長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第三章 イルベッザの闇> 

(第二章までのあらすじはこちらから


十三(中)



 話しながらいつのまにか治療院の玄関口まできていたふたりは、開け放たれたドアの向こうに、空を指さしてうろたえ騒ぐ人々の姿を見た。
「夜が来る。闇が訪れるんだ!」
 誰かが叫んだ。
「魔物が出るぞ、建物に逃げ込め!」
 たちまち、あたりはパニックになった。あわてて外に飛び出そうとするものと建物の奥に逃げ込もうとするもので、治療院の玄関口はごったがえし、押しあいへしあいが始まった。
 その混乱の中で、里菜はふいに、
「さよなら、アルファード!」と叫ぶと、肩に置かれたアルファードの手を振り解き、人混みをかき分けて表に駆け出そうとした。
 アルファードが後ろから手を伸ばして、里菜の腕を捕らえた。
「リーナ、どうしたんだ!」
「放して、アルファード! 行かせて!」
「待て、リーナ、どこへ行くんだ。表は危険だ!」
「行かなくちゃならないの。お願い、行かせて!」
 里菜は腕を振り解こうとむちゃくちゃに暴れた。治療院に雪崩れこもうとする人の流れの真ん中で立ち止まって争っていたふたりは、周囲から押されて互いに押し付けらる形になった。里菜はアルファードの胸に腕を突っ張って、必死にもがきながら外を目指そうとしたが、人の流れに押し戻されて動くことができなかった。
 里菜のただならぬ様子を見てとったアルファードは、とりあえず、暴れる里菜を腕の中に押え込んで動きを封じておいて、きっぱりと言った。
「わかった。それなら、俺も行く。この騒ぎじゃ、君一人では、どこに行こうにも、外に出ることさえできないだろう?」
 アルファードは、里菜を庇うように抱えこんだまま、群衆を肩でかき分け、流れに逆らって表に出た。
 太陽は、すでに半ばを、黒い月の影に侵食されようとしている。その下を、人々が逃げ惑っている。
 アルファードは、人の流れの中で里菜を守るように抱きかかえ、奔流の中に頭を出した浅瀬の岩さながらに流れに耐えた。
 里菜は、必死のあまり、自分がアルファードに抱きしめられていることにさえろくに気づかないまま、アルファードの腕の中から空を見上げて、声を限りに叫び続けた。
「魔王、魔王、あたしは、ここよ! 逃げないから、隠れないから、あたしに用あるのなら、ここに出てきて! 太陽を消すのを止めて。関係のない人たちを怯えさせないで!」
 けれど、か細い声は周囲のざわめきに掻き消され、逃げ惑う群衆の頭上で太陽は刻々と黒い影に侵されていき、やがてあたりは漆黒の闇に閉ざされた。
 それはまさに、白昼に訪れた闇夜だった。里菜が想像していたような、ただの日蝕などではなかった。里菜が本で知った知識によれば、日蝕なら、たとえ皆既蝕でも太陽の回りはぼんやりと光り、あたりは月夜の明るさであるはずだ。けれど今、真昼のイルベッザを包む闇は、月も無く星も見えない永遠の夜のように、限りなく深かった。
 逃げ遅れた人々が恐怖に悲鳴を上げながら闇の中で互いにぶつかりあったり転んだりしているらしい騒擾の気配がふたりのまわりからふと遠ざかったと思うと、目の前の闇が、ふいに、ぞろりとうごめいた。
 アルファードにも、それは見えているらしい。アルファードの体が警戒に強張り、里菜を抱く腕に力が篭った。
 里菜は思わずアルファードにしがみついた。顔は見えなくても、その胸のぬくもりと、かすかな汗の匂いに、アルファードの確かな存在が感じられた。
 闇は、見守るふたりの前で、ゆっくりと人の形をとった。何も見えない真っ暗闇の中で、そこはなおさら暗いのに、なぜか、人の形が識別できた。
『エレオドリーナ、我が妻よ』
 暗い人影が笑いを含んで魂に呼びかけた。
『婚約者の前で、そのように別の男にしがみついて見せるなどとは、感心できんぞ。まあ、よい。どうせ取るに足らぬ人間だ。……ところで、我等はまだ、我等の国民《くにたみ》に婚約の披露をしていなかったな。それでそなたは私のもとへ来てくれないのだろう。正式な婚約の披露なくして、婚礼は挙げられないとな。だから今日は、民草に、そなたと私の婚約の祝賀の恩寵を与えにきたのだ。今日は祭りだ。魔物どもが、我等が国民にたっぷりと、振る舞い酒がわりの刻印を配ってまわるだろう』
