〜司書子さんとタンテイさん〜





第二話 ジギタリス殺犬未遂事件

(8)


 夕方、訪ねてきた反田さんにケーキをお出しして、正造さんがフィナンシェをおまけしてくれた話をすると、反田さんは、まいったなあ、と笑い、
「で、司書子さん、よろしくお願いされてくれたんですか」と、楽しそうに言いました。
「はい」
「おお、嬉しいですね。では、今後ともよろしくお願いします」
「あ、こちらこそ……」
 わたしと反田さんは、ケーキのお皿とアイスティーのグラスを間に挟んで、深々と頭を下げ合いました。それから、自分たちのそんな姿がなんだかおかしくなって、わたしが小さく吹き出すと、反田さんも吹き出しました。

 ケーキは、反田さんが、全部半分こにしましょうと言ってくださって。
「司書子さん、実は全種類食べたいんでしょ?」と。
 見透かされてしまいました。食いしん坊がバレて、ちょっと恥ずかしいです。
「でも、一人で二つも三つも食えないですもんね。半分こすれば二人とも全種類食べられますよ。おお、俺って頭良いなあ!」
 本当に。なんて良い思いつきでしょう。だけど、チーズケーキの上に一つだけ乗ってるスミレの砂糖漬けはどうしましょう……と思っていると、それも反田さんに見透かされたようで、
「その、上に載ってる何か紫のは、司書子さん食べていいですよ」と、にこやかに言ってくださいました。反田さん、優しいです。
 スミレの砂糖漬けも、粉糖と同じで、別にそれ自体が特にすごく美味しいというものではないのですが、やっぱり、載ってると何か嬉しいし、なんだか食べたいんですよね。

 そのかわり、反田さんには、それぞれのケーキの少し大きめに切った方をあげました。三つ目のケーキ、ミルフィーユとレアチーズのどっちを買うかでずいぶん迷ったんですが、たまたまレアチーズにしておいてラッキーでした。ミルフィーユは半分に切り分け難いですから。

 半分こしたケーキを、三種類。それに、きんきんに冷やしたアイスティー。アイスティーには、おもてなし用に少し気取って、庭で摘んだミントの葉っぱを飾りました。
 ゆっくりと暮れてゆく夏の夕方、蚊取り線香がくゆる縁側には、さっき庭に水を撒いたこともあって少し涼しい風も立ちはじめました。食べたくて選んだケーキが三種類、全部食べられて幸せです。この際、夕ごはんがあまり食べられなくなっても構いません。おかずが残ったら、明日のお弁当に持っていけますから。フィナンシェは日持ちがするので、ひとつは反田さんに持って帰ってもらい、もうひとつは明日にでも、おやつに食べることにしましょう。

 ケーキを食べながら、反田さんに、今日の顛末を報告しました。
 話しながら、戦争に奪われたおじいさんの青春を思って、つい涙ぐみかけると、反田さんが、
「ほら、まただ」と、優しく言いました。「ほんとにメソ子さんだなあ」と。
 それを聞いて、わたしは、ちょっと泣き笑いになりました。
「うちのお祖母ちゃん――祖母は、ミサ子っていうんですけど、小さいころ、やっぱり、メソ子って呼ばれていたんですって。おじいさんが言ってました」

 そう、少女時代の祖母は、男勝りの活発な性格で、はきはきしたしっかりものだったけど、その反面、実は意外と泣き虫で、小さいころは近所の男の子たちにメソ子とからかわれたりしていたらしいのです。メソ子は、わたしだけじゃなかったのですね。祖母とわたしが同じあだ名で呼ばれたことがあるなんて、なんか、ちょっと嬉しいです。
 あの、いつも泰然と微笑んでいた祖母が、かつてはそんなに泣き虫だったのなら、わたしだって、いつか祖母のように、強くてやさしい、大きな人になれるのでしょうか――。
 いつか古い写真で見たおかっぱ頭の小さなミサ子ちゃんが、心の中で、笑ってうなずいてくれたような気がしました。

