長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

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 <第三章 イルベッザの闇> 

(第二章までのあらすじはこちらから


十(後半)



 ずっとうつむいてローイにしがみついていた少女が、かすかに頷いて顔を上げた。
「ごめんね、ローイ。いつまでも泣いてて。……あなたの言うとおりかも知れない。あたし、たぶんアルファードのこと、まだ好きなんだわ。でも、あなたがやさしくしてくれれば、あたしきっと、アルファードのことなんか忘れられる」
 涙に濡れた漆黒の瞳がローイをまっすぐ見つめ、やわらかそうな唇がためらうように開かれて、おずおずと彼の名を囁く。
「ローイ……。さっきの答えは、まだ? ねえ、ローイ。あたしと、どこか遠くに行こ? アルファードからうんと離れたところへ……、どこか、北のほうへ。そこでふたりで一緒に暮そ、ね?」
「リーナ。あんた、それ、本気か? 本気でそこまで思うのか? 北って、北部へか?」
「うん……。だって、ここにいたら、きっとアルファードが……。別にあたしのこと好きでなくても、アルファードはあたしがいないと魔物退治ができなくて、あのひと、他には何にもできないんだもの。あたし、もう、魔物退治はいやなの。最初からそんなこと別にやりたくなくて、ただ、アルファードが好きだったから、仕事仲間でもいいからそばにいたかっただけ。でも、もう、疲れたわ。アルファードに利用されるのは、もう、いや」
「たしかに、あんたがアルファードにふられたと思ってても、アルファードは、あんたが逃げれば追って来るだろうな。俺を捜したよりもっと執念深く、草の根分けてもあんたを捜し出して連れ帰ろうとするだろう。あいつはあんたを、どういう権利があってか、自分の持ち物だと勘違いしてやがるからな。でも、だからって、北部はやばいよ」
「ううん。北部はもう大丈夫。これからは都のほうが危ないって。北部を焼き尽くした灰色の軍勢は、今度は南に向かっているんだって。ここしばらくで、北部からは魔物の姿がすっかり消えたそうよ。明日あたり、都にいる北部の人に、帰れる人はもう帰るようにっていうお触れがでるはずだと思う。北部に駐留していた正規軍も、主力部隊は、これから急いでこちらに引き上げて来るらしいわ。今まで魔物はずっと、こっそりうろついては人に刻印をつけるだけだったけど、いよいよ都に総攻撃をかけてくるんじゃないかって、軍の上のほうじゃピリピリしてるみたい。新月の日がどうとかって言う噂もあるし……」
「ああ、その、新月の噂は、俺も聞いてるけどさ……。でも、その、北部から軍が引き上げるとか、そういうこと、あんた、どうして知ってるんだ? 酒場っていうのはさ、結構情報が早いところなんだが、俺はそんな話、まだ聞いてねえぞ。あんたがいくら軍にいるったって、どんなに業績を上げていても下っ端の臨時雇いだ。そんなに素早い情報が入るか?」
「あたしの友達で、<賢人>たちと個人的に親しい子がいるの。ただの治療師なんだけど顔が広くて、軍務担当のファルシーン様とも親しいのよ。だからこれは確かな情報なの」
「なるほどね。でも、都を出るにしても、なにも北でなくてもいいんじゃないか? あんた、なんで北部にこだわるわけ?」
「北部はもう、一回目茶苦茶になって、あっちもこっちも焼け野原だったりするから、これから再建の仕事がいくらでもあるでしょ。空いた土地もきっとあるし」
 ローイは、幾分あっけにとられて少女を眺めた。
 たしかに彼は、里菜のことを、見かけによらず芯の強い、精神的に逞しいところのある少女だとは思っていたが、それにしても、このしたたかさはなんだろう。今まであんなに頼りなく儚げに震えて泣いていたのに、まったく、女はわからない……。
