次の土曜日は、たまたま非番でした。基本的に平日休みの仕事ですが、交代で月に一度くらいは土日の休みがあるのです。 朝、犬の散歩の途中で、また反田さんと会いました。 出勤日の朝はともかく、休日の朝や夕方の散歩はその日の都合で時間がずれるのに、不思議なことに、そういう時でも、かなりの確率で反田さんと出くわすのです。本当に不思議です。もしかして、何か運命的なご縁でもあるのでしょうか。いえ、わたしと反田さんにそんなものがあるわけはないので、スノーウィと反田さんちのキャンディちゃんが不思議な縁で繋がっているのかも……? スノーウィは雑種でキャンディちゃんはトイプードルだけど、前世で親子や兄弟だったとか? 並んで歩きながら、反田さんは、少年探偵団活動の首尾を報告してくれました。 あの後、反田さんは子供たちを連れて苑明寺に行き、調査と称して境内を探検した後、あらかじめ電話で連絡してあったご住職に、本堂でお話を伺ったとのこと。 住職さんのお話によると、御狩原小学校の子供たちの間で噂になっている妖怪『かんざしババア』は、実は、苑明寺に伝わる悲しい物語が元になっているのだそうです。 それは、こんなお話だそうです。 昔、とある屋敷で女中をしている千代という娘がいた。千代は両親を無くして天涯孤独の身であったが、器量良しな上に気立ても良く、働き者で、新参者ながら、その家の主人からも奥方からも可愛がられていた。そんな千代に、出入りの商人の使用人、嘉七が懸想したが、嘉七は、金も身分もなく容姿にも恵まれない自分のようなものは千代に相手にされないだろうと、想いを告げられずにいた。そうするうちに募った想いが、やがて妄執となり、妄執のあまり正気を失った嘉七は、出来心で、主人に可愛がられる千代を妬む女中仲間の一人に金を渡して奥方が大切にしているかんざしを盗み出させ、千代が失くしたのだと罪を着せさせた。それによってもしも千代がその家を追い出されるようなことがあれば、身寄りのない千代は路頭に迷うから、そこに自分が手を差し伸べれば千代を手中にできるかもしれない、そうでなくても、千代が困っているところに『落ちていたのを見つけた』とかんざしを渡せば千代に恩を売ることができるだろう、と、そう考えたのだった。が、千代を憎む女中が、千代はかんざしを失くしたのではなく盗んだのではないかと奥方に吹き込んだために、奥方は、可愛がってやった千代が恩知らずにも裏切ったかと激怒し、潔白を訴える千代の言葉を信じず、「もし盗っていないというのなら、探してこい、見つかるまで帰ってくるな」と、寒い雪の夜に、千代を家から追い出した。千代を憎む女中は、そのことをあえて嘉七に知らせなかった。千代は雪の中、かんざしをあてもなく探しまわるうち、御狩川に架かる花野橋の上で足を滑らせて、川に落ちて死んでしまった。 それ以来、かんざしを挿した女性が花野橋を通ると、背後から「かんざしを寄越せ」という声が聞こえ、振り返っても誰もいないという怪異が相次ぐようになった。恐れて逃げ出すと背後を足音が追いかけてきて、家に駆け込めば足音は止むが、翌朝には、かんざしが忽然と消えているという。それを知った屋敷の使用人の一人が、それは千代の怨霊ではないかと周囲に漏らし、その噂はたちまち町に広まった。自分のしでかしたことの結末を知らずにいた嘉七は、この噂によって千代の死を知り、正気に戻って後悔し、花野橋のたもとの苑明寺を訪れて住職に己の所業を懺悔し、そのまま出家して、千代の菩提を弔うことに一生を捧げた。苑明寺の住職から事情を知らされた奥方は、大変後悔して涙を流し、千代を丁重に供養してくれと、苑明寺に多大な寄進をした。苑明寺は千代のために立派な墓を建て、今でも毎年、その命日に法要を行なっている。 えーっと、番長皿屋敷の類話でしょうか。 それにしても、可哀想なお話ですね。奥様も女中仲間もひどいですが、一番とんでもないのは嘉七です! だって、そのお千代さんが、好きだったわけでしょう? なのに、その好きな相手をわざと苦境に立たせるようなことをするなんて。普通、相手が好きだったら、相手の幸せを願うものではないのですか? それを、自分に有利な状況を用意するためだけに相手に濡れ衣を着せて窮地に立たせて平気な顔で、後から助けに出ていって恩を売ろうなんていう姑息な策略を巡らすなんて。利己的にも程があります。