「そっかあ、司書子さんの泣き虫はおばあちゃんからの遺伝だったのか。じゃあ、なおさら、しょうがないよね」と、反田さんは目尻を下げて、甘やかすように微笑みました。
「それにしても、木原んちのじいさんと司書子さんのお祖母ちゃんに、そんな過去があったなんてね……」
「ねえ」
「俺、木原とは中学の頃から友達だし、家にじいさんばあさんがいるのは知ってたけど、じいさんが戦争行ってたなんて知らなかったなあ」
「おじいさん、ご家族にも戦争の話は一切しなかったそうですから、木原さんも詳しいことは知らなかったんじゃないでしょうか。知っていたって、たまたまきっかけがなければ、わざわざ友達にそんな話はしないでしょうし」
「ですよね。俺も木原も生まれる前の話なんだから」
「昔の話って、たまたまきっかけがなければ話題に昇らないままだったりしますよね。そんなわけで、おじいさんやおばあさんから、いろいろお話を聞けて、祖母の若い頃のことも聞けて、良かったです。それに、とっても素敵なご夫婦でした……。
 おじいさん、バアサンが怖いからこのことは黙っててくれって笑ってたけど、本当は、怖いからじゃなくて、奥様を大切に思っていて、その心を傷つけたくないから、この話を奥様の耳には入れたくなかったんですよね。そして、奥様は、全部知ってるけど、おじいさんのために、知らないことにしてあげているんですよね。お互いを思い遣りあっているのですね。
 ……でも、それが、ちょっと不思議でもあったんです。おじいさんは、奥様をとても愛していて、大切に思っていらっしゃるのに、うちの祖母のことも、ずっと忘れられずにいたんですよね。何十年も心に秘め続けて……。そういうことって、あるんでしょうか? 一人の人を想い続けながら、別の人も愛するなんて。わたしにはよくわかりません。男の人には、そういうことができるんですか? それとも、女の人でも、そういうことってあるんでしょうか」
「さあ……。俺は女にはなったことがないから、よくわからないですね」
 しれっと言われてしまいました。それはそうですよね。ごもっともです……。
 なんとなく、わたしより格段に人生の経験値が高そうで、わたしと違って人心の機微に敏い反田さんなら、人の心のことは何でもわかっていそうな気がしていましたが、いくら反田さんでも、さすがに、女性になったことはないですよね……。
「そ、そうですよね……」と、思わず口ごもったわたしを見て、反田さんは笑いました。
「でも、想像ですけどね、あるんじゃないかな。男とか女とか関係なく。たとえば司書子さんのお祖母ちゃんだって、亡くなった旦那さんをとても愛していたとしても、それはそれとして、若き日の正一さんの面影もずっと大切に心に秘めていた、なんてこともあるかもしれませんよ」

 そう言われて、突然、わたしにジギタリスの花言葉を教えてくれた時の祖母の言葉を思い出しました。
 ある日、夏の庭で、花盛りのジギタリスの前に佇んで、祖母は幼いわたしに、「この花にはね、思い出があるの」と言ったのです。
「どんな思い出かは、内緒よ」
 そう言いながら遠くを見やった眼差しを、不思議な微笑みを、その時の空の色や風の温度と一緒に、今、思い出しました。
 あの時、祖母は、正一さんのことを思い出していたのでしょうか……。

 反田さんは、わたしの様子に、思い当たることがあったと察したのでしょうか。小さくうなずいて続けました。
「あるいは、もっと他の人の面影もね」

 そういえば、小さいころ、ご近所の方が祖母について『恋多き人だったから……』と、何かの拍子にふと漏らしたことがありました。そのときはわたしも子供で、お年寄りはみんな生まれた時から年寄りだったような気がしていたので、そう言われてもピンと来なかったのですが、だからこそ、なんだか不思議な感じがして、かえって印象に残っていました。
 そうですよね、祖母にだって若い頃はあって、内気なわたしと違って社交的な性格だから、いろんな男性との出会いがあっただろうし、その中には、恋に発展した出会いが複数あったとしても、全く不思議はありません。

 そういえば、祖母と祖父がどういう経緯で知り合ったのか、お見合いだったのか恋愛結婚だったのかも、わたしは知らないのです。
 祖父は、父がまだ子供の頃に亡くなっているので、わたしは今まで、祖母と祖父の仲がどうだったかなど考えたこともありませんでした。でも、祖母はずっと、仏壇の祖父の写真の前に好物を供え続け、毎日お線香を上げて手を合わせていました。時には、声は出さずに祖父の遺影に話しかけているのだなと思われる時もありました。だから、普通に仲の良い夫婦だったんだろうとは思いますが……。
 でも、ケーキ屋さんの老夫婦のように、普通に仲の良い、愛しあう夫婦でも、どちらかに、あるいは両方に、別の忘れられない人がいることは、あるらしいですものね。祖母にだって、そういうことはあったのかもしれません。

「思うにね、そういうのって、カテゴリーが違うんじゃないかな?」
 反田さんが、穏やかに言いました。なんとなく、子供に教える先生みたいな口調で。
「は? カテゴリー、ですか……?」
「そう。今現在隣にいて愛している人、大切に思っている人と、思い出の中で輝いている人っていうのは、カテゴリーが違うんですよ。カテゴリーが違うから競合しないんです。だから、ずっと両方大切にしていられるんだと思いますよ」
「わたしにはまだよくわかりません……」
「そのうちわかりますよ、きっと。というか、わかるようになってくれるといいなと思います」