「そんな! それだけはやめて。あたしが間違っていたわ。こんなことになるまえに、あなたのところへ行くべきだった。あたし、これからあなたのところへ行くから、あなたの妻になるから、だからみんなを傷つけないで!」
 アルファードは何も言わなかったが、里菜を抱く腕が、瞬間、ぴくっと震え、それから更に力が篭った。
『妻になるか』と、魔王は楽しむように繰り返した。
『その、そなたの羊飼いを、犬臭い恋人を捨てて、私のもとへ来るというのか』
 こう言った時、魔王のいたぶるようなまなざしがアルファードに注がれたのを、里菜は確かに感じ取った。
 ――魔王はアルファードを憎んでいる。おそらくは、自分がアルファードを愛したために。自分が魔王の妻にならなければ、魔王は次に必ずアルファードに害をなそうとするだろう――。
 そう確信した里菜は、アルファードの胸からそっと身をもぎ離し、自分の思いを断ち切るように言った。
「行くわ。あたしは、あたしのためにこの国の人たちに迷惑をかけたくない。それに、アルファードのことなんか関係ないわ。アルファードは……、アルファードはあたしの恋人でもなんでもないもの!」
 魔王はさらにアルファードをなぶるかのように笑って言った。
『私はそなたがそのつまらん男を好いているのかと思っていたが?』
「そ、そんなこと、もう、どうだっていいの! だって、あたしたちはほんとに全然、何でもないし、たとえあたしがアルファードのことをどう思っていようと、アルファードはあたしのことなんか別に要らないんだもの。でも、あなたは、何でかは知らないけど、あたしを求めてくれる。欲しがってくれる。だったら、あたし、良く考えてみたら、あなたのところに行ったって、別に構わないじゃない?
 あたし、ゆうべから、ずっと、そのことを考えてたの。ずっと考えて、気付いたの。他の人にとっては何の価値も無いあたしが、あなたにとっては何かの価値があるのなら、あなたのところに行くのが、あたしという人間の一番有効な、正しい使い道なんじゃないかって。それが適材適所、有効利用ってもんなんじゃないかって。あたしがあなたにとって何の価値があるのかは知らないけど、少なくとも、それであなたが関係ない人たちを傷つけるのを止めてくれるなら、とりあえず、あたしは、ここの人たちの役には立つわけだから。
 いても意味の無い、何の値打ちも無いあたしのままでここにいるより、あなたの許に行くことで、とりあえずみんなの役に立つ方が、得じゃない? あなたにとっても何かの得なんだろうし、ここのみんなも得するし、あたしだって、こんなにまであたしを求めてくれる人の許に行くんだから別に損するわけじゃないはずなんだから、それって、全体の得の量の合計が多いじゃない。誰も損しないで、八方丸く収まるじゃない。
 だからあたし、あなたが関係ない人たちを傷つけるのを止めてくれれば、あなたのところに行く。あなたが望むなら、あなたの妻になってもいい。だから、アルファードのことは放って置いて。構わないで。アルファードには何も関係無いんだもの」
「リーナ、違う……。そうじゃない。要らなくなんかない、関係無くなんかない!」
 魔王の言葉が聞こえているのかいないのか、それまで黙っていたアルファードが、絞り出すように言って、里菜を引き戻そうとした。
「放して、アルファード」
 里菜はアルファードの腕を振り払って一歩進み出た。
「リーナ。君は、みなを救うために犠牲になるつもりなのか。そんな必要はない! 君を、そんなやつの思いどおりにはさせない!」
 こう言い切ったとたん、里菜のそばからアルファードの身体が、ふと離れた気配があった。
 風を切る音がして、闇の中に、一瞬、銀の刀筋が閃いた。その光跡は、目の前の、人の形をした闇の真ん中に吸い込まれた。
 闇が揺らいだ。
 が、それは一瞬で、闇は再び寄りつどって人の形を再生した。
 魔王のからかうような虚ろな笑いが響いた。