しかも、そもそも、当のお千代さんに、好きだと言ってもいなかったんでしょう? ちょっとくらい顔が悪くたって、お金持ちじゃなくたって、気立ての良い娘だったというお千代さんが、男性を顔やお金だけで選ぶとは限らないじゃないですか。勝手に相手にされないなんて決めつけないで、当たって砕けてみればよかったのに、その勇気がなかっただけじゃないですか? 身勝手で卑劣です! ……というような感想を歩きながら反田さんにお話ししたら、反田さんは、 「そ、そうですね……」と、苦笑しました。 「そりゃまあそうですが、当たって砕けてみる覚悟は、なかなかできないものですよ。特に玉砕が目に見えてる場合は……。嘉七はたしかに非道いやつだけど、俺は、嘉七がお千代さんに告白できなかった気持ちだけは、ちょっとわかりますね。金持ちでもなければ顔も特に良くない冴えない男がですね、見るからに高嶺の花な感じの清楚で可憐な美人さんにね、いきなり交際を申し込む勇気は、そりゃあ、なかなか出ないですよねぇ」 横目でこちらを見ながら、やけにしみじみとそんなことを言う反田さんに、わたしは少しびっくりしました。 「まあ。反田さんみたいに社交的で積極的で行動力のある方でも、そうなんですか……?」 「そりゃそうですよ。俺をなんだと思ってるんです。そういう司書子さんは、好きになった人には必ず、百パーセント、告白できるんですか?」 「そ、それは……」 わたしは、つい口ごもりました。 わたし、好きになった人に、告白したことがありません。今までの人生で、ただの一度も。 なぜなら、わたしが今までたった一人、本当に好きになった男の人には、すでに奥様がいたからです。 その人は、大学の先生でした。わたしの、ゼミの担当教授です。とても、とても年上の――まだ二十歳そこそこだった当時のわたしから見ればもうお爺ちゃんと言っていいくらいの年の人でしたが、わたしは、先生を、本当に、本当に好きでした。少し猫背の、背の高い後ろ姿も、癖のある歩き方も、灰色混じりの髪に時々寝癖がついているのも、眼鏡の奥の優しい目も、常に傍らに置いたコーヒーのカップを持ち上げる仕草も、ご自分の学問について語る時の少年のような眼差しも、ときおり見せるはにかんだ表情も、わたしに話しかける時の、ときどき少し困ったようになる声の調子も……。 毎日、毎日、先生だけを見ていました。先生のことばかり考えていました。先生が、わたしの世界の中心でした。先生さえいれば、その姿を見て、声を聞いてさえいられれば、他にはなんにもいらないと、本当に思っていました。たとえ先生が、わたしを振り向いてくれなくても。 そもそも、振り向いてほしいなんて、思ったこともなかったのです。 わたしの好きな先生は、奥様を裏切って悲しませるような人ではないのです。そういう先生を――奥様を悲しませたりしない先生をこそ、わたしは好きだったのです。 先生は、あまり学生にご家庭の話をなさるほうではありませんでしたが、それでも、先生が奥様を愛していらっしゃることは、ちょっとした言葉の端々に、うかがえました。先生が、ごく稀にちらりと奥様のことを話題にする時の、少し照れたような表情や、照れ隠しにわざとぞんざいを気取ったような口ぶりが、わたしは好きでした。 何かの時に、女子学生たちの間で恋愛談義が始まったことがあります。みんなまだ若くて未熟で夢見がちで、そのくせ自分はすでに年老いて疲れはてていると思い込んでいたりして、今思えば赤面ものの生意気さでしたが、おそらく、先生の目には、それもまた微笑ましく映っていたことでしょう。先生は、黙ってにこにこと、教え子たちの議論を聞いておられました。そんな中で、誰かが、『恋は叶ってしまったら終わるのだ』と言い出しました。恋とは手の届かない何かに焦がれる衝動なのだ、だから本質的に自己完結的なものであって、自分の裡なるときめきがすべてであり、実は相手とは関係がないのである、だから究極の恋は片想いであり、片想いこそが恋の真髄なのである、と。わたしも含めて、多くの学生が、深くうなずきました。その時、先生が、初めて口を開いて、おだやかな微笑を浮かべ、言いました。 「そうですね。たしかに、叶ってしまったら恋は終わるのかもしれないけれど、でもね、そうやって終わった恋は、失われるのではなく、愛に変わるんですよ」 夢見る女子学生たちは、普段は朴訥な年配の教授が突然そんなロマンチックなことを言ったのが面白く、楽しくて、大喜びできゃーきゃーと騒ぎたて、小生意気に先生をひやかしたりしました。