反田さんと別れ、スノーウィに水と餌をあげて家に入ったわたしは、通勤用のカバンから読みかけの本を取り出し、挟んであった栞を手に取りました。使い込まれた革製の栞です。 この栞は、先生のものでした。 先生が愛用していたそれを、わたしは、こっそり盗んでしまったのです。 卒業を間近に控えたある日、たまたま先生と二人きりで研究室にいて、先生が淹れてくれたコーヒーをごちそうになっていました。ほんのひとときだったけれど偶然のめぐり合わせで得ることができた、もう二度とないかもしれない、切なく幸せな時間でした。先生の研究室は三階にあったので、学生たちの喧騒は遠く、窓の外には冬の終わりの曇り日の淡い夕映えが広がっていて、その儚いオレンジ色の光と芳しいコーヒーの香りに包まれて、まるで世界には先生とわたししかいないような気がしました。 それは本当に短い、偶然のひとときで、一杯のコーヒーを飲み終わる間もなく先生に何かの用事で呼び出しが入り、先生はわたしに、「悪いね、そのコーヒー、ゆっくり飲んでいっていいよ。カップはそのまま置いといてくれれば、僕が後で洗うから」と言い置いて、研究室を出て行きました。その後ろ姿を切なく見送って、ふとテーブルの上を見ると、窓から斜めに差し込む薄日にひっそりと照らされて、先生がいつも使っていた特徴のある栞が、ぽつんと置かれていたのでした。読みかけの本に挟むのを忘れたのか、一冊の本をちょうど読み終わったところだったのか……。 わたしはいつも先生を見ていましたから――先生の姿を、四六時中、目で追っていましたから、栞を見ただけで、先生が、その栞を挟んだ本を読んでいる姿が、目に浮かびました。いろんな場所で、いろんな本を読んでいる、先生の姿。ページをめくる、先生の仕草。その指先の形。記憶に刻むべき、何でもないけど大切な、幸せな、幾つもの場面。 わたしの手は、いつのまにか栞に伸ばされていました。先生が触れていたものに、触れたかった。栞に染み込んだ先生の手の記憶に、先生の体温に触れたかった。そして、それを自分のものにしたかった……。 気がつくと、わたしは、その栞を胸に抱きしめていました。そしてそのまま、早鐘のように打つ胸を押さえて、逃げるように研究室をあとにしました。罪悪感と緊張感がもたらす奇妙な高揚に包まれて、わたしは恍惚としました。あのような恍惚を、後にも先にも、わたしは知りません。 ひとときの恍惚が去ったあと、わたしは、もちろん後悔しました。まだ卒業までしばらくはありましたから、その間に先生に返そうと――テーブルの上に置いたプリントに紛れ込んで間違って持ってきてしまったのだと言い訳しようと、何度も考えました。もう講義はないけれど先生に会う機会はきっとまだある、卒業式までには返そう、もしその機会がなければ卒業式に返そう、それでも返しそびれたら謝恩会場で返そう……そう考えているうちに、あの事故が起こりました。栞は、そのまま、先生の形見になりました。 子供の頃から使っている古い学習机の椅子に座り、栞を胸に抱きしめて、わたしはまた、少し涙ぐみました。ああ、わたしはなんて泣き虫なんでしょう……。反田さんにも驚かれてしまいました……。たぶん呆れられてます……。 でも、ここでなら、わたしは泣いていいのです。外にいるときは、わたしだって、常識のあるちゃんとした社会人、自立した大人の女でいなければいけないけれど、ここでは、この小さな家の中では、引っ込み思案で臆病な泣き虫ショコちゃんのままでいられるのです。のろまで不器用で、ぼんやりと夢ばかり見ている、本当のわたしのままでいてもいいのです。この、小さなわたしの世界の中でだけは……。ね、お祖母ちゃん? わたしの心の中で、懐かしい祖母の面影が、優しくうなずきました。昔、小さなわたしが泣いていると、泣き止むまで黙って髪を撫でていてくれた、その時の微笑み、そのままに。 そうして、懐かしい声が耳に蘇りました。 ――蕭子。一番近くを探しなさい―― それは、先日木苺のところで聞いた気がする言葉でした。 わたしは、はっとしました。先日はその言葉を、児童室を探せという意味だとしか思わなかったけれど、ふいに本当の意味に気づいたような気がしたのです。 『一番近く』――それは、自分自身。自分の、心の中。 自分の心の中を探せば、答えはそこにあったのです。 (光也君だわ……!) 唐突に、思い浮かびました。 もうすぐ遠くに引っ越してしまう琴里ちゃんのことが好きだった光也君。好きだと言えずにいじわるばっかりしていた光也君。そんな光也君が、児童室の片隅に落ちていた、琴里ちゃんのトレードマークの髪飾りを見つけたとしたら? だとしたら、あの日の光也君の、不可解な態度も腑に落ちます。 そして、光也くんは、この一連の出来事の間、探偵助手として――反田さんが一方的に任命したそうなのですが――反田さんの一番近くにいた人でもあります。そういえば、苑明寺に行った時にも、光也君の様子はおかしかったそうなのです。せっかく琴里ちゃんと一緒だったのに、ろくに口もきかずにずっと不貞腐れていたとか。反田さんは、恥ずかしくて話せなかったんだろうと言っていましたが、罪悪感からおかしな態度を取っていたのでは? びっくりして、涙も引っ込みました。もし、光也君が髪飾りを持っているのなら、早く返させてあげないと! だって、さっき反田さんが、琴里ちゃんのお引越しは明日だと言っていたのです。光也君は、琴里ちゃんの引越し先を知っているでしょうか? ふたりは同じ御狩原南小学校の三年生で、児童室ではよく顔を合わせていたけれど、たぶんクラスが違うし、男子と女子だから、学校では、あまり接点がなかったのでは? 光也君は児童室でもあんな態度だったんだから、学校で本人やお友達に引越し先の住所を聞くなんてことが、できていたとは思えません。だから、明日までに返さないと、光也君は、きっと、琴里ちゃんに髪飾りを返せないままになってしまいます。そうしたら、琴里ちゃんも可哀想だし、光也君も、きっと、きっと、後悔すると思うのです……。 でも……と、そこまで考えてから、思い当たりました。 もしそうだったとして、どうしたらいいのでしょう? わたしに、何ができるというのでしょう。 わたしは、反田さんと違って光也君の友達でもなんでもなく、ただの図書館員です。光也君にとっては、ただの、『児童室のお姉さん』です。光也君は、あれ以来、少なくともわたしがカウンターにいた日には、一度も児童室に来ていません。だぶん、今日も来ないでしょう。もし今日来ていたとしても、わたしがいません。そして、琴里ちゃんの引越しは明日。だから、琴里ちゃんの引越しの前にわたしが光也君と直接会って話す機会は、もう、ありません。光也君の電話番号は、当然利用者登録してあるのだから館で調べればわかりますが、今日は出勤日じゃないし、そうでなくとも、利用者の電話番号を個人的に調べて勝手に連絡を取るなんて、していいはずがありません。これが琴里ちゃんだったら、落し物が届けられた場合は連絡するからと、あらかじめ本人の許可を取ってあるので、もし髪飾りが見つかったのなら電話できるのですが……。 じゃあ、光也君に髪飾りを返してもらった上で、わたしから『図書館で見つかった』と連絡を入れるのは? でも、そのためには、そもそも、光也君と連絡を取って、もし持っていたら髪飾りを返してもらう必要があるわけで……。手詰まりです。 しかも、光也君が髪飾りを持っているというのは、単なるわたしの想像で、本当にそうかどうかもわかりません。もし違ったら、何の証拠もなく光也君を疑ったことになってしまいます。光也君の親や友達であれば、確証はなくても本人の為を思って探りを入れてみることができるでしょうが、わたしは、立場上、光也君を問い詰めることができません。 そう、わたし、なんだかこの件に妙に思い入れしてしまっていますが、よくよく考えて見れば、これは、図書館で日頃からよくあるちょっとした落し物、失くし物の一つにすぎなくて、現金やキャッシュカードなどの貴重品ならともかく、子供の髪飾りや玩具くらいなら、職員が偶然見つけたり収得の届出があれば連絡して返却する、出て来なければそれまで……というのが、普通の、正常な対応なのです。それで、何の不足もないはずなのです。むしろ、そこで職員が職分を超えて個人的に奔走するほうが、よっぽどおかしいのです。 でも、それでも……。 わたしは、琴里ちゃんの髪飾りと、光也君のことが気になります。 琴里ちゃんの髪飾りについては、それがお祖母ちゃんに貰ったものだからという理由で。光也君については、かつてのわたしが同じ事をしてしまったから……。 