葬送の浜辺

〜もうひとつの『金の光月の旅人』〜

この作品は、当サイトで公開中の別作品『金の光月の旅人』の姉妹編です。
同じ世界の別の場所、別の時代、別の子供たちのお話です。

ストーリー的には独立しているので、『金の光月の旅人』未読でも読めます。
両方読んでくださる場合、どちらを先に読んでも構いません。
※前作同様、当サイト掲載作品『イルファーラン物語』と世界設定を共有しています



(1)  (2)  (3)


 だからトーシャは、あの時、
「あんたは『賎しい』の?」と、小首を傾げて不思議そうに問う少女に、そんなことはない、と答えたのでした。
「でも、もう、君のばあやさんから見えるところで遊ぶのはやめようね、君が叱られるから」
 そう言うと、少女は、トーシャと額が触れるほど間近に顔を寄せて、真剣な顔で頷きました。
「うん、じゃあ、あんたとわたしが友だちなのは、ふたりだけの秘密ね」

 それからもトーシャと少女は乳母の目を盗んで秘密の合図を送りあい、岩陰で短く会話を交わしたりしていましたが、夏が終わると少女は町へ帰っていきました。
 少女が旅立つ日、トーシャは、道ばたの木立に隠れて、こっそり馬車を見送りました。少女は気づいて、乳母の目を盗んで窓から手だけを出して振ってくれました。ひらひらと蝶のように閃いた小さな白い手の残像が、今でもトーシャの目に焼き付いています。

 ――あの子は、たぶん、今のミヤと同い年だった。綺麗な服を着て、あんなにやわらかな、あんなに白い手をしていた。自分がもっと大きければ、きっと妹を守ってやれたのに。あんな、やわらかな白い手でいさせてやれたかもしれないのに……。
 そう思って、トーシャは胸を痛めました。

 父母が死んだ時、まだ小さかった妹は、父母のことを、ろくに憶えてもいないのです。
 トーシャは、父のことも母のことも憶えています。魚がたくさん獲れて幸せだった日々のことも、父と母のそろった暖かな食卓の団欒も憶えています。でも、妹は、自分より少し後に生まれたばっかりに父の記憶がなく、母の記憶もおぼろで、物心ついてから、ほとんどずっと飢えているのです。
 そのことで、トーシャは、なんだか自分には妹に対して何か責任があるような気がしているのでした。妹に、何か負債を負っているような。
 妹の冷たい手を両手で包んでやりながら、トーシャは、海中にそそり立つワジャル岩を見あげて思うのでした。
 ――ああ、せめて自分がワジャルのように大きく強かったなら。

 この岩には、ワジャルという名の力自慢の若者が恋人に去られた嘆きのあまり岩と化したものだという言い伝えがあるのです。トーシャのお気に入りの物語です。
 それは、こんな伝説でした。

