長編連載ファンタジー
イルファーラン物語
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五
固いベッドの上で寝返りを打って、里菜は目覚めた。額に汗が滲んでいる。 もう、昼過ぎだろう。小さな窓からは陽が差し込んでいる。 また、魔王の夢を見た。 最近、里菜はほとんど眠るたびに魔王の夢を見る。 夜通し魔物を狩って明け方に眠りに就く時には、身体は疲れているのに精神は妙に緊張している。そんな時はいつも、自分がそれまで歩き回ってきた闇の残滓を纏っているような気がして、何だか汚れているように感じられる。闇の中、魔物を追い求めているうちに、自分も魔物の同類になってしまったような気がしてくる。夢を見るのは、そんな時だ。 眠るのはたいてい朝方、明るくなる頃なのに、夢の中は、いつでも夜だ。 いつかのように魔王が白馬に乗って現われて、あれこれと語りかけてくることもある。そしてふと見ると、その馬が白骨であることに気がついたりする。 かと思うと、魔王は何も言わずに、ただ、里菜に暗い凝視を投げかけ続けるだけのこともある。その凝視は、里菜に恐怖と陶酔を共に呼び起こす。 また、時には、魔王は、目に見える姿を持たずに夢に訪れる。里菜はただ、黒い翼に包まれて、どこまでも、ほの暗い虚空を飛んでいたりする。もう二度と地上に戻れないような気がしてさびしくなるが、一方で、こうして飛んでいるのがなんだかなつかしいような気がして、いつまでもそのまま飛び続けていたいと思う。生れる前、自分はこんなふうに虚空を漂っていたのかもしれないと思う。里菜はもう透き通って、肉体は消え失せているはずなのに、自分を抱く羽根のやわらかくひんやりした空気のような感触には不思議と現実味があって、目覚めた後も生々しく肌に残っているような気がする。 この日、夢に現われた魔王は、初めて出会った時のように大鎌を背負った丈高い黒衣の姿をとって、夢の中にも重たく淀む湿った春の闇の底に、すっくと立ち現われた。 『エレオドリーナ、我が妻よ……』 いつものように、魂に呼びかける。 『いいかげん、魔物退治には飽きたころではないかな? そして、そなたの薄汚い羊飼いにも……。あの男は、そなたを少しでも幸せにしてくれたか?』 「うるさい!」と、里菜は叩きつけるように叫んだが、それは、いきなり弱みをつかれた狼狽のせいだった。自分とアルファードのことに、触れられたくなかった。自分が幸せでないことを、知りたくなかった。そして、どんな形にせよ魔王が現われるたびに、どういうわけか自分が無条件で魔王に魅惑されてしまうことを、認めたくなかった。 「あなたにそんなことをとやかく言われたくないわ! 放っておいてよ。あなたに何がわかるの!」 そう言いながらも、里菜は、魔王のもとに歩み寄りたいという欲望と必死で戦い続けているのだ。 『私には、そなたのことは何でもわかる。あの男のことも、少なくともそなたよりはよく知っている……。あれは、世界のすべてを破壊しつくす夢を見ながら、それを実行することも、あるいはその欲望ごと自分を殺してしまうこともできなかった、負け犬だ……』 魔王は、声なき声で低く笑った。悪意に満ちた、侮蔑の笑いだった。 『あの男は、羊の皮を被った臆病なドラゴンだ。だから常にドラゴンを殺し続けてこなければならなかった。自分がドラゴンの仲間でないことを、他人に対しても自分に対しても証明し続けるために、自らが呼び寄せたドラゴンを自ら殺し続けてきたのだ』 「うそよ!」 『うそではない。そなたの羊臭い恋人は、そなたにたった一言の愛の言葉でも、ほんの一瞬のくちづけでも、与えてくれたか? あの負け犬が、いつまで待ってもそなたにくちづけのひとつも与えてくれないのは、自分の吐く息に硫黄と腐肉の匂いがすることを知っているからだ……』 「……アルファードは、もう羊臭くないもん!」 言葉に詰まった末の的外れな返答だったが、それは本当だった。アルファードからは、もう、羊の匂いも犬の匂いもしなかった。夜を彷徨ううちに、その髪からは太陽と風の匂いが消え失せ、長い山暮しでほとんど地色になっていた日焼けさえいくぶん褪せたその肌からは、大地と草の匂いが消え失せた。ただ、かすかに汗の匂いだけがした。それは無明の闇の匂い――理解を拒む、不可解で理不尽な生命の深淵の闇の匂いだった。 里菜の言葉を無視して魔王は続けた。 『今ごろ、あの男は、己の昏い夢の中で、そなたの白い喉笛を食い破って甘やかなその血をすすり、か細いその腕をへし折って柔らかな骨をポリポリと噛じりながら、血まみれの銀の巨体を歓喜に打ち震わせているだろう。だが、あれは、そなたほど正直でなく、そなたよりも臆病だから、目が覚めた時には何も覚えていまい。ただ、理由もわからず後ろ暗い思いを抱き続けるのだ。