葬送の浜辺

〜もうひとつの『金の光月の旅人』〜

この作品は、当サイトで公開中の別作品『金の光月の旅人』の姉妹編です。
同じ世界の別の場所、別の時代、別の子供たちのお話です。

ストーリー的には独立しているので、『金の光月の旅人』未読でも読めます。
両方読んでくださる場合、どちらを先に読んでも構いません。
※一部、『金の光月の旅人』中の文章を、ほぼそのまま使用している箇所があります(具体的には、エルドローイが作中で語る物語が全く同じ内容ですので、『金の光月〜』を先に読んでいる方は、その部分を飛ばしても大丈夫です)
※前作同様、当サイト掲載作品『イルファーラン物語』と世界設定を共有しています



(1)   (2)   (3)





 *



 お聞き、子供よ。これは、とっておきの秘密だよ。どんなに偉い王様も、どんなに物知りな博士も、誰も知らない、この世界の生成の秘密、世界が生まれ出る場所の秘密だ。
 世界の中心に何があるのか、特別に教えてあげよう。


 誰も知らない、この世の外のどこかで、人知れず、永遠に眠りながら夢を見続ける乙女がいる。
 その、〈夢見乙女〉が見ている夢が、この世界なのだ。
 夢見乙女は、永遠に歳をとらずに、いつまでも少女のままで眠り続ける。
 夢見乙女の夢が、世界を生み出す。
 夢見乙女は何人もいて、だから、世界は、いくつもある。
 滅多にないことではあるが、一人の乙女が何かの事故で死ぬと――あるいは、さらに稀な、ほとんど考えられないような過ちではあるが、何かの拍子に乙女が目覚めると――、その時、ひとつの世界が消える。

 乙女たちが眠っているのは、本当は、この世の外の、どこか知らない荒涼の惑星の上で、そこには空気も水もなく、生きているものは何もなく、ただ透明な棺だけが延々と並んでいるのだけれど、乙女たちの棺は、同時に、それぞれの夢の中の世界にも存在している。
 そこでは、棺は、それぞれの世界に相応しい神秘の場所にある。
 あるいは天に聳える高山の頂の壮麗な神殿に、あるいは清浄なる森の奥の簡素な小祠に、あるいは人跡未踏の密林に眠る半ば崩れた古代遺跡の最奥のおくつきに、あるいは遥かな氷原を越えて辿り着く幻の国の氷の宮殿に、あるいは訪なうものもなく忘れられた古い塔のてっぺんの秘密の小部屋で厚い埃に覆われて、また、あるいは、いつでも虹が架かっている壮大な瀑布の裏の謎めいた洞窟で、万華鏡のように色を変える不思議な鉱石の薄明かりに照らされて――、夢見乙女の棺は、ひっそりと置かれている。
 それがどこであっても、そここそが、その世界の、中心だ。
 そして、それぞれの世界と、乙女たちが眠る夢見乙女の星とは、乙女の棺が占めるその空間においてだけ、二重に重なって繋がっている。ちょうど、一本のピンで二枚の紙を刺し貫いた時、違う二枚の紙に同じピンが同時に刺さっているのと同じように、同じ棺が、その一点において、二つの世界に跨がって存在しているのだ。

 夢見乙女の存在は、世界の秘密。秘密の核心。
 けれど、時々、命を賭けて世界の真実を求める賢者や、この世の最高の至宝を求める勇者たちが、あるいは長年の修業や学究の末に、あるいは波瀾万丈の冒険の末に、夢見乙女の伝説という、この世の源泉の秘密にたまたま辿り着き、やむにやまれぬ狂おしい探索を経て、世界の中心の乙女の許にまでやって来ることがある。
 彼らの中には、ふたつの世界が接するその場所から、何かの加減で、そこに重なって存在する夢見乙女の惑星のほうに紛れ込み、棺を取り巻く虚無に呑まれて瞬時に命を落とすものもある。
 だが、そうならなかったものが、それほど幸運なわけでもない。彼らは、長く苦しい探索の末に、求める乙女をやっと見いだしても、なすすべがないのだ。

