長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第三章 イルベッザの闇> 

(第二章までのあらすじはこちらから




 どこからともなくそろそろ人が集まり始めた、午後遅い盛り場。夏も終りに近い、すべてが疲れ果てた、けだるい季節である。
 暑さに生気を奪われたようにだらだらと歩く人の群れに混じって、いくら盛り場とはいえちょっと場違いに派手な身なりの若い男が、ひょろりとした長身を持て余すように、やはりだらだらと歩いていた。得体の知れない護符だの飾り金具だの、あちこちからぶら下げた妙ちくりんな装身具類をじゃらじゃらいわせて、投げやりな仕草で服の隠しから金を探り出し、道端の屋台で、冷やした甘い香草茶を一杯飲み干す。
「おっさん、これ、甘すぎねえか?」と、その男、ローイは、屋台のおやじに、わがままらしく苦情を言った。
「ああ、そうかい? あんたにゃ甘いかもしれないが、ほら、そのへんに立ってるきれいどころは、このくらいの甘さがお好みなんだ。うちの一番のお得意さんなんだよ」と、おやじは街娼たちを顎で示す。
「なるほど。あの娘たちもこの暑いのに突っ立ってちゃ、喉も乾いて大変だよな。じゃ、ま、ごちそうさん」と、椀をおやじに返して、ローイはまた、ぶらぶらと歩きだした。
 懐には、今の小銭の他にも、さっきまで一緒にいたあばずれ女に貰った金が、むき出しのまま入っている。店がはねるまでローイの側で粘っていたその女客は、待った甲斐あって、明け方、ローイを自分の部屋に伴っていくことに成功したのである。
 それは初めてのことではなく、ローイはこれまでも何度か店の二階でその女と付き合ったりしているのだが、それでもローイがいつでも彼女の思い通りになるとは限らない。なにしろ、彼が目当てで店にやってくる客は彼女一人ではないし、店の女の子も、あぶれた娼婦も、競って彼に群がるのだ。競争率が高いのである。
 しかも彼は、気が向かなければ、その誰にも見向きもしないで自分の部屋に帰ってしまう。
 アルファードはローイの部屋でたまたま女物の靴下止めを見つけてしまったが、ローイがいつもそこに女を連れ込んでいるというわけではなく、それは滅多にないことで、基本的に、ローイは、自分の部屋は自分だけの世界にしているのだ。
 今日、ローイは、激しい競争に勝ち残ってローイとの一夜――というより、一朝――を手にいれたその女の部屋で、昼過ぎまで自堕落な眠りをむさぼってだらだらと過ごし、店に出る前に着替えでもしていこうかと自分の部屋に向かっている途中なのだ。たぶん明日も、彼は、別の女と店の二階で昼まで眠るのである。
 そういう女たちの多くは、別れ際に、ローイに金や贈り物を渡してくれる。が、ローイには、別に自分が売春をしているという意識はない。相手が自分から差し出すものを、遠慮なく頂くだけだ。彼にとって、女からの贈り物を断わるのは言語道断なのである。
 このことを知ったアルファードは、厳しい口調でこう言った。
「お前には、プライドというものがないのか」
 つい一週間程前、アルファードはもう一度、今度はひとりでローイに会いに店に来たのである。里菜と一緒では話しにくい事柄もあるかもしれないからというわけだ。
 厳しい顔のアルファードに、ローイは、ほとんどきょとんとして答えた。
「ああ? あるよ、もちろん」
 だから彼は、最初からいかにも『金で買ってやる』といった態度を取る女は、絶対相手にしないのだ。ついでに言えば、男も絶対相手にしない。『男と寝るくらいなら死んだほうがマシ』なのである。そのかわり、女なら、態度の悪い女以外は、それほどうるさく選り好みしない。あらゆる女性に対してわけへだてなく親切なのが自慢の彼は、そのへん、実に寛大である。
「それじゃあ、お前、女なら誰でもいいのか」と詰問するアルファードに、ローイは平然と答えたものだ。
