長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語 

<<<トップぺージへ  <<目次へ < 前へ || 次へ >


 <第三章 イルベッザの闇> 

(第二章までのあらすじはこちらから




 南の都イルベッザは、やわらかく湿った春を過ぎ、眩しい夏を迎えた。
 海沿いの低地で細々と米が栽培されていることからもわかるように、イルベッザの気候は、梅雨はないまでも、ごく日本と近いらしい。が、『常春の都』と言われるだけあって、より四季の温度差が少ない、穏やかな気候に恵まれているようだ。冬は東京よりかなり温暖だったが、夏の暑さはだいたい東京と同じ程度だろう。
 石畳に夏の光がぎらぎらと照り返すイルベッザ城構内の一角。
 うだるような暑さの中、昼休みを楽しむ役人や治療師たちがのんびりと行き交い、わずかな木陰では、学生たちがたむろしてだべっている。
「おっはよー、リーナ! お寝坊さん!」
 いきなりすごい勢いで背中を叩かれて、里菜は飛び上がった。
 もちろん、声の主は振り返らなくてもわかる。もし、声でわからなかったとしてさえ、こんな乱暴者はリューリしかいない。
 夜明が早い夏は、魔物退治も早く終りになるので、里菜は以前よりは早く寝ることが多い。それでも、起きるのはどうしても昼近くだ。闇に慣れた目に白昼の日差しが眩しい。
 目を細めて振り返った里菜が光の中に見たのは、リューリだけではなかった。今日も彼女は、後ろにぞろぞろと『子分』を従えていたのだ。
 ともに勤務時間が不規則な里菜とリューリは、運よく食事の時間が合えば、宿舎街の食堂で一緒に食事をする。リューリには里菜の他にも一緒に食事をする仲間が大勢いて、ここへ来てすでに半年が過ぎた今、里菜は、その日の食事時間の都合で変わるそのメンバーの大半と、リューリの紹介ですでに知りあいになっている。
 今日のメンバーは彼女の他に四人。里菜にもお馴染みのメンバーばかりだ。
 リューリの後ろでニコニコしている小柄な少年は、彼女の従弟、天才少年の誉れ高い、若干十五才の新鋭学者エルティーオだ。前にリューリが話していた、『アルファードの大ファン』である。
 彼と初めて会ったのは、ここへ来て間もないころだった。ぜひアルファードに彼を紹介させてほしいというリューリの頼みで、四人で一緒に食堂に行ったのだ。
 彼がどんなに天才でずばぬけたエリートかをリューリからさんざん聞かされて少々身構えていた里菜は、あの日、リューリに連れられて約束の待ちあわせ場所に現われた彼を見て、どっと力が抜けた。なにしろ、彼を見た瞬間に里菜が抱いた第一印象は、「わあ、ナントカ少年合唱団!」というものだったのだ。
 何というか、清純派風である。
 十五才といえば、『あちら』での中学三年生にあたるはずだ。普通なら、髭の生えかけた薄汚いにきび面に、脳みそとアンバランスなむやみとでかい図体というのが相場だろうに、この清らかさ、かわいらしさはなんだろう。
 彼は、従姉のリューリとは似ても似つかぬ白い肌、やわらかそうな茶色の髪に空色の目の少年だった。似ているところといえば、年の割にやや背が低いことくらいか。そして、これもリューリに似ず、特別に美形というわけでもないおとなしい顔立ちなのだが、これがなんだか、ちょっと童顔で、妙にかわいいのだ。リューリに言わせれば、性格のかわいさが顔に出ているのだそうだ。
 自分の目の前でそんなことを言われた時は、彼もさすがにちょっとむっとしていたが、そんな様子もまたかわいくて、里菜は、失礼だと思いながらも、つい吹き出してしまったのだった。
 リューリが彼を紹介した時も、おかしかった。リューリは自慢そうにこう言ったのだ。
「これが従弟のエルティーオ、ティーオよ。どう、かわいいでしょ! これで、もう、すっごい天才なんだから。あたしたち、姉弟同然に育ったの。ねっ、ティーオ。リーナ、言っとくけど、この子をいじめたりしたら、あたしがすっとんで行くからね!」
「リューリ! もう、いいかげん、会う人ごとにそんなこと言うの、やめてよ。今じゃ誰も僕をいじめたりはしないんだから」