もしもわたしが、光也君にとって、ただの『児童室のお姉さん』ではなく、反田さんのように、歳の差はあるけれど個人的なお友達であったなら……。 ……反田さん? そう、反田さんなら、個人的な友情にかけて、光也君に事情を聞いてみることができるのでは? 実は、光也君は、最初はお互いそれと知らずに友達になったけれど、反田さんの草野球仲間の息子さんだったのだそうです。だから、反田さんは、光也君の家も電話番号も知っているのです。 わたしは立場上動けなくて、何もできないけれど、反田さんにわたしの想像を話して、反田さんもそうかもしれないと思ってくれたら、反田さんが、あの行動力と、光也君との個人的な繋がりで、なんとかしてくれるかもしれません。 でも、反田さんも、もう帰ってしまいました。次に会えるのはいつかしら。夕方の犬の散歩では、会えるかしら。 でも、もし夕方反田さんに会えたとしても、それから光也君に連絡をとって、もし光也君が髪飾りを持っていたら返してもらって、それを琴里ちゃんの家に……と考えると、琴里ちゃんの引越しに間に合わないかもしれません。 一瞬、今から走って追いかけたら家に帰る途中の反田さんに追いつけるかしらと思い、柱時計を見ましたが、あれからもう、けっこう時間が経っています。たぶん、反田さんは、もう家に戻っているでしょう。 もう、わたしに打つ手はないのでしょうか……。もともとわたしがでしゃばるようなことではないのですし。 でも、今、何もせずに引き下がってしまったら、わたし、きっと後悔するような気がします。わたしにできるのは反田さんを頼ることだけだけど、せめて、反田さんに連絡を入れて、わたしの想像を話して、二人で相談してみるだけでも……。ここに座ったまま、ただ諦めてしまうのなんて、いくらわたしでも、さすがにヘタレすぎます! ほんの少しだけでも、反田さんの行動力を見習わねば! 反田さんに電話番号を聞いたことはないけれど、反田さんの家はお店屋さんですから、当然、町内版電話帳に電話番号が載っているはずです。たぶん、レシートにだって書いてあるでしょう。もしかすると、祖母が空き缶に貯めていたレシートをひっくり返して探せば、反田洋品店のレシートが、一枚くらい出てくるかもしれません。それよりも、電話帳を調べるほうが速いでしょうが。 普通なら、本人から教えてもらっていない番号に電話するなんて厚かましい気がして気が引けますが、お店屋さんの電話番号なんだから、わたしが知っているからといって変に思ったりはしないでしょう――しないと、思いたいです。 わたしは思い切って立ち上がり、電話台の下から町内版電話帳を引っ張りだして、反田洋品店の電話番号を調べました。 プッシュボタンに指を伸ばして、やっぱり少し、ためらいました。反田さん、自分から教えてもいない番号にわたしが突然電話してきたら、やっぱり変に思わないかしら。ご迷惑じゃないかしら。もしかして、非常識だと思わて嫌がられてしまうかも……? いいえ、ためらってる場合じゃありません。わたし、せめて反田さんに相談しようと決心したんだから。このまま何もせずに終わるのは嫌だと思ったんだから。 でも、電話をしたら、誰が出るかしら。反田さんご本人ならいいけれど、ご家族が出る可能性が高いですよね。そしたら、わたし、なんて言えばいいでしょう。当然、自分の名前を名乗るわけですが、あちらはわたしのことなんか知らないんだから、『誰だろう』と怪訝に思うかもしれません。もしかして、セールスの電話だと思われたりして? よく、わざと社名を出さずに個人名で電話して、ご家族に友達と勘違いさせて電話を繋がせる手口がありますよね。だから、近所のものだとわかるように、『四丁目の』を付けたほうがいいかも。 用件は聞かれるかしら。それとも、反田さんをお願いしますといえば、何も聞かずに繋いでもらえるかしら。というか、よく考えてみれば、反田さんのご家族は、たぶん全員『反田さん』じゃないですか! 『次男さんをお願いします』というのも変だし、反田さんの下のお名前、何でしたっけ……? そういえば聞いたことなかったような。図書館の利用カードやリクエスト用紙に書いてあったはずだけど、憶えていません。 ……しばらく考えて思い出しました。たしか、貞二さんというのです。でも、それも、ご本人から名乗られたわけじゃないんですよね。