やたら盛り上がられて「しまったなあ」と照れ笑いする先生をひそかに見つめながら、わたしも一緒になって笑うふりをしていましたが、(ああ、先生は今、奥様のことを思い浮かべたんだな)と思ったら、小さく胸が痛みました。 一度だけ、奥様にお会いしたことがあります。先生がゼミの学生をご自宅に招いてくださって、みんなで奥様の手料理をごちそうになったのです。奥様は同席はせず、最初にご挨拶をしたのと、後はお料理を運んでくださっただけでしたが――もちろん、わたしたちもみんなで手伝いました――、齢を重ねてなお身奇麗な、とてもお優しそうな方でした。わたしも年を取った時に、あんなふうになっていたいと思えるような……。 奥様の手料理は、それは美味しく、ご家族の思い出の写真を何枚も飾ったご自宅は、決して豪邸などではないけれど暖かく整って居心地が良さそうで、先生がさりげなく奥様を労る様子はとっても自然で……後でみんなして、いつかあんな夫婦になりたいね、素敵だね、憧れるね、と話したものでした。 あの幸せを、あの愛を、わたしのために壊して欲しいなんて、思えるはずがありません! 先生は、おそらく、わたしの気持ちに気づいておられたと思います。なぜなら、先生は、ことあるごとにわたしに向かって「若いんだから、いろんな男性と健全なお付き合いをして見る目を養いなさい」というようなことをおっしゃっていましたから。先生は、普段、学生たちの私生活や恋愛に口を出すような人ではなくて、先生がそんなことを言うのは、たぶんわたしに対してだけでした。だから、きっと、わたしの気持ちを知っていたからこそ、わたしを案じ、わたしのためを思って言ってくれていたのでしょう。そのたびにわたしは心の中で、(他の男の人なんてどうでもいい、わたしには先生だけでいい)と思ったものですが、そんな気持ちも先生はきっとご存知で、でも、応える気がないから、わたしを傷つけぬよう、何も気づかないふりをしていてくださったのだと思います。奥様への愛はもちろん、教授と学生という立場のせいもあったでしょう。 だから、先生に告白しようなんて、一度も本気で考えはしませんでした。 自分が先生に思いを告げる場面を、そして先生がそれに応えてくださる姿を、夢に見たことがないとは言いません。先生が間近に微笑みかけてくれる瞬間を、そっと手を伸ばしてわたしの髪に触れてくれる仕草を、夢想したことがないとは言いません。けれど、そういう妄想と、実際に告白しようと思うことには、厳然たる隔たりがあります。妄想は何も壊さないけれど、実際の告白は、もしかしたら先生の人生を壊し、そうでなければ、わたしの恋を壊してしまうから。片想いしているだけで幸せだった、先生の姿を目で追っていられるだけで息が詰まるほど幸せだった、その幸せを、壊してしまうから――。 思い出すと、今でも胸が痛み、わたしは目を伏せました。 が、何も知らない反田さんは、容赦なく追求してきました。 「どうなんです? 今まで、好きになった人全員に自分から告白しました? それとも、自分からは告白しないで、相手からさせるよう仕向ける主義とか?」 そんな追求は適当にかわせばいいのでしょうが、わたしには、そういう器用なことができません。思わずムキになって、本当のことを答えてしまいました。 「全員っていうほど大勢、好きになった人なんていないです。一人だけです」 それを聞いた反田さんは、すっとんきょうな声を上げました。 「えっ、一人? 今までの人生で、好きになった人が一人だけ!? 付き合った人数じゃなくて、好きになった人が? その年になるまで? 本当に!?」 『その年』って……。さりげなく失礼ですね。思わずむっとしました。そんなの、わたしの勝手です。たしかにわたしはいいトシですが、何歳になるまでに何人くらい好きにならなきゃいけないとか、そんな決まりでもあるっていうんですか? 何歳以上なら何人くらい好きになってなきゃ変だとか、そんな基準でもあるんですか? 一生の中で好きになる人なんて、それが本当の真剣な想いであれば、一人で十分だと思うんです。本物の、真心からの恋であれば、一度で十分だと思うんです。たとえば、初恋の人と結ばれて、そのまま脇目もふらずに一生を添い遂げた人は、好きになった人が生涯に一人だけかもしれないけれど、それがおかしなことだとか、そういう人は不幸だとか、そんなことは、全くないですよね。むしろ、素晴らしい、得がたい幸運で、幸せなことのはずです。