〜司書子さんとタンテイさん〜





第二話 ジギタリス殺犬未遂事件

(7)


 帰り際、病院の廊下で、
「今日はうちの人の話を聞いてあげてくれてありがとう」と、おばあさんに頭を下げられました。
 おじいさんに、『この話はバアサンには内緒だぞ』と、話の合間に何度も念を押されていたから、おじいさんがわたしに何を話したか、わたしはおばあさんに言わなかったし、おばあさんも訊ねてこなかったのですが、でも、おばあさんは、もちろん何もかも最初からご存じなんですよね。だからわたしをここに連れてきたのだし、さらに、そのように計らったのが自分ではなく孫の正造さんだということにしたのでしょう。すべてを知っての上で、でも、おじいさんに対しては、自分は何も知らないということにしておきたかったから。
「いえ、こちらこそ、貴重なお話を伺わせて頂いて、ありがとうございました」と、わたしも頭を下げると、おばあさんは、わたしをじっと見つめて、静かに微笑みました。
「うちの人はね、今日の話を、誰かに聞いて欲しかったと思うのよ。生きているうちに、一度、誰かに話しておきたかったけど、でも、わたしや息子たちには話したくなかったと思うの。だから、聞いてくれてありがとう。他ならぬあなたに聞いてもらえて、本望だったと思うわ」

 そうですね。たしかに、他ならぬ奥様や息子さんには、話しにくい事柄かもしれません。身近な家族だからといって、何でも話せるというわけではないのですよね。赤の他人には話せるけれど、家族だからこそ、愛する妻だからこそ、かえって話せないことって、やっぱり、あるのでしょう。わたしだって、教授との想い出を、父にも祖母にもずっと話せなかったし話したいとも思わなかったけれど、赤の他人の反田さんには、ちょっとした物のはずみで、ぽろっと話してしまいました。そして、話してしまってから、自分はこれを誰かに聞いてもらいたかったのだと気づきました。

 それにしても、すべてわかっていて、こうしておじいさんの気持ちを思いやる、このおばあさんの深く広い愛といったら。おじいさんも、『バアサンが怖いから』だのなんだのとさんざんおっしゃっていたけれど、本当は、奥様を愛しているからこそ、その気持ちを傷つけたくなくて、この話を奥様の耳に入れてほしくないのだと、ちゃんとわかりました。奥様のことを、それほど大切に思っているのだと。

 このお二人、恋愛結婚ではないようですけど、愛は育つものなのですね。何十年も連れ添ったご夫婦が育んできた絆に、わたし、感動しました。
 だから、例の、『おかげでうちのバアサンと一緒になれた』というおじいさんの言葉を、おばあさんに伝えてみました。おじいさんは、今日の話の内容はおばあさんには内緒だと言っていたけれど、実はおばあさんはどうせ事情を知っているのですもの、この部分だけなら、伝えても構わないでしょう?

 おばあさんは、うふふと笑って言いました。
「あらまあ、そんなことを言ってました? それ、たぶん、綺麗なお嬢さんの前で良いこと言ってカッコつけたかったのよ」
 そうだとしても、言ったことは本心だったのだと思います。おばあさんも、それはわかっていらっしゃるのでしょう。嬉しそうですもの。
 それから、おばあさんは、ふと視線を遠くに投げて、こう言いました。
「わたしね、もしかすると、うちの人は、あなたのお祖母様にもう一度会いたい一心で艱難辛苦を乗り越えで外地から生きて戻ったんじゃなかったかと思っているのよ。もしそうだとしたら、わたしも、あなたのお祖母様に感謝しなくてはね。おかげであの人はここに戻ってきて、わたしはあの人と一緒になることができたんですからね」

 おばあさん、旦那様を本当に愛していらっしゃるのですね……。素敵です!

