長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第五章 水底の夢> 





 まきばのはずれから、一本の山道がゆるやかに上に向かっている。
 里菜とアルファードはその道の途中に立ち止まって、後からついてくる見送りの人々と向かい合った。
「ありがとう、もう、ここまででいいわ」と、里菜が静かに言った。
 ついてきているのは、ティーティとユーリオンとキャテルニーカ、ローイとヴィーレとその両親の七人だ。他の村人たちは、まだ、まきばで宴会を続けている。ふたりの後を追いかけるようにずっと聞こえている輪踊りの伴奏の楽の音が、彼らの見送りの代わりだ。ふたりがまきばで村人たちに別れの挨拶をした時、里菜は、『みんなは、あの虹が消えるまで、ここで、なるべく賑やかに宴会を続けてくれるように』と頼んでおいたのだ。
 ここまで見送ってもらった少数の人々とも、ここでお別れだ。ふたりはそれぞれに短い別れの言葉を述べて、一人一人と別れを惜しんだ。
「ローイ、ヴィーレ、お幸せにね。ローイ、本当に浮気しちゃだめよ。ヴィーレ、がんばって本当に子供を十人位産んでね」と里菜が言うと、ローイが、別れの寂しさを吹き飛ばそうとするかのように陽気に叫んだ。
「十人じゃねえぞ、俺、子供は二十人くらい欲しいぞ!」
「もう、ローイ、そんな、気楽に無茶なこと言って。そりゃ、ローイはいいわよ、自分が産むんじゃないんだから。大変なのは産むほうでしょ。ヴィーレの身にもなってごらんなさいよ。ね、ヴィーレ?」
「ううん、リーナ、あたしも本当に二十人くらい子供が欲しいわ。子供って好きだし、ほら、あたし、一人っ子でしょ。ずっと、賑やかな大家族にあこがれてたの」
 ヴィーレの言葉に、世話役夫妻は、
「孫が、二十人……」と絶句し、
「おお、これは頼もしい。こういう夫婦がいるから、この国は安泰だ」と、ユーリオンが笑った。
 次に里菜はキャテルニーカの髪を撫でて言った。
「ニーカも、ティーオと幸せにね。そうそう、ひとつ言っておきたいんだけど、ほら、ティーオが火を出すものをいろいろ作ってるでしょ。あれ、あたしたちはとっても有難かったけど、一歩間違うと、この世界を目茶苦茶にしてしまうかもしれないような、すごく危ない研究なのよ。彼があんまり大きい爆発が起こるようなものを作ろうとしたら、止めてあげてね。ああいう人って、夢中になるとまわりが見えなくなる人もいるらしいから」
「大丈夫。危ないことはさせないわ。彼の才能が、本当にこの世界の役に立つことに使われるよう、あたしがちゃんと見張っとく。お姉ちゃん、安心して、遠くからあたしたちを見ていてね」
 キャテルニーカは自信たっぷりの輝かしい笑顔を浮べた。
 最後にティーティが進み出て、里菜を見上げ、全員を代表して最後の挨拶を述べた。
「それじゃ、お姉ちゃん、元気でね。御魂のいやさかを……」
 みんな胸に手を当てて、最後の祈りをティーティに和した。
 里菜は微笑んで手を上げ、ティーティと後ろの人々に祝福を与え、アルファードを促して、山頂に向けて歩き出した。
 東の空には、まだ、大きな虹がくっきりと浮んでいた。


 ふたりはしばらく無言で坂を登り続けた。
 この道は山頂へ向かう道だと言われているが、山頂付近は結界になっていて、実際に山頂に行ったことのある人間はいない。
 信心深い村人たちは、あえて聖域を侵そうなどとはしなかったし、それでも長いあいだには、ごくまれに、世を拗ねたへそ曲りの老人だの反抗的で冒険心に富む若者だの、ものに憑かれて気の触れた娘だのが、この道を登って山頂を目指したこともあったが、彼らのうちの何人かは、そのまま戻って来なかった。そして戻ってきたものは、決まって、『途中で霧に巻かれ、ずっと坂を登っていたはずが霧が晴れた時にはいつのまにか山を巻いてもとのところに戻ってしまっていた』と話したという。
 だから、この道が本当に山頂まで続いているのか、また、山頂までどのくらいの時間がかかるのか、誰にもわからない。もちろん普通に歩けば、いくらエレオドラ山がそれほど高くないとはいえ、今から登り出したのでは夜までに山頂に着けるわけがないのだが、里菜とアルファードは、必ず虹が消える前に山頂に着けると信じている。
