長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第三章 イルベッザの闇> 

(第二章までのあらすじはこちらから


十(前半)



「リーナちゃん、どうした? 会いに来てくれたの? ひとり? あぶねえよ、あんたなんかがこんなところへひとりで来ちゃあ……。この辺、ガラ悪いんだからさ。ま、まあ、来てくれてうれしいよ、とにかく入んなよ、散らかってるけど」
 ローイは、どうしていいかわからずに、とりあえずまくしたてながら少女を部屋に導き入れた。
「そこ、座って。リーナちゃん、途中で変な男に絡まれたりしなかった? あの護りの短剣、ちゃんと持って来たか?」
「……ううん。急にどうしても会いたくなって飛び出してきたもんだから、うっかり置いてきちゃった」
 ローイの言うままに部屋の中に入ってきた少女は、指し示された敷物に座ろうともせずに、突っ立ったままうつむいた。
「だめだよ、ああいうものはいつもちゃんと持ってなくちゃ。あいかわらずそんな無防備なことで、よくここまで無事に来られたよなあ……。それに、俺、ここにはあんまりいないっていっただろ? 今日はたまたまここにいたからよかったけど、いつもなら、この時間はもう店にいるんだぜ。……まあ、とにかく座んなよ」
「いなければ、帰って来るまで待つつもりだったの……。お店じゃ、話したくなかったから」
 消え入るような声でそう言って、あいかわらず部屋の入口あたりに立ったままうつむいている少女の様子をいぶかしく思ったローイは、背後に回って彼女の肩に手をかけ、敷物のほうへ導こうとするついでに、そっと横顔を覗き込んだ。
「リーナちゃん。なんか、あったの? 一人でこんなとこ来て。アルファードはどうした? 今日はあんたらも、仕事、休み?」
「……アルファードのことなんか、言わないで!」
 そう叫ぶなり、少女は突然、くるりと向き直ってローイの胸にぶつかってきた。
「リ、リーナちゃん……?」
 あわてて抱き留めたローイの胸に顔を埋めるようにして、少女は小さな声で言った。
「ローイ……、あたしのこと、好き?」
「えっ? ……あ、ああ、好きだよ。もちろんさ」
「あの、ニーニっていう女の子よりも?」
「ニーニはただの同僚だよ。……まあ、ちっとは仲良くしてるけどさ」
「じゃあ、ヴィーレよりも?」
 そこで初めて顔を上げてローイを見た少女の瞳がちらりと光った。
「ヴィーレぇ? あんたまで今さら、何を言ってんだよ。俺とヴィーレは、もう何でもないんだ。もともとただの幼な馴染みだしさ。それに俺、この間、アルファードに言っただろ。俺の前でヴィーレの名を口にするなって。それはあんたでも同じだぜ。わかった?」
「……うん。それじゃあ、ローイ……、あなた、前に、あたしと一緒になりたいって言ってくれたでしょ? 今でも、そう思ってくれてる?」
 不思議な輝きを帯びた黒い瞳が、ローイの茶色い瞳を、探るように覗き込む。
 魂を吸い込むような底知れぬそのまなざしに少しどぎまぎしながらも、ローイは、一方で、少々うんざりして考えた。
(ははあ、そういうことか。アルファードと喧嘩でもしやがったんだな。それで俺に泣きつきにきたってわけだ……。それでもって、俺は、また、リーナちゃんをなだめすかしてアルファードのとこに送り返してやらなきゃならないってわけ。俺ってどうしていつも、こういう役回りなんだろうなあ……)
 そう、これは彼にとって、いいかげんうんざりするほどよくある、面白くもなんともない状況だった。
 村にいたころから、彼は何度もこういう役回りを演じてきた。彼は近隣中の娘たちに顔を売っていたし、誰からも安全無害な男だと思われていたから、恋人と喧嘩した娘が半ば恋人への面当てのように彼のところに泣きついてくるのは、よくあることだったのだ。彼は毎回、それをやさしくなだめすかして恋人の元に送り返してやるのである。
 ローイは、里菜の質問には答えずに、こう言った。
「リーナちゃん。あんた、アルファードと喧嘩でもしたんだろう」
 黒い瞳がみるみる潤んで、盛り上がった涙がやわらかな白い頬を伝ってこぼれ落ちた。
 少女はうつむいて、ふたたびローイの胸に顔を埋め、弱々しく呟いた。
「アルファードのことなんか、言わないでってば……」
 小さな手が、彼のシャツの胸元を握りしめる。細い肩が震えて、涙に濡れた頬が彼の胸に押し付けられる。見下ろせば、細いうなじが、いたいたしいほど清らかに白い。
(やっぱりな……。ちくしょうめ……)と、ローイは胸の中で呟いた。
 これまで彼は、こういう役まわりを演じるのを、それほどいやだと思ったことはない。ちょっとした役得を味わえることも多いし、彼の性分として、女の子の機嫌を取るのは全く苦にならないことだ。