もちろん、人生はいろいろ、人はそれぞれだから、そういう本当の恋をする機会が一生に何度もある人もいるかもしれなくて、それはそれで別にいいけれど、好きになった人や付き合った人の数が多ければ多いほどいいとか、少ないとおかしいとか、そんなことは、全くないと思います! つい、声が尖りました。 「いけませんか?」 「いや、別に」 反田さんは含み笑いをしています。やっぱり、わたしに恋愛経験が少ないのをバカにしていますね? いいです、もう……。わたしの恋愛歴なんて、反田さんには何にも関係ありませんから。 反田さんは、ちょっと意地悪な笑みを浮かべて、決めつけるように言いました。 「で、その人には? 告白したんですか? できなかったんでしょう」 絶対、できたはずないって決めつけてますね。まあ、そうですよね。わたしが今独身なのはわかってるんですから、ということはその恋は実らなかったのだろうと推測できるでしょう。でも、最終的に結婚に至っていないというだけじゃ、告白できなかったのかどうかはわかりませんよね。告白したけど振られたのかもしれないし、付き合ったけど別れたのかもしれないじゃないですか。たとえば中高校生の頃の初恋の人と、そのまま付き合い続けて、十年後とかに夫婦でいるってほうが、よっぽど珍しいはずです。普通は、大人になる前に、何らかの形で別れるでしょう。わたしだってそういうケースだったかもしれないのに、どうして告白しなかったんだと確信できるんでしょうか。反田さんはわたしを侮っていますね? わたしにはどうせ告白なんかできないだろうと思ってるんですね? ここで、胸を張って、『告白できました、両思いになれました』って、勝ち誇って言えたら溜飲が下がりそうですが……、嘘はつけません。そして、嘘はつかないでも適当にはぐらかせばいいのだというのは知っているのですが、わたし、何でもかんでも、ついつい本当のことを言ってしまうのです。 だから、つい、ぽろりと言ってしまいました。 「それは、でも、告白できない、してはいけない事情があって……」 ああ、わたし、なんで反田さんにこんな話をしているのでしょう。適当にはぐらかせばいいってわかってるのに、それができないわたしのバカ、バカ……。 反田さんが、これ以上追求しないで聞き流す配慮を見せてくれたら……と内心で願いましたが、もちろん反田さんにそんなデリカシーはなく、容赦なく直球でズバッと切り込まれてしまいました。 「はあ。相手が妻帯者とか?」 ぎくっとしたわたしを見て、反田さんは無造作に言いました。 「図星ですね。不倫の恋というヤツですか」 その言葉に、思わず言い返していました。 「違います! 先生は、人倫に背くことなど何一つしていません!」 わたしの、一生に一度の真実の恋の美しい想い出を、わたしと先生の清らかな師弟の絆を、事情も知らない他人に、そんな下世話な言葉で無造作に貶めて欲しくありません……。 「先生の名誉には、一点の曇りもありません! わたしの、完全に一方的な片想いだったんです。先生は、たぶん知ってたけど、知らないふりをしていてくださいました。そうすることで、ご自分も人の倫を守り、わたしにもそれを守らせてくださいました。先生には、奥様を裏切る気持ちは全くなかったと思うし、わたしも、先生に人の倫に背いてまで自分を振り向いてほしいだなんて、欠片ほども思っていませんでした。先生が、わたしなんかのために道を踏み外すことなんて、ちっとも望んでいませんでした。先生の奥様を悲しませたり、先生の幸せを壊すつもりなんか、全くありませんでした。たとえ相手が既婚者であっても、見返りを求めず恋する想いそのものに、罪はないと思います。相手が誰であろうと、人を想い、慕う気持ちそのものに、罪があるはずがないでしょう? だから、事情も知らずに不倫とか言わないでください……」 一気にまくしたてて、ふと我に返ると、反田さんが、びっくりした顔で目をぱちくりさせていました。 「……すみません……」 あっけにとられたように謝られて、自分の強弁が恥ずかしくなり、わたしも慌てて謝りました。 「ご、ごめんなさい!」 わたしったら、こんな道端で、いったい何で、よりによって反田さんに向かってこんな話をしているのでしょうか……。いったいなぜ、こんな事態に……? わたしたちは、話しながら歩いているうちに、いつの間にか家の前まで来ていて、木戸の前で立ち話をしていたのでした。足元では、退屈したスノーウィとキャンディちゃんが、うろうろと垣根の匂いを嗅ぎまわったり、じゃれあったりしています。 