第四話

複ルビの効果~マタイ伝6章24節

 有名なシンガーソングライターの中島みゆきさんの曲に「永久欠番」という歌があります。その歌詞の中に次のようなフレーズがあります。
 ※( )内はルビとして使用されている言葉

  どんな記念碑(メモリアル)も雨風にけずられて崩れ
  人は忘れられて 代わりなどいくらでもあるだろう
  だれか思い出すだろうか ここに生きてた私を

 この歌の一番の歌詞も二番の歌詞も、人ひとりがこの世を去っても、世の中は変わらずに進んでいくのだから、「私」など、はかなく意味のない存在なのかもしれないと、問い続けられています。しかし、最後に、力強く次のように宣言して終わります。

  100億の人々が 忘れても 見捨てても
  宇宙(そら)の掌の中 人は 永久欠番
  宇宙の掌の中 人は 永久欠番
   
~アルバム『歌でしか言えない』の歌詞カードより

 「私」という「個」は、他人がどうふるまおうと、世の中がどんなに無関心でいようと、「代わり」など決してありえない、かけがえのない唯一無二の存在だと歌っているわけです。

 さて、ここで注目したいのは、二つの言葉にふられた「ルビ」についてです。一つは、「記念碑」と書いて「メモリアル」と歌っています。逆に言えば、単にカタカナで「メモリアル」と書けばよさそうなのに、わざわざ「記念碑」という漢字を使用しています。つまりは、この「メモリアル」という言葉に意味の幅を持たせていると言ってよいでしょう。

 もう一つは、「宇宙」に「そら」というルビがふられているところです。「空」ではなく、「宇宙」と書くことによって、無限の広がりを感じることができます。そしてそれが「掌」をもつのですから、擬人化されているわけです。私などは、この「宇宙(そら)の掌」という言葉を、「無限である神様の掌」を意味するなどと勝手な解釈をして聴いています。

 前置きが長くなりましたが、このように漢字につけられたルビには、単に難しい漢字で読み方がわからないからつけるというだけでなく、「表現を深めるため」という目的もあることがわかります。

 さて、日本正教会訳の「新約」は、1901年(明治34年)に発行されましたが、その特徴の一つにすべての漢字にルビがつけられている、ということがあげられます。すべての漢字にルビをつけることを「総ルビ」といい、一部だけにつけることを「パラルビ」というそうですが、正教会で使用される聖書や祈祷書のほとんどは「総ルビ」で印刷されています(聖職者が主に使用する祈祷書は「バラルビ」です)。これは、誰もが祈祷書を声を出して読み上げる(「誦経(しょうけい)」と言う)ことができるようにとの配慮だと言えます。

  正教会の聖書も祈祷文も漢文調で難解のように思われがちですが、「誦経」の便宜のために「総ルビ」で印刷されているので、「読む」ことは比較的容易だと言えます。漢和辞典にも載っていないような難しい漢字が使用されていたりするのですが、ルビのおかけで、スラスラと読めてしまうということです(歴史的仮名使いであることはさておいて…)。

 正教会訳聖書のルビの特徴の一つに、熟語の読み方を音読みではなく、わざと訓読み的に和語をあてる所謂「熟字訓」が数多くみられる点があげられます。例えば「生命」と書いて「せいめい」ではなく「いのち」、「幽暗」と書いて「ゆうあん」ではなく「くらやみ」、「礼物」は「れいもつ」ではなく「ささげもの」、「盗賊」は「とうぞく」ではなく「ぬすびと」、「終末」は「しゅうまつ」ではなく「おわり」、などなど。

 また、普通では読めそうもない熟語に和語としてルビがふられているおかげで、その意味をちゃんと理解して読むことができるものがあります。例えば、「施済(ほどこし)」「鐡索(くさり)」、「新娶者(はなむこ)」「節莚(まつり)」などなど。

 そして、今回、正教会訳聖書の特徴として最も注目したいのは、漢字の右側だけでなく、左側にもルビがつけられているものがあるという点です。一つの漢字に二つのルビが左右にふられているため「複ルビ」とか「左右両振仮名」などと呼ばれています。『日本語学辞典』(杉本つとむ、岩淵匡編)によれば、「一方は文字通どおりの読み方、一方は意味を示す役割」をもつ「漢字の視覚的な面を利用する一便法」だそうです。

 「左右両振仮名」の歴史は古く、『振り仮名の歴史』(今野真二)によれば、すでに室町時代から使われているようです。明治時代にも「左右両振仮名」はよく使われていて、右振仮名には、読み方を、左振仮名には、その和語や意味説明などがふられていました。

 例えば「妨害」と書いて右に「ボウガイ」、左に「ワルサ」とか、「雑魚」と書いて右に「ざつぎょ」、左に「イロイロノウオ」など。他にも「欧州」と書いて右に「オウシュウ」、左に「エウロッパ」、「停車場」と書いて右に「テイシャ」、左に「ステイション」など、外来語そのまま(原語というべきか)を左ルビとして記す場合もあったようです。

 正教会訳「新約」の中にある「複ルビ」を調べたところ、そのほとんどが、四福音書と黙示録に出てきます。集計すると、四福音書の中で使用されている「複ルビ」は、全部で10種類あります。(黙示録の中の複ルビは、全部で17種類あるのですが、そのほとんどは21章19、20節にある宝石の名前で使用されています)。