『エレオドリーナよ。さてもそなたは浮気者だ。婚約者としての貞節を心得てもらいたいものだ。こう何人もの男が婚礼に意義を唱えて出しゃばってくるようでは、いかに私が寛容な花婿でも、あまり気分がよくはないぞ』
 闇に慣れてきた目にぼんやりと見えるアルファードが、再び剣を構えて魔王に近寄ろうとするのを、里菜は後ろから引き戻した。
「下がって、アルファード。あたしに話させて。これはあたしの問題よ」
「しかし、リーナ……」
「いいから! 大丈夫、この人は、少なくともこの場では、あたしを傷つけやしないわ。あたしに、この人と話をさせて。それに、何回切りつけても、きっと、今とおんなじよ」
 里菜はアルファードを押し退けて進み出た。
「魔王。あたし、あなたの妻になる。そのかわり、ひとつお願いがあるの。あなたは、目に見える普通の人間の姿になることもできるんでしょ? だったらあたし、お城も宝石も永遠も、なんにもいらないから、どこか北部の森の中かなんかで、人間の姿で、あたしと一緒に暮して欲しいの。もう人々に刻印を与えるのを止めて、ただ、森の中に小さなお家を建てて、麦を蒔き、羊を飼い、普通の人間として、ひっそりと暮すの。あたし、お百姓仕事もしたことないし、家事もあんまりしたことないし、魔法も使えなくてパンを焼いたりも出来ないけど、それくらい、なんとかなるわよね? そして、あたし……あなたの、子供を産むわ。一緒に畑を耕し、子供を育てて平和に暮し、大きくなった子供たちをどこかの村に送り出したあと、森の中で、ふたりで静かに年を取って、死んでいきましょう。そうすればあなたは、死んでも、子供たちの命の中に生き続けることができるのよ。それに、あたし、そのころには、もしかすると、あなたを愛することさえできるかもしれない。ね、だから、永遠の命なんか捨てて、あたしと一緒に、普通に生きて、普通に年を取って、あたしと一緒に死んでちょうだい」
 こう言った時、里菜は本気だった。話しながら、いつのまにか、里菜の頬を涙が伝っていた。
 けれども魔王は、低く笑いだした。
『……おもしろい御伽話を聞いた。麦、羊、平和な暮し! 子供! 愛! いかにもそなたの考えそうなことだ。だが、私は、そのようなものは何一つ望んでいない。私がそなたを欲するのは、そのようなつまらぬもののためではない。私は別に、あの道化が勘違いしているような人食い鬼などではないから、そなたを取って食おうなどと考えてはおらぬが、かといって、そなたに、死すべき人間の男の求めるようなことを求めているわけでもない。他の多くの人間同様、そなたは私について、ひどく勘違いをしているようだ。私はなにも、人間に刻印を与えることによって死すべき命を長らえているわけではない。人間や他の動物たちのように、子を成してのちに死んでゆくのが自然な定めであるものではないのだ。私はもともと不死のものだ……』
「魔王。じゃあ、あなたはやっぱり、タナートとかいう神様なの?」
『かつてはそう呼ばれていた。そなたがかつてエレオドリーナと呼ばれていたように。エレオドリーナよ。今のそなたはただの人間の娘で、私も、そうしようと思えば、ただの人間の男の姿をとり、また、そのように振る舞うこともできる。だから、そなたがぜひにと望むなら、そなたがそのちっぽけな肉体を有して過ごす短い一生に、人間の男として付き合ってやれぬこともない。そう、かつてそなたが取るに足らぬ人間の男たちを愛するたびに、その愛人に付き合って懲りもせずに繰り返してきたような、愚かな人間ごっこにな。だが、私が求めているのは、そのような人間のまねごとではない。たしかに、人間の生態になぞらえれば、そなたは私の子を産むということになるのかもしれぬが、しかし、そなたと私の婚姻はそのような人間同士の結び付きとは全く違うものだ。私はそなたと共に新しい世界を産み出そうと思う……』
「……新しい世界?」
『そうだ。我等は世界に再生をもたらすのだ。そなたが産み落とした混沌の中から、新しい星が生れる。世界はあらゆる穢れから解き放たれ、より完全な、より美しい、清らかで力に満ちたものとして甦ることになろう。どうだ、すばらしいことではないか』
「ちょっと待って。それじゃ、今あるこの世界は、この星は、どうなっちゃうの? うまいこと言って、あなたの言ってる再生って、つまりは滅びのことじゃない!」