 賢者たちは、乙女を起こして世界の秘密を聞き出したい、自らの命に代えてももっといろいろのことを知りたいと渇望し、勇者たちの中には、乙女に激しい恋をするものもいる。
 けれど、乙女を起こすと、世界が消える。
 乙女の夢の中の存在である彼らには、乙女を起こすことは、出来ないのだ。
 ただ、その半生を、あるいは一生を賭けて求め続けた伝説の乙女を前に、焦がれ、嘆き、恨み、諦め、やがて、何も得ることなく空しく立ち去るほかはない。

 しかし、彼らの中には、乙女を目覚めさせられずとも、その場を離れられないものもいる。
 特に、乙女に恋をして魂を奪われてしまったものの多くは、手を触れることの決して叶わぬ永遠の乙女をひがないちにち見つめて暮らし、応えがないことを知りながら、やむにやまれずたぎる想いを訴え続け、どこへも行けずに棺に取り縋ったまま、やがて衰弱して、死んでゆく。
 だから、時々、乙女の棺の傍らに、何体もの古びた白骨が散らばっていることもある。
 そして、そうした白骨たちの、すべてが不幸だったわけでもない。
 棺の上に身を投げ出して眠りに落ち、目覚めることなく死んでいった男たちの幾人かは、恋を知らない少女のままで眠りに就いた乙女が夢の中で見る二重の夢に取り込まれて、その夢の中で乙女と愛し合い、共に生きたのだから。
 そんな時、物も食べずに眠り続けて憔悴しきった彼らの死に顔には、必ず満ち足りた笑みが刻まれている。
 乙女と眠りを分かち合った彼らは、微笑みながら骨になるのだ。

 けれど、私、エルドローイには、その、夢の中の永遠の幸せは訪れなかった。
 私は、決して目覚めないはずの、目覚めさせてはならないはずの夢見乙女を、起こしてしまったのだ。

 昔々のその昔、こことは違う別の世界で吟遊詩人であった私は、果てしない放浪の旅路の果てに世界の秘密を探り当て、ついに世界の中心の聖なる森に辿り着いた。
 死すべき人間の手が未だ触れたことのない古い古い伝説の森に、ただひとり、私は分け入り、月の夜、決して晴れることない神秘の霧の奥深く隠された秘密の湖を、精霊たちの操る見えない小舟で押し渡った。
 湖の真ん中の小島に降り立った私は、ひとけもなくうち捨てられた白い神殿を見出した。
 壁も天井も半ば崩れ去って廃墟と化した神殿の床には、一面に奇妙な幾何学図形が描き出されて、ちらちらと淡い光を放っていた。
 まるで蜘蛛の巣めいたその紋様は、石の床に刻まれた細い水路だった。
 神殿の中央に、純白の大理石で丸く囲った泉水があって、そこから静かに溢れ続ける清らかな水が、縦横に走る幾筋もの水路をひたひたと潤しながら、あたりに満ちる幽かな月明かりを反射していたのだ。
 あちこちが崩れかけた廃墟の中で、そこだけが時の流れも知らぬげに、泉はこんこんと湧き続けている。

 そんな奇妙な神殿の、泉水の更に中央に、ちょうどその湖の小島を模したかのように、きららかな水晶の棺が、ひっそりと置かれていた。
 棺は、半ば水に漬かる形で泉水の中に安置され、誰の手も触れていないはずなのに塵ひとつ被ることもなく、崩れかけた天井の一角から折しも射し込む月の光に真っ直ぐに照らし出されていたのだ。

 それは、奇妙な、水の祭壇だった。
 きらめく水滴に飾られて水面《みなも》に浮かぶ水晶の棺は、床に描かれた奇妙な図形の真ん中で、月夜の湖を漂う透明な小舟のようにも、夜露に濡れた蜘蛛の巣に囚われた儚い蝶のようにも見えた。

 さらさらと水は流れ、月影が揺れる。
 水面で揺れる月影に見入っていると、自分が、世界が、ゆらゆらと揺れているような気がしてくる。まるで、ゆりかごに乗っているように、あるいは、母の胎内にいるように。
 そう、やっとたどり着いた、こここそは、まさに、世界のゆりかご、世界の子宮。
 時間になる前の時間とまだ生まれていない者たちの気配を潜めた厳かな静寂が、見えない水のように神殿を満たし、立ちつくす私を押し包む。

