長編連載ファンタジー
イルファーラン物語
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四(後)
たちまちみんなの視線と耳がローイに集まり、ひとしきりの歓声や拍手の後、ざわめいていた会場は、しんと静まった。
美しい旋律が、緑のまきばに、ゆったりと流れ出した。それは、いかにもローイらしい、牧歌的で感傷的な愛らしいラブソングだった。
空の下で 好きだよって言いたい
風の中で 見つめあっていたい
遠いふるさとの
風が歌う丘で
風に抱かれ くちづけを交わせば
木々もふたり 祝って揺れるよ
緑の野に咲く
君はスミレの花
草の海を 手を取って駆けよう
君と暮す 小さな家まで
毎朝君に おはようって言いたい
毎晩君に おやすみって言いたい
寒い夜は 暖めてあげたい
風の中で 寄り添う小鳥のように
寄り添う小鳥のように
『小鳥のように』の一節が二度、繰り返され、その二回目は、だんだんゆっくりになって、最後の一音が思い入れたっぷりに余韻を引いて消えたので、てっきりそこで歌が終わりかと思いかけたみなが、拍手をしようとして上げかけた手は、途中で止まった。歌はまだ、終わっていなかった。最後に、中間部の夢見るような旋律が、遠い谺のように、人が降りた後のブランコの微かな揺れ戻しのように、テンポを落として静かに回想されたのだ。
――遠いふるさとに
帰る夢を見たよ――
それは、幸せな夢から目覚めた後に、夢の名残りが消えて行くのを見つめながら茫然と呟かれた言葉のようだった。どうやら、これは、単純に、今、ここでのローイの気持ちを歌ったというのではなく、遠い都会でふるさとの恋人を想う若者という設定の、ストーリー性のある歌だったらしい。
みな、しばらく、しん、となって、それから割れるような拍手が沸き起こった。里菜も拍手をしようと手を上げかけたが、できなかった。微かに震えるような声でひっそりと歌われた、この、最後の一節を聞いたとたん、思いがけず、いきなり涙が滲んできたのだ。
そういえば、ここに来てから、里菜はこれまで、ほとんど、自分の故郷のことを――家や家族のことを思い出さなかった。別に家や親が嫌いで家出してきたというわけでもないのだから、考えてみれば、これまで家が恋しくならなかったといほうが変なのだ。たぶん、あまりに遠く離れ過ぎていから、しかも、二度と帰れないと思いこんでいたから、もといた世界のことを考える時でも家や家族のことは思い出さないようにと、いつのまにか自分で自分の心を規制していたのかもしれない。それが、帰れるとわかった今、里菜は突然、家を、家族を――自分の故郷を思い出して、涙ぐんでいる。
里菜は前髪を払うふりでこっそり涙を拭いてから、アルファードと顔を見合わせた。
「アルファード、もしかして、この歌、ヴィーレに……」
「ああ……」
歌い終ったローイは、聴衆の喝采を手で制して、声を張り上げた。
「あのなあ、みんな、聞けよ! この歌はァ、ある女の子に捧げる歌なんだァ! 俺が、イルベッザで入院していた時、治療院のベッドでその娘のことをひそかに想いながら心の中で作って、でも一度も歌わずにいたから今日が初演の歌なんだ!」
村人たちはいっせいにどよめいて、たくさんの視線が、後ろのほうにいるヴィーレに集まった。みな、アルファードが里菜が二人揃って元の世界に帰ってしまうとなれば、ローイとヴィーレがよりを戻すのは時間の問題だと噂していたのだ。ヴィーレは、自分に集まった視線にぎょっとして、助けを求めてまわりの友達の顔を見回している。
ローイは、自分の言葉に酔うように天を仰いで、身ぶり手ぶりもよろしく思い入れたっぷりに語り続けた。