 
 ――昔、この村に、ワジャルという、大変大柄で力持ちの若者がいた。心正しい働き者のワジャルには、フィーナという花のような恋人がおり、ふたりは結婚を誓い合っていたが、フィーナは隣村の富農の娘で、彼女の親は自慢の娘を貧しい〈風使い〉などの嫁にやるのを惜しみ、ワジャルに、とても彼には用意できないだろうと思われる高い結納金をふっかけていた。
 が、ワジャルはあきらめなかった。もとから働き者の愚直で我慢強いワジャルは、高額の結納金を用意するために、頑健な身体にものを言わせて昼も夜も必死で働き続けた。ワジャルが結納金を貯めるまではと、彼と逢うことを禁じられたフィーナは、一日も早くワジャルが自分を迎えに来てくれる日を待ちつつ、自分の村でひっそりと暮らしていた。
 けれど、そんなある日、フィーナの村に旅の歌うたいがやってきた。
 歌うたいは、女のように綺麗な顔と細く長い指を持ち、きらびやかな衣装と洗練された仕草を身をつけた美しい若者だった。
 それまで、恋人のワジャルも自分の村の男たちもみなそうであるような武骨な男しか見たことがなかったフィーナには、そういう汗臭い男たちとはまったく違うほっそりとした美貌の歌うたいが、まるで清らかな夢の世界の住人のように見えて、そんな若者に、彼女は一目で恋をしてしまった。
 歌うたいが村を去る日、フィーナはこっそり家を抜け出し、彼に、自分を連れて逃げてくれと縋った。歌うたいは美しいフィーナの願いを聞き入れ、ふたりは手に手を取って村を出た。
 驚いたのは両親だ。あわてて大量の追手を差し向け、それまで邪険にしていたワジャルにも、知らせの使者をよこした。どこの馬の骨とも知れぬ旅芸人に娘を連れて逃げられるくらいなら、多少貧しかろうとなんだろうと隣村の実直な漁師のほうがまだましだと、心を変えたのだ。
 出稼ぎ先で知らせを受けたワジャルは、手にしていた鋤を投げ捨て、使者とともに猟犬のごとくフィーナを追った。
 ワジャルと、フィーナの親の差し向けた追手たちは、意外なことに、この村のはずれでふたりを見つけた。
 追いつめられたふたりは、〈送りの浜〉に逃げ込んだのだ。
 〈風使い〉たちの神聖な墓所であるこの浜への入り口は、崖に隠されて普通は見つからないような場所にあってよそ者には秘密のはずなのに、旅の歌うたいは、なぜかその入り口を知っていたらしい。
 ワジャルたちはふたりを追って浜に駆け込んだが、ふたりは、彼らの目の前で、岩陰に舫ってあった一艘の小舟に飛び乗って海に漕ぎ出てしまった。
 なぜそこにそんな小舟があったのか、誰も知らない。村の人々はこの入り江には船を舫わないし、そもそもその船は、村の漁船ではなく、金持ちが船遊びに使うような華奢で瀟洒な手漕ぎの小舟で、誰も見たことのないものだったそうだ。
 小舟は、ほっそりとした歌うたいが漕いでいるとはとても思えない飛ぶような速さで、みるみる進んでいった。
 その一艘の他に、そこに船はなかった。怒りと悲しみで狂ったようになったワジャルは、岸辺に仁王立ちして獣のように吼え猛り、足元の岩場の岩を片っ端から力任せに抱え上げては、去ってゆく船に向かって投げつけたが、岩はどれも船に届かず、巨大な水柱を上げて海に沈んだ。フィーナを乗せた船は、岩が起こす大波にぐらぐら揺られながらも、どんどん遠ざかるばかりだった。
 それを見たワジャルは、必死の形相で、遠ざかる船を追って、そのままざぶざぶと海に入っていった。が、ふたりを乗せた船の影は、すぐに岬を回って見えなくなってしまった。
 ワジャルは海の中に胸まで漬かって立ちつくし、血を吐くような声で自分を裏切った恋人の名を呼び、呼びながら我と我が胸を打っていつまでも泣き続け、そしてそのまま、その場所で、悲しみと絶望のあまり、岩になった。
 だから今でも、この入江の底には大きな岩がごろごろしているし、フィーナが去った日と同じ強い東風が吹くと、ワジャル岩は、『フィーーナァーー、フィーーナァーー』と、世にも悲しげに泣き叫ぶのだ――


 もちろん、これはただの伝説です。ワジャル岩が強風の日に哭くのは、岩の、浜からは見えない箇所に細い隙間が開いていて、そこを風が通り抜けるからです。
 けれど、〈風使い〉の男と農村の娘の恋が悲しい結末を迎えたことは、きっと、昔からいくつもあったのでしょう。トーシャの父と母のように、その恋を成就させたのは、たぶんとても珍しいことだったのでしょう。

 父が農村の娘に恋した男であったせいか、トーシャは、伝説の若者ワジャルに、幼い頃から特に親しみを持っていました。
 大きな手にまめを作ってひたすら働く武骨で屈強なワジャルは、彼の父であり兄であり、叔父たち、従兄たちであり、つまり村の男たちすべてです。この村の男たちは、みな実直で逞しく、たいていは一生この村から離れることもなく、浮ついた楽しみなど何ひとつ知らぬまま いつでも真面目に働いて、年老いて死んでゆくのです。
 きっと自分もそのように生きるのだと、トーシャは信じていました。父たちのような海の男になりたいと、ずっと、何の疑問も持たずに待ち望んでいました。早く十五になって、自分の精霊を得て船に乗りたい、そうしたら、母や妹にも、きっと少しは楽をさせてやれるのに、と。

 でも――と、トーシャはかつて、ふと思い当たったことがあります。
 精霊との契約が本当なら、なぜ〈風使い〉は、こんなにしょっちゅう海で死ぬのだろう。自分たち〈風使い〉は、〈風の王〉サワートヤルに守護されているのではなかったか――

 農村の人々が娘を〈風使い〉にやるのを嫌がるのは、彼らが〈風使い〉を蔑んでいるからだけではなく、〈風使い〉の男はしょっちゅう海で死ぬからもあるのでしょう。きっと、若くして寡婦になった娘の嘆きや苦労を見たくないのです。

 なぜ精霊たちは自分が守護しているはずの男が溺れるのを見殺しにするのかと、トーシャは一度、近所の老人に訊ねたことがあります。その老人は、年をとって漁に出られなくなった後も海を眺めて風を読むのをやめられず、日がな一日、海に面した戸口の前に椅子を出して座り込んでいたので、村の子どもたちの良い見守り手であり話し相手だったのです。