 ティーオは、苦りきった顔で――そんな顔まで、やっぱりかわいかった――リューリを肘でつついて言った。里菜にキャテルニーカを甘やかすなと説教したリューリも、この従弟に対しては、なかなか過保護らしい。
 アルファードに引き合わされた彼は、頬をピンクに染め、目の中に星をきらめかせた感激の面持ちでアルファードを見上げて、こう言った。
「僕、以前から、あなたのことをとても尊敬してるんです。あの武術大会の時、僕は、人間は魔法なしであんなに強くなれるものなのかと感動しました。そう、あなたは人間の可能性について、僕に考えさせてくれたんです!」
 この、ずいぶんと大袈裟な賛辞に、返答に困ったアルファードが、
「ああ、それは、どうも……」と、あらぬかたを見ながらぼそぼそ言っていると、ティーオはなにやら小さな袋を取り出して、彼に差し出した。
「あの、これ、プレゼントです。使って下さい。そのう……、魔法なしでも火を呼び出せる道具です。僕が発明しました。ちょっと、開けてみてください。ほら、そっちの棒の先を、そっちの石でこするんです」
 アルファードが言われるままに取り出した袋の中身を見て、里菜は叫んだ。
「こ、これっ……! マッチじゃないの!」
 ずいぶんと武骨な造りではあったが、たしかに原理はマッチだ。摩擦で火を起こすことさえ知られていないこの世界で、この少年は、たったひとりで、火打ち石を飛び越してマッチを発明したのだ。たしかに天才だ。
「『まっち』とはなんだ?」と言いながら、アルファードは、ティーオが手ぶりで教えるとおりにマッチを一本擦った。最初はうまくいかなかったが、何度目かで、マッチはぼっと音を立ててかなり派手に燃え上がった。アルファードはそれを目を丸くして呆然と見つめていたが、すぐに軸が短くなって炎が指先に迫ったので、あわてて地面に投げ捨てた。危うくアルファードの指先を焦がしかけたマッチは、石畳の上であっという間に燃え尽きた。
「そう、そうやるんです。これ一本一本は使い捨てで、こうして出した火を、すぐに、あらかじめ用意しておいた蝋燭などに移して使います。今はこれしか手もとにないんですけど、なくなったら、また、いくらでも作れます。次に作る時は、もっと小型化、軽量化して、あと、もっと持ちやすく、擦りやすく改良したいと思ってるんですけど……」
「す、すごいわ! ありがとう、ティーオ! これ、すっごく便利よ。どこででも使えるし。ね、アルファード?」
 驚きのあまり黙り込んでいるアルファードに代わって、里菜が言うと、アルファードも黙って何度も頷いて、やっと言った。
「あ、ああ。……ティーオ、君はこれを、わざわざ俺のために発明してくれたのか? この世界に、俺以外には、これを必要とするものはいない……」
「ええ」と、ティーオは、はにかんだ笑みを見せた。汚れなき天使の微笑みである。
「あなたのことを知るまで、僕は世の中に魔法を使えない人がいるなんて考えても見ませんでした。でも、たとえ一人でもそういう人がいるなら、その人がなるべく他の人と同じように不便なく日常を暮していけるよう、本人だけでなくみんなが工夫するべきだと思ったんです。今、もっと他にも研究をしているところです。これであなたの生活が少しでも便利になればうれしいです」
「ありがとう、ティーオ……。しかし、こんなふうに、使い手の魔法の力に頼らずに引き出せるように、ものに魔法の力を込めておくなんていうのは、<本物の魔法>でしかできないことだと思っていたが……」
「ああ、それは、たぶん魔法じゃないんです。もちろん、加工の段階ではあれこれと魔法を使いましたが、その原理自体は魔法じゃないと思います。物に魔法を込めたんじゃなくて、物が持っているもともとの性質を研究して、それを引き出す工夫をしたんです」
「そうよ、これは……、これは、科学よ!」という里菜の呟きは、小さな声だったので、誰も気にとめなかった。
「アルファード、あなたが僕に教えてくれたんです」と、ティーオはアルファードをまっすぐ見つめて言った。
