〜司書子さんとタンテイさん〜





第二話 ジギタリス殺犬未遂事件

(6)


 正一おじいさんが入院している病院は、電車で二駅先の隣り町、鶸岡《ひわおか》市にありました。
 鶸岡は、我が御狩原よりちょっと大きな市で、のどかでこぢんまりした御狩原にくらべると、ちょっと都会で、ちょっと賑やかで、子供の頃、『町に行く』と言えば鶸岡に行くことでした。
 家と職場の往復以外、ほとんど出歩かないわたしですが、鶸岡には、毎月一回は行っています。鶸岡の図書館で、熱心な児童担当の方がストーリーテリングと読み聞かせの勉強会を主催していて、わたしもそれに参加しているのです。図書館主催の公的な研修ではなく、有志が自主的に企画し、勤務時間外に自費で私的に参加するサークル活動のようなもので、図書館職員だけでなく、朗読や読み聞かせのボランティアさんも、熱心な方が何人か、一緒に参加しています。

 そうだ、反田さんをそれにお誘いしてみたらどうかしら。そういえば反田さん、お話会に、ちょっと興味をお持ちのようですから。前に児童室で、わたしがお話会をやっているのを、パーテーションの外に立って聞いていたことがあるそうなのです。よりによって眠り姫を語っていた時なので、付き添いのお母さん方以外の大人の人に聞かれていのは、ちょっと照れくさいです。でも、反田さんは、初めて知った『お話会』というものにたいへん感銘を受け、それでわたしに、肝試し大会でのお話を依頼しようと思いついたのだそうで……。
 反田さん、声が通るし、表現力が豊かだし、絶対、語り手に向いていています。ストーリーテリングや読み聞かせの活動をしている人は、子供のいる、あるいは子供を育て上げた後の女性が多いので、男性の話者は希少価値がありますから、勉強会でも、きっと大歓迎されるでしょう。お話や絵本の中でも、男性が語るとひときわ映えるものもありますし。たとえば『三匹のヤギのがらがらどん』とか……。
 反田さんは独身だけど子供好きで、子供のあしらいにも慣れているから、優秀なお話ボランティアになれるのでは?
 そう、次にお会いした時に、お誘いしてみましょう。
 反田さんは鶸岡の図書館の場所を知っているかしら。知らなければ、最初はわたしと一緒に行けばいいですよね。二人で電車に乗って……。駅と図書館の間に、自家製のパンケーキがとっても美味しい喫茶店があって、よく帰りに寄るのですが、反田さんも甘いものがお好きだから、あのお店を教えてあげたいです。あそこのパンケーキは、本当に絶品ですから。

 でも今日は、反田さんではなく、木原さんちのおばあさんと一緒です。
 木原洋菓子店は、うちからそんなに遠くないのですが、町内会の班が違いますし、うちはケーキや洋菓子をあまり外で買わないので、今まで接点がなく、その家に祖母と同年代のおばあさんやおじいさんがいることも、わたしは知りませんでした。
 でも、おばあさんのほうは、わたしのことは知らなかったけれど、祖母のことは、子供の頃から知っていたのだそうです。おばあさんは祖母より三つほど年下でしたが、祖母はとても目立つ上級生だったのだと話してくれました。

 祖母の一家は、戦前からここに住んでいて、その頃、祖母の父、つまりわたしの曽祖父は、ここで小さな病院をやっていたのだそうです。そのことは、そういえば、祖母からも聞いていました。何でも、曽祖父の父だか、そのまた父の代から、同じ場所で医者をしていたとか。ちなみに、司姓は祖母方の姓で、早くに亡くなった祖父は婿養子だったらしいです。

 祖母は幼少の頃から近所で評判の美少女で、頭も良く、しっかりもので、病院のお嬢さんだからかどことなく垢抜けて大人っぽく、モダンでさっそうとしていて、他の女の子たちとはひと味違っていたのだとか。そんなふうだったから、祖母にひそかに憧れている男の子も、すごく多かったはずだということでした。

「たぶん、うちの人も、子供の頃、あなたのお祖母様に憧れていたのよ」と、おばあさんは懐かしげに微笑みました。「このへんの男の子は、だいたいみんなそうだったもの」と。

 祖母にそんな頃があったなんて……と考えると、ちょっと不思議ですが、祖母がそんなに美少女だったり男の子たちの憧れの的だったりしたというのは、なんだか嬉しく誇らしい気持ちです。

