第三話

七の七〇倍か、七〇の七倍か~マタイ伝18章22節

 突然ですが、算数の問題です。「足が8本あるタコが2匹います。足は全部で何本でしょう」。これを計算式であらわすと8×2ですが、逆にして2×8と書くのは間違いだという意見があります。なぜなら、2×8だと、2本の足のあるタコが8匹いることを表してしまうからだそうです。これに対して、8×2も2×8も答えは同じなのだから、どちらでもよいのだ、という意見もあります。

 さて、正教会聖書を読むと、面白いことに、このようなかけ算の順序が、他とは違っている箇所があります。しかも、どうでもいい所ではなく、とても有名で重要な箇所に出てきます。それはマタイによる福音書の18章にある兄弟の罪をゆるすことがテーマになっている場面です。

 弟子のペテロがハリストスに質問します。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。  この問いかけにハリストスはこう答えました。

 「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。」18:22 口語訳聖書(他のほとんどの日本語訳も同じ)  

 同じ箇所を正教会訳で見てみると次のようになっています。

 「我、爾に七次(たび)迄と言わず、乃ち七十次(たび)の七倍迄。」

 つまり、口語訳や新共同訳などは、7×70としているの対して、正教会は70×7としています。計算の答えは同じなのだから、たいした違いはない、ということもできます。確かにどちらでもいいのかもしれませんが、しかし、では原語ではどうなっているのだろう、という疑問はわきます。

 「ウー(〜でない)レゴー(私は言う)シー(あなたに)エオス(〜まで)エプタキス(七回)アル(しかし)エオス(〜まで)エヴドミコンダキス(七十回)エプタ(七)」(カタカナ表記は現代ギリシャ語の発音にならっています)

 問題の一つは、「エヴドミコンダキス」の最後の「〜キス」を、回数ととらえるか、倍を表すものとしてとらえるかの違いです。

 普通は、「〜キス」は、回数を表します。直前にある「七たび」は「エプタキス」とあり、ペテロが聞いた「幾たび」という疑問も「ポサキス」です。だから、正教会訳は「エヴドミコンダキス」を「七十次」(「次」は回数を表す)と訳したわけです。

 もう一つの問題は、最後の「エプタ(七)」が、「七回(エプタキス)」とも「七倍(エプタプロシオス)」とも書かれてない点です(ある写本には「エプタキス」と書かれたものもあるそうですが)。

 しかし、「倍」とか「回」に当たる語がなくても、文脈から、単なる数字が「倍」を表すこともあります。例えば、マタイ13:8、23の「百倍、六十倍、三十倍」の原語には、「倍」を表す語はありません。

 以上のように、「エヴドミコンダキス エプタ」は、正教会訳のように「七十次の七倍」と訳すのが、よりギリシャ語の原語のニュアンスに近いと言えるようです。

 では、なぜ、他の日本語訳は「7×70」としているのでしょうか?

 「エヴドミコンダキス」を「七十倍」と解釈し、「エプタ」を(「エプタキス」ではないのにもかかわらず)「七回」ととらえた結果でしょうか。

 それよりも、もしかすると英訳聖書の影響ではないかと考えることもできます。なぜなら、ほとんどの英語の聖書は「seventy times seven」としているからです。この「times」は回数ではなく、かけ算としてとらえられてしまいますから、どうしても「7×70」であって「70×7」ではないことになります。

 七の七十倍か、それとも七十の七倍か。いずれにしても、それは、実は、490回という意味ではなく、(兄弟を491回目からゆるすなという意味ではなく)、無制限に、どこまでも、という意味を表していることを忘れてはなりません。金口(きんこう)イオアン(ヨハネ・クリソストモス)という聖師父は、次のように教えています。 「彼(ハリストス)は、赦さなければならない回数に正確な数字で制限を加えたのではなく、終わりなく、いつまでも、永久に、ということを意味されたのである。」

 そもそも七という数字は、聖書において、神の天地創造の日数であるため、完全や十分、そして善の象徴ととらえられます。またヘブライ語では「誓う」という言葉と同じ語根でもあるため、固い約束や神聖さをも表します。  ペテロが罪のゆるしを「七たびまでですか」と聞いたのは、「完全にゆるすのですね」と言ったのと同じなので、もしかすると、ペテロは自分で思わず「いいことをいった」と心の中で得意になっていたかもしれません。

 ハリストスは、その得意げなペテロの心を読んで、「それを十倍にし、そしてまた七倍しなさい」すなわち「完全に十全さをかけて、それにまた完全をかけなさい」と言って、ペテロを驚かせているようにも思えてきます。

 さて、第三話は、ここで終わりにはなりません。思わぬ展開が待ち受けています。それは、「七の七十倍」でもなく、「七十の七倍」でもなく、「七十七倍」という解釈があるという事実です。

 「七十七倍」は、旧約聖書の「創世記」に出てきます。それは「レメクの歌」と言われている第4章23から24節です。 「わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」。

 この「七十七倍」は、ヘブライ語の聖書には確かに「シブイーム(70)ヴェ(と)シブア(7)」つまり70+7と書いてあるので「七十七」ですが、これを70人訳聖書は、「エヴドミコンダキス エプタ」と訳しました(70人訳聖書とは、紀元前にヘブライ語からギリシャ語に訳された旧約聖書で、翻訳者の人数に因んでこの名で呼ばれる。新約聖書に多大な影響を与え、また初代教会から正教会の旧約の底本となっている)。そう、実は、ハリストスの言われた「七十次の七倍(エヴドミコンダキス エプタ)」は、70人訳聖書の創世記4:24を引用しているのです。

 これを受けて、ヘブライ語聖書を元に、マタイ伝の「エヴドミコンダキス エプタ」をあえて「七十七倍(回)」と解釈する人もいます。

 「七十七倍」もしくは「七の七十倍」もしくは「七十の七倍」は、いずれにしても、旧約のレメクの歌においては「復讐」を意味する数字でした。つまり、ほんのわずかな被害であっても「何百倍がえし」にもしてやうろうという強い思い、無制限に仕返しをすること、いつまでも人を憎みつづける心を象徴する数字でした。  それをハリストスは逆転させたのです。たとえ大きな被害であっても復讐は絶対にしないという強い思い、無制限にゆるすこと、憎しみから永遠に解き放たれる心を表す数字になったのです。「ゆるし」の数として「百」でもなく「七百」でもなく、わざわざ「七十次の七倍」と言ったのは、ハリストスが旧約を成就した者であることを意味しているわけです。

 「七十次の七倍迄」もゆるすことは、決してペテロの個人的な質問に対する個人的な答えではなく、旧約・新約をとおして神によって教えられている「人として歩むべき道」なのです。  

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