 私は踏み石伝いにそっと棺に歩み寄って、傍らの石段に跪き、棺を覗き込んだ。
 月の光を浴びて、まるで水底にいるように、少女が眠っていた。
 世界を産み出す母なる処女、何千年もその場所でひっそりと夢を見続けてきたはずの伝説の乙女は、思いがけない幼な顔の、華奢で小柄な黒髪の少女だった。
 ほんの子供のようにちっぽけで、もしかすると、そう特別に美人ではなかったかもしれない。
 けれど、少女を一目見たその時から、私は、その場所を、一歩も動けなくなった。眠れる乙女から、一瞬も目を離せなくなった。
 ああ、この乙女の、瞳は何色なのだろう。あえかに紅いその唇から零れるのは、どんな声だろう。目を開けて恋人と見つめ合う時、どんなふうに微笑むのだろう――!

 乙女の、閉ざされたまぶたの下の瞳を、ただ一目見るためになら、死んでもいいと思った。
 ただ一度、その声で名前を呼んでもらえるものなら、ただ一度、微笑みかけてもらえるものなら、世界など、どうなってもいいと思った。

 澄んだ水底に月影が描き出す網目模様が、ゆらゆらと伸び縮みして、水晶の棺の側面にも映りこんでいる。白い壁にも水の反映が躍って、神殿中がゆらめく光で満たされている。
 棺を見つめる私にも、光の網目模様はまとわりついてくる。贄《にえ》を絡めとる罠のように。
 棺を覗き込んだそ瞬間から、私は、乙女の棺と同じ一つの蜘蛛の巣に捕らわれたのだ。

 湖の小島に眠る乙女の棺の傍らで、私は、竪琴をつま弾きながら恋歌を歌った。
 やるせない衝動のままに、物も食べず、眠りもせず、昼も夜も、ひたすら歌い続けた。
 憧れの想いがいっときも止まらずに胸の奥から湧き上っては溢れ続け、熱く切ない恋歌になって喉を流れ出し迸るのを、堰き止めようなどと思うことさえ出来ず、ありえないはずの目覚めを、ありえないと知りつつ乞い希って切々とかき口説き、時に優しく、時に激しく、限りなく甘く、また狂おしく、尽きることなく愛を囁き続けた。

 崩れかけた高い丸天井から、夜は月の光が、昼は日の光が、幾筋もの線を斜めに描いて神殿に射し込み、ゆっくりと移ろいながら、乙女の棺と私を照らした。
 雨が降り込めば雨に濡れ、明け方には露に濡れ、嵐の日には稲妻にときおり白く照らし出されながら、私はひたすらに歌い続けた。

 どれだけの時が経ったのか、わからない。
 この不思議な場所では、時間の流れ方が普通とは違うのが当然のような気がしたし、私自身もまた、自分でも知らぬ間に、普段の私とは何か少し違うものに――うつつの肉身を半ば離れた、例えば夢の中の自分のようなものになりかけていたのかもしれない。
 月と太陽が、時間と風が、歌い続ける私の上を営々と通り過ぎた。月の雫と陽のかけら、星の瞬き、雲の影、風と夜露、雨と稲妻、静かなもの、激しいもの、熱いもの、冷たいもの、輝くもの、昏いもの、儚いもの、勁いもの、過ぎて行くもの、そして永遠なるもの――それらすべてが、私の歌に宿った。

 黄金の声持つ音楽の神の愛し子と世の人々に讃えられ、行く先々の王侯貴族に自分の宮廷にとどまってくれるよう懇願され続けながらも、己の内なる詩神だけを己が主と定めて放浪を続け、己の紡ぐ楽の音をより高めるためだけに人生のすべてを捧げてきた私が、己の歌のすべてを、初めて、己が内なる詩神にではなくただ一人の乙女のために全身全霊で捧げ尽くしたその時、歌の翼は高くはばたき、私の内なる詩神は、私と一体になった。
 歌っているのは、もう、私ではなく、私の内なる詩神そのものだった。
 内なる詩神の声が、そのまま、私の喉を衝きあげて溢れてくる。
 その時、私は、何もかも忘れた。
 乙女の姿さえ、視界から消え失せた。
 ただ、己が内から我知らず溢れ出し、見知らぬ高みへとひたすら駆け上がり続ける歌だけで、世界はまるごと満たされた。
 魂のすべてをかけた恋歌は、ついに、死すべき人間には許されないはずだった至高の領域にまではばたき、ふいに、ひとつの壁を超えた。