 そうですよね、わたしはいい年ですが、自分でも、自分がとても未熟な人間だという自覚があって、人間について、世の中について、まだまだ、わからないことがとっても多いのです。人見知りの引っ込み思案で、部屋で本ばかり読んでいて、物語の登場人物たちとは親しんでいても本物の人間と深く接することが少なかったからでしょうか。同じくらいの年の他の人たちに比べて、人生の経験値が、とても低そうな気がします。特に恋愛については、物語の中では人一倍見てきたはずですが、何しろほとんど――というか、ほぼ全く実体験がないので、わからないことだらけです。
 でも、今回のようにいろんな方と知り合い、接し、お話を伺っていれば、そういうことも、いつか、わかるようになるのかもしれません。祖母くらいの年になるまでには……。

 さしあたっての一番手近な人生の教材といえば、今、目の前にいる反田さんなので、反田さんのことをもっと勉強してみると良いかもと思って、さっき思いついたことをひとつ聞いてみました。
「反田さんにも、そういう、忘れられない方がいたりするんですか?」
「いますよぉ。スズラン幼稚園のゆうこ先生!」
 そのお名前は前に聞いたような気がします。初恋の人だとか?
「俺、大きくなったら結婚してくださいってプロポーズしたんですけど、先生はもう結婚してるからダメって、すげなく断られちゃいましてね。人生初失恋ですよ。まるっきり夢も希望もないですよ。今にして思えば、相手はいたいけな園児なんだから、そんな真正面から身も蓋もなくきっぱり断らないで、もっと別の言い方で、やさしくあしらってくれても良かったのにねえ。もしかして、ゆうこ先生、今思えば司書子さんタイプだったのかなあ」
「は?」
 どこがでしょう?
 意味がわからなくてぽかんとすると、反田さんは言いました。
「司書子さんだったら、もし結婚してて、で、幼稚園の先生やってて園児にプロポーズされたら、そんなこと言いそうじゃないですか」
 ……たしかに。たぶん、わたし、そう言います。その状況をちょっと想像してみましたけど、他の言い方、何も思いつきませんもの。幼稚園児向けの夢も希望もある優しいプロポーズの断り方って、どんなのでしょう。わたしには想像もつきません。わたしには幼稚園の先生は向きませんね、きっと。それを言えば、児童室のお姉さんも、実はあまり向いていないんでしょうけど。
「……はい、たぶん言います……」と認めると、反田さんはくすくすと笑いました。
「でしょ? まあ、そういう、たまにナチュラルに酷いところが、また良いんですけどね! なんか、意外と癖になりますね!」
 反田さん、爽やかに言い放ちましたが、『酷いところが良い』って、ゆうこ先生のことでしょうか。変わった趣味の幼稚園児ですね……。

 反田さんはにこにこと続けます。
「でね、そんなに手酷く振られたにもかかわらず、俺の心の中で、あの頃のゆうこ先生の笑顔っていうのは、今でも眩しく輝いてるわけですよ。ゆうこ先生、今思えば当時でもトシはそこそこいってたような気がするから、今じゃヘタすると六十過ぎてて、もう孫がいたっておかしくないんだけど、それとは関係なく、俺の思い出の中で当時のままに輝いてるわけ。ね? わかるでしょ?」
「ええ、わかります」

 わたしの場合は別に初恋の相手ではないけれど、優しかった幼稚園の先生たちの笑顔は、今でも懐かしく思い出されます。わたしは小学校に入る時に引っ越してしまったので、その後、お会いする機会もありませんでしたが、そういえば、先生たち、今、どうしているでしょうか。
 思い出したら、心がふわっと温かくなりました。反田さんも、ゆうこ先生を思い出す時、きっと、こんな気持なのですね。

「でもね、そんなふうに俺の心の中でゆうこ先生の面影が輝いているからといって、それは、俺がこれから誰かと付き合ったり結婚したとして、隣にいるその人を全力で愛する妨げにはならないと思うんですよね。なると思います?」
「いえ、思わないです」
「でしょ? まったくなりませんね。それに、その相手だって、まさか幼稚園の時の初恋にヤキモチ妬いたりはしないでしょ? 司書子さんだったら、ゆうこ先生にヤキモチ妬きます?」
「まさか!」
「ですよね。でね、俺も、もしも俺がこれから付き合う人に、そういうふうに心の中で輝いている誰かがいたとしても、別に問題にしませんからね。だって、そういう思い出も、その人の一部じゃないですか! 俺ね、その一部ごと、その人を愛せると思うんですよね。そういう思い出を胸に抱いているその人、丸ごとをね。自惚れるようだけど、そういう自信、あるんですよ」

 まあ……! 反田さん、とっても素敵なことをおっしゃるんですね! なんてロマンチックな……! お顔に似合わず……!!