「うん、まあ、だいたい誰でもいいな。ただ、さっき言ったような性格の悪い女と、死んだおふくろが生きてればこれくらいかなあなんてしんみりしちまうような婆さんだけはごめんだが、それ以外は、とにかく女でありさえすれば、多少年増だろうと無器量だろうと、よく見りゃどこかしらにかわいらしいところがあるもんだ。それが見つけられないのは、見つけてやれない男の方の目が悪いのさ。あんたさあ、好みが偏屈すぎるんじゃねえの?」
「……そんなことしてて、お前は平気なのか? いやだとは思わないのか」
「何で? 俺、いやなことはしねえよ。いやだと思った相手とは寝ねえもん。まあ、俺もまだ修行が足りねえから、後で、この女は思ったより性格が悪くてつきまとわれそうだから失敗だったなとか、そういうこともたまにはあるけどよ」
「いや、そういうことじゃなくて、そんなことして金を貰うのがいやじゃないのか」
「別に。俺、そのへんに立ってる女の子たちと違って、相手も選ばず身体売らなきゃ食っていけないってわけじゃなし、置屋に前借金があるとか、そういう身分でもないし。気が向いた時に気が向いた女と遊んでやるだけだもん。女と遊んで、自分も楽しみ、相手にも喜ばれる。それで相手の女が、俺と過ごして楽しかったからどうしても俺に小遣いをくれたいとか、プレゼントを受けとって欲しいと言うんなら、受けとってやって何が悪い。こんないいことあるか? そうだ、あんたもやってみれば? あんた、モテるぜ。ちょっとくらい顔がまずくても愛想が悪くても身体さえ立派ならそれでいいっていう悪趣味な女は結構いるからな」
「……ローイ。俺には、お前の考えていることがわからない」
 額に手を当てて空を仰いだアルファードに、ローイはしゃあしゃあと答えた。
「おお、そりゃあ奇遇だなあ。俺も今、ちょうど、あんたの考えてることがさっぱりわかんねえと思ってたとこだ。だいたい、前から思ってたけど、あんた、頭、古いんじゃねえの? 古くて固い化石頭ときたもんだ。まあ、じいさんっ子だから無理もねえが。あのじいさんは、また、特別古くさくて頭が固い頑固ものだったからなあ。あんたは自分の名前も知らねえでじいさんに拾われたから、じいさんの教えることをなんでも鵜呑みにして、ああいうのが普通だと信じ込んで育ったんだろうが、ところがどっこい、あのじいさんは、変人だったんだよ。だから、あんたもそんなに偏屈になっちまったんだ」
「俺は今でも、じいさんが俺に教えてくれたことで間違っていたことがひとつでもあるとは思っていない。じいさんの考えが世間一般の常識と違うというのなら、それは世間のほうが間違っているんだ」
「だめだ、こりゃ。だからそれが、あんたもじいさんと同じくらい変り者に育っちまったっていう証拠なのさ」
「そうやって、食うに困っているわけでもないのに平然と金で身体を売るのが普通なら、俺は変人で構わない」
「だから俺は、金で身体売ってるつもりはないんだってばよ! さっきから何度もそう言ってんじゃん。あんた、言葉わかんねえの? 頭悪すぎ」
 こうして話はまるっきりの平行線だったのだが、アルファードは別にローイに説教をしに来たわけではなかったのだ。ただ、アルファードが店に来たのは魔物退治の仕事を早目に切り上げた明け方で、その時、ローイはちょうど、ほとんどの客が二階に消えるかテーブルにつっぷして眠ってしまっている店内から、女客の一人と連れだって抜け出そうとしているところだったのである。そこへアルファードがやってきたものだから、女を店の中で待たせて、うっすらと明るみ始めた店の前の路上でアルファードと立ち話をするはめになり、
「お前、まさか、あの女から、後で金を受け取るんじゃないだろうな」などと、アルファードから追及されてしまったのだ。
「ああ? くれれば貰うよ。あの女は、たぶんくれるだろうな」と、当然のように答えたローイを、アルファードは、まるで宇宙人を見るような目で見た。
 さらにアルファードがあきれ返ったのは、ローイが一時期、小金持ちの女に囲われていたのを知った時だった。アルファードは、ローイの境遇について、一応そういう可能性も考えていたのだが、その、あまり考えたくもないような悪い予想は、残念ながら当たっていたのだ。
