由の家までの道は、最後のT字路――学校に向かうときは最初になる道――を右か左、どちらに曲がるかというところが違う以外、僕がたどる道と同じだった。
斉木家と酒井家は近所だったらしい。母さんにあまり心配をかけなくて済みそうなので、僕は少しほっとした。
由は無言で家のドアを開けた。――『ただいま』とは言わないんだろうか。
ドアの向こうの構造は、右に2階への階段、左に部屋への入り口が2つ、奥に1つ。
「由か?」
声とともに、奥から由の父親らしき人が出てきた。目が合った。途端に驚かれた。
「由……! お前という奴は!!
学校にも行かないで部屋に引きこもってるかと思えば、いつも夕方にフラフラと出て行って、その上こんな時間に見知らん人間を連れてくるなど……!!
何を考えてるんだ!!!!!!!」
その人は由に向かって、ものすごい剣幕で怒鳴った。が、当の由はまったく動じずに、階段を上がっていた。
「裕基、ついてきて」
「え、あ……」
由はさらりと言ったが、僕は由の父さんの激しい怒りに気圧されていて、すぐには返事を返せなかった。そこへ、
「君も、早く帰りなさい。遅いと親御さんが心配するだろう」
今度は少し諭すような、しかし追い払おうとする意思がこもった声で、由の父さんが話しかけてきた。
「そんな人、放っておいて。裕基、早く」
由のその言葉は、実の父親に対してはひどく冷たすぎるような気がするものだった。何だろう、どうして由は父親に冷たいのだろう。
微かに寒気がした。父親は再び由に向かって怒鳴っている。
由の言う通りに、由の父さんを放っておくことは、完全には出来なかったけれど。
「……すいません、後で電話借ります」
それだけを告げて、僕は由の後に続いて階段を上がっていった。
どうしてこんなことになったんだろう、とぼんやり考えながら、僕は由の部屋に足を踏み入れていた。
部屋は整然としていた。漫画、あるいは芸能人のポスターなどといったものは一切置いてなかった。
由は部屋に入るなり、右奥の勉強机から何かを取り、僕の顔元に差し出した。
が、部屋が暗いせいで何を見せられたかわからない。僕はスイッチを探して押して電気をつけ、それから由の差し出したそれを見た。
それは、絵だった。紅い空、地平線と交差する黄色い夕日、その下に整然と並ぶ住宅街。由がいつも見ている光景、そのままの絵だった。
――そのままとは言っても、その絵は空も夕日もただ一色を塗りたくっただけのものだし、住宅街は最初に灰色を塗り、その上に適当に黒い線を描き入れただけ。
そもそも夕日ははっきりとした円の形を肉眼で捉えることは出来ないはずなのに、その絵の夕日は線が荒いながらも円形だった。
由がいつも見ていた光景を絵にしたものには違いないだろう。けれど、その絵はひどく雑だった。
由が見せたがっていたのは、こんなものなのだろうか。僕は拍子抜けしてその場に立ち尽くした。言葉を継げなかった。
「……、下手だと思うでしょ?」
思わずぎくりとなる。図星だった。
「いや、その……」
「いいの。あたしも自覚あるから。……時間をかけたら、もう少しくらい上手く描けたかもしれないけど」
絵を持つ手を下ろし、俯き加減で由は呟いた。
「時間?」
「これ、昨日帰ってきてすぐに描いたものなの」
ああ、だから雑なのかと納得しかけて、はっとした。あることに気づいた。
「まさか、毎日夕日を眺めては、1日1枚描いてた……って言うの?」
おそるおそるそう訊ねると、由は無言で頷いた。
由が指差したのにつられるように彼女の勉強机に目をやると、その棚にはおびただしい数の画用紙が敷き詰められていた。
まさか、あの画用紙の全てに、さっき見たような雑な夕焼け模様の絵が描かれているんだろうか。
足元が揺らいだような感覚に捉われた。由は、思った以上に『普通』から外れていた。
学校には行っていない。『普通』なら学校は行って当たり前のところ、行かなきゃならないところなのに、由は行っていない。だから由は『普通』じゃない。
絵を描く時。
『普通』なら対象を『見ながら描く』ものだと思う。しかし由は『記憶を頼りに描く』というやり方。実物に比べれば記憶は明らかに曖昧なものなのに。
また、『普通』なら『時間を気にせず、ゆとりを持って描く』ようにすればいい。
なのに、由は『次の夕暮れ時までに完成させなければならない』という時間制限を自分で作っている。自分からゆとりを持とうとしていない。
要するに、由のやり方は最悪なんじゃないだろうか、と強く思う。
どうか、している。由は。全身でそう感じたせいだろうか、さっきの足元が揺らいだような感覚は。
「……、変?」
頷きかけて――踏みとどまった。いや、踏みとどまらされた。
由が無表情のまま涙を流していたのを、見てしまったから。
「ご、ごめん……」
謝った。ついさっきまで頭の中にあった考えが、ひどく悪いことのように思えた。
にしても、僕は間違ったことを考えたつもりはない。むしろ間違っているのは由の在り方だとさえ思う。
なのに、それを指摘することがさらに間違っているように思うのは何故だろう。
「何だったら変で、何だったら正しいの? あたしにはわからない、裕基にはわかるの?」
突然、問いかけられた。涙声だった。由はまだ泣いている。しかし声に感情は感じられず、表情も無かった。
何が変で何が正しい。
そういえば僕は由を変だと思った。けれど、僕じゃない他人が由を見たら、どう思うのだろうか。
他の人は皆、由を正しいと言ったりして、変なのは僕のほうなのだろうか。
いや、まさか。僕は『普通』なんだ。『普通』だから親や先生にも叱られないし、学校でいじめられることもないんだ。
由はさっき、父親に怒られてた。それはおかしい。やっぱり由のほうが変なんだ。僕が正しいんだ。
――なのに、由の無表情の涙を見るのはつらい。それを見ると、自分は何かが間違っている、そんな気がしてならなかった。
考えがループしてしまう。まとまらない。何も言えない。
「…………、わからない」
呟くように、僕はそれだけを言った。
由は、軽蔑の視線を僕に向けていた。彼女はもう、涙を流してはいなかった。
彼女のその視線を受けるのが、ひどくつらかった。
「わからないのに、どうして裕基はあたしを変だなんて言ったの?」
悲しみがこもった声だった。
…………違う。
「君のせいだ……」
「え?」
わからない、んじゃない。
「君のせいだ! 君が変なこと言うせいで、君がいるせいでっ……、それでわからなくなったんだッ!!!」
いつの間にか怒りを伴い、僕は叫んでいた。あるいはそれは、ループにはまってしまったことから来た悲鳴だったかもしれない。
わかっていたはずのものが、全くわからなくなった。由のせいだと僕は言った。それは本当のことだろうか、正しいのだろうか。――わからない。
もう、由の顔を見ることもできなかった。僕は無言で、逃げるように由の部屋を去り、家を去った。
自宅に連絡を入れるのを、すっかり忘れていた。
PREV | NEXT |