 笑い話にと、おじいさんに『ミサ子さんのほうが美人だった』と言われた話をしたら、おばあさんは、
「まあ、まあ、失礼な人でごめんなさいねえ」と、ころころ笑いました。
「きっと、あなたのお祖母様の若い頃の姿が、頭の中で美化されちゃってるのよ。実際にも綺麗なひとだったけど、想い出の中では、実際よりもっともっと綺麗になってるんでしょう」と。
 そうでしょうね。若き日の、初恋の人ですもの。きっと、面影は、時を経るごとにますます美しく……現実にはありえないほど美しくなって、想い出の中で輝いているのでしょう。
 そしておばあさんは、
「でも、あなた、若いころのミサ子さんによく似てらっしゃるわよ」とおっしゃってくれました。
 本当かしら。だったら嬉しいです。いえ、祖母が美人だったからとかではなく、わたし、自分が母親似だから祖母にはあまり似ていないんじゃないかと思っていて、それが少しだけ寂しかったので……。もちろん、母に似ていることも嬉しい事ですが、でも、わたし、大好きな祖母に似ていたかったのです。でも、母親似だろうと父親似だろうと、祖母とも血が繋がっているんだから、たぶん、他人から見たら、わたしたちはそれなりに似ているはずですよね。

 駅で電車を待つ間、ベンチに腰掛けて、おばあさんに、祖母の若い頃の話などを伺いました。……電車の中では、音がうるさくて、あまりお話ができませんから。
 今までこのおばあさんがご近所にいるのを知らなくて、お話を伺う機会がなかったなんて、損をしていた気分です。祖母は社交的な人で、わたしは子供の頃、『お祖母ちゃんは町中のお年寄りとお友達なんだ』と思っていたくらいなのですが、ご近所にも、祖母と付き合いのないお年寄りがいたのですね。

 ……そう考えたところで、ふと思い当たりました。祖母が生前、一度も木原洋菓子店でケーキを買ったことがなかったのは、手作り派だったからではなく、このおばあさんに気を使って、遠慮していたのではないかしら。
 だって、よく考えてみれば、不自然なのです。いくら町内会の班が違うからといって、あんなに社交的だった祖母が、そんなに遠くない場所に住んでいるこのご夫婦とだけ全く交流が無く、わたしがこのご夫婦の存在すら知らなかったなんて。
 なにしろ、お二人とも、年を経るほどにどんどん減ってゆく貴重な同年代の仲間だったのですから。
 それなのに、祖母は、死ぬまで一度も木原洋菓子店に足を向けることがなかったのです。

 娘時代の祖母は、正一さんのことを、どう思っていたのかしら。
 祖母と正一さんとの、ただ一度のやりとりは、祖母にとって、単に、ご近所さんとのちょっとした世間話だったのかもしれないし、あるいは、どうやら自分に憧れているらしい年下の男の子を、気まぐれにちょっとからかってみただけだったのかもしれません。
 いずれにしても、もしも祖母が正一さんの気持ちに気づいていなかったのなら、その後、正一さんが戦争から帰ってきてから普通にご近所付き合いをしたのではないかと思うので、少なくとも、祖母は、正一さんが自分に心を寄せていたことには気づいていたのでしょうね。もしかすると、祖母のほうにも、何がしかの想いがあったのかもしれません。それがどの程度のものだったのかは、今となっては知る由もなく、今さら掘り返す必要もないでしょうが……。
 でも、おばあさんの話が本当なら、昔、祖母に憧れていた男の子は、すごく大勢いるんですよね。おじいさんも同じことを言っていたから、きっと本当なのでしょう。そして、祖母は、その男の子たちとは、その後、それぞれ別の人と結婚した後も、たぶん普通にご近所付き合いしてきたんですよね。それなのに、正一さんとだけ、死ぬまで一切関わらなかったということは、やっぱり、正一さんは、ミサ子さんにとっても、その他大勢の男の子たちとは、ちょっと違う存在だったのかもしれません。

 自分の祖母が、昔、ご近所のあのおじいさんになにがしかの想いを抱いていたかもしれないと想像するのは、なんだか奇妙なものですが、今、わたしの頭の中で、少女時代の祖母は、わたしの知っている祖母とは別の、遠い物語の中のモンペ姿の美少女ミサ子さんなので、さほど違和感はありませんでした。ただ、遠い昔に、この町で、そんな物語があったのだな……という感慨だけがありました。
 どこにでもいるような普通のお年寄りである正一おじさんや祖母が、そんな遠い日の淡い恋物語の主人公だったなんて、なんだか不思議な気持ちです。
 そして、それはたぶん、あのおじいさんやうちの祖母に限らなくて、そこらへんにいる平凡なご近所のお年寄りみんなが、人によって波瀾万丈だったりそれなりに平穏だったりする、それぞれの長い長い人生の物語の主人公なのですよね。

