長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第三章 イルベッザの闇> 

(第二章までのあらすじはこちらから


十三(前)



 魔物の跳梁に彩られた不安と恐怖の夜が明け、首都イルベッザは、運命の朝を迎えた。
 その朝は、夏もそろそろ終りのその季節にしては、異常なほどに蒸し暑かった。
 誰もが、正体も真偽もわからずに恐れていた、<運命の日>。ただ、いつもより蒸し暑く、心なしか朝焼けがやけに赤かったような気がするという、たったそれだけのことさえ人々の不安をいやがうえにも掻き立て、朝から続く不気味な地鳴りが、その不安をますます増幅する。
 市民の多くは、昨夜の恐怖と今日の不安を声を潜めて窓越しに語り合いながら、昼間から戸を立てて家に引き籠り、あるいは市外に避難してゆき、イルベッザ市内は不気味に静まり返って、角々に立って警戒に当たる兵士の姿だけが目だっている。そんな人気 《ひとけ》のない街を、海辺では潮が異様に沖のほうまで引いているとか、朝になっても鳥のさえずりがまったく聞かれなかったなどという不吉な噂だけがひそやかに駆け巡り、人々を余計に怯えさせている。
 実際には何も起こらなくても、人心の動揺は、それだけで危険な魔物だ。正規軍の厳戒体制は、<運命の日>に起こる『何か』よりも、むしろ市民のパニックを警戒してのことだ。
 が、長い平和に慣れたこの街に緊張した面持ちの兵士がずらりと立ち並ぶものものしい光景は、それだけでただならぬ事態を思わせ、より一層、市民たちを不安に陥れてしまう。
 静まり返った街とは対照的に、イルベッザ城構内はあわただしい動きに満ちていた。
 昨夜、安全なはずの構内に魔物が出たという話は、すでに構内のあらゆる施設に知らされ、厳重な注意が呼びかけられている。正規軍は朝から総動員されて、城の前に広場に集結し、人々が不安げに見守る中、あるいは市内に、あるいは構内の警備にと、次々に出たり戻ったりしている。
 この、正規軍というのは、『あちら』でいう警察にあたるわけだが、この国のあらゆる行政機構が皆そうであるように非常にいいかげんで非能率的な組織で、はっきり言って弱体である。もともと食いつめものの賞金稼ぎの寄せ集めでしかない特殊部隊よりは幾分ましとはいえ、訓練もあまり行き届いておらず、こんなふうに軍隊らしくきちんと整列して行進するのは、普通なら、各種行事のパレードの時くらいだ。
 だから、お祭りでもないのに彼らが行進しているというだけで、誰もが、頼もしく思うというよりは、本当にただごとではないのだと感じてよけいに不安になる。
 <賢人の塔>でも、<賢人>たちが昨夜半から徹夜で集まり、額を集めて不毛な協議を繰り返し、役人たちは、意味もなく、ただやたらとうろうろしている。何しろ、彼らにしたところで、これから何が起こるのかも、そもそも本当に何かが起こるのかも定かでないので、落ち着いてもいられないが何をしていいのかも分からないのだ。
 そうした中で、構内の学校だけは、不確かな噂だけで休校にするわけにもいかず、表向きは普通に授業をしているのだが、生徒にも教師にも欠席が多く、出てきた者もとても勉強どころではなくて、みんなして息を潜めるようにして寄り集まっている。
 こんな非常事態にも、軍の上層部は、普段好き勝手に自主活動させている特殊部隊のことをすっかり忘れているらしく、里菜たちには、特に招集もかからなかった。もっとも、招集しようにも、特殊部隊の中でも真面目に働く気のあるものはみな、昨夜、夜明近くまで魔物を狩りまくっていたから、それをまた朝から働かせるわけにはいかなかっただろう。昨夜の魔物の跳梁ぶりはイルベッザの歴史始まって以来のもので、明かりを消していた家の中に魔物が戸をこじ開けて押し入るという前代未聞の恐ろしい事件まであったのだ。
 昨夜、里菜とアルファードは、あれから魔物退治をする気にもなれず、何が起こるかわからない翌日に備えて少しでも眠っておくことに決めたのだが、宿舎に帰った里菜は、当然、眠れぬ夜を過ごした。一晩中煩悶してひとつの決心を固め、明け方近くなってやっとわずかにまどろんだ里菜が、その短いまどろみから覚めると、キャテルニーカがベッドの梯子に乗って、心配そうに里菜を見ていた。
 キャテルニーカの話では、宿舎にいた治療師たちは見習いにいたるまでほぼ全員が、リューリの予想どおり、昨夜遅くに治療院に招集されていったそうだ。まだ初級学校の生徒であるキャテルニーカには招集はかからなかったのだが、彼女は自主的に学校を休むことに決めていた。招集を伝えに来た治療師からの情報でローイの入院を知っていた彼女は、里菜と一緒にローイを見舞い、その後はそのまま治療院を手伝うつもりで、里菜が起きるのを待っていたという。