 精霊は自分の漁師を愛し過ぎた時、その男を自分たちの世界に迎えたいと思ってしまうのだと、老人は言いました。だから精霊とは、適度な距離を置いてうまく付き合わなければいけないのだと。

 ――若いものは、夢に精霊の姿を見たと言っては恋人に会えでもしたかのように喜んでいるが、それは危ういことだ。お前も、船に乗る歳になっても、精霊に入れ込みすぎてはいけないよ。船に乗れるようになったら、もう一人前なのだから、早く村の娘のだれかと恋をするといい。手を触れることも叶わぬ夢の中の乙女に恋焦がれたりなどせず、ともに暮らしを立てられて腕に抱けば温かい、しっかりものの女房を持つがいい。そうすれば、恋人が、女房が、お前をこの世につなぎとめてくれるだろう。

 そう語る老人に、トーシャは問い返したのでした。

 ――でも、恋人がいても結婚していても海で死ぬ人はいっぱいいるよ。ぼくの父さんもそうだった。そういう人は、恋人や女房より精霊のほうがいいと思っていたの?

 それを聞いた老人は、そういう男はあまりにいい男すぎて精霊が見境を無くしてしまったのさ、と笑いました。姿が良すぎたか、心が優しすぎたかだ。だから俺のような根性曲がりの醜男は年をとって引退するまで生き延びたのさ。
 そう言って老人は、歯のない口を開けて大笑いしたものです。

 そんなのは嘘だと思う、海で死ぬのに、顔や性格の良し悪しは関係ない――トーシャがそう言うと、老人は笑いを収めて、まあな、と頷きました。結局は運だよ、運、と。
 ぼうずはなかなか男前だから、精霊に惚れられすぎないように気をつけろよ。
 そう言って、老人はトーシャの頭を撫でてくれました。
 その老人も、今は、父や母と同じく、もう精霊の島へ行ってしまったのですが。


 そんな、とりとめのない思い出ばかりが、トーシャの心をいくつも過っていきました。
 寒さと疲れで朦朧としたトーシャには、もう、何かをちゃんと考える気力もなく、ただ、ぼんやりと、浮かび上がっては消えてゆく思い出に心を任せるばかりでした。
 その時、隣でいつのまにか眠ってしまったかと思っていた妹が、ふいに空を指さしてぽつりと言いました。
「兄ちゃん、見て。あそこにお船が……」
「船?」
 トーシャは驚いて空を見上げましたが、そこには、たしかに小舟のような形をした、上弦の半月が浮かんでいるだけでした。
「うん、お船。お空に浮かんでる。お月様みたく。ほら、どんどん降りてくる」
 月はだいぶ空低くまで傾いて、そういえば、まるで空から降りてきた小舟が水平線に着水しようとしているようにも見えます。
(やっぱりミヤは、あの月を見ているんだ。空腹で目が霞んで、月が船のように見えているのだろうか。可哀想に……)と、トーシャは思いました。
「ミヤ、あれは月だよ」
 トーシャが言い聞かせると、ミヤは、空の二点を順に指さして言い張しました。
「違うってば。お月様は、あっちにあるでしょ。お船は、こっち。ほら、三日月みたいな形の小さな船よ。半分、透き通ってる。だから兄ちゃんには見えないのね。あっ、人が乗ってる。それともあれは、精霊かしら」
 トーシャには、ミヤが二度目に指さした場所には、何も見えませんでした。
 やがてミヤが、落胆の声をあげました。
「……消えちゃった」
「ほらみろ、やっぱり見間違いだったんだよ」
 トーシャの言葉に、ミヤはかぶりを振りました。
「違うもん、絶対に見たもん。とっても不思議で、とっても綺麗だった……」

 妹は腹が空き過ぎて幻覚を見たんだろうか、と、トーシャは心配しました。大人でも、空腹や孤独の極限状態――たとえば、船が流されて何日も一人で漂流した時など――では、そういうことがままあると聞きます。
 それでなくとも、ミヤには、昔からそういう、ちょっとおかしなところがありました。
 ミヤは、ときどき、変なことを言うことがあるのです。他の人に見えないものを見たと言い張ったり、そこに無いものを『ある』と言って、触ったり持ち歩くふりをしていたり。
 小さな子供はよく、そういう空想やごっこ遊びをするけれど、ミヤのそれは、少々常軌を逸しているように思えました。ミヤは、時々、なかば自分の空想の中に住んでいるかのように見えたのです。