 それはイルベッザに来てしばらくたったころで、ちょうどその頃、この盛り場にローイを探しにきたアルファードが彼を見つけられなかったのは、そのためだったらしい。
 もっともこれも、ローイ本人には囲われていたという意識は、まったくない。
「ちょっと年増だったけど、まあ、わりと奇麗だったし、最初は性格にもそれなりにかわいいとこがありそうに思えたから寝てやったら、いつでも俺と会いたいから近くに住んでくれって部屋を用意してくれて、ちょうど住むとこがなかったんで住んでやったのさ。そしたら、何を勘違いしたもんか、俺が別の女と遊んだら文句を言うんで、面倒くさいから、出てきた。俺は別に、あの女の持ち物になったつもりはねえんだ。それからはああいう女にひっかからないように、よく気をつけている。まあ、あれはあれで、最初は結構楽しかったけどな」というわけである。これはもう完全に、アルファードの理解の範囲を越えている。
 しばらく、頭痛がしそうになるのをがまんしてそんな話をしたアルファードは、そのうちに本題を切り出した。
「ローイ。もう一度言う。また、俺たちのそばに戻ってきてくれないか。何も、軍の宿舎に入らなくてもいいんだ。俺たちはもう、かなりの金を稼いだから、小さな家を借りることもできる。そこで、俺たちとニーカと、一緒に住むこともできるんだ」
「え、やだよ、そんな。俺たちって、あんたとリーナちゃんとだろ。俺、そんな、新婚家庭に居候みたいなマヌケな立場になりたかねえや」
「新婚家庭って、俺たちは別にそんな仲じゃない。ニーカも一緒だし、四人で楽しく暮せるじゃないか。あの、旅の間のように……」
「いやだね! 俺は、やだよ!」
(そうしてリーナちゃんがあんたをじっと見上げる時のあの様子を、俺、ずっと近くで見せつけられ続けるわけ? そりゃ、たまんねえよなあ。だいたい、リーナちゃんがずっとそんなにすぐそばにいて、それで手に入らないのがわかりきってるってだけで、俺は辛いんだぜ。それくらいなら、姿も見えない遠くにいてくれたほうがいいんだ。アルファードだって、それはわかってるだろうによ。四人で楽しくだなんて、何を無神経に、いい気なこと言ってやがる)と、ローイはアルファードを睨みつけた。
 けれどもアルファードは引き下がらなかった。
「そうすれば、お前も、軍に入らないで歌うたいの仕事を続けることもできるんだ。こんな場末でなくても、例えばイルベッザ城構内の、もっとちゃんとした店――<長老>だの<賢人>だのが出入りする、品のよい店で歌うこともできるんだぞ」
「何だ、その、『ちゃんとした店』ってのは! あんた、まさかその店で、俺を歌わせてくれるか聞いてみてくれたってわけか?」
「……ああ。主人もお前の評判は聞いていて、そんな人気のある歌うたいがもしも来てくれるならとてもうれしいと……」
「へっ、手回しがいいことだな。冗談じゃねえや! そんな、あんたに御膳立してもらった仕事なんか、したかねえや。俺はこの店も、この界隈も、この界隈の連中も気に入ってんだ。そんなお偉いさんたちの前で歌いたくなんかねえ。ここの、帰るところを無くして呑んだくれてる北部の百姓や、そういう呑んだくれに身を売って生きる可哀想な女の子たちのために歌いてえんだ。俺は商売で歌を歌っていると言ったが、金さえ貰えればそれだけでいいってわけじゃねえんだ……」
「わかった。それなら別にあの店で歌わなくても構わない。勝手なことをして悪かった。ただ、お前に良かれと思ってのことだ。それはわかってくれ」
「何、言ってやがる。いいか、俺がどこで歌を歌い、どこに住むか、そんなことをあんたに決められるいわれはひとつもないんだぜ」
「ああ、その通りだ。悪かった。……ローイ、戻ってきてくれ」
 アルファードが真剣な顔で一歩進み出たので、ローイは思わず一歩後ずさった。