「人間には、魔法以外にも使えるものがあるってことを。あなたには力が使える。僕には――もちろん、あなたや他の人にも使えるんですけど、人より余計に、頭が使えます。実は最初、魔法を組み合わせてこういうものを作ろうと思った時は、何もできなかったんです。発想を変えて、魔法とは一切関係のないところで頭と手先だけを使ってやってみようと思った時から、最初の一歩が始まったんです」
 里菜とアルファードがひたすら感心して聞き入っていると、横からリューリが口を開いた。
「これ作るのに、ティーオは苦労したのよ。忙しい本業の合間にやってたし、この方法を思いついてからも最初はなかなかうまくいかなくて。ね、ティーオ、あなた、さんざん前髪焦がしたのよね。前髪どころか睫毛も焦がしたし、一度なんか大爆発して、ドアまでふっとばしたのよね。頭はちりちりだし、顔は真っ黒だし、そこら中しっちゃかめっちゃかで。あの時は所長や管理人に怒られたわよねえ。あやうく研究所から追い出されるところだったのよね。火事が出なくてよかったわ」
 ちなみに、名前からはいったい何の研究所なのかよくわからない『イルファーラン国立研究所』というのは、その実態も名前どおり何をやっているのかよくわからないところで、いろんな学者が集まってそれぞれ勝手に自分の専門分野の研究をしている施設である。何人かでチームを組んでひとつの研究をしている人たちもいれば、ティーオのように一人で自分だけの研究を進めているものもいるのだ。
 ティーオの『本業』は、魔法の照明器具造りだそうだ。イルベッザ城の廊下にあったあの不思議な照明こそ、ティーオの試作品で、これを全国の一般家庭にまで普及させることが彼の夢だと言う。
 あれ以来、里菜は何度か、リューリと一緒にいる彼と出会っているが、その度に彼の前髪が焦げていたり、頬や服が煤けていたりするところを見ると、あの後も、彼はアルファードのために『マッチ』の改良をかさねてくれているらしい。
 あれからもう二月ほどたったろうか。今日もまた、彼の前髪は焦げている。
 ティーオの後ろには、さらに、キャテルニーカと、治療院の雑用係のフェルドリーン。
 フェルドリーンは十四才、そばかすだらけの丸顔にいつも穏やかな微笑みを浮かべた、もの静かで大人びた少女で、無口だが、たまに口を開くと、どんな時も変わらぬ小さなやさしい声で必ず的確なことを言う。彼女の丸い顔と生真面目で考え深そうな灰色の瞳を見るたびに、里菜は、なんとなくナキウサギやヤマネといった小動物を連想する。
 勉強好きで努力家の彼女は、この秋から、治療院で働きながら上級学校に通う予定で、春の終りに初級学校を卒業すると同時に、リューリの指導のもと、見習い修行に入ったのだ。
 キャテルニーカは、どうやらたちまち彼女とも親しくなったらしい。
 実は里菜は、最初のうち、キャテルニーカが学校や治療院でうまくやっていけるのか、とても心配だった。なにしろ彼女は、ひどく風変わりで浮世離れしていて、しかも年の割に妙に子供っぽく、一見、頭が足りないようにさえ見えるのだ。
 けれど、どうやら、それは杞憂だったようだ。
 キャテルニーカは、学校に行ったことがなかったので最初は年下の子供たちと一緒のクラスになったが、もともと読み書きはできたし、実はものすごく記憶力がよかったので、どんどん勉強が進み、今では同年令の子供たちと同じ学年に追いついている。そこで、彼女は、ちょっと風変わりではあるが普通の子供としてあたたかく迎え入れられ、友達もできて楽しくやっているらしい。
 職場でも、治療の魔法の才能や薬草の知識が豊かな上に子供離れした判断力と落ち着きがあると重宝がられ、その屈託のない性格と愛らしい容姿もあいまって治療師や患者たちの人気を集め、治療院のマスコット的存在になっているという。
 そうなると、里菜は、ほっとする反面、なぜか寂しいような気もして、複雑な心境である。子供が手を離れた母親の気分だ。
 四人の『子分』を引き連れたリューリは、
「リーナ、ひさしぶり。これから御飯なんでしょ。一緒に食べよ!」と、里菜の返事も聞かず、さっさと里菜の腕をひっぱって歩き出した。
 こうして、リューリやその仲間たちとたあいのないおしゃべりをする時間は、魔物退治という気持ちの荒む仕事をしている里菜にとって、とても貴重な、ほっとできる時間だった。