 トーシャは以前、ミヤが目に見えない空想の食べ物をあまりにも本当らしく食べるふりをしているのを見て、なぜだかカッとして、そんなことはやめろと、口元に運ばれるミヤの手を自分の手で払いのけたことがあります。
 ミヤは、まるで本当に手の中の食べ物を叩き落されたかのような顔をしました。
 その顔を見たら、トーシャの心は後悔と罪悪感でいっぱいになりました。その頃はもう、ふたりともいつもお腹を空かせていたから、ミヤは空想で空腹を紛らわせようとしていたのだろうと、そんなささやかな慰めをいくら無意味なこととはいえ邪魔しては可哀想だったと思ったのです。
 お腹を空かせた妹が哀れで、トーシャはミヤを抱きしめて泣きました。ごめんね、ごめんね、兄ちゃんが大きくなったら、そんなうそっこの食べ物なんか食べなくてもいいように、たくさん魚を獲ってきて腹いっぱい食べさせてやるから、と。

 後で、トーシャは、なんで自分があの時あんなにカッとしたのかと考えました。
 一つは、ミヤがそんなおかしなふるまいをすることで、みんなから変に思われたりバカにされたりするのが嫌だったからです。
 ミヤは、本当は、同じ年の子供たちと比べても賢い子なのに、そういう幼稚なごっこ遊びのせいで、歳の割に幼いとか頭が弱いと思われがちでした。トーシャは、そんなミヤを、周囲の目から守ってやりたかったのです。だから、そんな兄の気持ちも知らずにまた奇矯なふるまいをするミヤに、筋違いとは知りつつ、一瞬、腹が立ったのです。
 もう一つは、心のどこかで、ミヤのふるまいを当て付けがましいと感じてしまったからでしょう。その頃、父は既に亡く、トーシャには、本当なら父にかわって漁をして一家を支えなければいけないはずの自分がまだ子供で船に乗れず、母や妹のために魚を獲ってきてやることができずにいるという自責の念がありました。だから、ミヤのふるまいを、そんなことはないと知りつつ自分への当て付けのように感じてしまったのです。本当に腹を立てたのは、ミヤに対してではありません。本当は、お腹を空かせた妹にうそっこ遊びではない本物の食べ物を食べさせてやれない自分に腹が立ったのでした。
 そして、もう一つ。
 たぶん、トーシャは怖かったのです。
 ミヤが目の前のものを食べるふりをしている姿が、あまりにも真に迫っていたので、トーシャは、本当は妹の手の中には何も無いのだと気づく前に、一瞬、本当に妹が何か食べていると――何か食べている妹が羨ましい、自分も食べたいと思ってしまったのです。しかも、本当に一瞬だけれど、トーシャにも、そこに食べ物が見えたような気さえしたのです。それが、なぜだか怖かったのでした。

 ――ミヤはどうしてこんなふうなのだろう。どうして他の子供と違うんだろう。ミヤはこんな風だから、ぼくがしっかりして、ミヤを守ってあげなくちゃいけないんだ。守ってあげたかったんだ。でも、ぼくも、もう疲れたんだ……。
 トーシャはもう、ミヤの虚言をたしなめる気力もなく、ふたりはそのまま黙り込みました。


 その時、突然、笛の音が響きました。
 ふたりは驚いてあたりを見回しました。浜辺には、ふたりの他に誰もいません。
 と、今度は、どこか高いところから、声が降ってきました。
「やあ。いい月夜だね」
 よく通る、明るい声でした。若い男の人の声のように思えます。
 声のほうを追って目を上げたトーシャは、海中にそそり立つワジャル岩の、巨人の肩にあたるところに背の高い人影が立っているのに気がつきました。同時にミヤもその人を見つけ、呆気にとられたふたりは、ぽかんと口を開けて人影を見上げました。

 あんなところに、人がいるわけがありません。あの大岩は、すぐ近くに見えるけれど、海の中に立っているのです。あそこまで伝って歩けるような岩場もないし、周囲には大小の岩がごつごつと顔を出して、その間で水流が渦を巻いているから小舟も付けられないし、泳いで寄り付くこともできないはずの場所です。
 それなのに、見知らぬ若い男が、その長身に悠然と月明かりを浴びて、岩の上に立っているのです。

 それは、不思議な人でした。その人は見上げるほど高い岩の上にいるのに、なぜかはっきりと姿形が見て取れました。夜目にも鮮やかな深紅のマントをまとったその人は、とても背が高く、とても痩せていて、ちょっと女の人かと思うような、とても綺麗な顔をしています。

