第一話

語順の違いは意味の違い~マタイ伝1章1節~

 人気テレビ番組で、「相棒」という刑事ドラマがあります。「相棒」の主人公、杉下右京は、天才的な推理で次々と事件を解決していくのですが、彼の口癖に「細かいことが気になるんですよ。僕の悪い癖。」というのがあります。しかし、彼は、細かいことに目を注いで、その些細な相違点を解明していくことによって、事件の真相にたどりつきます。

 実は、聖書を読む時にも、「細かい相違点」をどうでもいいと見逃さずに、なぜそうなのかを考えることは、大切です。そのよい例として、マタイ(マトフェイ)伝1章1節があげられます。いわゆる新約聖書の冒頭部分で、人の名前がたくさん出てくる「系図」の最初の言葉です。口語訳聖書では、次のようになっています。

「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。」

ところが、正教会訳では、次のようになっています。

「ダヴィドの子、アウラアムの子、イイスス ハリストスの族譜。」

 固有名詞の表記の違いや「系図」が「族譜」となっている違いは別として、他に違いがあるのがわかりますでしょうか? そう、口語訳では「アブラハムの子、ダビデの子」という順番なのに、正教会訳では、「ダビデの子、アブラハムの子」という逆の順番になっています。順番の相違などたいしたことではない、と見過ごすのではなく、杉下右京的に、まさに「細かい相違点」を気にしてみたいと思います。

 正教会訳が「ダヴィドの子、アウラアムの子」と、ダビデの方を先に記しているのはなぜかというと、それは、もともとのギリシャ語の原文がそういう順番だからです。ところが、口語訳聖書は、原文の順番を無視して、「アブラハムの子であるダビデの子」とアブラハムの方を先にしています。この順番は、他のほとんどの日本語訳、新共同訳や新改訳なども同じです。

 これは、おそらく、時代の順番として、「アブラハム」の方が先に登場する人物だからなのでしょう。歴史的にいって、アブラハムは紀元前二千年ぐらいの人、ダビデは紀元前千年年くらいの人です。「~の子」という言い方は、聖書の世界では、直接の息子という意味だけでなく、その子孫・末裔という意味で使われますので、アブラハムはダビデの子孫ではなく、その逆で、ダビデがアブラハムの子孫なのだから、「アブラハムの子、ダビデの子」という順番でなければならない、と考えたのだと思われます。

 しかし、それでは、まったく原文を無視した翻訳の仕方のように思えます。強い言い方をすれば、それは聖書のメッセージを間違って伝えるものであり、やってはいけない誤訳なのではないでしょうか? 原文では、どの写本も間違いなく「ダビデの子、アブラハムの子」という順番で書かれています。では、なぜ、歴史的順番を無視してまで、原文は「ダビデの子」を先に書いているのでしょうか。そう考えると、そこに大きな意味が見えてきます。

 まず、「ダビデの子」という言葉が先に来ることによって、イイススは救世主・ハリストスであることが強調されているという点があげられます。そのころの人々は、自分たちを救ってくれるメシアを待望していました。彼等にとって理想のメシアは、ダビデ王の再来というイメージでした。それで「ダビデの子」というのは、単にダヴィドの家系の子供というだけでなく、「ダビデの子孫から生まれるダビデのような立派な王・メシア・救世主」という意味をもつにようなりました。

 預言者エゼキエルは、次のような神様の言葉を記しています。「わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。…彼らはわがおきてに歩み、わが定めを守って行う。…わがしもべダビデが、永遠に彼らの君となる。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らの永遠の契約となる。わたしは彼らを祝福し、…わたしは彼らの神となり、彼らはわが民となる。」(エゼキエル書34:22,37:24~27)

 これを成就なさったのが、ダビデの子と呼ばれるイイスス・ハリストスなのです。つまり、ハリストスは、神さまと私たちとが永遠の平和の契約を結ぶために人となった神様なのです。ハリストスによって、私たちは、祝福を受け、真実の神を神様とし、その真実の神様の民となることが出来るのです。

 そしてもう一つ、この「ダビデの子、アブラハムの子」というのは、両方ともイイスス・ハリストスを修飾しているという点が大切です。つまり、「ダビデの子」であり、かつ「アブラハムの子」であるイイスス・ハリストスという意味です。もし、アブラハムを先にしてしまうと、「アブラハムの子」は単に「ダビデ」にだけかかっているような勘違いが生まれます。口語訳の「アブラハムの子であるダビデの子」という訳はまさにこの勘違いを生み出しかねない訳です。

 イイスス・ハリストスは、「アブラハムの子」として、アブラハムの祝福を受け継ぎ、また成就するものとしてお生まれになったのです。神様はアブラハムに、「あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」(創世記22:17,18)と預言なさいました。「死をもって死を亡ぼす」ハリストスは、まさに「死」という名の「敵の門を打ち取」るために人となった神様なのです。ハリストスによってすべての人類はこの祝福を得ることができるようになりました。

 私たちにとっても、ハリストスは、「ダヴィドの子」として、私たちに「平安」と「永遠の契約」を与える救世主であり、「アブラハムの子」として、私たちに「祝福」と「恵み」を与えるお方として降誕された方なのです。聖書は、この真理を教えるために、わざと歴史的順番を逆にして「ダヴィドの子アウラアムの子」としていて、正教会訳聖書は、その真理を忠実に私たちに伝えています。

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