反田さんは、神妙な顔で、改まって頭を下げました。 「いえ、司書子さんが謝ることじゃないです。俺が無神経でした。失礼なことを言いました。ごめんなさい」 「いいえ、こちらこそ……」 ああ、恥ずかしい、わたしったら……。 自分で言うのもなんですが、わたし、元来おとなしいたちで、普段は、こんなふうに言い募るようなことは、あまりないんですが。なんでしょう、反田さんって、とても人当たりがよくて気安い雰囲気があるから、つい、つっかかっても大丈夫そうな気がしてしまうのでしょうか。 とりあえず、今、いわゆる不倫の恋をしているわけではないことは弁明しておいたほうがいい気がして、一応言っておきました。 「あの、これ、昔の話なんです……。ほんの子供の頃の、淡い片想いの思い出話ですから」 「はあ。中学校くらいとか?」 そうですよね、大学時代を『子供の頃』とは、あんまり言わないかもしれません。でも、今にして思えば、その頃のわたしは、ほんとうにまだ、ほんの子供だった、少女だったと思うのです。 「いえ、大学時代の恩師です。ゼミの担当教授だったんです」 反田さんはわたしの出身大学も知らないのですから、ゼミの教授だと言っても、個人の特定はできないでしょう。しかも、先生が今でも母校で教鞭を取っていらっしゃるならまだしも、もう、十年も前に職員名簿から消えているのですから……。 「大学のゼミっていうと、二十一、二くらいですか。それが初恋とは、ずいぶん遅いですねえ。俺なんか、初恋は幼稚園の時ですよ! 可愛かったなあ、ゆうこ先生……」 「はあ……」 「うんうん、告白もできずに終わった淡い初恋の、美しい想い出かあ。青春だなあ……」 あらためてそんなふうに言われると、なんだかあまりにも陳腐で、気恥ずかしいです。 「はい、まあ、そんなところです……」 ついつい頬を赤らめてうなずくと、反田さんは、探るような視線を向けて来ました。他人の恋話に興味津々なのは年齢性別を問わないのでしょうか。 「で、その先生は、今、どうしているんですか? 恩師なら、年賀状のやり取りくらいはありますよね。同窓会とか、ゼミの教授ならOB会とかで、会う機会もあるんじゃないですか?」 ああ、そんな機会があれば、どんなにいいか……! こみ上げた想いを抑えて、なるべく淡々と答えました。 「いえ。先生は、わたしの卒業前に、交通事故で亡くなりました」 反田さんは、はっとしたように居住まいを正して、帽子を取って頭を下げました。 「すみません、悪いことを訊きました」 「いえ……。昔のことですから」 ふたりともしばらく黙っていました。それから、反田さんが、ふいに言いました。反田さんにしては小さな声で。 「すみません。立ち入ったことをお訊きします。答えたくなかったら答えなくていいんですが、司書子さんは、今でもまだ、その人のことを想っている、と……?」 ふと胸が詰まり、わたしは声を出せずに、ただ、こくりとうなずきました。何か言ったら、涙が出そうでした。もう十年も前のことなのに、先生はもうこの世にいないのに、わたしは、まだ、先生を忘れられずにいるのです……。 わたしはもう、あの頃の世間知らずの少女ではなく、いいトシの大人ですけれど、わたしの中の、恋をする部分は、まだ、二十歳そこそこの女子学生のままなのかもしれません。あの頃から、時間が止まったままなのかも。 反田さんは、ため息をつくみたいに、 「そうか……」と呟きました。静かな声で。 ふと、反田さんにこの話を聞いてもらってよかったかも、と思いました。 今まで親友にも祖母にも話せなかったことを、なんで、個人的に知り合っていくらもたたない、たいして親しいわけでもない反田さんに話してしまったんだろうと思いましたが、そういう反田さんだからこそ、話せたのかもしれません。学生時代のわたしのことも、先生のことも、何も知らない、何の関係もしがらみもない反田さんだからこそ。 わたしはこの、ずっと誰にも言えずに胸に秘めてきた学生時代の秘密の恋のことを、本当は、誰かに聞いて欲しかったのかもしれません。わたしの胸の中の宝物を――大切に胸に抱いてきた、そして一生抱き続けていくつもりの美しい想い出を、その美しさを、誰かに誇りたかったのかもしれません。 だから、思いを込めて宣言しました。 「わたしの、最初で最後の恋です」 「ああ……。なるほど」 反田さんは、なぜだか微妙な顔をしました。学生時代の片想いを十年も引きずっているなんて、子供っぽいと思われたのでしょうか。