 ふたりは、食堂でアルファードと落ちあって、食事の後、治療院にローイを見舞った。
 この日、治療院は、落ち着かない構内でも特にあわただしく、ごったがえしていた。総動員された職員たちは、数多い昨夜の負傷者たちの手当に夜通し駆けずり回りながら、これから予測される更なる混乱の備えに追われている。
 大部屋に移されたローイは、あちこちに包帯を巻かれてベッドに横たわっていたが、拍子抜けするほど元気だった。
 病室に向かう廊下で鉢合わせした里菜の顔馴染みの雑用係の少女は、里菜を見るなり、こう言って、呆れ顔してみせた。
「ちょっと、リーナ。なによ、アレ。あの、あなたの友達だとかいう、やたらとひょろ長い軽薄男は! なんか、朝から、女の子と見れば見境いなしに口説いてるわよ。あたしも、退院したらデートしてくれって言われちゃった。もう、信じらんない。あの刻印、ほんとに本物なの? 自分が元気に退院できるって信じるのはいいことだけど、それにしても、刻印受けた翌朝にあんなに元気な人って、見たことない。カラ元気にしたって、たいしたものよ。すごいわねえ。あれはもう、人間じゃないわ」
 言葉は悪かったが、その口調には同情と感嘆と賞賛が込められていた。
 里菜たちが病室に入っていった時も、ローイは、回診の女性治療師に目一杯お愛想を振り撒いているところだった。
「やあ、リーナちゃん! ここは天国だなあ。美人が一杯だ! 俺、もう、一生退院しないぞ!」と、里菜を見るなり叫んだローイは、治療師から、静かにするようにと冷ややかに注意を受け、病室中から漏れた失笑に、里菜は自分が笑われたように真っ赤になった。穴があったら入りたいとはこのことだ。
 キャテルニーカと半年ぶりの再会をひとしきり喜びあったローイは、しげしげと彼女を眺めて言った。
「ニーカちゃん、なんか、急に綺麗になったなあ。いや、もとからべっぴんじゃああったけど、たった半年で、すごく大人びたっていうか、女らしくなったっていうか……。十一だったっけ? あ、もう十二になったの。うん、これくらいの年ごろの女の子ってのは、ある日突然育つからなあ。もしかして、恋でもしたか? それなら俺に相談しろよ。恋愛必勝法をあますところなく伝授してやるからな」
 そこで止めておけばよかったのだが、ついでに、
「なんなら、手取り足取り、実技指導もしてやるぞ!」と、朗らかに付け加えたので、
「なんの実技よ!」と、里菜に頭をはたかれた。
 けれども、ローイの、この軽薄そのものの態度は、たしかに彼の地ではあるが、今は多分に、自分を元気づけ、里菜たちを安心させるための自己演出なのだろうと、里菜は感じた。
 帰り際、アルファードが先に立って病室を出たところで、里菜は立ち止まり、もう一度ローイのベッドに駆け戻ってローイを見つめた。そうせずにはいられなかった。
 呑気そうに振る舞いながらも、里菜の目の中にある決意の色を見落としてはいなかったローイは、ふいに真面目な顔になって里菜の手をとり、囁いた。
「リーナ。そんな、今生の別れみたいな目をするなよ。あのさあ、言っとくけど、あんたに悲劇のヒロインは似合わねえぜ、悪いけど。そういう役がうっかり似合っちまうのは、もっとしおらしいコでさ、あんたは、図太くしぶとく生き残るタイプだよ。そうだろ? だから、必ずまた、見舞いに来てくれな。俺に黙っていなくなっちまったりしたら嫌だぜ。いいか、絶対、あのバケモノ野郎のところへなんか行くなよ。ゆうべも言ったけど、そんなことしたら、俺、絶対、シエロ川に身投げするからな。ここだけの話、言っとくが、俺、泳げねえんだぞ。……それに、たとえ身投げをしなくても、刻印を持つものにとって、生きているのには努力がいるが、死ぬのは簡単だ。たぶん、生きようと思うのを止めるだけで、何もしなくても死ねるだろう」
 最後の一言を口にした時、ローイの顔からそれまでの陽気な軽薄さの仮面が剥がれて、その下に隠れていた虚無の深淵がふいに姿を垣間見せた気がした。その、思いがけない闇の深さに、里菜は慄然として思った。
 ――あの、闇の淵から、ローイを助け出さなければ。あたしがローイを救い出さなければ。どうしても、どんなことをしてでも――。
「いやよ、ローイ、死なないで。絶対、生きて。約束よ。……じゃあね」
 里菜はローイの手を握り返しながら小さな声で言うと、そのままアルファードの後を追って病室を出た。