 本当に綺麗な人だ。男の人で綺麗な人がいるなんて、信じられない。男の人で綺麗な人なんて、今まで見たことがない――。

 トーシャは不思議な男の姿に目を奪われて、誰何することも忘れ、ただまじまじと見つめていました。

 この人は、もしかして、人間ではなく精霊なのだろうか。精霊がこんなふうに人間の姿で現れることが、もしかするとあり得るのだろうか――。

 そう思ったのは、その男の人が、ただ綺麗なだけではなく、何かすごく特別な気配をまとっている気がしたからです。
 ちゃんと目に見えるのだけれど、なぜか半分透き通っているかのような、不思議な空気が、その人にはありました。
 そして、その人には、何か、顔かたちの美しさ以上に人を魅了する力があるように思えました。
 そんな力を持つものは、きっと人間ではありません。
 精霊は乙女の姿をしているとみんなが言っているけれど、考えてみれば、男の精霊だって、いて良いはずです。それに、自分が守護している若い漁師に恋してしまった精霊が人間の娘に成り済ましてその男と契ったという昔話もあることだから、精霊は、そうしようと思えば目に見えるようになることも、人間と同じ大きさになることもできるのでしょう。

 でも、その人は、よく見れば足にはごく普通の頑丈そうな靴を履いていて、ワジャル岩の肩の上に立ち、顔の部分に肘をついて、行儀悪くもたれかかっているのでした。精霊が、あんなに人間臭い、行儀の悪い仕草をするものでしょうか。
 けれどその、怠惰そうで投げやりでしどけない仕草は、にもかかわらずどこか典雅でもありました。

 男の人は長い脚を交差させ、軽く膝を曲げて持ち上げた片足を退屈そうにぶらぶらさせており、その靴の踵が、ときおり、ワジャルの顎のあたりにぶつかります。
 それに気づいたトーシャは、とっさに悲鳴を上げていました。
「ワジャルを蹴らないで!」

 なぜ自分がそんなことを言い出さねばならないのか、自分でもわかりませんでした。こんな不思議な人が、こんな不思議な現れ方をして、普通ならありえない場所に立っているというのに、なぜ、よりによって第一声で、そんなどうでもいいようなことを言いださねばならないのか――。
 けれど、そんな、自分でも思いがけないことを、とっさに言ってしまったのです。

 男の人は、面白がるような視線をトーシャに投げて言いました。決して大声を出している感じではないのだけれど、その伸びやかで明瞭な声は、距離と潮騒を隔てても、不思議なほどはっきりと聞き取れました。
「ああ? こんなのはただの岩だよ。人間がこんなに大きいわけないだろ」

 それはそうです。いくらワジャルが大柄な男だったとしても、人間がそのまま変化したにしては、ワジャル岩は大きすぎます。ワジャルは逞しく力自慢なだけのただの人間だったはずなのに、この岩はあきらかに巨人の大きさですから。だいたい、本当に人間が石になったりするわけがありません。そんなのは、ただのお話です。それくらいは、トーシャにだってわかっています。
 けれど、それでもやはり、深い共感を覚えていた昔話の主人公ワジャルの姿をした岩が――海の中にあって切り立っているので誰も登ったりしないはずの特別な岩が、見知らぬよそものに足蹴にされているのは、気になりました。こんな不思議な出来事の中では、どうでもいいことなのに……。

 でも、それ以上は何も言えずに、トーシャはまた、感嘆の念を抑えきれずに男の人に見とれてしまいました。
 その人から、目が離せませんでした。あまりに不思議で、あまりに美しくて、まるで、奇跡のようで。

 男の人は、ふっと妖しい微笑を浮かべて身を起こし、トーシャを見下ろしてきました。ひたと目が合っているのが、こんなに遠いのに、はっきりとわかりました。
 そうして、唐突にこう言いました。
「教えてやろうか。むかしむかし、ワジャルの恋人を連れ去った旅の歌うたいというのは、実は私だよ」

 うそに決まっている、伝説が本当だったとしても、それは何十年も、もしかすると何百年も前のことのはずだ……。
 そう思いつつ、トーシャは、もしかすると本当にそうかもしれないと想像せずにはいられませんでした。働き者のワジャルのもとから美しい許婚を連れ去った蝶々のような歌うたいというのは、たしかにこういう男だったのかもしれない、と。
 岩の上に立つ男の人の、見たこともないような色鮮やかなマント。力仕事など一度もしたことのないようなほっそりした身体に、夜目にも白く細い指。その手の中の、瀟洒な銀の笛。長いまつげ、涼やかな目もと、細く通った鼻筋、額に垂れかかる茶色い癖毛。そして、普通にしゃべっているだけなのにまるで音楽のように聞こえる甘やかな声、華やかで軽やかな気配、何気ない端々まで気取った仕草……。どこを取っても、物語の中の美貌の歌うたいに似つかわしく思えたのでした。