愚かな男だ……』 「アルファードに、何かしたの? あたしの夢に出てくるのはしかたないけど、アルファードには手を出さないで!」 『私は、何もしていない。あの男は、ドラゴンを呼び込む質なのだ』と、魔王は笑った。 『そなたはそれであの男に惹かれたのだろう。それはそなたが、ドラゴンたちの主たる私に惹かれているからだ』 「やっぱりあなたが、ドラゴンを操っていたのね! アルファードが呼び寄せたなんて嘘ついて。あなたがこの世界にドラゴンをけしかけていたんだわ!」 『私はドラゴンの主ではあるが、ドラゴンを人界にけしかけたりはしていない。人が呼ぶから、ドラゴンは行くのだ……。それでもそなたはつまらぬ人間なぞを愛し続けるのか? 薄汚れたこの俗世に、まだ留まろうと言うのか? 私と来れば、永遠に、美しいものだけに囲まれて暮せるというのに……』 「美しい、死んだ夢の結晶たちに囲まれて、ね。いやよ! 誰が、あなたに惹かれてなんか……!」 そう言いながら、里菜はまた、魔王の広げた腕に向かって足を踏み出そうとしていた。 その時、里菜の背後から、あどけない声が、ひっそりと言った。 「……魔王は、かわいそうね……」 一瞬、魔王の回りの空間が、魔王のかすかな狼狽を映したように揺れた。 はっとして振り向いた里菜の後ろに、小さなキャテルニーカが、しん、と立っていた。 「ニーカ!」 里菜はとっさにキャテルニーカに駆け寄り、その身体を抱きよせて庇いながら叫んだ。 「ニーカ、なんであなたが、ここに! こんなとこへ来ちゃだめよ、危ないんだから!」 その時、里菜は、いつか里菜がドラゴンの前に飛び出した時のアルファードの怒りを理解した。それから、里菜を後ろにして戦う時、アルファードがどうしてあんなに強いのかも。それはきっと、里菜が相手の魔法を消すからだけではなかったのだ。 一人っ子の里菜は、これまで、守るべき、自分より小さいものを持たなかった。里菜はいつも誰かに守られてきた。けれど、今、自分より弱いものを背後に庇った時、自分が急に大きく、強くなったような気がした。 里菜の腕を擦り抜けて、恐れ気もなく魔王に歩み寄ろうとするキャテルニーカを、里菜はあわてて抱きとめた。 「だめよ、ニーカ、出ないで。下がっていて! こいつはロリコンなんだから。あなたなんか、何されるかわかんないわよ!」 そう言って、里菜は魔王をはったと睨みつけた。それまでものすごく大きく見えていた魔王が、何だか急に一回り小さくなって、長身ではあるが普通の人間の大きさに見え、あんなに眩く美しかった大鎌の輝きが、わずかに色褪せたような気がした。 『エレオドリーナよ……。あまりにも誤解が甚だしいようなので言っておくが、私は別にロリコンとやらではないぞ』と、弁解するように言った魔王の言葉は、今までより僅かに気弱げで、どこか人間臭くさえあった。 魔王はもう、いままでのように美しくも恐ろしくも魅惑的でもなかった。里菜は平気で魔王を見返すことが出来るようになって、強気で叫んだ。 「うそ。だって、あなた、前に、赤ん坊と結婚したいって言ったじゃない!」 『それは、そなたの勘違いだ。そなたが私の言葉尻を捕えて、勝手にそう思い込んだのだ。私はそんなことは言っていないはずだ』 「そ、そうだったかしら……? でも、どっちにしても、危ないやつには違いないわ! アタマのおかしい死神なんて!」 『たしかに私は狂っているかもしれないが……。エレオドリーナ、私が狂っているとしたら、それは、そなたのせいだ。そなたが私をこのように狂わせているのだ』 「ダサい! ダサいわ!」 突然笑い出した里菜に、魔王はほんの少し、たじろいだように見えた。里菜はばかにしたように言葉を続けた。 「それって、口説き文句のつもり? だったら、すっごくクサいわよ。最悪。でも、それを本気で言ってるんだったら、もっとひどいわ。自分の性格が悪いのを他人のせいにするなんて、性根が甘ったれてるわよ。あなたなんかにそんなふうに甘えられたくないわ!」 その時、キャテルニーカがそっと里菜の腕を押し退けて、今度は里菜が止める暇もなく魔王の方に一歩進み出て呟いた。 「魔王。……かわいそうね」 里菜はまたキャテルニーカを引き戻そうとしながら叫んだ。 「バ、バカッ、ニーカ、止めなさい! こんな甘ったれた死神野郎に下手に同情なんかすると、寒い寒い北の荒野の、隙間風のピューピュー入るおんぼろお城に、さらっていかれちゃうのよ!」 『私の城には、隙間風など入らん』と、魔王は里菜に侮然と言葉を返してから、自分の前に進み出たキャテルニーカを静かに見下ろした。 『そうか、そなたが、この娘のそばにいたのか……。いつか、森の中で、娘を呼び戻したのもそなただったのだな……』 「そうよ」 キャテルニーカはあっさりと答えた。 