 けれど今、自分が叶わぬ純情を捧げてきた相手である里菜にこういう振る舞いをされてみると、いくら気のいい彼でも、彼女を幸せにしてもやらないアルファードなどのところへ、なぜ自分が彼女を送り返してやらねばならないのだろうという気持も起きるし、アルファードのためにこの子はこんなに泣いているのだと思うと、心の隅で嫉妬も疼く。
 が、その一方で、泣きながら自分にすがりついてくる少女をどうしようもなくいとおしいと感じてしまう。
(あーあ、ちくしょう、かわいいなあ……。そうかあ、リーナちゃんはこんな、俺の胸のとこまでしか背がなかったのか。ちっちゃいのはわかってたけど、こんなふうにくっついて比べてみたことはなかったからなあ。……耳たぶが、ピンク色に透き通って、触ると砕けそうだ。手も、ちっちゃくてさ……。こんな細っこい白い指に、こんな可愛らしい桜色の爪がついてて。あーもう、どうしてこう、どこもかしこも砂糖細工のお菓子みたいに可愛らしいんだろうなあ。そう、白とかピンクとかの、花びらの形なんかをした、小さくて脆くて、口に入れると薄甘くて薄荷の香りがしてすぐ溶けちゃうやつ――女の子にプレゼントしたりする、ちょっといい値段の、村では見たこともなかったあの都会風で上品なお菓子な。この子は、ほんとに、まるで薄荷の味がしそうだ。なんか、何もかもあんまり小さく華奢にできてて、半分透き通ってるみたいで、同じ人間とは思えないくらいだ。こんな子を、いじめちゃいけないよなあ……。アルファードのやつ、こんなリーナちゃんをこんなに泣かせやがって、まったくもって許せねえ)
 ローイはためらいながら少女の背中に腕を回し、壊れ物を扱うようにそっと抱き寄せた。今の今まで、まだどこかで夢か幻ではないかという気がしていた、その華奢な身体は、けれどもほのかに温かく、思いがけないほどに柔らかかった。ローイの腕に、我しらず、わずかに力がこもり、いつのまにか少女をしっかりと抱き締めていた。
(アルファードは、いつかリーナちゃんがこんなふうにやつに縋りついた時も、肩も抱いてやらなかったよなあ。今でも、そうなんだろうなあ。でも、女の子からこうして抱き付いてくれた時にあんなふうにただ突っ立ってるなんてのは、俺の主義には反するんだ。悪いなあ、アルファード。俺はこれから、リーナちゃんをあんたのところへ送り返すなんていう、とんでもなくマヌケな、つまらない役をやらなきゃならねえんだ。その前にこれくらいの役得を味わわせてもらっても、バチは当たらないぜ)と、いつのまにか心の中で言い訳をしているローイの腕の中で、頼りない小さな身体が、小鳥のように震えていた。屈み込むように顔を寄せると、かすかに甘い香りがした。
「ローイ……。エルドローイ……」
 小さく名を呼びながら、少女の腕がおずおずとローイの背中に回された。
 ローイは柄にもなく硬直して、ひととき、なすがままに抱きつかれていた。
 それから少女は、か細い腕でそっとローイの胸を押し退けて顔を上げた。
「ねえ、ローイ、まだ、答えてくれてないわ……。今でも、あたしと一緒になりたいと思ってくれてる?」
 ローイには、まだ、黒い瞳から目をそらして一歩退き、こう答える理性が残っていた。
「リーナ。悪いな、俺、今、その質問には答えられねえ。だって、今、そんなことは問題じゃねえんだからさ」
 少女は涙に濡れた黒い瞳を驚いたように見開いた。ローイは、揺らいでいる自分の気持を悟られまいと、彼には珍しくちょっと突き放すような口調になって続けた。
「あんたはさ、アルファードにつれなくされたんで、面当てに俺んとこ来たんだろ。アルファードに連れ戻しに来てもらいたくてさ。俺んとこだったらすぐにアルファードに見つけてもらえるし、俺はお人好しだから、上がり込んでも抱きついても安全だろうってんでさ。
 俺さあ、こういう状況って、結構、慣れてんだよな。すぐわかるんだよ。みんな、そうなんだ。村の女の子たちも、みんな、彼氏と喧嘩すると、俺のとこに泣き付いてくるんだよ。俺って、よっぽど、そういう役に向いて見えるらしくてさ。実際、俺、今まで、そういうの、別に嫌じゃなかったんだ。でも、それは相手がその他大勢の、どうでもいい女の子だったからだって、今、わかった。
 ……俺、今、ちょっと怒ってるぜ。あんた、俺があんたにこういうことされたら辛いのは、わかってるだろう。だって、今、俺が何と答えようと、アルファードのやつがあんたを迎えに来たら、あんたはさっさとついていっちまうんだろ? やつの前で俺に抱き付いてみせて、やつをちょっとばかしやきもきさせてみてからさ。違うか? そんなふうに俺を利用するのは、すごく残酷なことなんだぜ。他の女の子になら、別に損するわけでもないから、いくらでも利用されてやるけどさ……」