 そうしてはじめて、溢れ続けて止まらなかった私の歌は収束に向かい、ひとつの楽曲が完結した。
 伴奏の竪琴の最後の一音が微かに震える祈りとなって見果てぬ高みに消えて行く、その軌跡を見送るように、私は、茫然と天を仰いで瞑目した。

 やがて我に返った私が、自分の成し遂げてしまったことにいくぶん慄き、ほとんど怯えながら、おずおずとまぶたを開け、乙女の棺に目を戻した、その時。
 清らかな睫毛が、二度、三度、微かに震えて、乙女は、ふいにぽっかりと目を開けた。

 私は息をのんだ。
 初めて見るその瞳、焦がれ続けたその瞳は、髪と同じ黒――すべての光を吸い込む宇宙の常闇のような、深々とした漆黒だった。

 私の恋歌は、眠れる乙女の夢の奥底深く何重にも封印されて隠されていた彼女自身の魂を揺るがし、ついに、乙女を目覚めさせてしまったのだ。
 それは、これまで、どこの世界の誰にもできなかった、できるはずのなかったことだった。
 力づくで棺を叩き割り、無理やり抱え起こしたり身体を揺さぶったりして乙女を起こそうとしたものはいたが、それらの粗暴な試みは、世界を滅ぼすことはできても、乙女を目覚めさせることはなかった。
 歌で、言葉で呼びかけて、乙女を起こしてしまったのは、後にも先にも私だけだ。

 夜の湖のような乙女の瞳に、私が映った。
 私たちは一瞬、見つめ合い、乙女のあえかな唇が、小さく開きながら、何か言おうとしたように見えた。

 エルドローイ、と……、乙女が自分の名を呼んでくれようとしたのだと、私は、そのとき、とっさにそう信じ込んだけれど、後になって思うと、愛しいひとの唇を漏れかけた最初で最後のその一言は、『さようなら』だったのかもしれない。今となっては、あの時の乙女の唇の動きを思い出そうとしてみても、あまりに長いこと、繰り返し繰り返し、その光景を心に思い描き続け過ぎたので、本当のことは、もう、思い出せない。
 いずれにしても、乙女の声は私の耳には届かず、そして乙女は、その、たった一言を、言い終えることができなかった。
 唇を開きながら、同時に乙女は、その細く白い手をおぼつかなげに持ち上げ、私も思わず、棺に向かって手を差し延べていた。ぎこちなく差し延べられたそれぞれの指先が、水晶の壁を隔てて触れ合った瞬間、乙女は、光の屑になった。同時に、棺は砕け、世界は光の渦となり、また、闇となった。
 そうして、そこに生きていたものたちの誰ひとり気づくいとまもないままに、ぷっつりとすべてが途切れ、途絶えて、ひとつの世界が、かき消えた。

 けれど、私は消えなかった。
 気がつくと私は、荒涼たる死の星の地表に立っていた。
 その、生きているものの気配もない石くれだらけの荒野には、数えきれない透明の棺だけが、延々と、整然と、並べられていた。
 どの棺の中にも、一人づつ、乙女が横たわっていたが、私の足下の棺は空で、ただ、いくばくかの細かい塵のようなものが、棺を満たす液体の中を頼りなく漂っているだけだった。
 その塵も、見たと思う間に、螢のようにふっと消えていった。

 空には、色の違う二つの月が遠くかかり、見たこともないほど大きく鮮明な無数の星が、見たことのない星座の形に並んで、瞬くこともなく、凍りついたように冴え冴えと輝き渡っていた。
 暑くも寒くもなかった。空気がないのはわかったが、なぜか、苦しくはなかった。

 そこで、私は、大いなる声を聞いた。
 私は死を願ったが、『声』は、それを許さなかった。
「生きよ。生きて、愛せよ。永遠に」と、『声』は言った。
「それが、おまえに与えられた罰だ」と。