 ふたりは、もう、村人が普段来ないようなところまで来ていたが、道は、草に埋もれることもなく、まだ続いていた。といって、けもの道というのでもない。こんな誰も歩かない道が道として残っているということは、ここはすでに神秘な力で守られた結界の内なのだろう。ふたりとも、あたりに漂う特別な力を肌に感じていた。今のこの、夢の中に分け入っていくかのような感覚は、ちょうど魔王の城を目指して北の荒野を歩いていた時のそれと似ていた。いくら歩いても、疲れることはなかった。虹はあいかわらず空にあって、ふたりを誘なっている。
 どれくらい歩いただろうか。いつしか周囲の景色が変わっていた。それまであった木立がとぎれ、岩がごろごろする見晴らしのよい斜面を、細い道は登っていく。
 まだ日が暮れていないところを見ると、そんなに長い時間はたっていないらしい。
 斜面を登りつめたふたりの視界がふいに開け、巨大な白い神殿の廃墟が、茜色の夕空を背景に浮び上がった。
 それは、荘厳な遺跡だった。崩れ落ちた壁、途中から折れた円柱、傾いた石段……。時に晒された廃墟は悲しいまでに清浄で、美しかった。
(あたしはこの場所を知っている……)
 里菜は神殿の前に立ち尽くした。そこは、里菜が幾度も夢に見たあの廃墟だったのだ。
 虹は、まだくっきりと、神殿の上にかかっていた。現実にはありえないはずのことだが、その虹の、片方の足が、神殿の中に消えている。
 けれど、このありえないはずの現象を、この時ふたりは、ごく自然に受け入れた。
「行こう」
 黙って神殿を見つめている里菜の肩を後ろからアルファードが抱いて、ふたりは廃墟に足を踏み入れた。
 崩れかけたきざはしを登りつめたふたりは、倒れた円柱をよけながら、屋根も壁もほとんど崩れ落ちて床だけがむき出しになっている神殿の内部に歩を進めた。
 周囲より高くなっている神殿の床に立つと、そこは、本当に山の頂上だった。ちょうど展望台のように、四方の景色が、ぐるりと見渡せる。
 西側のすぐ目の下には、イルゼールの村やイルド、ルフィメルといった谷間の村が、そして、夕日を浴びてオレンジ色のリボンのように輝くエレオドラ川が見晴らせる。もっと遠くには、米粒をばら撒いたようなプルメールの街が、上に目をやればイルシエル山脈の薄紫色のシルエットが目に入る。
 そして東側は、どこまでも、ただ深い緑の森だけが、半ば夕闇に沈んで、はるかに続いていた。
 そこは、この世界の人間たちにとっての世界の果てのその向こう――人間たちが永遠に知ることのない人知の外の領域であり、人間たちが夢の中以外では永遠に出会うことのない奇妙な生き物たちの生命に満ちた、原初の楽園だった。
 崩れかけた円柱の間を、山の夕風が吹き巡る。
 山頂の神殿に立った里菜――生命の女王エレオドリーナは、自らの王国をぐるりと見はるかして微笑を浮かべ、ゆっくりと手を上げて、人間の住む小さな世界を、そして人間が永遠に訪れることのない果てしない緑の領域を、それぞれの地に住むすべての生命たちを祝福した。
「水は流れよ。大地に実りあれ。この地に生きる、すべてのいのちに祝福を……」
 四方の世界への祝福を終えると、里菜とアルファードは神殿の中央に目を向けた。
 床の真ん中が崩れて、大きく陥没した穴のようになっていた。その穴の中に、虹の片脚が吸い込まれるように消えている。ふたりは穴の淵によって、下を覗き込んだ。
 そこは、深く巨大な洞窟の、天井に開いた穴だった。上から差し込む光を映して、はるか下方に静かな水面が碧くきらめいている。洞窟は、どうやら鐘乳洞であるらしいが、その壁は、天井から差し込むのとは別の淡い光をぼんやりと発しており、息づくかのようにゆるやかな明滅を繰り返すその光のために、洞窟の内部は、ほの明るい真珠色に輝いていた。
 虹の根もとは、その、洞窟の底の、地底湖に没しているようだ。
 アルファードは里菜にうなずきかけると、里菜の手をとり、ふわりと浮き上がって、穴の中にゆっくりと下降していった。
 ふたりは、翡翠色の地底湖のほとりに、静かに降り立った。
 そこは、秘密の花園だった。
 脈打つ光の中で、ふたりの足元には青い<女神の花>が一面に咲き乱れて、かすかな気流にさわさわと揺れていた。その上に、ときおり天井の鍾乳石からぽたりと水が垂れて、そのたびに、不思議な残響が、水の波紋のように、洞窟中にひたひたと広がっていく。