「ねえ、ねえ、リーナ、最近、どう?」と、リューリは、セルフサービスの列に並びながら、他の三人に聞こえないように心持ち声を潜め、里菜のほうに頭を寄せて、いつものように尋ねてきた。
 里菜も、いつもと同じ答えを返す。
「どうって?」
「もう、またぁ。彼とのこと。何か、進展ないの?」
 彼女は、里菜と会う度に、好奇心むき出しで挨拶がわりにこれを聞くのである。
 でも、最近の里菜には、もう、これは、あまり面白い話題ではない。答えはいつも同じだ。
「別に……。あいかわらず。一緒に仕事してるだけ」
「何よぅ、だめねえ。仕事でも何でも、毎晩、一晩中一緒に歩き回っているんだから、ちょっと何とかしてみなさいよ。応援のしがいがないわ」
「そんなこと言ったって……」
 噂をすれば影で、その時里菜は、遠くにちらりと、食堂から出ていくアルファードの姿を見かけたが、声はかけなかった。アルファードのほうも、こちらに気づいたのかもしれないが、そのまま人込みに紛れていった。
 里菜がリューリと一緒の時は、彼は、里菜を見つけても決して近づいてこないのだ。それは、彼自身がリューリを苦手だというせいもあるが、たぶん、自分がリューリに嫌われているのをちゃんと知っているせいもあるだろう。リューリは、里菜とすっかり親しくなった今でも、アルファードのことはどうしても気にいらないらしいのだ。
「あなたのことは応援するけど、あたしは、ああいう、何考えてるのかよくわかんないタイプって、ダメ。思っていることをはっきり言わない人って、一番嫌いなの」というのが彼女のアルファード評である。
 里菜としては、リューリにアルファードをへたに気に入られてしまうよりは安心だが、それでも最初のうちはアルファードのためにあれこれ弁明をしていた。
「たぶん、彼は、ただ、ちょっと照れ屋なだけなのよ。あたしと同じで人見知りするの。普段は無口だけど、本当は根っから口下手って訳じゃなくて、何か説明する必要があったり何かの拍子にしゃべる気になった時はいくらでも長々としゃべるし、実はすごく雄弁なのよ。ただ、普段の時、普通の気軽な会話をするっていうのが苦手みたいなの。特に、女の子と話すのは苦手みたい」というように。
 けれど最近では、もう、アルファードのことが、里菜にも、よくわからない。
 彼はもう、光明るい山の村の、心やさしい羊飼いの若者ではない。殺し続けることでしか生きられないという生命の古い呪いに捕らわれた、非情な狩人だ。
 アルファードは、何か満たされぬ思いに突き動かされるように、一種異様なほど熱心に魔物を狩り続けている。けれどその満たされぬ心の内をちらりとでも里菜に見せてくれることは、もう、なかった。
 このところ、里菜とアルファードの活躍にもかかわらず、都の魔物はますます数を増しているようだ。
 魔物が外部から集団で攻め込んでくるというなら、市門を閉ざすなり、防壁にそって守りを固めるなり、こちらも集団で防衛線を張ることもできようが、魔物は町なかの闇の中に、どこからともなく、ふいに涌いて出るのである。
 アルファードは、飢えた獣のように執拗に魔物を追い続ける。本当は魔物などいないほうがいいはずなのに、アルファードは、まるで、魔物の存在を求めているかのようだ。
 そうして、手に馴染んだ愛用の剣を振るい、夜ごと魔物の心臓を機械のように正確無比に貫き続ける。その度に彼の瞳が暗い輝きを増す。
 そしてこのまえ、ついに、里菜は、一番恐れていたものを見てしまった。
 アルファードが魔物の身体を貫いた瞬間、その唇の端に、冷たい薄笑いが、かすかに浮かんだのだ。
 ほとんど無表情に近いだけに、かえってぞっとするような、酷薄な笑みだった。その褐色の目の中に、一瞬、残虐な悦びに近いものが閃くのを確かに見たと、里菜は思った。
 その帰り道、里菜はおそるおそるアルファードを仰ぎ見て尋ねてみた。
「アルファード、さっき、なんで笑ったの?」
「笑った? 俺が? いつのことだ?」と、真顔で聞き返してきたアルファードに、里菜は、もう何も言えなかった。
「なんでもない。勘違いだったみたい」とだけ答えて、それきりふたりとも黙り込んだ。