 男の人は、トーシャの目をじっと覗き込みながら、もう一度、悪戯っぽくニッと口角を釣り上げて、ワジャルの顔をわざと足蹴にしてみせました。その目の中に、猫のような残酷さが瞬間ひらめくのを、見たように思いました。そんな気紛れな意地悪も、その人の妖しい美しさや不思議さにはひどく似つかわしく思われて、あっけにとられるほど魅力的で、なんとなく気圧されたトーシャは、ただぽかんとその人を見ていました。
 一途で誠実な働き者の男の恋人を無造作に横取りして、さっさと連れて逃げてしまうような身勝手な色男にふさわしい、投げやりで無頓着な酷薄さが、その人には妙に似合っていました。そういう男だからよけい魅力的だったのかもしれない――と、トーシャは今まで全く理解できなかったフィーナの気持ちが少しわかったような気がしました。

 男の人は、前触れもなく、すいと動いて、ごく無造作に岩から飛び降りました。ほんの階段数段分を飛び降りるような、いとも気楽な軽やかさで。
 トーシャは驚いて声をあげかけました。岩の真下は渦巻く海です。
 けれど、悲鳴は、喉から出る前に凍りつきました。
 飛び降りたと思ったとたん、男の人は、もう、ふたりの目の前に、当たり前のようにすとんと降り立っていたのです。ワジャル岩からこの浜までの距離は、人が飛び越えられるほど近くはないはずなのに、まるで、その岩が実は目の前にあって、膝ほどの高さしかなくて、そこからひょいと飛び降りただけであるかのように。
 男の人の身体の回りで風をはらんでふわりと広がった長いマントが、遅れて落ちてきて背中に垂れました。
 マントの下から現れた細身の身体は、とても奇妙な服を纏っていました。
 マントとおなじ真っ赤な袖なし胴着は派手派手しい金糸銀糸の刺繍で飾られ、その下のシャツは空色、妙にひらひらした袖口には金糸の縁取り。腰は鮮やかな黄色の飾り帯を結んで片側に長く垂らし、そしてズボンは、紫と橙と緑、その他ありとあらゆるけばけばしい色のまだら模様です。
 それは、夜目にも色鮮やかな、極彩色の競演でした。こんな珍妙で奇天烈で楽しげな衣装は、見たことがありません。
 ふたりは、悲鳴をあげかけた口をそのままぽかんと開けっぱなして、男の人の不思議な姿を見あげていました。
 男の人は、そんなふたりに、にっこりと笑いかけました。
 さっき岩の上で見せた、どこか残酷さを秘めたような笑みとは違う、ごく気さくで、当たり前のように親しげな笑顔で、そんなふうに笑うと、同じ人間と思えなかったやけに綺麗な顔が、急に、親切そうで親しみやすい普通のお兄さんの顔に見えました。近くで見ると、その人の鼻の上のあたりには、うっすらとソバカスが浮いていたりもするのでした。
 ソバカスがあったって相変わらず綺麗な顔には違いないし、その上いかにも怪しげな風体ではあるけれど、でも、もう、精霊のようには見えません。まるで、地面に足が付いたとたん、半分透き通って重さがないように見えていたその人が急に手で触れられる普通の人になったかのようです。
 そうしてみると、それまで遠くにいたのにあんなによく見え、会話ができていたことが、あらためて不思議に思えました。

 こんなけばけばしい服を着ているということは、やっぱり、この人も、伝説の中の歌うたいと同じ旅芸人なのだろうか。衣装は道化のようだけれど、笛を持っているから楽師なのかもしれない。こんなに綺麗な顔をしているから、二枚目役者なのかもしれない。それにしても綺麗な人だ。このへんの男たちとは全く違う。行ったこともない遠い都会には、こういうほっそりした綺麗な男の人が、普通にいるのだろうか――。

 そんなことを思いながらトーシャが黙っていると、男の人は、からかうようにくすくすと笑って言いました。
「今のは嘘だよ、当たり前だろ」
 すっかり心を奪われてぼうっとしていたので、とっさに『今の』というのが何のことだかわかりませんでしたが、一瞬遅れて、直前の『ワジャルの恋人を連れ去ったのは自分だ』という告白のことだと気づきました。