 あ、いけない。『お顔に似合わず』は、失礼でしたね。心の中で思うだけでも。それに、反田さんも別に、特にヘンなお顔をしているわけではありません。普通です。ごく普通です。それに、男の人は――女の人もですけど――顔じゃないですよね。反田さんの、この優しさ、無限の包容力……。そしてそれが、口先だけじゃないんですもの。お口もお上手ですけど、反田さんの気配りや思い遣り、宇宙的規模なまでの包容力は、本物だと思います。
 こんな良い方が三十五でまだ独身でいるなんて、ご町内の女性の皆さんは、見る目がありませんね! やっぱり、この、変なTシャツのせいかしら……。何を着ていようと、良い人は良い人なのに!
 反田さんのお嫁さんになる人は幸せかも……って思ったので、にっこり笑って言いました。
「素敵です。反田さんのお嫁さんになる人は幸せですね!」
「えっ……? あー、まあ……ね。そうなるように頑張りたいですね」
 反田さんは、なぜかちょっと微妙な顔をしました。なんででしょう。わたし、何かまずいことを言ったでしょうか。『お顔に似合わず』とか『男の人は顔じゃない』というのは、いくらわたしでも、さすがに、思っても本人に言ってはいけない言葉だとわかるので、ちゃんと口に出さなかったのに……。
「すみません、わたし、何か悪いことを言いましたか?」
「いえ、別に何も……」と、反田さんは苦笑して、独り言のようにつぶやきながら頭を掻きました。
「あーあ。けっこう会心の一打だと思ったんだけどなあ……」
 会心の一打? なんで急に野球の話を?
 反田さんは良い方ですけど、ときどき急にこういう脈絡のないことを言うので、ちょっと反応に困ります。
 思わず「はい?」と首を傾げると、反田さんは、なぜかぷっと吹き出し、
「ま、いいか!」と、今度は思い切り清々しい笑顔になりました。
「司書子さんらしいや。ねえ、司書子さん、俺、今、ちょっと良いこと言ったでしょ?」
「あ、はい! とても素敵だと思います!」
「じゃ、さ、俺がこういうことを言っていたって憶えてて、後で何かの時に思い出してくださいよ。今はそれでいいですよ。ね、司書子さん!」
 そう言って一人でうんうんとうなずいて、勝手に何か納得したようですが、反田さん、ときどき、よくわかりません……。

 それはともかく、『司書子さん、司書子さん』と連呼されて、ずっと反田さんに言おうとしていたことをひとつ、思い出しました。今こそ、勇気を出して、言ってみます。

「あの……、反田さん。前から言おう言おうと思ってたんですけど、いいかげん、その『司書子さん』っていうの、止めてくれませんか?」

 ずっと、なんとなく言い出せなくて、しかたなく聞き流しているうちにすっかり慣れてしまっていましたが、さっき『メソ子』と言われた時に、そういえば、と思い出したのです。『司書子』だと、たしかに『メソ子』と音が似てるけど、わたしの名前は本当は、司書子ではなく、蕭子ですから!

 一瞬前まで笑顔だった反田さんが、一転して、叱られた犬みたいにしょんぼりしました。
「あー……。すみません……。そうですよね、失礼でしたよね。あなたが怒らないから、調子に乗って、つい……」

 いやだ、そんな顔が見たかったわけじゃないのです。失礼とか、そういうことじゃなくて……。
 反田さんがこれ以上落ち込まないうちにと、急いで言いました。
「蕭子です」
 なんだか照れくさくて、言い方が、ちょっとつっけんどんになってしまったかもです。
「えっ?」
 反田さんが、ぽかんとしました。早口になってしまってたから、聞き取れなかったかしら。
「わたしの名前。蕭子って言うんです。……ですから、司書子ではなく、蕭子、と……」
 言ってるうちに、何だか恥ずかしくなってきて、たぶん少し赤くなってしまったので、慌てて下を向きました。
 でも、反田さんとお知り合いになってから二ヶ月ちょっと、ずっと言いたかったことを、やっと言えました……。

 ちらりと目を上げて様子を伺うと、反田さんは、一瞬ぽかんと黙って、それから、ぱあっと満面の笑顔になって、大きくうなずき、教室で挙手する小学生みたいに元気に言いました。
「はいっ! 蕭子さん!」

 はじめて反田さんに名前を呼んでもらいました。なんだかじわっと嬉しかったです。



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