 そして私は、今のようなものになった。

 夢見乙女は不老不死だが、夢の中の誰かに無理やり起こされたり、夢の中で、たまたま自分が眠っていることに気づいて自ら目覚めてしまったりすると、その瞬間、もともとの寿命に応じて死ぬ。
 あるいは、空から降って来た星のかけらが当たって棺が割れたり、棺の中の環境を維持する装置が、どうしても確率を無にはできない偶然の事故で壊れたりして、眠ったまま死んでゆくこともある。
 いずれにしても、乙女が死ぬと、その乙女の創っていた世界が、一瞬にして消える。
 私が、私の世界と一緒に消えなかったのは、罰だ。
 なぜなら、その世界の夢見乙女を起こして世界を消したのは、私だったから。
 ひとつの世界を滅ぼした、その償いのために、私は、新たに夢見乙女となるべき子供を探索し、この星へ連れてくるという役割を負った。

 それ以来、私は、ただ一人、時を超え、世界を超えて、さすらっている。
 私は、世界から世界へとさまよう、永遠の旅人となったのだ。
 私に見出された子供らは、みな、私に連れられて、いくつもの大地を遠く旅して回る。
 夢見乙女の星は、この地上のどこでもないところにあるし、別のどの世界でもないところにあるから、この地上のどこからも、別のどの世界からも同じように遠く、そこへ行くには、どの世界のどこからも、いくつもの世界を果てしなく経巡って、あてもなく旅をしなければならない。夢見乙女の星には、あてもなくさすらうことでしか近づけないのだ。
 けれどやがて時が至れば、どんな道順を辿ったかにかかわりなく、私たちは夢見乙女の星に辿り着き、少女たちは、大いなる声に召されて永遠の眠りにつく。
 そして私は、また、次の子供を求めて旅立つのだ――。


  *



 男の人の語る、この不思議な物語は、トーシャの夢の中を、色鮮やかな映像となって流れてゆきました。
 物語の最後に、男の人に手を引かれてどこかへ去ってゆこうとする小さな女の子の後ろ姿が現れました。その少女が、ふと振り返り、顔が見えたら、それは妹のミヤなのでした。
 それでびっくりして、いっぺんに目が醒めました。トーシャは息を飲んで目を見開き、いつの間にか男の人の胴体にもたれかかっていた身体をがばっと起こしました。
「……ミヤ?」

 悲鳴のように叫んだと思ったけれど、口から出たのは、まだ寝ぼけたような頼りない問いかけでした。
 見れば、ミヤはちゃんと、男の人の胴体を挟んだ向こう側に座っていて、さっきまでの自分がそうしていただろうように、うつらうつらと船を漕ぎながら男の人にもたれかかっていました。
 トーシャの声に、ミヤはぽかんと目を開けてトーシャを見、それからすぐに男の人を見上げて、うれしそうに微笑みました。
 トーシャにはぼんやりと目をくれただけで、何の関心もないように、すぐに視線を男の人に移したのです。
 その目はもうすっかり、うっとりとした崇拝に輝いていました。

 この人が、美味しい物をくれたから? 温かいマントにくるんで優しく抱き寄せてくれたから? 聞いたこともないような不思議な物語を聞かせてくれたから? それとも、この人自身がとても不思議だから? 綺麗だから?
 ……吸い寄せられるような眼差しの熱さに、トーシャは考えました。
 こんな小さな子供でも、女の子というものは、働き者のワジャルを捨て、親や生まれた村を捨てていったフィーナのように、こういう綺麗な男の人には簡単に心を奪われてしまうものなんだろうか――。

 この人はトーシャにもミヤにも優しくしてくれたけれど、妹が、得体のしれない男の人を、こんなにうっとりと思慕を顕わに信じきった様子で見つめているのを見て、トーシャはやっぱりなんだか不安になりました。何だか良くないことのような気がしました。
 さっきの、ミヤが連れ去られる場面はただの夢だったとしても、まるで本当にこの人に妹を遠くに連れ去られてしまいそうな気がしたのです。