けれど、それがわたしの真実です。真心です。他人にどう思われようとも……。 唇を引き結んだわたしに、反田さんは首を傾げて言いました。 「……でもね、最初の恋っていうのはともかく、最後かどうかは、まだわからなくないですか?」 そう言った反田さんの口調は遠慮がちで、思いやりに満ちて聞こえましたが、それでもわたしは思わずムキになって、ちょっと口調を強めてしまいました。 「わかります! わたし自身に、そのつもりがないからです! わたしは、もう、恋なんてしません。一生、先生の想い出だけでいいんです!」 口に出してみたら、思った以上に、きつい口調でした。言ってるはしから、わたしはもう後悔していました。わたし、なんでこんなことで、反田さんに向かって声を荒げたりしているのでしょう。ほんとに、わたし、最近ちょっとおかしいです。そもそも、こんなことを人に話している時点ですでにおかしいんですが。 反田さんは気圧されたように黙って、じっとわたしの顔を見ました。長いこと見られていて、なんだか居心地が悪くなってきた頃、ぽつりと言いました。 「そうですか。……素敵な方だったんですね」 その声音が、目尻を下げて微笑んだ反田さんの表情が、染み入るように優しくて、そうしたら、はい、とうなずこうとした拍子に、さっきから堪えていた涙がぽろっと零れ落ちてしまいました。 「あ……」 自分でもびっくりして慌てましたが、反田さんもびっくりしました。 「え、あ、わわわ、司書子さん! どどど、どうしたんですか? 大丈夫ですか!?」 「あ、ご、ごめんなさい、大丈夫です、なんでもないんです、やだ、わたしったら、ごめんなさい……」 慌ててポケットからハンカチを取り出し、目元を拭って、ふと見ると、反田さんが目の前にご自分のハンカチを差し出してくれていました。わたしたちは向い合って同時に自分のポケットを探っていたようで、わたしのほうがハンカチを出すのが一瞬早かったらしいです。 「あー……その……」 反田さんは、しばらく、困ったようにハンカチを差し出したままでいましたが、また、ごそごそとズボンのポケットにしまいこみました。 反田さん……。ありがとうございます。でも、わたし、そのハンカチはあんまり使いたくなかったかもです……。ちらりと見えた反田さんのハンカチは、とてもしわくちゃで、なんだかあんまり清潔そうじゃない気がしたので……。反田さん、ごめんなさい。でも、お気遣いは嬉しいです……。 どうしてもすぐには止まらない涙を自分のハンカチで押さえていると、反田さんは、 「あー……俺のせいですね。すみません、悲しいことを思い出させて……」と謝ってくれました。 まだ目尻に残る涙を拭いながらも、なんとか微笑んで、弁明しました。 「いえ、反田さんのせいじゃありません。びっくりさせてごめんなさい。わたし、泣き虫なんです。どうしても治らなくて……。ほんと、お恥かしいです。だから、反田さんのせいではないので、お気にならさらず……。そもそも、反田さんにこんな話、するつもりなんかなかったんです。今のはここだけの話にしてくださいね。つまらないこと話しちゃってごめんなさい」 「いや。俺はその話、聞けて嬉しかったですよ。俺だけに打ち明けてくれたなんて、嬉しいじゃないですか」 いえ、別に反田さんだから秘密を打ち明けたとかじゃなくて、ものの弾みで、ほんのなりゆきで、うっかり話しちゃっただけです……。ああ、なんでこんなことになっちゃったんだろう。消えてしまいたい。反田さんが聞き出し上手すぎるんです……。 でも、まあ、昔のことなんだし。それに、反田さんは先生を知らないんだから、どこの誰の話ともわからないんだし、どっちみち、わたしの一方的な片想いだったんだから、もしどこの誰のことだってわかっても、先生の名誉を汚すことにはならないでしょう。それに、反田さんは、おしゃべり好きだけど、ここだけの話と言われたことをむやみに言いふらすような人ではないと思います。だから、冷静に考えてみれば、反田さんが先生とのことを知ったからといって、何の害もありません。……わたしが反田さんの前で泣いてしまって恥ずかしかったということを除けば。 帰り際、反田さんはまた、垣根越しに手を伸ばして断りもなく木苺を一粒摘んでいきましたが、わたし、なんだか、反田さんに木苺を食べられることに、慣れてきてしまったような気がします。 |
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