 お年寄りって、みんな、長い長い物語が書いてある本みたいですね。
 一冊ずつ全部違う物語が書かれた、分厚い、分厚い本。
 普段は、『ありふれたそこらのお年寄り』という表紙だけ見ていて、それは別にそんなにすごいものには見えないのだけれど、実は、ひとたびページをめくれば、そこには人それぞれの豊かな体験や、貴重な記憶や、さまざまな思いがけない秘密が、びっしり詰まっているのです。
 そして、そのページを、みんながみんな全部読ませてもらえるわけじゃなく、家族にも読ませないページや、家族だからこそ読ませないページがある人も、きっとたくさんいるのでしょう。それは、現在の奥様や旦那様とは別の人との恋の想い出だったり、戦争やその他の思い出したくないような辛い体験だったり。中には、罪を犯したとか後ろ暗い仕事をしていたことがあるとかの、本気で人に言えない暗い過去を持つ人だっているかもしれません。
 正一おじいさんも、家族には戦争の話は一切しなかったけれど、訪ねてきた戦友とは、家族を閉め出した部屋で、長々と当時のことを話し込んでいたそうです。お年寄りの戦争体験の聞き取りに来たという学生さんのグループに、ずいぶん長い時間をかけて話をしていたこともあったとか。部屋を出てきた時、目を赤くしている女の子もいたそうです。きっと、とても辛く悲しいお話だったのですね。あのおじいさんは話し上手で、わたしも思わず引き込まれましたから、きっと、その子も、おじいさんのお話に深く引き込まれてしまったのでしょう。
 でも、おじいさんは、家族には一度も、そういう話をしたことがないのです。おじいさんが戦争中、どこでどうしていたのかも、本人からでなく人づてに聞いた話をつなぎあわせて推測しているだけらしいです。

 祖母にも、わたしの知らない物語が、たくさんあったのかしら。正一おじいさんとのことも、話してくれませんでしたし。
 忘れていたんじゃありませんよね。死ぬまでずっと、わざとケーキ屋に寄り付かないようにしていたんですもの。
 わたしは祖母のことを、どのくらい知っていたのかしら。
 わたしと祖母は、毎日たくさんおしゃべりをしたけれど、そういえば、わたしは、わたしと出会う前の祖母の人生を、ほとんど知りません。たとえば、わたしは、祖母の少女時代に曽祖父がここで病院をやっていたことは知っていましたが、その病院を、いつ、なぜ廃業したかを知らなかったことに、今回初めて気がつきましたし、他にも、祖母が戦時中、どういう生活をしていたのかとか、祖父との結婚のいきさつとか、病院の一人娘だった祖母がどういう経緯で大学図書館に務めることになったのかとか、よく考えてみれば、祖母についてわたしが知らなかったことが、いっぱいあります。
 それらは、たぶん、別に隠すつもりはなくて、尋ねれば教えてくれる事柄だったのでしょう。
 でも、別に隠すつもりじゃなくても、昔のことなんて、何かのはずみでたまたま話題にならなければ、わざわざあらためて話したりは、あんまりしないですよね。

 祖母の中の、わたしが見たことのないページは、祖母の死とともに、永遠に失われてしまったんですね。祖母がわたしに見せたくなかったページはしかたがないけれど、別に見せたくないわけじゃなくて、たまたま見せる機会がなかったページも、いっぱいあったでしょうに。祖母の人生という一冊の『本』は、それくらい分厚かったのですもの。
 そう考えると、祖母が生きているうちに、もっといろんな話を聞いておけばよかったと、惜しい気持ちになります。今となっては取り返しのつかないことですが。父に聞けばわかることもあるかもしれないけど、父が物心つく前のことは父にもわからないでしょうし、祖母も父も一人っ子なので話を聞ける年上の親戚も身近におらず、考えてみれば、司家の歴史で、もうわからなくなってしまったことが、たぶん、たくさんあるのです。だって、わたし、自分の高祖父のことでさえ、考えてみれば、医者をしていたらしいということ以外、何一つ知りませんもの。

 そんなに大昔のことじゃなく、つい最近まで生きていた祖母が身を持って体験したことでさえ、今では誰も知る人がいなくなってしまったなんて。書き留められなかった歴史って、ものすごく簡単に失われてしまうのですね……。だからこそ、本があり、図書館があるのでしょうが。