「や、やめろよ、人のことを、そんな、逃げた女房とか家出した息子みたいに言うのは。俺はもともと、あんたの家族でも家来でもなんでもないんだ。別にあんたのものじゃねえんだよ。あんた、ちょっとしつこいぜ。俺は、男でも女でも、しつこいやつは大嫌いなんだ! ……そうだよな、最近気がついたんだが、俺は昔からあんたが嫌いなんだ。あんたのそばを離れてみて、初めて分かった。俺がずっとあんたのそばにいたのは、あんたが嫌いだからだったって。あんたは周りのものすべてを、あっさりと自分に従え、支配しちまう。俺はあんたのそういうところが嫌いで、自分だけはどんなにあんたのそばにいても決してあんたに支配されはしないんだと、それを証明するためだけに、あんたのそばに居続けたんだ。俺、ちょっとへそ曲りなとこ、あるからさ。俺があんたらを追って村を出てきたのも、リーナちゃんの後を追ってきたんじゃなくて、あんたを追ってのことだったらしい。それも、あんたが好きだからじゃなくて、嫌いだからだ。だって、あのままあんたに勝ち逃げされたら、俺、一生、あんたに負けたままになっちゃうじゃん。……そういうこと全部に、俺は、あんたから離れてみて初めて気づいたんだよ。いいか、あんたはちっとばかし頭が悪いようだから、よく分かるようにもう一度言ってやる。俺は、あんたが、嫌いなんだよ!」
「……だが、ローイ。俺は、お前が好きだ」
 この、あまりに直線的なもの言いにローイは思わず鼻白んで、また一歩、後ずさった。別にアルファードに変な気があるわけではなく、ただ、本人があまりに真面目過ぎるので『こんな言い方は変に取られるかもしれない』などとは想像もできなかっただけだろうと、それは解るのだが、さすがに、こうまできっぱり言い切られてしまうとちょっと怖いものもあるし、なんだか、力が抜けるというか、怒る気力も思わず萎える。
「や、やめろよ、気色悪い。あんたに変なつもりがないのはわかってるんだが、男の口からそんな言葉を聞きたかねえや。……あんたにもそういうセリフが言えるんなら、俺になんかじゃなくてリーナちゃんにそれを言ってやれよ。どうせあんた、リーナちゃんには一言もそんなこと言ってやってねえんだろう。こないだ見たとこじゃ、リーナちゃん、あんまり幸せそうじゃなかったぞ。あんたのせいじゃねえの? あんたにあいかわらずつれなくされて、さみしがってるんじゃねえの?」
「……」
「やっぱ、そうなんだろ。あんたが黙る時は、図星なんだ。あんたら、いつまでそんなことやってんだ? あんた、リーナちゃんを自分のいいように引っ張りまわしておいて、どうせ何の約束もしてやらず、たった一言好きだと言ってやりさえしねえんだろう。あんたら、別に俺が一緒でなくても、また、ふたりで一緒に住めばいいじゃん。リーナちゃんにやさしくしてやれよ、な。でなきゃ、いくらリーナちゃんが辛抱強くても、そのうち疲れて離れていくぜ」
 こう言って、ローイは、無表情にまた一歩進み出たアルファードから逃げるように後ずさり、後ろ手に店のドアを開けた。
「と、とにかく、俺、あんたと一緒には行かねえから。今日はもう、帰ってくんな。悪いが、女、待たせてるからさ。今度、もっと早い時間に店に来てくれよ。酒も奢るし、世間話の相手ならいくらでもするぜ。その『戻ってきてくれ』っていうのさえ、言わなければさ。あんたみたいな有名人が店に来てくれれば、おやじも客も大喜びで、あんた、女にモテまくれるぜ。あんたもたまには、ちっと遊べよ、な? じゃあな!」
 それだけ言うと、アルファードの返事も待たず、ローイはばたんとドアをしめてしまったのだった。アルファードはそのまま黙って立ち去っていったらしい。
 その時のことを思い出しながら、ローイはなんとなく隠しに手をつっこんで、女から貰った金をわざとじゃらじゃらいわせた。
(別に、いいじゃんよ、なあ。向うがくれるっていうんだから。下手に断わったりしたら、かえって変な誤解されかねないからなあ。自分は特別なのか、とかさ……)と、誰にともなく胸の中で言い訳しながら歩いていたローイは、行く手にちょっとした人だかりを見つけた。もしや流しの辻音楽師か、それなら同業者としてそのレベルのほどをチェックせずばなるまい、と、近付いていったが、どうも雰囲気が違う。みんな、なんとなく気味悪そうに遠巻きにしている感じだ。
