。口語訳聖書を使って、数例を引用してみます。
ゼパニヤ3:14「シオンの娘よ、喜び(ヘーレ)歌え。」
ヨエル2:23「シオンの子らよ、あなたがたの神、主によって喜び(ヘレテ)楽しめ。」
哀歌4:21「ウズの地に住むエドムの娘よ、喜び(ヘーレ)楽しめ。」
これらのヘブライ語は「サーマフ」といい、「喜び」という意味をもっています。つまり、ギリシャ語も同じニュアンスを伝えています。ということは、「ヘレテ」「ヘーレ」を、「喜びなさい」(「慶べ」)と訳すのは、とても聖書的な用法と言えます。つまり、正教会訳新約がいかに聖書的伝統にのっとった翻訳であるかがわかります。さらに言えば、携香女たちも「シオンの娘」「シオンの子ら」なのですから、例えば、ヨエル2:23は、携香女たちに「慶べよ」といったハリストスによって成就した、とも言えます。「慶べよ」という翻訳は、この預言と成就の関係を明確にしてくれます。
しかし、それだけではありません。やはり、どうしてもここは「慶べよ」と訳さないといけないのです。なぜなら、復活したハリストスが女性の弟子たちに言った第一声だからです。つまり、人類の救いをもたらしたハリストスの復活は、最初に、女性に対して「慶び」を与えるものでなければならないのです。なぜかというと、この世に罪と死と不条理という「悲しみ」を最初にもたらしたのが女性だったからです。
アダムとエワ(一般では「イヴ」もしくは「エバ」)が、神に背いた結果、この世は「エデンの園の外」にある状態となってしまいました。創世記によれは、最初に禁断の実を食べたのは女性エワであり、その結果、神様は、「苦しみ(悲しみ、嘆き)」(創世記3:16)が生じてしまうことを宣言されました(この部分、口語訳ではヘブライ語どおり「産みの苦しみ」だが、ギリシャ語70人訳旧約聖書を直訳すると「悲しみと嘆き」となる)。
しかし、ハリストスは、その女性に対して「悲しみ」ではなく「慶び」を与えるために、つまりその罪から救うために、「復活」なさったのです。言い換えれば、悲しみと嘆きはエワから始まり、慶びと楽しみは携香女から始まったのです。正教会の祈祷文には、ハリストスが「悲しみ」を終わらせ、「慶び」を与えたことを強調するものがあります。
『ハリストス神よ、爾は復活によりて、携香女に「慶べよ」と告げ、原母エワの悲しみを止め、爾の使徒に伝えんことを命じたり、「救世主は墓より復活せり」と。』
『…死者を復活せしめし恒忍なる救世主よ、爾は携香女に逢いて、之に哀しみにかえて喜びを賜えり…。』
ところで、正教会は、携香女たちの中にイイススの母マリヤも含まれていた、と言います。すなわち、一番最初に復活のハリストスと出会い、「慶べよ」を耳にした人は、母マリヤだとしています(マグダラのマリヤと共に)。なぜなら、生神女マリヤは、イイススを孕んだ時にも「慶べよ(ヘレテ)」を聞いた人だからです。
ルカ伝によれば、天使ガブリエルが、ナザレのマリヤの元に遣わされて、次のように言いました。「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」(口語訳)。この「おめでとう」の原語は「ヘーレ」です。正教会訳では「恩寵を満ち被る者や、慶べよ、主は爾と偕(とも)にす」と、ちゃんと「慶べよ」と訳しています。
つまり、生神女マリヤは、ハリストスを孕む時に「慶べよ」という神の言葉を天使から聞き、ハリストスが復活した時に「慶べよ」という神の言葉をハリストスご自身から聞いたのです。
この大切な「救いの言葉」である「ヘーレ」「ヘレテ」を、「慶べよ」と訳すことは、とても聖書的で意義深いことだということがわかります。私たちも、肉体の耳にではなく、心の耳、神゜の耳で、「慶べよ」という神の言葉を聞きたいと願っています。神の救いにあずかることこそ「慶び」であり、「エテンの園」への回帰です。そもそも「エデン」という言葉は、「喜び、楽しみ」という意味をもつのです。
『感覚を浄めて、復活の近づき難き光にて輝くハリストスを見、凱歌(かちうた)を奉りて、「慶べよ」と言い給うを明らかに聞くべし。』