 けれどそれが勘違いなんかでなかったのは、わかっていた。
 それからも、魔物を消すたびに、アルファードの薄い唇が、凍りつくような冷たい笑みの形に歪む。そして彼は、自分ではそのことに全く気がついていないらしい。
 アルファードは、変わってしまった。それとも、これが彼の本性なのだろうか。アルファードを『ドラゴン』と呼んだ、夢の中の魔王の言葉が、ふと心をよぎる。
 夢のなかにキャテルニーカが現われたあの時以来、魔王は里菜の夢に現われても、もう口をきかない。ただ、黙って里菜を見ている。アルファードの酷薄な笑みを見た夜は、近くにいながら遠くなってしまったアルファードよりも、遠くから自分を見守っている魔王のまなざしのほうがずっと親しくやさしいものに思えることさえある。里菜もまた、変わってしまったのだろうか。
 何もかも、変わってしまった。ローイもいない。そして、魔王が勝手に里菜に押し付けた『夏まで』という期限も、まもなく切れようとしている。
 思いに沈んでしまった里菜を見て、リューリは、心配そうに里菜の顔を覗き込んだ。
「元気ないわね。彼と喧嘩でもしたの? それとも、もう彼はやめにしたの? だめよ、あきらめちゃ。彼、絶対あなたのこと好きなんだから。あたしが保証する。まあ、あなたのほうが、もう彼のこと好きじゃなくなっちゃったんだったら、それはそれでいいけど。もしかして、他にいい男でもいた?」
「ち、違うわ。そういうんじゃないけど……。好きでなくなったわけじゃないし、あきらめたわけでもないんだけど……。でも、最近ほんとに、彼のことが、あたしにもよくわかんないの……」
「なに言ってんの!」と、リューリは里菜の背中を荒っぽく張り飛ばした。
「だめよ、弱気になっちゃ! 好きじゃなくなったんじゃないなら、迷っちゃだめ。彼を選んだ自分を信じるのよ! 信じれば、いつかは道は開ける! がんばって! ね、作戦を変えてみたら? 押してだめなら、引いてみるのよ。一歩退いて、逆にこっちに引っ張るの。それで相手には、自分のほうが押してると思わせとくのよ」
「できないわよ、そんな器用なこと……」
「そうよねえ。わかってても、できないのよねえ。わかる、わかる。あたしもよ。そういう駆け引きができるほど、あたしたち、器用じゃないのよね。あたしたちって、似てないようで似てるのよ。おたがい、前途多難ね。でも、がんばろうね!」
「うん……」と、里菜は溜息をついたが、話す前よりはよほど心が軽くなっているのが、自分でも分かった。
 五人はそれからひとしきり、ティーオの研究や治療院のできごと、構内の噂の数々について、あれこれ話の花をさかせていたが、そのうちにリューリが、最近聞き込んだ街の話題を持ち出してきた。彼女によると、これまでずっと山奥の隠れ里に潜んでいたタナティエル教団の黒衣の姿が、最近、都でもしばしば目につくようになったというのである。
 もちろん里菜も、そのことは知っていた。それどころか里菜は、ここへ来てからも何度か、あの黒衣の連中が、密かに自分の回りをうろついているらしいのを目にしている。しかも、どうやらキャテルニーカは――彼女を問いつめてみてもどうせ忘れていて話にならないだろうから確認はしていないのだが――、彼らと何らかの形で接触を保っているらしい。
 けれど里菜は、そのことを誰にも話していない。
 最近なんとなく遠くなってしまったアルファードに相談するのも、これは全部自分の気のせいかもしれないと思うとなんだか気がひけたし、リューリには、自分が彼らと何か関係あるなどと思われたくなくて話せなかったのだ。
 ただ、今、街で彼らを見かけるというのは、それとはまた別の話らしい。彼らは、人の集まる街角などに立って辻説法をしているというのだ。
 何でも、彼らは、近いうちにやってくる<運命の日>に備えよ、というような意味不明のことを言っているらしい。彼らの言によると、その<運命の日>とは、この夏の最後の新月の日で、その日、昼のさなかに黒い月が太陽を隠し、闇夜が訪れ、その闇の中で人々は神の選別を受けるとか、あるいは神の恵みが与えられる、というのだ。