 持ち前の好奇心で人の頭越しに覗き込んだローイが見たのは、一見してタナティエル教団のものとわかる暑苦しい黒衣姿の三人の男たちだった。
 うち一人は、かなりの高齢と見られる、腰の曲がった小柄な老人である。足が悪いらしく手には杖が握られているが、その杖がまだ真新しく、持ち方もぎこちなく手に馴染んでいなさそうなところから見ると、もとから足が不自由だったというわけではなく、ごく最近、怪我をするなり高齢のために足が弱るなりして杖が必要になったのだろう。
 あとの二人は生真面目な面差しの若い男で、一人は丸顔に丸い目、一人は四角い顔に細い目、ともに中背だが、がっしりした体格で、老人を両側から支えるように恭しく気遣っている様子からしてどうやら老人の従者役――体格から考えておそらくはボディーガード兼務――といったところらしい。
 老人は、杖にすがって周りのやじうまをゆっくりと眺め渡しながら、前列の一人一人の前に進み出るようにして語りかけている。老人に話しかけられたものは、あいまいに頷きながら一、二歩後ずさって人の輪を広げ、老人が離れていくと、また、輪を縮める。気味悪さ半分、好奇心半分、といったところだろう。今までずっと聖地の山にひっそりと篭っていた彼らがこんなふうに盛り場で辻説法をしているなどというのは、ひどく奇異な光景なのだ。
 老人のおだやかな声に、ローイは耳を澄ました。
「<運命の日>が迫った。心を安らかに整えてお待ちなさい。恐れず、拒まず、受け入れなさい。そうすれば神があなたに与えるすべては恵みとなります――」
 その時、こちらを見渡した老人と、ローイの目が、一瞬、合った。ローイは思わず、わずかに顔をしかめた。
 老人はそのままゆっくりと視線を巡らしながら続けた。
「抗ってはなりませぬ。武器を取ってはなりませぬ。あなたの抵抗は、あなたが恐れるものをではなく、あなた自身を傷付けます。恐れが苦しみを作るのです――」
 そう言いながら老人が視線を巡らすにつれて、その方向の人の輪が順ぐりに乱れては、また元に戻る。
「恐れずに恵みの印を受け入れ、信じて時をお待ちなさい。さればまもなく、うら若き生命の女王が眠れる王を目覚めさせ、<運命の日>に続く<復活の日>が来る――それは、女王と王との間に定められし聖なる婚姻の日、新しき神代の誕生、世界の再生の日です。その時、すべての悲しみは消え、すべての痛みは癒されます。その日は、もう近い。女王は、すでにこの地上に降り立たれ、忘却のやさしき御手持つ小さき夜の娘御を伴って、あなたがたの近くにおられます。そう、生命の女王は、今、この時も、あなたのそばにいるのです。信じなさい。待ちなさい。恐れず、拒まず、全てを受け入れなさい。あなたの心に平安を……」
 それだけ言うと、老人は、二人の若者に支えられながら静かに杖を脇に置き、地面にうずくまるように膝を付いて礼をした。どうやらここでの説法は、これで終りらしい。
 やじうまは、みな、どことなくあやふやな、落ち着かなげな表情で、パラパラとその場から散り始めた。
 近頃、イルベッザの街には、どこか不穏な空気が漂い、あいまいな不安が膨れ上りつつある。もちろん、不穏と言えばそれは魔物が現われ始めたころからずっとそうなのだが、特にこの夏に入って、急速に不安が高まり始めたのだ。
 魔物がますます増えているのもその理由だし、タナティエル教団の連中が急に町なかに姿を現わしたことも気味が悪いし、その上、彼らはこんなふうに、不安を煽るような謎めいたことを言いふらしている。
 そして、<運命の日>がどうのという彼らの話を裏付けるように、特にここ一月ほどのあいだに月はますます急速に大きく見えるようになって、この前の満月前後には、さすがにみんなそれに気がつき始め、様々な不気味な噂が囁かれるようになってきたのだ。