魔王は渇望と畏れの入り混じった奇妙なためらいを見せて、低く呟いた。 『久しいな、キャテルニーカ。まだ、生きておったのか……。シルドーリンの古き緑の宝石、我が小さき娘よ……』 それを聞くなり、里菜はいきなりすっとんきょうな声を上げた。 「む、む、娘ですってェ! やだ! うそ! ニーカ、それ、本当? ひどいわ、この死神野郎ってば、あたしをお嫁に欲しいとか言っておいて、実は、さ、妻子持ちだったなんて。バカにしてるわ。ずうずうしいにも程があるわ!」 あまりにズレた里菜の反応に、魔王は、妙に人間くさい困惑した様子で弁明を始めた。 『そういうわけではない……。私は、人ではない。娘と言っても、人間の言うような意味での娘ではないのだ。生物としてのこの娘の父というわけでは……』 「言い訳なんか聞きたくないわ! この妻子持ちの女たらし! 不潔よ!」 『……少なくとも私は、妻がいるとは一言も言っておらんが。そなたはすぐそうして勝手に思い込む癖があるようだな。この子供も、血のつながりという意味での娘ではない。ただ、眠りは小さき死、忘却は死の娘、そういう意味だ』 「何、それ。何かの呪文? でも、要するに、本当の娘じゃなくて、娘みたいなものって意味ね。あたしを妻って言うのと同じで、あなたが勝手にそう言っているだけなのね。よかった。ニーカみたいないい子が死神の娘なんかのはずはないと思ったわ!」 ヴィーレやミュシカのいる優しい村を離れ、ローイが去り、頼みのアルファードも遠くなってしまった今、キャテルニーカは、里菜の心の支えだった。 キャテルニーカがいなければ自分はおかしくなってしまっただろうと、里菜は時々、ふと、思う。キャテルニーカは、ただ無邪気に眠っているだけで、里菜を慰め、押し寄せる心の闇から守ってくれる。あたしの守護天使、と、里菜は時々、胸の中で、そっと呟いてみる。 そのキャテルニーカが、魔王の娘だなんて、信じたくなかった。 キャテルニーカは静かに魔王に手を差し伸べた。 里菜はぎょっとしたが、魔王はその手を取ろうとはしなかった。むしろ、怯えるように、僅かに後ずさった。 キャテルニーカは悲しそうに手を降ろした。魔王は不思議な渇望の気配を纏って、ただ立っていた。 しばらく三者とも無言だった。やがて我に返った里菜があわててキャテルニーカを抱き寄せ、魔王から引き離した。 「あっち行け、この死神! ニーカに触わらないで! あなたはニーカを娘なんて言うけど、ニーカはあなたのこと、お父さんって呼ばないじゃないの!」 それまでずっと、力に満ちあふれ、若くはないが決して老いてもいないように見えていた魔王が、急に小さく縮んで年老いたように、疲れた、弱々しい嘆息を漏らした。 『エレオドリーナ。私を嫌うな……。私はそなたにも、その子供にも、危害を与える気はないのだ……』 けれど魔王は、すぐにまた傲然とした声音を取り戻した。 『言っておくが、エレオドリーナよ、私がすぐにそなたを手にいれようと思えば、どうにでもできるのだ。今のそなたの、その、か弱く脆い肉体や幼く不完全な精神を破壊してしまうのは、たやすいことだ。そんなかりそめの形を壊してしまっても、そなたの真の存在は損なわれることなく私のものになる。 だが、私は、そうしないことにした。これはちょっとした酔狂に過ぎぬが、私は、今のそなたが気に入ったのだ。あるいは、幼く不完全で愚かなものたちを偏愛する、そなたの下らぬ性向に、私も多少影響されたのかもしれん。そのように儚く脆いものである今のそなたを、なぜか私は損ないたくない。そのままで手にいれたいのだ。だから今は、何も手出しはすまい。 私を恐れるな……。夏が過ぎたら、北へ来い。待っている……』 かき消すように、魔王の姿が薄れた。同時に、腕の中のキャテルニーカも消えて、里菜は目覚めたのだった。 まだぼんやりしたまま、里菜はうっすらと目を開けて、天井を見上げた。 その時、ふいに、すぐ近くでキャテルニーカの声がした。 「お姉ちゃん、起きた?」 里菜が驚いて半身を起こすと、キャテルニーカが梯子につかまってベッドの横に頭を出し、首をかしげてにっこり笑っていた。 「ニーカ、どうしたの? 学校は?」 「お昼休み」 「忘れ物?」 「ううん、お姉ちゃんに会いたいと思って。お昼御飯の後、時間があったから、ちょっとだけ戻ってきたの。お姉ちゃん、怖い夢を見たのね。うなされてた。でも、もう大丈夫。ね? じゃあ、あたし、学校行くね!」 そう言ってキャテルニーカは、手を伸ばして里菜の頬に軽く触れたと思うと、すぐに梯子から身軽にヒョイと飛び降りた。 「ありがとう、ニーカ」と、里菜が急いで起き上がった時には、キャテルニーカはもうぱたぱたと廊下に駆け出していた。 →感想掲示板へ →『イルファーラン物語』目次ページへ →トップぺージへ |