「ち、違うわ、ローイ! そんなんじゃない! あなたを利用するつもりなんか……。もう、アルファードのことなんか、ほんとにどうでもいいの。あたしだって、何日もずっと悩んで、考えたのよ。……あたし、アルファードにふられたの。喧嘩とかじゃなくて、ほんとに……。アルファードはあたしに、こう言ったの。俺と一緒になっても君は幸せになれないから、他の相手を探せって。なんでかって言うと、アルファードは魔法が使えないからだって。そんなバカな理由ってある? そんなの、ただの言い訳じゃない。あたしだって魔法が使えないし、あたしのいた世界じゃ誰も魔法なんて使えなかったけど、みんなちゃんと結婚してたわ。つまりアルファードは、あたしのこと別に好きじゃないのよ!」
「……なるほどね。だけど、それでも、あんたはアルファードが好きなんだろ? ふられてもアルファードを諦めきれなくて、それでそんなに泣いてんじゃねえの? 好きでなきゃ、そんなに泣くもんか。な、そうだろ? 自分の気持を、よく考えて見なよ」
 そう言って諭しながらも、再び自分に縋りついてきた少女の愛らしい耳たぶや細い肩を見下ろして、自分の胸に当てられた小さな掌のぬくもりを感じているうちに、ローイは、胸の中に不埒な考えがむくむくと頭をもたげてくるのを止められなかった。
(まてよ……。これはやっぱり、チャンスだよなあ……。たとえこの子の気持が本当はまだアルファードにあるとしても、ここで既成事実を作っちまえば、後は、なしくずしにこっちのものじゃねえか? 今、リーナが自分の気持がわからなくなっているうちに、どさくさにまぎれて俺のものにしちまえば……。早いもん勝ちだよなあ?)
 彼がこの半年、さんざん女遊びしながらもいっときも忘れることのなかった、手の届かない遠い虹のような少女が、今、彼の胸に無防備に身を預けてすがりついている。その華奢な身体のぬくもりと柔らかさが、ほのかに伝わってくる。いくら彼が人のよい若者でも、これでまったく良くない心を起こさないほうがおかしい。とはいえ、彼は、やっぱりいいやつなので、ここでもう一度考え直す。
(いやいや、エルドローイ。お前はそんな、リーナの本当の気持を無視してどさくさまぎれに彼女を手に入れて、それでほんとうに嬉しいか? 彼女を幸せにしてやれるのか?)
(それに、そんなことして、もしリーナが、それでもアルファードのところへ逃げ帰っちまったら? きっと俺たちは、もう、友達でいることもできなくなるだろう。だいたい、見ろよ、この子の、この様子……。こんな、ちっちゃくてか細い、頼りなげな女の子なんだぜ。こんな子を、半分無理矢理になんかしちまうなんて、それだけは絶対にしちゃいけねえことだよな。それをしちまったら、俺、人間として終わりだよ。最低のひとでなしになっちまうよ……)
(だけど、もしそうなっても、そもそもリーナがいけねえんだ。俺の気持を承知でこんなふうに俺のとこに転がり込んで、こんな態度を取るんじゃあ、いくら俺だって……)
(それにこの子は、今ならたぶん、無理矢理でなくても落ちるぞ。そうなったら俺は、もう、この子をアルファードのとこへは帰さない。なんとしても、そのまま一緒になっちまおう。多少強引にでも一緒になっちまえば、たとえ最初はリーナがまだアルファードのことを想っていても、俺がすぐにあんなやつのことは忘れさせてみせる。俺のほうと一緒になって本当によかったと思わせる自信はあるさ。そもそもアルファードなんかに惚れたのがリーナの不幸のもとなんだ。あれはなにか、おとぎ話のシルグリーデ姫にかけられた呪いみたいなもんで、俺がその呪いを解いてやるのが彼女にとっても幸せなんだ。俺は、アルファードなんかと違って、この子に、うんとうんと、いくらでもやさしくしてやれる……。そうさ、そっとそっと、宝物のように大切に抱き締めて、一日に百回も愛の言葉を囁き、千回もキスをしてあげよう……)
 そんなふうに考えるているうちに、ローイはまた、いつのまにか少女をしっかりと抱きすくめていた。葛藤に絶え切れなくなったローイは、その腕にかすかに力を込め、自分でも止める間もなく、こう呟いていた。
「あのさあ、リーナちゃん。俺、いつも、こういうふうに泣き付いてくる女の子をやさしくなだめすかして、そのまま丁重に帰してやるんだ。そんで、女の子からは『いい人ね』とか言われて、男のほうからは、俺が悪いわけじゃねえのにじろりと睨まれて、それでおしまい。でも、あんたまでが俺の気持ちを知っててこんな態度を取るんなら、俺、もう、『いいひと』やめちゃうぜ? あんたがいつまでも自分の気持をはっきりさせられなくて、こんなことしてるんならさ……」


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掲載サイト:カノープス通信
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