『死無くして再生は無く、滅び無くして新しい誕生は無い。闇無くして光が在りえないように。昼と夜とが混じりあい、生と死とが溶けあう時、世界は、混沌の中から、今一度、新しく生まれ出ずるのだ』
 自分でも何を言おうとしているのかわからないまま、里菜は叫んだ。
「そんな再生なんて、あたしはいらない! 星ひとつ混沌に還さなければ甦れないほど、そんなにこの世界は穢れているの? そんなに病み衰えているの? そんなこと、あたしは信じない。エレオドラ川には今も青い水が流れ、人の生命のぬくもりはこんなにやさしい。これが滅ぼされなければならないものだとは、あたしは思わない。このぬくもりを消し去ることでしか得られないのなら、永遠も完全も、あたしは望まない!」
 それは、里菜自身の頭の中からではなく、どこか別の、自分の意識も及ばないもっと深いところから水泡のように浮かび上がってきた想いで、里菜はそれを意味も解さぬままに言葉に直して口にしているような気がしたが、いったん口に出してみれば、その言葉が、自分自身の想いと全く同じであることも分かった。自分は、この世界を、そして、今、自分の傍らにあるこの温もりを、失いたくないのだ――。
 魔王に向けて話しながら、里菜はまた、アルファードに寄り添い、その胸のぬくもりを掌で確かめていた。
 アルファードは里菜を静かに抱き寄せて、もう何も言わず、黙っていた。
「魔王。あなたは、この国を滅ぼすつもりなのね? あなたが神様なら、どうして、何も知らずにあなたを崇め、あなたに素朴な祈りを捧げ続けてきたこの国の人々を、世界と一緒に葬りさってしまうことなんかができるの? あなたは、あなたの民を、愛していないの?」
『愛しているとも』と、魔王は笑った。
『人間は常に私を楽しませ、退屈を紛らわせてくれる。実に愛おしいものたちだ。再生の暁――あるいは、そなたの考えで言えば最後の日――には、私は彼らの魂を、あてどなくさまよわせてなどおかず、黄泉の私の元へ呼び寄せてやるつもりだ』
「だって、みんなは――少なくともあなたを崇めるタナティエル教団の人たちは、あなたのいう再生とやらを、そんなふうに解釈してはいないと思うわ。あたし、あの人たちのこと、あんまりよく知らないけど、だけどたぶん、あの人たちは、この地上にもっと素晴らしい御世が開けるって、そう思って……」
『そんなことは、私は知らぬ。私は彼らに自ら何か語ったこともないし、何かを約束したわけでもない。彼らはたしかに、この国の他の者たちよりは真実に近いことを知っているようだが、とはいえ、真実を知っているわけではない。しょせん愚かな人間だ』
「愚かって……。あのやさしいおじいさんや、その他の大勢の人たちが、ずっとあなたを慕って、きっとその人生のいろんなものを犠牲にして、少しでもあなたに近づこうと、あなたを知ろうと願い続けてきたのよ。それをそんなふうに冷たく……。あなたはあの人たちのことを、少しでも気にかけてあげてきたの?」
『気にかけてきたとも。他の人間たちと同じようにな』
 魔王の冷たい答えに、里菜は戦慄とともに悟った。彼は、やはり神なのだ。彼がとっている人間臭い態度は、ほとんどすべて、人間の言動のパターンを分析し、模写したものに過ぎないのだろう。たぶん彼は、そうすることを戯れとして楽しんでいるのだ。本来の彼は、ただ冷淡に無関心に人の営みを高みから見下ろして面白がる、それだけの存在だ。きっと、人間が思うほど、神は人間のことなど気にかけてはいないのだ。
 けれども里菜は、魔王の中にいくらかは本当の激しい感情のようなものがあることにも気づいていた。それは里菜に対する異常な執着と、アルファードに対する憎しみだった。
 里菜の中で目覚め始めた記憶が、こう告げた。
 ――神代の時代には、彼も神であるなりの感情を、心の動きを持っていたのだ。だが、神代の終焉の時、彼の心は、その時の激しい感情を固定させたまま、動かなくなった。今の彼は、その古い激情を胸の内で発酵させ続けているだけで、もう、新しい感情に動かされることはない。彼を動かすのは、不自然に凝り固まった古く苦い絶望だけだ。そしてその絶望は、自分がアルファードを愛し、神であったころのタナートと、彼とともに治めていたこの世界を見捨てたために生れてしまったのだ――