それを、なんでわたしが知っているのかと、変に思われないかしら。利用カードを見て名前を憶えてしまっていただなんて、本当はいけないことなのです。いえ、憶えてしまうのは不可抗力でしょうがないけど、そうやって業務上たまたま知ってしまった個人情報を口外したり、業務外のことに利用してはいけないのです。でも、いきなり自分から『図書館の利用者です、いつも探偵小説をリクエストしている者です』なんて名乗った反田さんが、そういうことをすごく気にするとも思えません。たぶん、わたしに名前を知られていて当然と思っているでしょう。むしろ、常連である反田さんの顔や名前をわたしが憶えていなかったとなったら、逆にがっかりするかもしれません。そういう人も、中にはいます。主に年配の方に多いですが、喫茶店で『いつものやつ』が通じるのが嬉しいタイプの方ですね。反田さんは、たぶん、そのタイプです。 だからといって、相手が気にしないからいいというものでもないのですが、でも、電話番号を利用者登録情報から調べたわけじゃなし、お名前くらいなら……。だって、わたしと反田さんは、たまたま最初は図書館員と利用者という立場で出会ったけれど、実はご近所同士で、今では犬の散歩仲間で、互いの家から職業、家族構成、その他諸々まで知っている個人的な知り合いでもあるんだから、たまたま下の名前を名乗りあっていなかったというだけで、お互いに、もう、名前さえ隠すような関係ではないはずです。 しばらくぐるぐる考えて、ご家族が電話に出た場合に何と言うかを頭の中で何度もシミュレートして、思い切って電話番号をプッシュしました。 どうしましょう、なんだかドキドキします……。 すっかりご家族が出るだろうと思い込んで覚悟していたので、いきなりご本人が出て、それはそれで動転してしまい、とっさに、「あ、あのっ……!」などと、上ずった声を出してしまいました。ああ、恥ずかしい。いい大人なのに、電話の一つもまともにかけられないなんて……。 なんとか気を取り直して「司です」と名乗ると、反田さんも、「えっ? あ? 司書子さん!?」と、声を裏返しました。 驚かれはしても、わたしが電話番号を知っていることや電話をしたことを不快に思われはしなかったようです。「どうしたんですか?」とわたしに問う声が、心なしか弾んで聞こえました。 それに力を得て、わたしの仮説をお話しすると、反田さんは「きっとそうだ!」と叫び、すぐに光也に電話するから、と、大慌ての様子で、いったん電話を切りました。 とりあえず肩の荷を下ろした気持ちで、ほっとして朝食の後片付けなどをしていると、しばらくして、反田さんから、息せき切るような声で電話がかかってきました。やはり、光也君が髪飾りを持っていたとのこと。児童室に落ちていたのを、ついポケットに隠してしまい、返したいと思いつつ、言い出せなくなってしまったそうだとのこと。それを、反田さんが説得して、手ずから返しに行って謝る決心をしたとのこと。 ああ、よかった。琴里ちゃんも髪飾りを取り戻すことができるし、光也君も、琴里ちゃんが許してくれてもくれなくても、少なくとも、ずっと後ろめたい想いを抱え続けずには済むでしょう。これでもう、一件落着は時間の問題ですよね。反田さん、いろいろと無駄に軽挙妄動、右往左往する人だと思ったけど、やっぱり本当は頼りになるのですね! ……そう思ったところに、突然言われました。 「司書子さん! 今日、お休みですよね? 今から何か用事ありますか?」 「えっ……? 特には……」 「良かった! じゃあ、司書子さんも一緒に来てください! 琴里ちゃんの引越し、明日だと思ってたら、今日に変更になってたそうなんです。光也と一緒に今からそちらに向かいますから、そうですね、十分後に、家の前で待っててください!」 ……えっ、えっ、わたしも? わたしが光也君と反田さんと一緒に琴里ちゃんの家に行くの? どういうこと? なぜわたしまで行く必要が? しかも、十分後!? 少し動転しましたが、幸い、朝の家事も身支度もひととおり終わっているし、出かけられない理由は特にありません。なんだかわからないけど、乗りかかった船です! ……それに、わたしも、光也君と琴里ちゃんの顛末を見届けたいですし。 |
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