(日蝕のことかしら)と、里菜は考える。今まで里菜が見てきたところでは、異世界であるこの国では星座の配置は『あちら』とは違うが、太陽や月の運行は、『あちら』とだいたい同じらしい。だから、日蝕があってもおかしくはないだろう。
「何だか知らないけど、いやあね。最近魔物も増えてるし、海の様子も変だって言うし、そのうえ、あの薄気味悪い連中がうろついてるなんてね。しかも、昼間に夜が来るだなんて、そんな不吉なこと言いふらして、みんなを不安にさせて。あたし、あいつら嫌いよ」と、リューリが顔をしかめた。
 ティーオが頷いてあいづちを打った。
「うん、なにしろ君は、昔、あいつらに売り飛ばされかけたんだからね。とんでもない迷惑だったよね。でもさ、昼間、太陽が隠れて暗くなるってことは、歴史上、何回もあったことなんだよ。そういうのを占星術師たちは<女神の服喪>って言って、凶兆と見なしているんだ。実際、ファルド地区全域が水没した二百年前の大津波の年にも、それがあったって言うよ。ただ、完全な真っ暗闇になるっていうんじゃなくて、太陽が半分だけ欠けて見えるとか、腕輪のように回りだけ光って見えるとか、全部隠れて黒く見えるけどあたりは満月の夜くらい明るいとか。まあ、目が暗さに慣れてないから実際より暗いように思えるらしいけど」
「へえ、そうなんだ。でも、それって、月と関係あるわけ? 月じゃなくて、太陽が黒くなるんでしょう? だいたい、黒い月って何よ。昼間の月は白いわよねえ」
 その時、ほとんど黙って聞き役に回っていたフェルドリーンが、その独特の、鳩のように穏やかで愛らしい小さな声で、ひっそりと口を挟んだ。
「あたし、あの人たちの話、立ち止まって聞いたんだけど、月は今、その日のために力を蓄えているって。どんどん大きくなっているんですって。それ、本当みたい。だって本当に、この春から、月はだんだん大きくなっているのよ。あたし、見たもの。あたしのおばさんで<風使い>のとこへお嫁にいった人がいるんだけど、やっぱり言ってたわ。最近、海がやたらと騒ぐのは、月のせいだって。今年の春の大潮には、今まで来たこともないような高いところまで潮が上がってきて、下ファルドあたりの低地じゃ、軒先まで海が来た家もあるって。魚も、やたらと獲れたり、全然獲れなかったり、見たこともない気味の悪い魚が網にかかったりするって」
 するとキャテルニーカがぽつりと言った。
「リーン、月は今、悪い夢を見ているのよ。かわいそうね」
 里菜は、キャテルニーカがまたこんな奇妙なことを言って、みんなに変に思われやしないかとはらはらしたが、ここにいるものはみなキャテルニーカの風変わりな言動には慣れているから、こう言って笑っただけだった。
「ニーカはやさしいのよね。ニーカにかかっちゃ、月まで『かわいそう』なんだもの」

 食事を終えて宿舎に帰る道々、里菜はこの不吉な噂について考え込んでいた。
 そういえばたしかに、最近、月が大きいような気がしていたのだ。ただ、なにしろ星の配列さえ違う異世界のこと、そんなこともあるのだろうと、さほど気にしていなかったのだが、どうやらこれは、やはり異常な事態だったらしい。里菜は夜の野外を歩き回るのを仕事にしているが、今、普通の人はまず夜に外に出ることはないので、このことに気づく人が少ないのだろう。
 思いに沈みながら里菜が宿舎に戻ると、宿舎の前でアルファードが待っていた。
 これは非常に珍しいことだったので、どうしたのかと驚いた里菜があわてて駆け寄ると、アルファードは、挨拶抜きでいきなり言った。
「リーナ。今日は仕事は休みにしよう」
「えっ、どうして? 満月でもないのに。アルファード、具合でも悪いの?」
「いや。ちょっと、用事がある」
 アルファードはいったんそこで言葉を切ったが、考え直したように、つけ加えた。
「……夕方、ローイを探しに行く。手掛かりがあったんだ」

<前へ  || 次へ>


感想掲示板へ
『イルファーラン物語』目次ページへ
トップぺージへ

この作品の著作権は著者 冬木洋子に帰属しています。

掲載サイト:カノープス通信
http://www17.plala.or.jp/canopustusin/index.htm