第二話

「ああ」という大事な一言 ~マタイ伝15章28節~

 第一話では、ダビデが先かアブラハムが先かというわずかな違いが大きな意味の違いにつながることを学びました。今回も、わずかな相違を見たいと思います。すなわちたった一言があるかないかの大きな違いに注目したいと思います。  

 ある時、カナンの女と呼ばれる女がハリストスのもとに出てきて「主よ、ダビデの子よ、私をあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけました。しかし、イイススは、最初この願いを無視しました。それでも女はひれ伏して「主よ、私をお助けください」と願い続けました。イイススは「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」と言いました。すると彼女は「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」 と答えました。  

 これに対してハリストスがお答えになった言葉が問題の箇所(マタイ15:28)です。いくつかの翻訳を比較してみましょう。

    口語訳 「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように。」
   新共同訳「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
   フランシスコ会訳 「婦人よ あなたの信仰は立派だ。あなたの望みどおりになるように。」
   新改訳 「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」
   正教会訳「嗚呼、婦よ、爾の信は大いなり。爾が望む如く汝に成るべし。」  

 いろいろと表現の違いは見られますが、決定的に違うのは、上の三つには「ああ」という感嘆詞がなく、下の二つには「ああ」があるという点です。ギリシャ語の原語を見ますと、ちゃんと「オー(ギリシャ語のアルファベット「オメガ」一字)」という一言があります。

 ところで、ハリストスが「オー(ああ)」と声を出された箇所は、他には二つの場面にしかありません。

 一つは、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。」(マタイ17:17、マルコ9:19、ルカ9:41)で、弟子たちが悪霊を追い出せなかった時の言葉です。  もう一つは「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。」(ルカ24:25)で、復活のハリストスが二人の弟子たちにエマオ途上で言われた言葉です。  お気づきのように、この「ああ」は口語訳聖書でも訳されています。ちなみに、口語訳聖書には、マタイ6:30、11:23、23:37などにもハリストスの言葉の中に「ああ」がありますが、これらは原語にはないものです。

 いずれにしても、ハリストスが弟子たちに言われた「ああ」には、嘆きの意味が込められているのがわかります。これら否定的な「ああ」に対して、カナンの女に言われた「ああ」は、感心の意味が込められた「ああ」なのです。

 ハリストス・神に「ああ」とため息をつかせるほどの信仰を、カナンの女はもっていたということです。いったい、神様を「ああ」と感心させてしまう信仰をもった人が、他にいるでしょうか。この大切な「ああ」を、正教会訳聖書は、落とさずに、しっかりと訳してします。この「ああ」があるかないかは、ハリストスの感動と、カナンの女の信仰の大きさを知る上で、非常に大きな問題です。

 さて、ハリストスに「ああ」と感嘆の声をあげさせてしまうほどの、大きな信仰とは、いったい何なのでしょう。  まず、ハリストスの所へ「カナンの女」は、「出て」きました。正教会訳では「その疆(さかい)より出でて」と訳されています。つまり彼女は「自分自身」という垣根を越えて「出てきた」ということができます。ある聖師父は、「私たちも、以前の過ちや罪から出て行く必要がある」と注釈します。

 次に「カナンの女」は「叫び」ました。それもずっと「叫び続けて」います。この「叫び」は、単なる「大声」という物理的な意味だけでなく、聖書では「祈り」の代名詞なのです。カナンの女は「主よ、我を憐れめよ」と「祈り(叫び)」つづけました。

 ハリストスはしかし、この声に最初は沈黙し、そして拒絶さえなさいました。聖師父たちは、これを「カナンの女」の忍耐を私たちに示すためわざとそうなさったのだ、と注釈します。  彼女は、そのとおり忍耐をもって、あきらめることなくハリストスに「近づいて拝しました」。「拝した」とは、単に跪いたという意味だけでなく、「礼拝する」「神として拝む」という意味にもなる言葉です。

 それでもハリストスは、「子供のパンを小犬に投げてやるのは、よろしくない」といいました。これは、「救い」を受けるにふさわしくない者には「救い」は与えられないという意味です。しかし彼女は「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」と答えました。これは、言い換えれば「ふさわしくないと思われる者にこそ救いを与えることが神の大きな愛ではないでしょうか。私はその愛を信じて助けを求めているのです」という意味になります。

 カナンの女は、自分がふさわしくないことをすなおに認める「へりくだり」と、出てきて叫び祈り拝し熱心に祈り求める「忍耐」とを私たちに教えてくれますが、しかし、ハリストスは「爾のへりくだりは大いなり」とも「爾の忍耐は大いなり」とも言われず、ただ「爾の信は大いなり」と言われたのですから、ただひたすら「神の愛」を信じ続けたこと、それがハリストスに「ああ」という感嘆のため息をつかせたのだと言えます。

 正教会の祈祷文の中にある以下の言葉を、自分の祈りとして身に着けた時、ハリストスは私たちにも「ああ」と言ってくれるかもしれません。

 「爾はただ義人を救い給わば何の大なることあらん。清き者のみ憐れみ給わば、何の驚くべきことかあらん。彼等、当然、爾の憐れみを受くべき者なればなり。然れども、我、罪ある者にも爾の憐れみを垂れ給え。これをもって爾の大仁愛を示し給え。」

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