 人々の中には、タナティエル教団が<運命の日>と称している新月の日を控えた今、日中から窓を締め切って家に閉じ籠ったり、たいした根拠もなく郊外の親戚知人の家に疎開してしまうものまでいて、盛り場の人通りも、夕方でさえますます寂しくなり、それでも街角に立たねばならない娼婦の姿ばかりが目だっている。道を行く人の顔付きも、以前にも増して暗く、とげとげしい。
(なんだあ、こいつら……。もったいらしく謎めかして、何を言ってるんだか。やつらが言う<恵みの印>ってのは、まさか<魔王の刻印>のことか? 魔物が来たら、おとなしく刻印をつけられろってか? まあ、たしかに、魔物を攻撃すれば反撃されて怪我したり殺されたりすることもあるが、黙って刻印をつけられてれば、とりあえず、痛くもなんともないらしいやなあ。でも、だからってなあ……。それに、やつら、生命の女王がなんとかって言ってたなあ。生命の女王って言やあ、俺らのお山のべっぴんさんの女神様じゃんか。やつらは死人の大王様にしか興味がないのかと思ってたんだが、なんだって急に女神のことなんか言い出したんだ? そう言やあ、今夜あたり、新月だったっけなあ。……ってことは、<運命の日>とやらは明日か? とにかく、こいつらが変なことばかり言うもんで、みんなが怖がって人出もさっぱり、これじゃあ、どの店も商売上がったりだ。なんと言ってもあの辺に立ってる女の子たちが気の毒だよなあ……)
 首を振り振り歩き出したローイは、すぐに彼らのことなど忘れてしまった。
 あいかわらず散らかった部屋に入るなり、ローイは、寝台の上にどさりとあおむけに身を投げた。頭の下で腕を組み、ほう、っと溜息をついく。
(あーあ、かったるいなあ……。こう暑くっちゃ、だれてしょうがねえや……)と、胸の中で自分の溜息の言い訳をするのだが、たぶんそれは、本当は暑さのせいではないのだ。
 このあいだ、この部屋に里菜とアルファードが尋ねてきたときから、彼はなんとなく気分が晴れなくて、ますますだらけた毎日を送っているのである。
(ああ、しかし、あの靴下止め、リーナちゃんに見つからなくてよかったあ。さしも無粋もののアルファードにも、武士の情けってもんがあったか)と、あれから何度も思っていることを、もういちど思い返すのだが、実際は、よく考えて見ると、別に靴下止めが見つからなくても彼の女性関係の乱れはすっかり里菜にばれている。そのうえローイはまた、あの時、どうしていいかわからずに開き直って、それを里菜にわざとひけらかすような口をきいてみたりしたのだ。
(まいったよなあ、いきなり来るんだもんな……。俺、どんな顔していいか分かんなかったじゃん。リーナちゃん、全然変わってなかったよな……。小さくて、かわいくて、そのくせ口先ばっかりきつくてさ。そういえば、俺と同じで夜働いて昼間寝てるせいか、ますます色が白くなって、また、初めて村に現われた時みたいに白くなってたが、ただ、それだけだ……。なんか、俺ばっかり変わっちまったのかなあ……)
 あれからもローイは、あいかわらず店の女性客に身を売ったり、皿運びの女の子ともよろしくやって乱れた生活を送っているのだが、この部屋にはもう女を入れていない。
 もともと彼がここへ連れてくるのは、顔馴染みの娼婦たちだけだった。と言っても、彼女たちをローイが買うわけではない。一種の友達付き合いである。彼女たちはここでローイと寝ることもあるし、ただおしゃべりをしたり、屋台で買ってきた食べ物を一緒に食べるだけで帰る時もある。ローイは、たまたま彼女たちと寝た時も、その娘に金を払いはしない。むこうもそういうつもりでローイと寝るのではない。それも彼らの間での友達付き合いのうちなのだ。
 ただ、娼婦たちの中には、たまに、逆にローイに金を払いたがるものもいる。そういう時は、ローイはいつも、