 男の人は、自分がひどく奇妙な現れ方をしたことなど全く無視して、まるでそこらの道ばたで行き会った知り合い同士であるかのように、何気なく尋ねてきました。
「ところで君たち、お腹が空いてるんじゃないかい?」
 トーシャはとっさに、
「空いてないよ!」と答えて、男の人を睨みつけました。
 本当はとてもお腹が空いているのに、なぜそんなことを言ってしまったのか、なぜ何も悪いことを言ったわけでもない相手を睨んでいるのか、自分でもよくわかりませんでした。お腹が空いているかと聞いて悪いことなんか、何もないはずなのに。
 でも、トーシャは、この、一度もお腹を空かせたことなんかなさそうな、華やかな衣装の綺麗な人に、自分たちが腹を空かせてへたり込んでいたのだなどと、なぜか思われたくなかったのです。
 男の人はトーシャの生意気な態度など意にも介さない様子で、のんきそうに続けました。
「そうかい。残念だなあ。私は小腹が空いてるから、今からここで弁当でもと思っているんだ。一人で食べるのもつまらないから、一緒に食べてくれる連れが欲しいと思ったんだが。良かったら、軽い夜食に付き合ってくれないか。お腹が空いてなくても、ちょっとしたものくらい食べられるだろう?」
 そう言いながら男の人は、二人の座っている岩に歩み寄り、
「ちょっとそこに座らせてもらってもいいかな?」と、強引にふたりの間に割り込んで、腰を下ろしてしまいました。
 それから、どこからともなく油紙の包みを取り出し、いきなり膝の上で包みを開き始めました。
 とたんに、香ばしいパンと油の匂いがあたりに広がりました。
 油紙の中から現れたのは、雲のようにふわふわとした白いパンの大きな塊でした。あんなに白くて柔らかそうなパンは、これまで、見たこともありません。しかも、そのパンには、揚げた魚と、今さっき朝露の輝く畑で摘んできたかのような、みずみずしく柔らかそうな青菜が挟んであるのです。
 男の人がどこからそれを取り出したのだろうといぶかることも忘れて、トーシャの目は、その豪華な食べ物に釘付けになりました。

 ああ、きっとフリカ魚だ。小麦の粉をはたいてカラリと揚げた熱々のところに、ミージの種で風味を付けたちょっぴり辛いタレを染み込ませた――

 トーシャは思わず唾を飲み込みました。
 フリカ魚の揚げ物は、昔、フリカの季節に母さんがよく作ってくれた、もう何年も食べていないトーシャの大好物なのです。
 おぼろな記憶の中の母の手料理の味が、漂ってくる香りにつられて口の中に広がる気がしました。
 もう、男の人が手に持っているパンから、目を逸らすことができません。油紙の中には、その白いパンが、どうやら、ちょうど、もう二つ入っているように見えます……。

 気づくと、トーシャは、固唾を飲んで、食い入るようにパンを見ているのでした。
 その眼差しに気づいたらしい男の人が、包みの中のパンをひとつ手に取り、差し出してきました。
「ひとつ食べるかい?」
 ほとんど手の中に押しこむように渡されたそれを、トーシャは思わず受け取っていました。
「ほら、君も」
 そう言って、男の人は、ミヤにもパンを差し出しました。
 見ればミヤは、パンには目もくれずに、魅入られたように男の人の横顔を見つめていたのでした。
 こんな小さな子でも、女の子はみんな、こういう綺麗な男の人にはこんなふうに見とれてしまうものなんだろうか……と、トーシャは上の空で考えました。
 そんなミヤも、さすがに目の前にパンをつきつけられれば、そちらに目を移し、反射的にパンを受け取りました。
 男の人は、膝の上の包みから最後のひとつのパンを取り上げ、綺麗な顔に似合わない無造作さで躊躇なく大きな口を開けて、がぶりとパンにかぶりつきました。その気取りのない仕草は、村の男の人たちと、何も変わりありません。
 トーシャが呆然とそれを眺めていると、男の人は、唇の端についたタレを舌先でぺろりと舐めとって、
「うん、旨い」と、にっこり笑いました。
「どうしたんだい、君たちもお食べよ」
 男の人に顔を覗き込まれ、優しく促されて、ミヤがおずおずとパンにかじりついた途端、その瞳が大きく見開かれました。そのまま、もぐもぐと咀嚼してパンを飲み込むと、それはそれは幸せそうに笑いました。
「美味しい……!」
 ミヤは栗鼠のように両手でパンを抱えこんで、夢中で食べ続けます。