「遠い都会の治療院に怪我の身を横たえて、じっと天井を見上げながら、ある時、俺は、ふと思った。俺は何でこんなところにいるんだろう、こんなところで、いったい何してるんだろうって。そうしたら、急に、この村の景色が、天井の向こうに見えるような気がした。ガキの頃に遊んだ緑のまきばが見えるような気がした。その、まぼろしの村から、まきばを越えて来た緑の匂いの風が、病室に吹き込んできたような気がした。その時、俺は、まきばの景色と一緒に、ずっと忘れていたつもりの、一人の女の子のことを思い出したんだ。ガキの頃、俺と一緒にそのまきばで遊んだ、小さな女の子のことを。白い花の冠を頭に載せ、スミレの花束を持って、まきばの陽だまりにちょこんと座った白い前掛けのその子が、どんなに可愛く見えたかを。それを見て、俺は、なんて可愛いんだろう、まるで本物のお姫様みたいだなあって思った――そのことを。
一度、思い出したら、それからはずっと、その娘のことばかり考えていた。小さなスミレの花みたいな、その娘のことを。その娘の、春の空みたいな水色の瞳のことを。春の日ざしみたいな、その笑顔のことを。もし今、俺の隣に、やさしいあの娘がいてくれたら、どんなにいいだろう、どんなに嬉しいだろうって、思った。そして、ああ、俺って、なんてバカだったんだろうなあって思った。どうして、あんなに可愛いあの娘を置いて、こんなとこまで来ちまったんだろうって。それから、一番きれいな花はいつも足元にあるんだっていう、古い寓話を思い出した。一番の幸せはいつも一番近くにあるんだけれど、人はいつでもそれに気がつかず、遠くまで旅して初めてそれを知るんだっていう、あの、お決まりの例え話を。
そんな説教話を聞かされる度に、そんなこと言われなくっても分かってらあって思ってバカにして聞き流してたけど、昔の人の言うことは、やっぱ、真面目に聞いとくもんだよなあ。俺は、遠く旅して、初めて自分の幸せがどこにあるのか知った。俺の一番大切なスミレの花が、ずっとどこに咲いていたのかを思い出した。昔、一緒に遊んだあの女の子を、自分が、ずっとずっとどんなに好きだったかを、もう一度、思い出したんだ。……その女の子というのはァ」と、ローイはますます声を張り上げて、いきなりヴィーレをびしっと指さした。
「ヴィーレ、お前のことだあーッ!」
ローイの熱弁にわくわくと聴き惚れていた会場は、たちまち歓声や口笛に包まれた。
「おおーっ!」
「いいぞ、いいぞォ!」
「キャー、ステキ! ローイ、やったあ!」
若者たち、娘たちが、てんでに声を張り上げ、真っ赤になっているヴィーレが娘たちの群れの中から無理やり押し出された。慌てて群れの中に逃げ戻ろうとするヴィーレを、ヴィヴィとファーラが両側から捕まえて再び引きずリ出す。
そのヴィーレに、あいかわらず椅子の上から、大声でローイが呼びかけた。
「ヴィーレ、覚えているかぁ? 俺たち、ガキの頃、ちょうどこのまきばで、お嫁さんごっこをしただろ? 俺はお前に、スミレの花の指輪を贈ったよな。俺の気持ちは、今も、あの時と変わっていない。ヴィーレ、愛してるぜェ! 親が決めた許婚だからなんかじゃなく、俺は本当に、ガキのころから、ずっとお前が好きだったんだ。俺と結婚してくれえーッ!」
会場はもう、娘たちの悲鳴に近い歓声や、若者たちの怒声に近いひやかしの声に包まれて、熱狂のるつぼと化し、ひとりヴィーレだけが、真っ赤になって、凍り付いたように、ものも言えずに立っている。
里菜とアルファードは呆然と呟いた。
「ローイってば……。信じらんない……」
「いくら劇的にといっても、まさかここまで……」
「うん……。たしかにインパクトは強いけど、リスクも大きいっていうか、これやって失敗したら、もう修復不可能って感じ」
ローイは、追討ちをかけるように叫んだ。
「ヴィーレぇ! 返事はどうした! 返事をくれよう! 俺、こんだけ派手に、村中の人の前でお前にプロポーズして、これで断わられた日にゃあ、もう、恥ずかしくて、この村に居られなくなっちまうぜ! それでもいいのかあーッ!」
それを聞いたアルファードは頭を抱えた。
「……あのバカ。いくら強引にといっても、あれじゃ脅迫だ……。俺は、あいつに与えるアドバイスの選択を間違えたらしい。さっきはあんなにおどおどしていたから、はっぱをかけてやったんだが、あいつの行動パターンを読み誤った。俺もまだまだ未熟者だ……」
ヴィーレが返事をしないので、ローイは更に声を張り上げて喚き続けた。