 正一おじいさんは、太平洋戦争末期に十八歳で徴兵されて大陸に渡り、すぐに終戦を迎えたものの、どさくさに紛れて引き上げに取り残され、戦後何年もたってから、やっと戻ってきたのだそうです。おそらく大変な苦労をなさったのでしょうが、家族にはその話を一切しないので、詳しいことはわからないとのこと。そして、その間、手違いで死んだものと思われていたので、帰ってきた時は大騒ぎだったそうです。家業はすでに弟が継いでおり、正一さんは身体を壊していたこともあって、しばらくは家業もろくに手伝わずに腐ってぶらぶらしていたけれど、その後数年して健康が戻った頃、世話する人があって、和菓子屋の一人娘だったおばあさんのところに婿に入ったとのこと。それからは人が変わったように真面目に働いて、二人で力を合わせて和菓子屋を切り盛りしてきたのだそうです。

 ありふれたご近所のお年寄りにも、そんな、激動のドラマがあったのですね……。

 ちなみに、和菓子屋を洋菓子屋にしたのは、正一さんの息子の正嗣《しょうじ》さんだそうです。正一、正嗣、正造と、親子三代、正の字を受け継いでいるのですね。音だけ聞くと、ショウイチ、ショウジ、ショウゾウなので、まるで三兄弟みたいなのが、ちょっとおもしろいです。

 正一おじいさんには、既に、正造さんから、わたしが訪ねることも、その理由も、話してあるとのことでした。
 ただ、うちに花束を持ってきたのがおじいさんだと気づいてわたしにそれを教えたのは、おばあさんではなく正造さんだということにしてあるから、もし経緯を聞かれたらそのように口裏を合わせてくれと言われました。とにかく、おばあさんは何も知らなくて、おばあさんはただ、孫の正造さんに頼まれてわたしを一緒に連れてきただけだということにして欲しいのだそうです。
 ご家族の言うことですから、何かしら理由があるのでしょう。
 わたし、嘘をつくのは苦手ですが、必要があるのなら口裏合わせくらいはできます――たぶん。


 正一おじいさんの病室は三人部屋でしたが、他の方は検査やリハビリで不在で、正一おじいさんだけが、窓際のベッドで身を起こしていました。
 おばあさんは、「司さんのお孫さんがお見舞いに来てくれましたよ」と、わたしとおじいさんを引き合わせると、一階のコインランドリーで洗濯をしてくるからと、わたしたちを置いて病室を出て行きました。

 おじいさんは、しばらく黙ってじろじろとわたしを眺めてから、急に、むすっと言いました。
「あんたがミサ子さんの孫か……。ミサ子さんのほうが美人だったな」
 まあ……。おじいさんってば、近所中で評判の美少女だったおばあちゃんの孫ということで、きっと、どんな大美人が来るかと期待していたのですね。もしかして、がっかりさせてしまったでしょうか。ご期待に添えなくてごめんなさい……。病院だからと配慮したつもりでことさら地味な服を着てきましたが、せめてもう少しおしゃれしてきたほうが良かったかしら。
 おじいさんは、わたしに失礼なことを言ったと思ったのか、
「いや、あんたもあんたで美人だけどな」と、急いで付け加えてくれました。気を使ってくださってありがとうございます。
「ミサ子さんが赤い薔薇なら、あんたは白薔薇か白ユリだなあ」ですって。反田さんと同じようなことをおっしゃるんですね。最初、むすっとした愛想の悪そうな人だと思いましたが、あんがい、お口がお上手な、面白いおじいさんでした。たまにいますよね、お店屋さんとかで、店員さんにペラペラとお愛想や妙な冗談を言う愉快なおじいさん。そのタイプかしら。しかも、なかなかの詩人さんのようです。

 おじいさんは口調を改めて、
「あのジギタリスのことな……。怖がらせてしまったそうで、悪いことをした」と、謝ってくれました。
 おじいさん、ちゃんとあの花の名前を知っていたのですね。たまたま庭にちょうど咲いていたものを、名前も知らずに切ってきたのかと思っていましたが、今も人を薔薇やユリにたとえましたし、あんがい、お花がお好きなのかも。

 それから、おじいさんは、ときおり照れくさそうに窓の向こうの夏空に目をやりながら、ぽつりぽつりと、話をしてくれました。
「今日は、あんたが来てくれたらいろいろ白状しようと、覚悟を決めてたんだよ」とおっしゃって。
 あの花は、おじいさんから、うちの亡き祖母に捧げられたものだったのです。
 おじいさんは、ぶっきらぼうな口調ながらもずいぶんな話し上手で、しかも実は詩心のある方のようで、時にユーモアも交えたそのお話に、わたしは思わず引き込まれました。