 それは美味しいだろう、美味しいに決まってる……。トーシャは、お母さんの作ってくれた揚げフリカの味を思い描きました。
 ミヤにとっては、揚げフリカは、初めて食べるごちそうなのかもしれません。もしずっと前に食べたことがあったとしても、とても小さい頃のことで、もう覚えていないでしょうから。
 妹がパンを噛むたびに、揚げた魚の香ばしい香りが漂って、それを嗅ぐと口の中にまた唾が湧いてきて、トーシャも、もう我慢出来ずに、自分もパンにかぶりつきました。食べたこともない、夢のようにふわふわと柔らかい白いパンのほのかな甘みと、懐かしい揚げフリカの素朴な香ばしさが口いっぱいに広がり、その後を、柔らかな青菜の少しぴりっとする風味と爽やかな香りが追ってきました。
 あとはもう、夢中でした。揚げフリカのタレの染みたパンの柔らかさと、噛み砕かれる小骨の香ばしさ。飢えた身体に染み渡るような重たく甘い油の風味。トーシャは何もかも忘れて、一心不乱に食べ続けました。
 ずっとお腹を空かせていたために胃が小さくなっていたのでしょうか、手に持てばふわりと軽かったはずのそのパンは、いくら食べても食べ終わらないほど食べでがある気がして、やっと食べ終わった時には、もう何も入らないというくらい、すっかりお腹がいっぱいになっていました。
 食べ終わってタレと油のついた指を舐めていると、男の人が、筒に入った飲み物を手渡してくれました。たった今、どこか森の奥の泉から汲んだばかりのような、澄んだ冷たい水でした。
 目が覚めるように冷たい水だったけれど、お腹が膨らんだトーシャは、眠くなってきました。ただでさえ、朝の早い漁師の村の子供としては普段ならとっくに寝ているはずの夜半過ぎです。しかも、これまで長い道のりをずっと歩き続けてきた後で、疲れ果ててなすすべもなく空腹を抱えたままここに座りこんでいたのですから。

 いつのまにか、こっくりと首を垂れてしまったようでした。
 そんなトーシャの耳に、優しい声がそっと忍びこんできました。
「よしよし、疲れたんだね、トーシャ。君がどんなに頑張ってきたか、私は知っているよ。君はよくやった。小さな妹を守って、ここまで頑張ってきたんだ。君はお兄ちゃんだからね。本当に立派なお兄ちゃんだ。でも、君だってまだ子供なんだから、こんなに頑張ったら疲れて当たり前だろう……」

 半ば夢うつつで、びろうどのようなその声を聞きながら、なんでこの人は自分の名前を知っているのだろう、と思いました。でも、こんな奇妙で謎めいた特別な人ならば、自分の名前くらい知っていても今さら不思議はないような気もしました。
 そして、そういえば、この人は自分の名前を知っているけれど自分はこの人の名前を知らないのだとふいに思い当たって、今にも眠りこみそうになるのを我慢して何とか口を開け、尋ねて見ました。
「……おじさん、なんて名前?」
「おじさんはないだろう。お兄さんと言っておくれよ」
 そう言って軽く笑いながら、その人は名前を教えてくれました。
「私はエルドローイ」

 なんて不思議な、綺麗な、立派な名前でしょう。どこか昔風の響きで、まるで、昔々の物語の王様の宮殿に居並ぶ英雄たち賢臣たち、偉大な詩人や楽師たちの名前のようです。この辺の村には、そんな仰々しい名前の人は、一人もいません。みんな、トーシャとかミヤとかリドとかビエルとか、そういう、短く平凡な名前を持っています。この人は、やっぱり、この辺の人ではないのでしょう。華やかな都には、こんな美しい、立派な名前を持った人も大勢いるのでしょうか……。

 そんなことを思いながら、半分眠りかけていると、男の人は言いました。
「ほらほら、トーシャもミヤも、上のまぶたと下の、まぶたがくっつきそうだ。眠かったら寝てもいいよ」
 重たくなったまぶたを無理やり上げて隣を見れば、ミヤももうパンを食べ終わって、やっぱり眠そうに、うっとりと男の人にもたれているのでした。
 男の人が自分のマントをふたりの上に広げて、包みこんでくれました。そうすると、たったマント一枚のおかげとは思えないほど、とても暖かくなりました。まるで、暖かな部屋の中にいるように。……そう、竈の上で美味しいスープの入った鍋がことこと煮えていて、スープのいい匂いがする、暖かく安全で幸せな部屋――父と母がまだ生きていて海では魚がたくさん獲れていたあの頃の、懐かしい我が家にいるような……。

 男の人が、大きな手で頭を撫でてくれているのを感じました。自分はもう大きいのに、しかも全然知らないよその人に頭を撫でられるなんて恥ずかしい……と思いながらも、あんまり眠くて、うとうとと気持ちが良くて、抗議する気にはなれませんでした。
「さて、寝ながらでいいから、ちょっと話を聞いておくれ」
 頭の上で男の人が言い、心地良い声で何か話しはじめました。
 寝ながら話なんて聞けるわけがない、話があるのなら起きて聞いていなくちゃ、とは思いましたが、もう、今さら目を開けたり、遠くなりかけた意識を引き戻そうとするのはおっくうで、トーシャはそのまま、曖昧な眠りの中に落ちてゆきました。

 眠りの中でも、男の人の声が聞こえていました。
 声は、不思議な物語を語っていました。
 遠い遠い昔、こことは別の世界で吟遊詩人であった彼、エルドローイが体験したという、それは不思議な物語を――。




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