「ヴィーレ、聞いてくれ! 俺は、都で、さんざ女遊びをしてきたァ!」
「へっ?」と、里菜は目を丸くし、会場からはどっと笑いが沸き起こった。
大人たちは呆れ顔で苦笑し、若者たちはげらげら笑いながら足を踏みならし、指笛を吹き、大喜びではやしたてる。
「ローイってば、一体、何を言い出すの? たしかに本当のことだけど、だからって、何もそんなこと、ヴィーレやみんなの前で偉そうに言い触らさなくても……」
「まったく、あいつは何を考えているんだ……」
里菜とアルファードは呆れた顔を見合わせた。
ヴィーレはと見ると、やはり、これは何の話かといった顔で、きょとんとしている。
ローイは会場のざわめきを手で制して続けた。
「だから、ヴィーレ、お前が一緒になってくれたら、俺、これから先、一生、浮気はしない。なんたって、これでもう一生分遊び尽くしてきたんだからな。思い残すことはない。これから先は、お前一筋だ! 俺、絶対、お前を幸せにするぞ! ヴィーレ、俺はお前を幸せにするために生まれてきたんだァーッ」
「よく言った、ローイ!」
「いいぞ、いいぞォ!」
「キャーッ、ヴィーレ、羨ましい!」
再び嵐のような拍手と口笛が沸き起こる。
「ローイってば、何が『言えねえ』よ。しっかり、言ってるじゃない。ねえ!」
「ああ、あのお調子者め」
里菜とアルファードは笑いあった。
「ちょっとォ!」と、ヴィーレの隣で、ファーラが怒鳴った。「みんな、静かにしなさいよ。これじゃ、ヴィーレが返事しても、聞こえないじゃないのっ! さあ、ヴィーレ、返事は、返事っ! もちろん、オーケーよねっ! ね? ね?」
「ヴィーレ!」と、ローイがまた大声を出した。「俺、都で、お前に指輪を買ってきたんだ。もちろん、あの時約束したシルドライトの指輪なんかは買えなかったが、それでも、心を込めて選んできた。ほら、これだ。よかったら受けとってくれ! 受けとってくれるよなっ?」
ヴィーレはますます真っ赤になって、ファーラの後ろに隠れるようにして、下を向いたまま無言で小さく頷いた。
一瞬静まり返ってヴィーレの返事を待っていた人々は、どっと沸き返った。会場は、帽子は飛び交うは、パイは投げられるは、酒はぶちまけられるは、赤ん坊まで宙に投げ上げられるはの、大騒ぎになった。
その騒ぎにも負けない大声で、
「やったァーッ!」と叫びながら、ローイは、椅子の上で派手に躍り上がり、椅子を飛び降りて、ヴィーレのほうに駆け寄った。
娘たちがよってたかってヴィーレを捕まえて、ひやかしながらローイの前に押しやると、ローイはうつむくヴィーレの手を取って指輪をはめてやった。娘たちが歓声を上げて手を叩いた。
すると、その歓声に調子に乗ったローイは、決して小柄ではないヴィーレをいきなりひょいと抱え上げて、わざとよろけたり高々と持ちあげたりしておどけて見せた。ヴィーレはめんくらって、悲鳴も上げられずにただ真っ赤になり、振り落されないようにローイの首にしがみついている。
「ローイって、ほんと、お調子者……。ヴィーレも大変ね。でも、ふたり、幸せそう」
やんやの喝采を浴びてますます悪ノリするローイの得意顔を見て、里菜は笑ったが、ローイのお調子は、これにとどまらなかった。図に乗ったローイは、いきなり、今度はこう叫んだのだ。
「と、いうわけでぇ! 俺とヴィーレは結婚する! それで、だ。今日はめでたいお祭りだ。幸いここには司祭もいるし、村中の人が晴れ着で集まってて、ごちそうもならんでいる。しかも、なんと、結婚式の守護神でありながら誰の結婚式にも実際に姿を現わしてはくれなかった女神様の名代が、そこに御顕現遊ばしてるじゃねえか! このチャンスを逃す手はねえ。今、ここで、俺たちの婚礼を挙げ、この宴会に、俺たちの婚礼の宴会も兼ねさせてもらっちゃどうだろうか? なにしろ、女神様と<魔法使い>と<長老>、それに本物の妖精の女王様にまで婚礼に立ち会ってもらえるチャンスなんて、もう、二度とねえぞ。な、ヴィーレ、いいだろ? お父さん、お母さんも、もちろん、いいよな?」