 おばあさんも言っていた通り、うちの祖母は、少女時代、近所の男の子たちみんなの憧れのマドンナで、正一おじいさんも、その例にもれず、祖母に憧れていたのだそうでした。といっても、祖母のほうが一つ年上だったこともあり、遠くから一方的に憧れていただけで、ほとんど口をきいたこともなかったそうですが。

 そんな正一少年は、当時働いていた軍需工場への行き帰りにうちの垣根の前を通る時、たまに、庭に出ている祖母の姿をちらりと見ることができるのを、辛いことの多かった戦時下の生活の中で、ひそかな楽しみとしていたそうです。祖母――いえ、ミサ子さんも、よく家の前を通る正一少年のことは見憶えていて、気がつけば微笑んで挨拶をしてくれたりしたそうです。そんな時も、正一少年は、挨拶を返すのがやっとで、それ以上話しかけることもできず、真っ赤になった顔を帽子のつばに隠すために俯いて、逃げるように足を早めて通り過ぎたりしたそうです。可愛いですね。

 戦時中でもうちの庭にはいろんな花が咲いていて、そこだけまるで別天地のようだったとおじいさんは言いました。よく見れば、実際には庭のほとんどはサツマイモやカボチャの畑になっていたのだけれど、隅の方や塀際にいろんな草花が乱れ咲いていたので、一見、花園のようにも見えた、と。そんな花園に佇んで微笑むミサ子さんは、もんぺ姿にもかかわらず、まるで天女のようだった、と。

 思うに、それは、薬草の花だったのではないでしょうか。祖母の亡き祖父――つまりわたしの高祖父も医者をしていて、生薬を取るために庭で薬草を栽培しており、遺されたその薬草園を祖母が世話していたと聞いたことがあります。これはわたしの想像ですが、戦時中で薬が不足したため、もともと庭にあった薬草を育てて使おうと思ったのかもしれません。そして、ジギタリスもそうですが、薬草には花も美しいものがたくさんあります。

 そんな具合で、たまに垣根越しに挨拶を交わすだけの間柄だった二人ですが、初夏のある日、正一少年は、朝日を受けて草花の世話をしていたミサ子さんに見とれるあまり、つい、垣根の前で足を止めてしまったそうです。その気配に、ふと顔を上げたミサ子さんは、その日に限って、作業の手を止め、ちょうど鋏で切ったところだったジギタリスの一枝を持ったまま、垣根の近くまでやってきたのだそうです。そして、おはよう、と、正一少年に声をかけました。美しい花を手に、にっこり笑って。――正一少年は、どんなにどきどきしたことでしょうか。

 ミサ子さんは、緊張のあまり直立不動の正一少年に、垣根越しにジギタリスを差し出して見せ、
「この花の名前をご存知?」と訊ねました。
 正一少年は、もちろん知りませんでした。
「ジギタリス、というのよ。心臓の薬なの。毒にもなる。飲むと心臓がドキドキするのですって」と、ミサ子さんは声をひそめました。
「きっと、だからなのね。花言葉は、『隠しきれない胸の想い』……」
 そう言って、ミサ子さんは、秘密めいた微笑みを浮かべたそうです。

 正一少年は、ミサ子さんに自分の想いを見透かされていたのかもしれないと思って居たたまれなくなると同時に、もしかしたら――本当に、もしかして、もしかしたら――向こうも少しだけでも同じ気持ちを持ってくれているのかもしれないと妄想して、それこそジギタリスの毒を飲んだみたいに胸を高鳴らせたのでした。

 けれど、結局、それからも二人は特に口をきく機会もなく、戦況は悪化の一途をたどり、恋愛どころではないまま、正一さんは十八で兵隊に取られ、やっと帰ってきた時には、ミサ子さん――祖母はすでに結婚していました。

 ……それを聞いて、わたし、反田さんが気にしていたジギタリスのもう一つの花言葉『不誠実』を思い出し、もしかして正一さんは、自分を待たずに他の男と結婚したミサ子さん――祖母を不誠実と詰りたかったのかと思いかけましたが、そういうわけではないようでした。正一さんは、ジギタリスに他の花言葉があるのは知らなかったようですし、祖母の結婚についても、『自分は死んだと思われていたのだし、そもそもろくに口をきいたこともなく、何か約束をしていたわけでもないのだから仕方がなかった』とおっしゃいました。
「それに、そのおかげで、俺はうちのバアサンと一緒になれたんだしな」と、おじいさんは、さらっと言いました。
 おじいさん……! わりと仏頂面のまま、何気なく、つるっとおっしゃいましたが、それ、ものすごい愛の言葉じゃないですか……! 素敵です……! あとで、おじいさんがこんなことをおっしゃってたって、おばあさんにこっそり教えてあげなくては。