(この子はここへ来る前に、もう、しっかり情報収集して、もし俺と逃げる場合の行き先まで、ちゃんと考えてきてあったわけだ……。もしかして、最初からそういう計算で俺を誘惑してたわけ? てぇことは、この子は、本気で俺に乗り換えるつもりなのか? しかしリーナちゃんも、なりはちっちゃくても女だよなあ……。したたかなもんだ。まあ、いいけどなあ……。そりゃ別に悪いことじゃねえからさ)
 まじまじと自分を見つめるローイを、少女はまた、縋るような目で見上げた。
「それに、ローイ、南部は駄目なの。プルメールなんかじゃアルファードに見つかっちゃうし……、もちろん村にも帰れないわ。アルファードのことだけじゃなくて……」
 白い手がおずおずと伸びてローイの頬に軽く触れた。ローイは思わず、その小さく華奢な手を、自分の両手で包み込むように握っていた。
(……俺、もしかして、この子に手もなく籠絡されちまってるわけ? さんざ女の場数は踏んでるってのに、こんなちっぽけな、子供みたいな女の子に……。なんてこった。……でも、まあ、それも悪くはねえな。なんたってやっぱりかわいいもんなあ……。しかし、ほんとに本気なのか? これもアルファードへの当てつけの一部じゃねえの? 早まるなよ、エルドローイ。うっかり本気にすると、後で辛いぞ。ああ、でも、かわいいなあ、まったく……)
 今すぐ少女をもう一度自分の胸に引き寄せて、その細い身体を折れるほどに抱き締め、薄荷の匂いのしそうな清らかなそのうなじに顔を寄せて愛を告げたいという衝動を、ローイはかろうじて押え込みながら、その一方で、覗き込んだ少女の目の中にある何かにかすかな違和感を覚え始めていた。
 ローイの心の揺れを見透かしたように、少女はローイの目を覗き込んで言った。
「村には……。村には、そのう……、ヴィーレがいるでしょ? ねえ、ローイ、さっきの質問に、なぜ、答えてくれないの。今でもあたしと一緒になりたいと思ってるって――あたしと一緒に北へ行くって、どうして言ってくれないの? やっぱり、ローイ、ヴィーレのことが……」
「うるせえ!」
 気がつくとローイは、突然少女を突き飛ばして叫んでいた。
「ヴィーレの名を口にするなって、言っただろ!」
 突き飛ばされた勢いでバランスをくずした少女は、そのまま、背後にあったローイの寝台の端に坐り込み、うつむいて呟いた。
「やっぱり、そうなんだ……。ローイは、あたしを選んでくれないのね。やっぱり、いつか村に帰って、ヴィーレをお嫁さんにするんだ……。あたしと一緒になりたいって、前は言ってくれたのに……。みんな嘘だったのね。嘘つき……」
 その、二本のお下げの間からのぞく首の頼りない細さも、涙を堪えて小鳥のように震える華奢な身体の弱々しさも、今度はもう、ローイの心に、哀れみを起こさせなかった。ただ、わけもなく彼の逆上に油を注いだだけだった。
 今さっき、里菜の口から『村に帰れない』という言葉を聞いた時、ローイの心には、たしかにヴィーレの姿が浮かんだのだ。そしてそれを、彼はあわてて胸の奥に押し込めた。
 今まで彼はどこの女を抱いていようとヴィーレのことなど思い出しもしなかったのに、今、ずっと憧れ続けていた里菜に一緒になろうと言われた時に、突然、忘れていたはずのヴィーレの顔が目に浮かぶ。それは里菜が他の遊びの女とは違うことの証拠であると同時に、彼がまだヴィーレを本当には忘れていなかったことの証拠でもあるような気がする。彼はそのことで、自分に腹が立っていたのだ。
 その怒りが、里菜の口からヴィーレの名を聞かされたとたん、わけもなく、目の前の里菜に向かった。それが理不尽な怒りであることは、自分でもわかっている。そのことが、彼を一層カッとさせ、逆上のままに、彼は怒鳴っていた。
「俺が、あんたを選ぶかヴィーレを選ぶかじゃねえだろう! 問題は、あんたが、本当にアルファードじゃなくて俺を選ぶかどうかなんだ! あんたがアルファードよりも俺を選ぶというんなら、俺はあんたを選ぶさ。俺はあのとき、嘘なんかついちゃいなかった。あんただってそれは本当はわかってるんだろ? わかっててそんなこと言ってるんだ!」