 四福音書にある10種類の複ルビを列挙すると以下のとおりです。(最初に右ルビ/次に左ルビというふうに表記)

 ・愚拙(オロカモノ/ラカ) マトフエイ5:22
 ・公会(コウカイ/シネドリヲン) マトフエイ5:22、他
 ・財(タカラ/マモナ) マトフエイ6:24
 ・一銭(イッセン/アッサリイ) マトフエイ10:29
 ・殿税(デンゼイ/ディドラハマ) マトフエイ17:24
 ・銀一枚(ギンイチマイ/ディナリイ) マルコ12:25、他
 ・十二軍(ジュウニ グン/ジュウニ レゲヲン) マトフエイ26:53
 ・金銭(キンセン/ドラフマ) ルカ15:8
 ・悪魔(アクマ/ディアワォル) イオアン7:70、他
 ・公廨(コウカイ/プレトリヤ) イオアン18:28、他

 これを見てわかるように、すべて、左側には、その原語が記されているわけです。つまり、意味を説明するための和語を施すのではなく、わざわざ原語を示して、その言葉の意味の深さを探るように促す機能としてルビが使われているのです。

 一例として、マトフエイ[マタイ]6:24の「財(タカラ/マモナ)」を考察してみましょう。「財」と書いて「タカラ」と読ませるのも和訓的なルビですが、左にある「マモナ」とはいったい何でしょう。この言葉が使用されているのは、次のような文章です。

「爾等は神と財とに兼ね事うる能わず」。

同じ箇所を別の翻訳で見ると次のようになります。
【口語訳】あなたがたは、神と富に兼ね仕えことはできない。
【新改訳】あなたがたは、神にも仕えまた富にも仕えるということはできません。
【新共同訳】あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
【フランシスコ会訳】あなたがたは神とマンモンに兼ね仕えることはできない。

 ほとんどが「富」と訳していて、フランシスコ会訳だけが、固有名詞をそのまま音訳しています。正教会は左右両振仮名を使って、その二つを同時に表しているわけです。

 原語のギリシャ語は「マモナース」です。これは、もともとアラム語「マモナ」から来た言葉だと言われています。アラム語とはヘブライ語とよく似た言語で、ハリストスの時代にユダヤ人たちが日常会話で使用した言葉といわれています。

 「アラム語」で「マモナ」とは、もともと「隠す」という意味であるとか、「沈殿する」とか「預けておく」とか「信頼を置く」とか、いろいろな語源説があって定まっていません。しかし、最終的に「マモナ」は、「富」や「財産」「お金」を意味するようになりました。それも純粋な意味での「お金」ではなく、否定的な意味での「金銭欲」「富への執着心」「貪欲さ」といったニュアンスを含んだ「お金」です。「マモナ」は中世では、「悪魔」の代名詞としても使用されたことがあります(一般では英語発音によって「マモン」と表記されることが多い)。

 つまり、「爾等は、神と財とに兼ね事うる能わず」という中の「財」に、わざわざ「マモナ」というルビがふられているのは、単に「お金」のことを言っているのではなく、人の心をダメにする金銭欲、この世の物に対する貪欲さ、神に反抗する悪魔の力、に対して警戒しなさい、という意味を表すためだと言えます。

 私たちがもし、真実の神ではなく、この世のものばかり愛していたなら、私たちはマモナという偽りの神に仕える者となってしまっているということになります。

 マモナに仕えるということは、すなわち偶像礼拝をしていることと同じです。金口イオアンは、「たとえ教会にきてハリストスを礼拝していると思っている人でも、もし貪欲であれば、それはマモナという偶像を礼拝しているのである」と言っています。習慣や行動におけるマモナ礼拝者は、この世への執着心という名の「偽りの神」の意志を行う者です。しかし、そうではなく、私たちは、「真実の神」の意志を行う、「真実の神」の礼拝者でなくてはならないことをこの聖句は教えています。

 単に「富」だけでは、このようなニュアンスは伝わりません。かといって、単に「マモナ」とカタカナ表記しただけでは、翻訳としてはいいものとは思えません。正教会訳聖書の左右両振仮名には、その語の意味をひとまず知らせた上で、私たちに、さらにこの語を調べさせ、その意味の深さを理解させるという機能が働いているのです。

 実は、中井木菟麿みずからが校正をした手書き原稿が残されているのですが、それによれば、最初は「財(たから)」と訳したものの、後から「マモナ」と訂正の朱を入れ、そして最終的に「財(タカラ/マモナ)」と書き換えているのです。どれだけ考えぬかれて翻訳されたかがわかります。

 中島みゆきさんも、考えに考えた上、「宇宙」に「そら」とルビをつけたのかもしれません。そのまま「うちゅう」と歌っては、何だか詩的でないですし、変なニュアンスになります。また、「空」という漢字を使用したのでは、無限の広がりが感じられなくなりますし、「永久欠番」の「永久」の意味が半減してしまうのではと思います。

 このように、ルビの効果は絶大であり、正教会訳の聖書にも欠かせないものと言えるでしょう。

 

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