 この人はやっぱり、人を惑わす魔物か、危険な精霊か何かなのでは? こんなふうに突然現れるなんて、最初からそもそもおかしい。食べ物だって、どこから取り出したのかもわからなかった……。

 そこまで考えて、トーシャはぞっとしました。だとしたら自分たちは、精霊の差し出す食べ物を食べ、水を飲んでしまったのです。物語の中で、精霊の食べ物を食べたり飲み物を飲むことは、必ず、彼らの世界に取り込まれることを意味しています。

 けれど、と、トーシャは思い直しました。
 魔物や精霊なんて、物語の中のものだ。
 でも、もしも魔物でなくても、この人は実は人さらいかもしれない……。

 子供、とくに女の子を攫って遠くに売り飛ばす悪い大人がいると、だから知らない人にはついていってはいけないと、ミヤにも気をつけていてやらねばいけないと、トーシャはいつも言い聞かされていたのです。

 そんなトーシャの疑いを知ってか知らずか、男の人は自分の左右に抱えたミヤとトーシャを順番に見下ろし、等しく優しい笑顔を投げかけました。
「起きたかい、トーシャ、ミヤ」
 トーシャはしぶしぶ頷きました。
 ミヤは男の人から一瞬でも視線を外したら損だと言わんばかりにじっとその顔を見上げたまま、こくりと頷きます。
「お話は面白かったかい?」
 トーシャがまたしぶしぶと頷くと、男の人はなおさら優しく笑みを深めました。
 そうして、急に真面目な顔になって言いました。
「今のお話は、ただのお話じゃないんだ。全部本当のことなんだよ。この私、エルドローイが、本当に体験してきたことだ」

 その声にふいに宿った重みが、わけもわからずトーシャをひるませました。トーシャは、急に、自分がこんな得体のしれない大人に近々と寄り添っているということが怖くなって、男の人の胴を押しのけ、マントを払いのけて立ち上がりました。
 男の人は、もう、そんなトーシャに構いもせず、今度はミヤにだけ向き直って、じっとその目を見つめて言いました。
「ミヤ。私がなんでここへ来たか、もうわかっただろう?」
 ミヤが黙ったまま男の人をじっと見返して頷くのを、トーシャはひやひやしながら見ていました。
 案の定、男の人はこう言いました。
「そう、ミヤ、君を迎えに来たんだよ。私は、新しく夢見乙女となるべき、見えないものを見る力を持った女の子を、ずっと探してきたんだ。幾つもの世界を経巡って、やっと君を見つけたよ」
 ミヤは、男の人を見上げて、静かに言いました。
「ずっと、待っていたの。あなたが迎えに来てくれるって、知ってたの」

 ああ、やっぱり……。トーシャは小さく身を震わせました。
 妹が見知らぬ男に連れ去られてしまうのではという心配と恐怖。妹を守らなくてはという焦りと使命感。
 それらと同時に、トーシャは、どこか取り残されたような寂しさと悲しみを感じてもいるのでした。
 男の人が迎えに来たのは、トーシャではなく、ミヤのほうなのです。ミヤ一人だけなのです。もはや、この不思議で美しい特別な男の人は、トーシャのほうなど向きもせず、ミヤ一人に向かって話しかけているのです。

 ミヤはこの人に選ばれたのだ、自分は選ばれていないのだ、自分はこの人に一緒に連れて行ってはもらえないのだ、一人でここに、この凍える浜辺に、腹を空かせた現実の中に残されるのだ……。
 そう思うと、不思議な喪失感で胸が一杯になる気がするのでした。……まだ得てもいないものを失うことも、喪失といえるのなら。

 この人の話が本当だとしたら、この人に選ばれたからといって何か良いことがあるわけではなく、それはむしろ恐ろしい運命のように思えたし、そもそもその話が本当に実際にあったことだなんて信じられなかったのですが、それでも、自分がこの謎めいた使者に選ばれなかったということ、自分はこの世界を離れて別の世界に旅立つ資格を与えられなかったのだという想いは、なぜだかトーシャの胸を掻き乱したのです。