 おばあさんをケーキ屋さんまで送った後、ちょうど良い機会なので、お店に寄って、ケーキを買いました。先日は、せっかく子供の頃の憧れだったこのお店に初めて足を踏み入れたのに、結局、ケーキを買いそびれてしまいましたし、今日は後で反田さんが家に来てくれることになっているので、先日のお礼を兼ねて、たまにはちょっと高級なものをお出ししようかと……。今まではたいてい手作りのお茶菓子をお出ししていたのですが、たまにはわたしも、ケーキ屋さんのケーキも食べたいです。買うのが二つばかりで申し訳ないですが、一つだけよりは買いやすいです。

 そういうわけで、うきうきとケーキを選びました。夏だけあって、フレッシュな季節の果実を使ったゼリーやムースなどの涼しげな限定メニューがいっぱいで、心を惹かれるのですが、子供の頃の憧れのお店ですから、当時からある定番のケーキも捨てがたいです。真っ赤なイチゴがちょこんと乗っかったショートケーキに、艶やかなコーティングに包まれたチョコレートケーキ、スミレの花の砂糖漬けを飾った淡いレモン色のレアチーズケーキに、雪みたいな粉砂糖を振ったシュークリーム……。粉砂糖って、不思議ですね。ぼんやり薄甘いだけで特にこれといった味がするわけでもないのに、あれがかかってるだけで、何でも急に美味しそうに見えはじめるのです。まるで魔法みたい。
 ああ、でも、やっぱり、色とりどりの可愛らしいベリーを溢れんばかりに盛り上げた夏季限定のベリータルトが、わたしの目を誘惑するのです! それに素朴なバナナケーキ、薄紅色に透き通る白桃のコンポートと優しいたまご色のカスタードクリームをぎっしり詰め込んだシャルロット、りんごのカラメリゼを乗せた三層重ねのキャラメル&カスタードムース、飾りの輪切りオレンジのゼラチンがけも夏らしく涼し気なオレンジ・シブースト、焼き目もつややかなアップルパイにミルフィーユ……。
 こう言っては失礼ですが、私が子供の頃にはすでに『昔ながらの味』というイメージがあったこのお店にも、今はずいぶんと洒落たケーキもあるのですね。これらの繊細で洗練されたケーキたちを、この、熊さんみたいなご主人の、あの太い指が作り出しているなんて……。

 そう、このお店の、今のメインのパティシエは、この正造さんなんだそうです。わたしが子供の頃は、お父様の正二さんが作っていたらしいです。今でも、昔からある定番メニューは主にお父様が作っていて、時代に合わせて甘さやカロリーを若干控えつつも、基本的に同じレシピなのだとか。
 ということは、子供の頃にお友達の家でおやつに出してもらって大感激した、あの想い出のイチゴショートが、また食べられるのですよね。間に挟まったクリームの中にも薄切りのイチゴがいっぱい入って、優しい甘さの中にほのかな酸っぱさのアクセントを添えていた、あのふわふわ、しっとりのイチゴショートの美味しさ、今でも忘れられません……。
 ああ、困りました。食べたいケーキがたくさんあって、選びきれません!
 これは、一度や二度では、とてもじゃないけど、食べたい種類を全部食べられませんね。秋にはまた、旬のフルーツを使った季節メニューが出るのでしょうし……。これからは時々、ケーキを買いに来ようかしら。一人分、一つだけのケーキは、なかなか買えないけれど、二つなら買えるから、反田さんが来る日に……。

 反田さんのおかげでケーキが買えて嬉しいです。このお店に来ることができたのも、反田さんのおかげですし。わたし、ゆくゆくはこのお店のケーキを全種類制覇したいので、反田さんには、ケーキの種類の回数だけ、うちに来てもらわなくては! ……なんて、冗談ですけど。

 反田さんは、どのケーキがお好きかしら? お友達の正造さんなら、知っているかもしれません。
 そう思って尋ねてみると、正造さんは、
「えっ、反田に食わせるの? さあ……。そういえば何が好きか聞いたことないね。何でも食うんじゃないの? あいつに洒落たのはもったいないから、普通のでいいよ。ていうか、安いのでいいよ。シュークリームとかさ。あ、でも、イチゴショートは、今の時期はイチゴが輸入物だから、あんまりお勧めしませんね。イチゴの入ったケーキは、ぜひ冬場に食べて欲しいんですよ」だそうです。
 自分のお店のものなのに、安いものでいいとかイチゴはやめろとか、面白い方ですね。