(これは、あたしの罪だ。あたしの行ないが、この世界に『魔王』を呼んだんだ。だから、あたしが、魔王を始末しなければならない)
 里菜は決然と、魔王の丈高い影を見あげた。
「……いいわ、わかったわ。とにかく、みんなに刻印をつけるのをやめてくれるなら、あたし、あなたのものになるから、今すぐ、どこへでも連れていってちょうだい。ただ、あたしはまだ、この身体を、すぐには捨てたくないの。だって、まだ十七年しか生きていないのよ。まだ恋もしていないし、花嫁衣装も着ていない。だから、やっぱり、ひとつだけ、お願いをさせて。婚礼の日には、あたしのために、あなたも人間の姿で現われて欲しいの。人間の姿で、あたしと婚礼を挙げて欲しいの。そして、あたしの気が済むまでのほんのしばらくの間でいいから、そのまま人間の男として振る舞って、愛し合って結ばれた普通の恋人たちのように、共に過ごして欲しいの。たとえまやかしでもいいから、あたし、今のこの身体の、人間の娘としての夢をかなえたいの」 
 言いながら、里菜はひとつの、つたなくも悲劇的な捨て身の作戦を考えていたのだ。
 ――魔王が目で見て手で触れる人間の姿をとっていてくれさえすれば、婚礼の場で隙をついて魔王と刺し違えることができるかもしれない。それが駄目なら、その夜、あるいは少なくともしばらく妻として暮すうちには、寝首をかくチャンスくらいあるだろう。その場合は、もしかすると、己の身内に孕んだ混沌ごと、魔王の後を追うように自らを葬ることになるかもしれない。自分の裡から混沌が生れ出て、この世界を呑み込み、滅ぼしてしまうことがないように――。
 その悲壮な覚悟を読み取りでもしたように、魔王はまた笑った。
『おお、そなたは、そのように何も知らぬ無力な小娘としてあるときでさえ、全くしたたかだ。それでこそ、そなただ。そなたは、妥協するふりはしても、決して自分の要求をすっかり引っ込めることはしない。無垢な風情で餌をちらつかせながら、手をかえ品をかえてなにがしかの要求を突きつけ続け、決して駆け引きをあきらめないのだ。昔から、そなたはそういうふうだった。そして、そういうそなたをこそ、私は愛したのだ……。
 いいとも、そなたがその肉体を失いたくないというなら、私も、かりそめの人の姿でそなたと婚礼を挙げ、しばらくは、そなたの夫として振る舞ってみせもしよう。あるいは、それもまた一興かもしれぬ。実のところ、私も、今のそなたを非常に気にいっている。我ながら酔狂なことだが、今のそなたは、それはそれで実に愛らしいからな。それに、どうせ、その身体が生きられる時間など、私にとっては、どのみち、ほんのつかのまにすぎない――。
 しかし、まあ、それはすべて、婚約の披露が済んでのちの話だ。物事には順序がある。人間として婚礼を挙げるのであれば、人間のしきたりをきちんと守り、しかるべき求婚の手続きを踏むべきだろう。今はまず、とにかく、婚約披露の振る舞いだ。そなたが何と言おうとも、王たるものは何かにつけてその民に盛大な振る舞いをせねばならぬものなのだ。愛しい者よ、その後でまた会おう……』
「やめて! やめて、魔王! あたし、あなたのところへ行くから、そんなことしなくても行くから、お願い、やめて。今すぐ、あたしだけを連れていって!」
 里菜は、後ろから引き止めようとするアルファードの腕を振り切って、必死の叫びを上げながら、薄れていく人の形をした闇の中に身を投げ出そうとしたが、その瞬間、闇は揺らめいて消えた。
 同時に、ふたりのまわりに巡らされていた見えない壁が消えたかのように、四方から混乱の気配が押し寄せた。
「ギャーッ!」
 どこかで悲鳴が上がった。
 それを合図に、闇の中に、降って沸いたように魔物の気配が満ちた。



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掲載サイト:カノープス通信
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