 そんなわけで、おじいさんの花束がジギタリスだったのは、たまたま今の季節に庭に咲いていたのがジギタリスだったからではなく、おじいさんにとっては、うちの祖母との想い出の花だからだったらしいです。
 おじいさん、ロマンチストなのですね。

 ご家族に言わずに黙って庭の花を切って一人で出かけたのは、きっと、照れくさいからですね。それに、きっと、奥様であるおばあさんに遠慮していたのでしょう。
 花束を、何も言わずに垣根の下の隙間から庭に押し込んでいったのも、恥ずかしかったかららしいです。たとえばうちの仏壇に花を供えさせてもらうには、家の人――つまりわたしですね――に事情を言って、家に上げてもらわなければなりません。それが恥ずかしかったのだと。

 そして、ジギタリスに毒があるのは知っていたけれど、煎じれば薬や毒が取れるのだろうと漠然と思っていただけで、生の花や葉を食べてもいけないとは知らなかったし、そもそも犬が花なんか食べるとは思いつかなかったし、繋いである犬の鎖がそこまで届くのも知らなかったと言います。知らなかったとはいえ、本当に犬には悪いことをしたと、頭を下げて下さいました。

 それから、花を仏壇に供えたくなかったのにはもうひとつわけがあって、仏壇には、祖母の夫である祖父も一緒にいるから遠慮したのだということでした。花をお墓に供えに行かなかったのも、同じ理由だそうです。
「そんなことをして、旦那がヤキモチを焼いて墓の中で夫婦喧嘩になったら悪いだろ?」と、おじいさんは言いました。
 お墓の中で夫婦喧嘩……。面白いおじいさんです。

 でも、わたし、思ったんですが、おじいさんがジギタリスの花を、お墓や仏壇ではなく庭に置いていったのには、また別の理由もあるんじゃないでしょうか。
 おじいさんが花を捧げたかったのは、『ご近所の司さんのおばあさん』ではなく、若き日の想い出の中の美しいミサ子さんにであり、その、想い出の中のミサ子さんがいる場所は、司家の墓や仏壇の中ではなく、ジギタリスの咲く、この庭だったのではないかと――。もちろん、わたしの想像にすぎませんが。
 この家は、戦後に建て替えられたものなので、今ある垣根はかつて正一少年とミサ子さんを隔てていた垣根とは別のものですし、咲いているジギタリスも、その頃の株がそのまま残っているわけではなく、たぶん、家を建て替えてから新しく植えられたものでしょう――もしかすると、家の建て替え前に種を採取してあったとか、掘った株を別の場所に植え替えたなどで、咲いている場所は変わっても、その頃の株の子孫ではあるのかもしれませんが。
 そもそも、うちの敷地自体、戦前は、もっと広かったらしいです。今の隣の家や裏の家の土地も、昔はうちの――というか病院の敷地だったとか。
 そんなわけで、うちの庭も、まるきり当時のままというわけではないのですが、でも、今でも、少し狭くはなったけれど同じ場所にあって、想い出のジギタリスの花が咲いていて、たぶん似たような垣根があって――。おじいさんが若き日のミサ子さんの面影を偲ぶには、十分だったろうと思います。

 おじいさんが、昨日、入院の前にうちに花を持ってきたのは、もしかすると今を逃すとその機会がなくなるかもしれないと思ったからだそうです。おじいさんがこれから受ける手術は、とても成功率の高い簡単なものですが、でも、いくら手術が成功しても、この年で、待機や術後の養生も含めてそれなりに長い期間入院したら、さすがにもう、今までのように一人で気ままに外出したりはできなくなるかもしれないと、本人曰く『弱気になって』、それで、最後のチャンスと、長年の望みを決行したのだそうです。たしかに、それまで自分で歩き回っていたお年寄りでも、怪我などで入院すると、そのまま足腰が弱って寝たきりになったり、車椅子や杖が必要になったりすることがあると、よく聞きます。正一おじいさんが、元気で退院できることを、切に祈ります……。



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