「ミヤ、私と一緒に来るかい?」
 男の人の問いかけにミヤがためらいもなくこくりと頷くのを見たトーシャは、あわててミヤに飛びついて、男の人から引き剥がそうとしました。妹の身を心配する気持ちと微かな嫉妬が混じりあって、トーシャを突き動かしたのです。
「ミヤ、ミヤ、だめだよ、知らない人についていっちゃいけないんだ! この人はきっと、悪い人攫いだよ!」

 この人が悪い人だなんてやっぱり思えなかったし、人攫いだとも思えなかったけれど、トーシャは、むしろ、そうであって欲しかったのでした。この人に、ただの、普通の、人間の人攫いであって欲しいと、なぜか思ったのです。
 だから、この言葉は、ミヤにだけではなく、自分に言い聞かせようとする言葉でもありました。

 ミヤはトーシャの手を無造作に振り払い、男の人の胴に、引き剥がされてたまるかとばかりにぎゅっとしがみつきました。
 そうして男の人は、ミヤを引き剥がそうとしているトーシャに、もう、何の関心も向けてくれませんでした。
 ただ、ミヤを見下ろして、余裕たっぷりな様子で問いかけました。
「君の兄さんがこう言っているが、どうする?」
「あなたと一緒に行く。連れて行って」
 ミヤは一瞬もためらわず、トーシャのほうを見ようともせず、即座にきっぱりと答えました。
 男の人は、優しく頷いてから、あらためて真剣な面持ちでミヤの目を覗き込みました。
「私と来ると、もう、ここへは帰れないよ。そこの兄さんや、村の家族や友だちとも、もう二度と会えなくなるんだ。それでもいいかい?」
「うん」
 ミヤはきっぱりと頷きました。
「ミヤ、ミヤ、そんなのだめだ!」
 トーシャは焦って、またミヤを引っ張りましたが、ミヤはトーシャのほうを振り向こうともしませんでした。
 男の人は、胴体にミヤをしがみつかせたまま、ふいと立ち上がりました。
 立ち上がったその姿を見て、トーシャは、この人がけっして『悪い人攫い』なんかではないのを知りました。
 ただの人攫いなんかでは、あるはずがありません。だって、この人は、やっぱり『人』ではないのです。
 軽々と立ち上がり、マントを払って背筋を伸ばしたとたん、その人は、今しがたまでの『綺麗な顔をしているけど普通の親切そうなお兄さん』から、さっきワジャル岩の上で見た時の、精霊か魔物か、とにかく人間とは思えない、異質な気配をまとった遠い存在に戻っていました。ただでさえとても高い背丈まで、更に少し高くなったように思えました。
 さっきまで間近に見ていた――今は立ち上がって少し遠くなったその顔は、同じ顔立ちのままなのに、さっきまでとは全く違う、月明かりのように冴え冴えとした近寄りがたい美しさを湛えていました。
 トーシャは、ミヤに向けて伸ばしかけた手を、だらりと下ろしました。
 自分にはミヤを引き止められないことが、わかってしまったのでした。
 男の人が急に人間ではない別のものになってしまったのと同じように、並んで立つミヤも、もう、半分、人間ではない別のものになってしまったかのように見えました。

「じゃあ、行こうか」
「うん」
 男の人がミヤの手を取りました。さっき、夢の中で見た通りに。
 トーシャの心が、悲鳴をあげました。
 いつも一緒だった妹がいなくなる。去ってゆく。父母亡き後、たった一人残っていた、血を分けた家族が。
 ……それだけじゃない。
 ミヤは、この美しい不思議な人に選ばれた。けれど自分は選ばれなかった。ミヤはここでないどこかへ行くけれど、自分はここに取り残される――。

「待って!」
 トーシャは立ち去ろうとする男の人のマントの裾を掴みました。
 男の人は立ち止まって振り向き、無感情な目でトーシャを見下ろしました。
 さっきまでの優しさとは打って変わったその冷淡な眼差しに怯みながらも、トーシャは必死で訴えました。
「待って。ミヤが行くなら、ぼくも行く! ぼくも一緒に行くよ!」