「そうか、たぶん、ここが、エレオドラ川の水源なんだ。ほら、あっちの隅に横穴があって、そこから地底の川が流れ出している。あの流れが、どこかで地上に出るんだろう。それで時々、<女神の花>の花びらが、上流から流れてくるんだな」
 あたりを見回してアルファードが言った。その声がくぐもった響きを帯びて反響する。
 こうして地底湖のほとりに立つと、さっきまではっきり見えていた虹の根もとは見えなかったが、天井の穴から空を見上げると、やはりまだ虹が見えていた。
 里菜は地面に膝をついて、底知れず澄んだ静かな地底湖を覗き込んだ。
 その、鏡のような水面に、虹が映っていた。
 映っていたというよりは、水の中に、逆さまに虹が架かっていたのだ。
 虹は、水底深くへと分け入り、その先は、翡翠色を帯びた湖の深みに消えていた。
 その時、里菜は、虹が消えていく先の水底《みなそこ》に、ひとつの風景が、夢のようにぼんやりと浮び上がってくるのを見た。
 しだいに鮮明に見え始めたそれは、まるで高い山の上から、あるいは飛行機から見るような、東京の俯瞰図だった。隅のほうには、エレオドラ山によく似た富士山のシルエットがある。じっと見つめているうちに、飛行機が降りていくように、水底の東京がだんだんと近くなってきた。視界の隅に、見慣れた新宿のビル群が、その頂きに瞬き始めた赤い灯が見えてくる。
 風景はさらに近付き、里菜の住む住宅街のこぢんまりした町並が、はっきりと見分けられるようになってきた。
 幻のように白く、遠くに浮ぶ高速道路。ピンク色に染まりながら音もなく低空をよぎっていく飛行機。ひがな一日、白から灰青色に、バラ色からスミレ色にと微妙にその色合を変え続けるコンクリートのビルたち。遠くにきらめく多摩川。黒や赤、青やオレンジの、無数の小さな屋根。その隙間を埋める木立ちの緑。街なみに継ぎを当てたようにぽつんと残る麦畑。赤と白の縞模様の煙突。薄れかけた夕日に照り映える給水タンク――。夢のように水底に浮び上がるのは、里菜の故郷の、夕暮れの光景だった。
 里菜の胸に、懐かしさと愛おしさが込みあげてきた。
 今では風景はもっと近付き、里菜の通った学校が、通学路だった道路が、小さい頃によく遊んだ空き地が、そして里菜の家が、はっきりと見て取れるまでになった。小さな庭が、そこに以前里菜が苗を買ってきて植えた姫りんごの木が見える。カバーをかけて玄関の前に置かれた里菜の自転車が、勝手口の青いゴミバケツまでが、今やはっきりと見わけられる。
 ふと横を見ると、アルファードも同じように水底を覗き込んでいた。けれどもたぶん、アルファードが見ているのは、里菜とは違う光景だろう。たぶんアルファードは、彼の住んでいた街を、今、見ているのだ。
 その穏やかな横顔に、里菜はそっと呼びかけた。
「アルファード……」
「ああ。行こう」
 ふたりは立ち上がり、水底深くに通じている虹の橋を見下ろした。
 里菜がアルファードを縋るように見上げた。もう二度と見ることが出来ないだろう姿を目に焼き付けようとする必死な眼差しが、抑えきれない哀しみに揺らいだ。
 アルファードは、里菜の頭を胸に抱き寄せ、頭上で囁いた。
「リーナ。そんな顔をしないでくれ。俺たちは、絶対にまた会える。俺は、そう信じている」
「……うん。アルファード、きっと、あたしを見つけてね」
「ああ、必ず」
 アルファードは、その短い言葉と同じ力強さで、同じ言い尽くせない想いを込めて、里菜をひととき強く抱きしめ、それからそっと抱擁を解いた。
 ふたりは同時に水の中の虹に向かって足を降ろした。
 虹は、水の中に作られた階段であるかのようにしっかりと二人の足を受け止めた。冷たくはなかった。水というより、空気の中に足を踏み出したかのようだった。
 ふたりは、手を取りあって、水底の夢の国へと歩み去った。
 やがて、水面に広がった波紋も消え、底知れぬ地底の湖はひっそりと翡翠色の水を湛えて、何事もなかったように再び静まり返った。
 湖のほとりで、青い花が揺れる。
 虹は消え、神殿の上に、すみれ色の夕闇が降りた。

(── 第五章・完 終章に続く ──)

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この作品の著作権は著者冬木洋子(メールはこちらから)に帰属しています。
掲載サイト:カノープス通信
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