「アルファード……。ローイ、普段以上に軽薄にしてたけど、あれってきっと、無理してわざとやってるのよね。あたしたちを心配させないためと、自分に、自分は元気なんだって思い込ませるために……」
 このまま仕事に入るというキャテルニーカと病室で別れて廊下を歩いていた時、里菜がアルファードに言うと、アルファードは答えた。
「リーナ、それはたしかにそうだろうが、でも、ローイは本当に大丈夫だ。そうやって、自分を鼓舞したり、人を安心させようと気遣えること自体、心の強さだ。あいつは真の勇者だ。ローイは今、ああやってへらへら笑いながら、一時も休まず、何よりも大きな敵と戦って、打ち勝ち続けているんだ」
「そうね。ローイはきっと、大丈夫よね。――あの、アルファード、あたし……」
「なんだ」
「あたし、決心したことがあるの。……アルファード、ごめんね。あたし、軍の仕事、やめる。あなたには迷惑かけちゃうけど、あたし、他にどうしてもやらなきゃならないことがあるから……。アルファード、あなた、本当は、あたしがいなくても魔物退治くらいできるんだと思うわ。魔法が使えなくたって、あなたはあんなに強くて、魔法が使える人間相手の時だって一度も負けたことなかったじゃない」
「リーナ。どういうことだ。いや、もし君が他にやりたい仕事があるというのなら、俺に君を引き止めることはできないが、しかし君は……」
 アルファードの言葉を、里菜はきっぱりと遮った。
「アルファード。この世界で、あなたに会えてよかった。最近、あたしたち、あんまり口もきかなかったけど、でもあたし、やっぱりあなたのそばが一番だった。今まで、ずっといろいろ親切にしてくれて、あたしをいつも守ってくれて、ありがとう」
「おい、リーナ。君は、いったい何の話をしているんだ。なぜ、そんなことを言う」
 アルファードは口調を強め、里菜の肩を掴んで向き直らせた。里菜は目を反らした。
「このあいだは、そのう……変なこと言ってごめんね。ほら、ロ−イのとこへ行った帰りに……。あれは、忘れて。前に、タナティエル教団のおじいさんに、あたしはあなたのことを、小さな娘がお父さんを慕うように慕っているんだって言われたけど、それって本当だったのかもしれない。あたし、この世界に現れた時、この世界のことを何も知らなくて、何も持っていなくて、この世界の人にできるようなことが何もできなくて、一人では生きていけない無力な赤ん坊のようなものだったでしょう? そんな時、あなたがそばにいて、あたしを守ってくれて、いろんなことを教えてくれた。あなたは大きくて強くてやさしくて、何でも知っていて何でも出来た。あなたがいなければ、たぶんあたしはこの世界では生きられなかった。それであたしは、親に頼る子供のように、あなたに頼ってしまったのね。でも、あたしは子供じゃないんだから、いつまでもあなたに甘えてないで、そろそろ自分の道を行かなくちゃならないと思うの」
 アルファ−ドは表情を消してまっすぐに里菜を見据え、硬い声で、低く静かに言った。
「リ−ナ。それは何の話だ。俺には、君の言っていることが分からない。ちゃんと、分かるように説明してくれ」
 静かさの中に、微かな苛立ちと、そして間違いなく怒気のようなものを孕んだその声に、里菜は思わず身をすくませた。
 けれど、今度はもう目をそらさずに、アルファ−ドをまっすぐに見返した。アルファ−ドの強いまなざしの奥に、一瞬、何か怯えに似たものが、炎の中の蝶の影のようにちらりとかぎろうのが見えたような気がした。何か言おうとして少し開きかけた里菜の唇が、何も言えずに小さく震えた。
 そのとき、建物の外でざわめきが沸き起った。
「見ろ、太陽が欠けていくぞ!」 
「黒い月だ……。<女神の服喪>だ!」

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掲載サイト:カノープス通信
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