 男の人は、はじめて見るかのようにしげしげとトーシャを眺め、それからふと、さっきまでの優しいお兄さんの顔に戻って、すまなさそうに眉を下げて微笑みました。
「ごめんよ、トーシャ……。君は駄目なんだ。君を連れては行かれない」
「なんで!? ぼくのほうがミヤより大きいから、ミヤより早く、たくさん歩けるよ! だから、旅の邪魔にはならないよ。旅の間、ぼくがミヤの面倒を見られるよ。それに、ぼくはまだこんなにチビだから、ご飯もそんなに食べないよ。ミヤよりちょっとでいいよ。だから、ミヤがゆく場所まで、一緒に連れて行って。ねえ、いいでしょう?」
 男の人は、黙ってかぶりをふりました。
「……どうして駄目なの?」
 トーシャがしょんぼりと尋ねると、男の人は穏やかに言いました。
「君は、私が乗って来た船が見えなかっただろう? 私が連れていくのは、それが見える子だけなんだよ。船が見える人間だけが、その船に乗れる。私たちが乗る船に、君は乗ることができないんだ」
 口調は優しげでしたが、容赦のない、残酷な言葉でした。
 きっと、ミヤは特別な子供だけれど、自分はそうでないのです。
 選ばれた特別な子供だけが、この人と一緒に不思議な世界へ旅立てるのです……。

 惨めな思いでミヤを見れば、ミヤは、もう何の感情も表さずに、知らない人を見るような無関心な目でトーシャを見ているのでした。その目を見て、ミヤに口添えを期待しても無駄だと悟りました。

 男の人は宥めるように口元を緩め、トーシャの頭を撫でました。
「トーシャ、良い子だ。君は今までとても頑張った。偉かったね。でも、もう頑張らなくていいんだよ。もう、休んでいいんだ。夜も更けた。眠るといいよ」
 男の人は、トーシャの両肩をそっと掴んで、さっきの岩の上に座らせました。
 トーシャはもう逆らう気力もなく、そのまま座り込みました。
 男の人がマントを外して、トーシャの背中にかけました。
 それから屈み込んで、マントをトーシャに巻きつけながら、ふわりと抱きしめてくれました。
 マントは温かかったけれど、間近に寄せられた男の人の身体には、温度がありませんでした。頬に当たる服の布地がちくちくすることもなく、胸のあたりに顔を押し当てられているのに、心臓の鼓動も感じませんでした。そうして、その人には一切匂いというものがないことに、今さらながら気がつきました。汗の臭いも、着ている衣服の匂いも、何一つ。
 まるで、空気に抱かれているようでした。
 やっぱり、この人は、精霊だったんだ。目に見えているこの姿は、きっと幻なんだ。もしかしたら、この人は本当はここにはいないのかもしれない。精霊の妖術で幻を見せられているだけなのかもしれない――。
 
 けれど、マントにくるまれていると、たちまちさっきの夢の中の温もりが戻ってきて、トーシャは急に眠くなり、そんなことはどうでもよくなってしまいました。
 まぶたが重くなって、自然と下ってゆきました。
「おやすみ、トーシャ。よい夢を……」
 優しい声音とともに、男の人の温度のない唇が両のまぶたにかわるがわるそっと触れました。
 そのとたん、トーシャの閉ざされたまぶたの裏に、両親が生きていた頃の幸せな食卓の光景が浮かび上がりました。
 そこはもう寒い浜辺ではなく、竈で炎が踊る暖かな部屋で、トーシャは、父や母やミヤと、美味しい料理をお腹いっぱい食べながら楽しく笑いあっているのでした。
 父が生きていた頃はミヤはまだほんの赤ん坊だったはずなのに、幻の中では、今より少し小さいだけのミヤと父が一緒にいて、楽しげに言葉をかわしており、食卓には好物の揚げフリカが山と盛られ、魚のぶつ切りと香草のたっぷり入った熱いスープが良い匂いの湯気を上げていました。
 楽しい夢を見ながら、トーシャは微笑んで眠りにつきました。


 翌朝、入江を訪れた村人が、冷たくなったトーシャの亡骸を見つけました。
 痩せた小さな亡骸は、見たこともないような上等のマントにくるまれて、心地良く眠っているかのように、目を閉じて岩の上に横たわっていました。そのあどけない顔には、幸せそうな微笑が浮かんでいました。
 そうして、ミヤの姿は、どこにもありませんでした。





―― 『葬送の浜辺』(完) ――



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