直訳でないとリンクできない~マタイ伝25章14~30節
亜使徒聖ニコライと共に聖書や祈祷書を翻訳したパウェル中井木菟麿は、翻訳事業に生涯をかけて心血を注いだニコライが語ったという次のような言葉を伝えています。
「余の翻訳は希臘(ギリシャ)原書の写真のような者である。誰かこれ以上に訳すことができるか」。
殊に日本正教会の「新約」は、まさに一字一句、細部にわたって、吟味、校閲、調査、検討されてできあがったものであって、片手間で簡単に翻訳されたものではありまぜん。並々ならぬ努力の結果できあがった「新約」の翻訳に、ニコライは、相当の自信をもっていたということがうかがわれます、
ここで、ただたんに「良い翻訳」というのではなく、「原書の写真のようだ」と喩えているところに注目したいと思います。「写真」という比喩は、原書のもつ意味やニュアンスを忠実にそっくり写し取ったということを意味しているのだと思われます。
簡単に言えば、「直訳」を基本としている、ということです。ただし機械的な「直訳」だと、日本語として文意が通じなくなったり、ぎこちなくなったり、美しくなかったりします。直訳調でありながら、同時に日本語として美しい、というバランスを保つことは非常に難しい作業です。ニコライ・中井訳の「新約」は、しかし、その困難さを克服したすばらしい翻訳なのです。
「直訳」を基本としていることによって生まれる大きな効果があります。原語を知らないと「つながらない」言葉が、翻訳であっても見事に「つながる」からです。「つながる」を別の言葉で表現すれば「リンク」ですね。一つの言葉を、心のカーソルでクリックすると、別の言葉にリンクして、世界が広がる、というわけです。「直訳でないとリンクできない」という今回のタイトルは、そういう意味でつけました。
一例をあげて説明しましょう。マトフェイ(マタイ)による福音書25章にある「タラントの譬」です。
ある主人が僕たち三人にそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントをあずけて旅に出ました。タラントとは、お金の単位のことです。5タラント、2タラントをあずかった者たちは、商売をしてそれを生かし、それぞれ倍にタラントを増やしました。旅から帰ってきた主人は彼等に対して「良い忠実な僕よ、よくやった」と褒めました。そして「主人と一緒に喜んでくれ」と言いました。一方、1タラントあずかった者は、このお金を失うことを恐れ、土の中に埋めておきました。主人は、彼を責めて「悪い怠惰な僕よ」といって、外の暗闇に追い出しました。
ここで注目したいのは、タラントを増やした者たちに言った最後の言葉です(マタイ25:21)。口語訳聖書の他に、いくつか別の翻訳も見てみましょう。
口語訳 「主人と一緒に喜んでくれ。」
新共同訳 「主人と一緒に喜んでくれ。」
新改訳 「主人の喜びをともに喜んでくれ。」
岩波訳 「お前の主人の喜びに与ってくれ。」
ラゲ訳 「汝の主人の喜びに入れよ。」
文語訳 「汝の主人の歓喜に入れ。」
正教会訳では「爾が主の歓楽(よろこび)に入れ」とあります。
こうして見るとわかるように、「入れ」という動詞を使っているは、古い翻訳である「ラゲ訳」(明治43年)、「文語訳」(大正6年)ですが、正教会も同じく「入れ」という動詞を採用しています。これは、すなわちギリシャ語原語に忠実な直訳なのです。
イセルセ(入れ)イス(に)ティン ハラーン(喜びに)トゥ キリウー(主の)スー(あなたの)
誰かの喜びの中に「入る」という言い方は、日本語にはありません。だから、日本語として「わかるように」、他の翻訳はいろいろと工夫して翻訳しているわけです。この「わかるように」というのが曲者です。「わかるように」に訳した結果、何のひっかかりもなく、スラスラと読み流してしまうからです。
そうではなく、ここは、「喜びに入る」と訳した方が、「なんとなくニュアンスはわかるけれども、こんな言い方は日本語にはないなあ」「きっと原語ではそういう風に書いてあるんだろうな」「しかし、喜びに『入る』なんて、なぜ、わざわざこんな動詞を使っているのだろう」という「引っ掛かり」というか「取っ掛かり」が生まれてきます。
そうして、「入る」という言葉に心のカーソルを合わせてみると、聖書をよく読んでいる人なら、別の場所で使用されている「入る」にリンクすることができます。
それは、「神の国に入る」「天国に入る」「命に入る」という慣用句です。マタイによる福音書には、この三つとも使用されています。
「神の国に入る」 マタイ19:24、21:31
「天国に入る」 マタイ5:20、7:21、18:3、23:13
「命に入る」 マタイ18:8,9、19:17、25:46
「天国に入る」という言い方だと、「入る」場所がそこにあるような感じがしますし、「その国に入国する」という言い方は普段でも使用しますので、どこかに実際に存在する「国」であるかのように「天国」をイメージしてしまいがちですが、しかし、天国とか神の国の「国」というのは、「神様が支配・統治なさっている状態」のことを意味しています。