 そうして理由もよくわからず逆上しながらも、その一方で、ローイは、うなだれている少女を、妙に醒めた目で見始めていた。
 何かが、どこかが違うのだ。彼が知っていると思っていた里菜と。
 黒い瞳も、黒い髪も、白く柔らかそうな頬も、額から鼻先にかけてのあどけない曲線も、愛らしく尖ったバラ色の唇も、作り物みたいな桜色の爪先も、あえかな薄桃色の耳たぶも、ほっそりした華奢な肢体も、この半年、ずっと心に抱いてきた面影のままだ。
 儚げに見えて意外と芯が強そうなところ、小さくてかよわいくせに口先だけはやたらと勇ましいところ、兎のようにびくびくしておとなしそうなのに時折ふいに思い切った言動を見せるところ、野良猫のように警戒心が強いのに、そのくせどこか無防備で危なっかしく、守ってあげたくなるようなところ……。みんな、彼が、そんなところがかわいいと思っていた、半年前の里菜のままだ。けれど、何かが違う。
 そうか、当たり前だけど、この子だって、結局は、ただの女なのか――。
 ローイは、心の一部が痛みと共に奇妙に冷え固まってゆくのを感じた。冷え固まったものが静かに胸の底の暗がりに沈んでいき、同時に、その同じ淵から、昏く熱い昂ぶりが湧き上がってくるのを感じた。腹の底から湧き上がってくる塊の冷たい熱に、目眩いがしそうだった。
 少女は顔を上げて弱々しく呟いた。
「だって、ローイ……。あたしは、さっき言ったじゃない。もう、アルファードのことは忘れるって……。ローイ、あなたが、好きよ」
「でも、アルファードのほうがもっと好きなんだろう?」
「今は、まだ、たぶん。でも、あなたがあたしを選んでくれるなら、あたしはあなたを選ぶわ。そしたらあたし、もう迷わないから」
 少女の視線が、縋るようにローイを捕らえた。
「……ね、ローイ。やさしくして。あたしに、アルファードを忘れさせて」
「本当だな、あんた、本当に、俺を選んでくれるんだな?」
 ローイは少女の上に身を屈めるようにして、底知れぬその黒い瞳を間近に覗き込んだ。
 こくりと小さく頷く少女に、ローイは低く言った。
「そんな、言葉だけじゃ信じらんねえな。あんたがどれだけアルファードにべた惚れしてたか、俺はずっと、隣で見てたんだ。しかも、俺は一度、あんたにゃ、勘違いしようもないほど完璧にふられてんだぜ。いまさら急にそんなふうに言われたって、信じられるもんか」
「じゃあ、ローイ、あたしはどうすればいいの? どうすれば信じてもらえるの?」
 ローイは少女の顎を強く掴んで仰向かせた。
「証拠を見せてくれよ!」
「……証拠?」
「あんた、今すぐ俺のものになってくれるか? そう、今、ここでだよ! ……そうすれば、信じてやる。あんたと一緒に、どこまででも――北の荒野まででも、俺は行く」
 黒い瞳が、怯えたようにいっぱいに見開かれた。
 けれど、ものも言わずにそうして自分を見つめている少女の瞳の中に、ローイは確かにとまどいやためらいとは別の何かが揺れるのを見た。それは、怯えを装った誘惑――媚びを含んだ甘い挑発の影だった。
 その瞬間、ローイの中にひとつの確信が生れ、まだ心の中にあった最後のためらいが消えた。
 ローイは少女の上体を無造作な動きで寝台の上に押し倒した。
 声もなく、ただますます目を見開いている少女に顔を寄せ、ローイは、拗ねたように言った。
「目、つむれよ」
「え……」
「目ェ、つむれよ! こういうときは、目をつむるもんなんだよ……」
 言われるままに、少女はおずおずと瞼を閉じた。
 次の瞬間。
 目を閉じて震えながら初めてのくちづけを待っていたはずの少女の胸に、冷たいナイフが、まっすぐに突き立っていた。


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この作品の著作権は著者冬木洋子に帰属しています。

掲載サイト:カノープス通信
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