ローイは、ふた親ともとっくに亡くしているから、この『お父さんお母さん』というのは、もちろん、ヴィーレの両親のことだ。この馴々しい呼びかけに、ヴィーレの両親は、笑いながら頷いてくれた。
ヴィーレはまだローイに抱き上げられたまま、ものも言えずにあっけにとられていたが、むろん、他の村人に異存があろうはずがない。みんな、これはめでたいと大喜びだ。
そこに、突然、アルファードの大声が響き渡った。
「ちょっと待て!」
会場は、しんとなった。もちろん誰もが、ヴィーレとローイとアルファードの三人の過去のいきさつを知っているから、ここへきてアルファードからものいいがついたかと、誰もが一瞬、ぎょっとしたのだ。里菜も驚いてアルファードを振り向いた。
だが、アルファードはこう言った。
「ローイ。女の子たちがみんな、子供のころから、結婚式に自分で作った花嫁衣装を着るのを楽しみにしてあれこれと意匠を思い描いているのを、お前だって知っているだろう? ヴィーレだって、花嫁衣装が着たいはずだ。今ここで、婚礼も宴会もやってしまっては、その夢が叶わないじゃないか。とはいえ、俺も、お前らの婚礼を見届けて安心してからここを離れたい。だから、今、婚礼の式だけを挙げて、後でお祝いの宴会をしたらどうだろうか。宴会の機会は多ければ多いほどいいだろう?」
娘たちがいっせいに手を叩いてアルファードに賛同を示し、結局、このアルファードの案が採用されて、ティーティがその場でふたりの婚礼を司ることになった。
婚礼の儀式は、ごく簡単なものだった。ティーティが唱える祈りも、やはり意味不明ではあるが、さっき祠《ほこら》で唱えたものより、ずっと短い。ティーティの祈りの後、里菜はティーティに促されてヴィーレとローイに祝福を与え、さっきティーティからもらった花冠をヴィーレの頭に頂かせ、麦の穂を手渡した。これは、普段は司祭が、女神の代行として果たす役目らしい。次に、その麦の穂を、ヴィーレがローイに手渡し、それで儀式は完了した。
「なあ、ティーティ。さっきのほこらでのお祈りの意味は分かったが、いつも結婚式のたびに聞く、今の文句は、どういう意味だ?」と、ローイが問うと、ティーティは答えた。
「あのね。『これから先、あなたたちの畑では麦が毎年よく実り、あなたたちの家畜小屋では羊が沢山仔を産み、同じように、ふたりの間にも沢山の子供が生まれて、ずっと仲良く楽しく暮せますように』って意味」
「なあんだ、そんな普通のことだったのか。そんなにもったいぶって、しち面倒臭い言回しをつかうほどのこともないじゃん。でも、なかなか、いい言葉だよな! うん、沢山の子供か。そりゃあ、いいぞ。よおし、女神様の仰せの通り、たくさんガキをつくろうじゃねえか! 実は、今まで隠してたけど、俺、ガキが大好きなんだ!」
(ローイのこの叫びに、参列者のあいだから、「隠れてない、隠れてない! どこが隠してたって?」「あんたが子供好きなくらい、みんな昔から知ってるよ!」などと、いっせいにやじが飛んだ)
ローイは有頂天になって続けた。
「俺、ガキは最低で十人くらいは欲しいぞ! 二十人でもいい!」
(「……う〜ん、前にアルファード、あの二人が一緒になるんだったらヴィーレの家は増築しないといけないって言ってたけど、その通りね」と、里菜がアルファードに耳打ちした)
「なあ、ヴィーレ。子供、たくさん欲しいよな! にぎやかな方が楽しいもんな。さっそく今夜にでも、一人目を作ろうぜ!」
「……バカッ!」
ヴィーレはますます真っ赤になって、手近のテーブルの上にあった空の酒壷でローイの頭をかなり本気で殴りつけるなり、娘たちの一団の中に逃げ込んでしまった。
「痛っ! 何だよ、何でぶつんだよ! 俺、何か悪いこと言ったか? 何がいけないんだよ、いいじゃねえか、もう婚礼は済んだんだし、何も問題ねえだろ!」
叩かれた頭を抑えて喚き散らすローイを、若者たちが、
「ちくしょう、この野郎!」などとげらげら笑いながら、よってたかってぽかすか殴り始めた。
幾人かの娘たちも、
「この大バカもの!」と叫びながら、楽しそうに仲間に加わって、