「え、なに、今日は金くれるわけ? そりゃあ、ありがとよ」などと、あっさりとそれを受け取る。それでその娘との友情が損なわれるとは別に思わない。いつも人に金で買われている彼女たちが、たまには自分が金を払うほうになってみたいなら、そして、それでどういうわけか多少はその娘の気が晴れるというのなら、それもいいだろうと思っているのである。彼女たちも、ローイがそういうことにこだわらないのをわかっているから金を払ってみたりするので、この、金のやりとりは、一種のごっこ遊びのようなものだ。
 ローイはどんな女にでもやさしくするが、特に彼女たちにはわけへだてなくやさしくしてきた。彼女たちと寝るためになら別に気をつかってやさしくする必要もなく、ただ金を払えばいいいのだから、それはまったく下心のない、純粋な友情のようなものである。
 彼はよく娼婦たちの愚痴を聞いてやる。といっても、彼女たちは、自分の不幸な身の上について、いまさら語らない。話したところでどうなるものでもないし、彼女たちのほとんどは北部の百姓の出で、それぞれが抱える物語は、みな、果てしなく悲しいけれど、どれも似たり寄ったりなのだ。彼女たちはただ、いやな客に当たった時などにローイのところで客の悪口を言って憂さを晴らしたり、最近客足が悪いなどとぼやいたりするだけだ。それでも彼女たちは、自分たちをまるで幼な馴染みの村娘であるかのように、気安く親しげであると同時にそれなりの礼節を保った対等な態度で扱ってくれるローイの前で、そういうささいで表面的な愚痴をこぼすことで、その寂しい心の、もっと奥深いところまで癒されて帰っていくのだ。
 けれども、里菜がここへ来たあの日以来、ローイはなんだかこの部屋に別の女の子を入れる気にならない。なんとなく、そんなことをすると、この部屋の空気の中に僅かに残っている里菜の気配が消えてしまうような気がするのだ。もちろん、そんなのはばかげた感傷だとわかっているから、自分のそんな未練な気持を、自分で認めてはいないのだが。
 しばらくそうして寝台の上で天井を見上げていてから、ローイは、どっこいしょとばかり身を起こして、意味もなくその辺を片付けはじめた。また、汚れた皿が置きっぱなしになっている。なんとなく、ここに居もしない里菜にしかられるような気がして、落ち着かない。かといって、外の共同流し場まで洗いに行くのも面倒なので、とりあえず、散らかっていた衣類と一緒に寝台の下の押し込んで、もういちどあたりを見回し、どこかに女の子の忘れ物がないかとよくよくチェックしてから、自分がなぜそんなことをしているのかわからなくなって、また寝台に寝転がる。
(今日、仕事さぼっちまおうかなあ……。なんか最近、やる気がでないんだよなあ……。どうせ今夜あたり、あの変な噂のせいで、店に来る客なんかあまりいないだろうしなあ……。ようし、決めた、さぼっちまえ!)
 そのまま寝台に寝転がって、つい数時間前に起きたばかりだというのに、いつの間にかまたうたたねしていたらしいローイは、それからしばらくして、はっと目を覚ました。
 小さなノックの音が聞こえる。遠慮がちに、誰かがドアを叩いている。
 二、三度叩いては、ためらうようにしばらく休み、あきらめきれないように、また、そっと叩く。
 ローイは、はっとして寝台から飛び起き、ドアに駆け寄った。
 ドアを開くと、その向こうには、さっきまで彼の夢の中で微笑んでいたような気がする黒い瞳の清楚な少女が、ただひとり、青い服を着て立っていた。
 どこまでも汚れなく白い肌、三つ編みにして両肩に垂らした黒い髪、透き通るような桜色の耳たぶ、今にも壊れそうな小さな手……。山の上の空にかかる遠い虹のように清らかな、彼の、夢の少女。
 もしも手を触れたらたちまち儚い幻のように消えてしまいそうな、小さく華奢なその身体が、手を伸ばせば届くところに、今、立っている。
 その、すべての光を吸い込む夜のように黒い瞳が、おずおずと彼を見上げ、あどけないバラ色の唇がそっと開いて、小さく彼の名を呼んだ。
「……ローイ」
「……リーナちゃん?」
 ローイは目を丸くして少女を見つめた。



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