 それから、正造さんは、あらためて人の顔をじろじろ見て、
「ふーん、今日、反田、司書子さんちに行くんだ? いいなあ……」と、意味ありげにニヤニヤしました。
 やっぱり何か誤解されてるような……。でも、はっきり言われたわけでもないのに勝手にムキになって弁明しはじめるのも自意識過剰みたいだし……。
 そしてわたしは、いつの間にか、この人にも司書子さんって呼ばれてます……。

 結局、どうしても二つだけなんて選びきれなくて、ベリータルトとレアチーズケーキとチョコレートケーキと、三つ買ってしまいました。だって、反田さんがどれを好きかわからないし……。きっと反田さんは二つくらい食べてくださるでしょう。ちなみに、わたしはどれも好きなので、反田さんがどれを選んだとしても、わたしも食べたいケーキを食べられることになります。

 ケーキを箱に入れて渡してくれる時、正造さんは、カウンターの上の籠から、一つずつ小さな袋に入れて可愛らしくリボンを結んだバラ売りのフィナンシェを二つとって、おまけに、と、差し出してくれました。いくら小さな焼き菓子とはいえ、それなりのお値段のものなのに、そんな、申し訳ないです……。
 わたしが遠慮すると、正造さんは、
「いやいや、受け取ってくださいよ、これ、賄賂だから!」と言いました。
 賄賂……?
 わたしがきょとんとしていると、正造さんは、
「ほぅら、山吹色のお菓子でございますよ」と、時代劇の悪徳商人の物真似をしてグフグフ笑いました。
 たしかに、焦がしバターを溶かしこんだフィナンシェはふくよかな黄金色に輝いているし、金塊を模したお菓子であるとも、『資産家』とか『銀行家』という意味があるとも聞きますが、なんでわたしに賄賂……?

 首を傾げていると、正造さんは、苦笑いしました。
「いえね、俺、こないだ、まずこと言っちゃったかなと思って。こないだ言ったあれ、嘘ですからね!」
「は?」
「ほら、タラシの反田っていうの」
「ああ……」
「あいつ、別に女タラシではありませんから」
「はあ……」
「あいつさあ、誰とでもすぐに仲良くなるでしょ? そういう意味ですから。ほら、人タラシっていうの? 特に子供とか年寄りには、やたらウケがいいでしょう? でも女性には、なぜかいまいちモテないんですよねえ。この俺にだってちゃんと彼女ができて結婚できたっていうのに、反田のどこがいけないんでしょうかねえ。ねえ、お嬢さん、どう思います?」
「さあ……。別にどこも悪くないと思いますが……」
 もし反田さんが本当にあまりモテないとしたら、それは、『なぜか』ではなく、いつも変な服を着ているからだと思いましたが、失礼なので言えませんでした。
 わたしの返事のどこが面白かったのか、正造さんは、がははと笑いました。
「だよね、どこも悪くないよね! お嬢さんもそう思うでしょ? ね、反田、けっこう良いでしょ?」
 それから、少し真面目な顔になって続けました。
「いや、お嬢さん、潔癖そうだから。失礼ながら、ああいう冗談を真に受けそうなタイプとお見受けして、もし誤解を招いてたら悪かったかなーって思ってたんですよ。あいつ、本気みたいだからさ。というわけで、どうかこれでひとつ、反田をよろしく! 既にお気づきのこととは思いますが、あいつ、マジですごくいいヤツですから!」
 はい、反田さんが良い人であることは、よーく知ってます。
 正造さんはフィナンシェをわたしの目の前に突きつけました。
「というわけで、どうかこれで、ぜひ反田貞二を、反田貞二を、よろしくお願いします!」
 選挙演説ですか……。そんな風に言いながら押し付けられると、それを頑なに拒んではまるで反田さんをよろしくお願いされたくないみたいだから、遠慮しづらいです……。

 正造さんの誤解はともかくとして、反田さんのように良い方に親しくしていただけることは、わたしもありがたく思っていますし、正造さんが反田さんの良いお友達であることもよくわかりましたし、つい押し切られて、フィナンシェを受け取ってしまいました。
 三つばかりしか買ってないのに、こんなにおまけをいただいて、本当に、かえって申し訳ないです……。でも、このフィナンシェ、すごく美味しそう!



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