「何すんだよ、ごくまっとうなことを言っただけなのに、何で俺、お前らにまで殴られなくちゃならねえんだよ!」と抗議しながら逃げ回るローイを、奇声を上げて追い回しはじめた。
たちまち、その辺中のものをひっくり返しながらの荒っぽい追いかけっこが始まって、会場は目茶苦茶な騒ぎになった。
大人や年寄りたちは笑いながら脇のほうに避難し、子供たちはここぞとばかり追いかけっこに便乗して、どさくさまぎれに手当りしだいの若者を叩いたり蹴ったりしてはその若者に追い散らされ、大はしゃぎだ。
里菜たちのそばでは、追いかけっこに加わらなかった娘たちが、くすくす笑いながら噂話を始めた。
「さっきはあんなこと言ってたけど、ローイって絶対、浮気するわよね」
「絶対、そうよ。でも、村の中じゃ、ヴィーレに悪いからって誰にも相手にされなくて、野菜の出荷にかこつけてプルメールあたりまで遠征して市場で女の子に声かけまくるのよ」
「それでそこを、たまたま通り掛かった村の誰かに見られてヴィーレに言いつけられて、俺が悪かった、ごめんなさい、もう二度としませんって、ペコペコ頭下げて、さんざん甘い言葉をべらべら並べ立てて許してもらって……」
「でも、また、するのよね」
「そうそう。それで、またバレて、許してもらって、そのたびにますますヴィーレに頭が上がらなくなるのよ」
「そうよね、ローイは絶対、ヴィーレに尻に敷かれるわよね!」
娘たちの笑い声が、空に届くほどに弾けた。
その時、すでに大騒動の極みに達していたこの陽気で賑やかな宴会に、混乱に追討ちをかけるような突然の大雨が襲い掛った。
幸い、料理はすでにほとんど食べ尽くされた後だったが、気の回るものが、料理を集めたテーブルの上に防水布を広げ、残りのものは手に手に自分の分の料理の皿や酒の壷を抱えて、わあわあキャーキャーと大騒ぎしながら陽気に逃げ惑い、あるいは少し離れた木立に逃げ込み、あるいはマントだの地面に敷いてあった敷物だのをひっかぶり、激しい驟雨が通り過ぎるのを待った。
山の天気は変わりやすい。特に、この季節の午後、この山では必ずといってよいほど、激しい俄《にわ》か雨が降るから、<女神の見送り>の宴会には、毎年、俄か雨がつきもので、みんな慣れっこだ。この雨がすぐに止むのは分かっている。みんなは笑いながら、これも余興のひとつとでもいうように、この、ちょっとしたハプニングを楽しんだ。
若い男女のなかには、ちゃっかり、恋人同士、あるいは、まだ恋人ではないが前から互いに気になっていたもの同士などで一緒に敷物や上着を被り、肩を寄せ合ってくすくす笑いながら顔を見合わせたりしているものもある。中には、被った布を深く引き下ろした陰でどさくさまぎれに口づけをかわし合っているらしいものまでいるが、誰も気にしない。例年、秋祭りは、村の若者たちにとって年に一度の恋の大チャンスであり、その場かぎりの戯れも数限りなく繰り返されてきたが 後に結婚するカップルの多くもこの日に誕生するのである。秋祭りで結ばれた夫婦には女神の特別な加護があると言われて、ことさら盛大に寿がれるのだ。どんなに口うるさい年寄りも、この日ばかりは、カップルが数多く成立すればするほど縁起がいいのだと、あらゆる組み合わせを鷹揚に見守り、祝福する習わしだ。
里菜とアルファードも、ふたりで一枚のマントを被って寄り添い合い、顔を見合わせて笑いあった。
やがて雨が上り、雲間から差す午後の日差しが雨のしずくを煌めかせた。
かすかなバラ色を帯びた東の空に、その時、大きな虹が架かった。
誰もがひととき無言で虹を見つめた。それは荘厳なほどに大きな虹で、まるで本当にその上を歩けそうなほど、くっきりとして見えた。
マントをはね除けた里菜とアルファードは、並んで虹を見上げていた。
虹に目を向けたまま、里菜は小さく呟いた。
「……アルファード。あたしたち、もう、行かなくちゃ」
「ああ……」
アルファードは、やはり虹のほうを向いたまま、静かに答えた。
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