ハリストスが言われた「悔い改めよ、天国は近づいた」という言い方からも、どこかにある「場所」としての「国」ではないことは、何となくわかります。「国」という場所は、普通、動くことも近づくこともないからです。
ここで、「爾が主の歓楽(よろこび)に入る」というのと「神の国に入る」というのが、同じ意味ではないか、というリンクができあがります。そもそもこの譬は、「天国は~のようなものである」という譬なのですから、このリンクはより容易くできるでしょう。
つまり、「天国」というのは、ある特定の場所の中に入るということではなく、神様と共にいることを「喜びに思う」状態のことをいうのです。反対に「地獄」というのは、神様と共にいることを「喜びに思わないで苦痛に思う」状態のことをいいます。となると、天国も地獄も死んでから初めて味わうのではなく、今、この世で生きているうちに「主の喜びに入って」いれば「天国」ですし、入っていなければ「地獄」が始まっています。
実は、ギリシャ語でも「喜びの中に入る」という言い方は無いらしく、この「喜び(ハラン)」を、単なる「喜び」という感情ではなく、「喜びの宴」という意味にとって、その「宴会の部屋の中に入る」という意味に解釈しようとする人たちがいるようです。もしそうだとしたら、その「宴会」とは、正教会では、神の国の先取りである「聖体礼儀」を意味することになります。聖体礼儀が行われている聖堂に「入る」のは、「神の国に入る」ことであり、「主の歓楽に入る」ことなのです。
「爾が主の歓楽(よろこび)に入れ」というギリシャ語原語の「写真」のような翻訳だからこそ、「リンク」することによって、こうした意味の深さを展開することができます。
ところが!です。ところが、まったく同じタラントの譬の中で、正教会訳聖書が忠実な直訳をしていない箇所があるのです! それは何と、肝心要の「タラント」という言葉です。
「タラント」とは、もともと重量の最大単位で、金、銀について用いられる場合は貨幣の最高単位をも表しました。1タラントは、ギリシャ時代には6,000デナリに相当したと言われています。1デナリは一日の労賃くらいと言われていますので、1デナリを仮に1万円とすると、1タラントは6千万円ぐらいになります。
そして、この「タラントの譬」によって、「タラント」は、「才能」「能力」「天分」などを意味するようになり、これが語源となって、テレビなどで活躍する人物が「タレント」と呼ばれるようになりました。
さて、ニコライ・中井訳の「新約」の該当の部分は、以下のようになっています。
「一人には銀五千、一人には二千、一人には一千、各、その才能に応じて之を与えて…」25:15
「故に彼より一千を取りて十千を有(も)てる者に与えよ」25:28
このように正教会訳はタラントを「(銀)千」と訳していますが、「千貫」なのか「千匁」なのか「千分」なのかが不明ですので、お金に換算できません。「貫」なら「一千」は12億くらいでしょうか? 「匁」なら120万円くらいでしょうか? これを読んだ明治の人たちはどのような感覚で読んだのでしょうか? (「十千」なら「一万」になるのでは、というつっこみも入れたくなります)。
ここはやはり、「タラント」もしくは「タラントン」と訳して、「タラント」とは何を意味するのか、という「ひっかかり」を作り、「タラント」という言葉のもともとの意味から、ここで込められた意味の深さ、そして現代の用語に至るまで「リンク」できるようにした方がよかったのではないか、と感じます。「銀五千」と書かれると、サッと読み流してしまいそうです。
しかし、実は、ニコライ・中井翻訳の祈祷書を見ると、次のように訳されているのが見受けられます。
「我が霊よ、視よ、主宰は爾に賚(タラント)を託す、…」
「…爾、賚(タラント)を蔵したる者の定罪を聞きて、神の言を隠す勿れ、…」
「…我等、各、其量に適いて恩寵の賚(タラント)を多く増すべし…」
※( )はルビ
このように、正教会お得意の「ルビ」を使って「タラント」とちゃんと訳しているのです。ちなみに「賚」という漢字は、「たまもの、くだされるもの、たまわるもの」という意味をもつ漢字だそうです。神様からの賜物のことを意味する「恩賚(おんらい)」という言葉もあるようです。
祈祷書では「賚(タラント)」と訳し、聖書では「銀~千」と訳したのでは、釣り合いがとれません。翻訳年代としては、この祈祷書の方が「新約」よりも後なので、本当は、祈祷書を訳し終えた段階で、「新約」の方も改訂すべきだったのではないかと感じます。
しかし、実は、中井木菟麿の校正の手が入れられた手書き原稿を調べると、「一人には銀五千、一人には二千、一人には一千」の「千」には、何と、その左側に「タラント」とルビがふられているのです。これは、第四話「複ルビの効果」でお話ししたように、非常に有効な手段である筈です。
「賚」という難しい漢字を使わずとも、「千(せん/タラント)」と複ルビを使用すれば、正教会訳のすばらしさがより発揮できたのに、と残念でなりません。なぜ、印刷の段階でこの「タラント」という左ルビが落とされてしまったのか、わかりません。私にとって、もし安息の地で中井先生にお会いできるとしたら、質問してみたいことの一つです。