『イルファーラン物語』番外編

エゴノキ平の春




(2)


 ウグイスが鳴いている。静かだ。のどかだ。時は春。うららかな春の午後。
 
 東京から快速電車で小一時間。駅まで迎えに来てくれた竜の車で、そこからさらに三十分ほど。
 県道を逸れ、山というほどもない小高い起伏を一つ越えたその向こうに、まるで隠れ里みたいに、ひっそりと、小さな田んぼがあった。
 こういう、谷間の底の田んぼを、この辺では『谷津田』と言うのだそうだ。
 その、谷津田のほとり、山との境の一段高くなったあたりに、小さな古い木造家屋があって、そこが、竜と犬たちと猫の住まいだった。

 庭は、踏み固められた泥土が剥き出しで、車のドアを開けたら、足元が、ちょうど、ぬかるみだった。
 竜が、申し訳無さそうに、ここは谷なので日の当たる時間が短いし山からの水も出るから雨が降ると何日もぬかるむのだ……というようなことをぼそぼそ言い訳しながら、車から降りる里菜に手を貸してくれた。
 ハイヒールを履いてこなくて正解だったけれど、ハイヒールを履いていたら、ここで、竜の逞しい腕にもっと縋り付くような状況になっていたかも……と思いかけて、里菜は一人でちょっと赤くなった。

 昼食はどこかに食べに行くのかと思ったら、竜が当たり前のような顔で手早く簡単な手料理を作ってくれた。
 それから、庭に出て犬たちと遊んで、さらに、犬を連れて竜と一緒に山道を散歩した。
 ソメイヨシノはあらかた散ってしまったけれど、谷を囲む雑木山は僅かに咲き残った山桜の色とりどりの若葉に彩られて、微妙な春の色に霞んでいる。木陰の斜面には、空色の蝶々のようなスミレが群れ咲いていた。
 まだ田植え前の田んぼの畔にも降りていった。用水路のほとりには、春の陽光を浴びてオオイヌノフグリやタンポポが満開だ。この田んぼには、夏にはホタルも出るのだそうだ。
 里菜は本物の野生の(と、言うのだろうか)ホタルを、まだ一度も見たことがない。
「ホタル、見たいな」と言うと、
「それじゃあ、見に来ないか」と、さらりと誘われた。
「でも、ホタルって、夜じゃなきゃ見れないでしょ? 夜遅くなると帰れないから……」と、ためらっていると、こともなげに言われた。
「泊まっていけばいい」
「……え?」
 あんまりこともなげに言うので気付くのが一拍遅れたが、もしかして、それって……?
 里菜の内心の動揺とその理由に気付いてか、竜は宥めるように言葉を足した。
「部屋は空きがあるから大丈夫だ。でも、鍵はないから、もし君が不安だったら、寝るときは襖につっかい棒をして寝ればいい」
 そう言った竜は、大真面目だった。冗談のつもりではなさそうだ。
「つ、つっかい棒……。あるんですか?」
「いや。でも、もし君が泊りに来るなら、調達しておく」
 また、大真面目に言い切った。
 本気だ、この人。本気でつっかい棒を調達するつもりらしい。……やっぱり、この人、ちょっと変わってる……。

 そうして、今、山を背にした古い木造家屋の縁側の端っこに、竜と座布団を並べて腰掛けて、ウグイスの声を聞きながら、陽だまりでお茶を飲んでいるのだ。膝の上には、猫が丸くなっているのだ。二人の間には、竜の愛犬ミュシカが長々と身体を伸ばしてのんべんだらりと寝そべっているのだ。

 この、妙に和む、妙に落ち着くシチュエーションは何なの……? これがデート……? 昔話の中のおじいさんとおばあさんになったような気分なんですけど……。
 でも、こういうのって、いいかも……。

 里菜は隣に座る竜をちらっと見た。
 東京で会った竜はいつもどこか窮屈そうだったが、ここでは妙にくつろいで、自分のテリトリーにいる自信と落ち着きに溢れているような気がする。東京にいた時は、竜がぎこちないので、その場に馴染んでいる自分のほうが何となく少し優位に立っているような気がしていたのに、ここでは、むしろ逆だ。テリトリーに連れ込まれた自分が負けみたいで、なんだかちょっと悔しい。
 ゆったりと構えつつ、なおかつ力を秘めて隙を見せない大きな身体は、木陰で寝そべる虎のようだ。その気になればいつでも瞬時に獲物に飛び掛れるが、今はお腹が空いていない……とでもいう余裕の風情。
 それにしても大きい人だ。ウドの大木とはこのことか。なんだか不公平だ。神様はこの人にこんな無駄な身長をあげるくらいなら、そのうちたった5センチ分でもいいから、あたしの方に回してくれればよかったのに……。

 ぼんやりとそんなことを考えていたら、竜が唐突に言った。
「前に会った時と、髪型や服の感じが違うので驚いた」
 そんなことを言われて、里菜のほうも驚いた。てっきり、この人は服や髪形なんか見てないだろうと思ってたのに……。
 今日の里菜は、例のワンピースの上に、控えめな小花のモチーフのついた丸首の春物カーディガンを羽織り、髪は三つ編みだ。
 竜がちゃんと見ているならもっと気合入れてくるべきだったのかも…………と、里菜は少し後悔した。
 なにしろ、本命も本命、生涯の伴侶と心に決めた相手との重大なターニングポイントだというのに、ろくにメークさえしてこなかったのだ。こういう場合は、ほとんど素顔に見えるけれど実は時間のかかった、丁寧な気合いメークをしてくるべきだったはず……。女の子としては、相手が外見に気を使わなさそうな人だからといって、自分まで手を抜いていいということはない。ここ一番の勝負どころにあるまじきことだ。
 なのに、お子様ワンピースを着て髪を三つ編みにしたら、ふと気が抜けてしまって、なんだかどうでもよくなってしまったのだ。
 自分の格好が急に恥ずかしくなって、気弱に呟いた。
「もしかして、ヘンですか? ちょっと子供っぽいかなとは思ったんだけど……」
 すると、思いがけずはっきりと、強い口調で返された。
「いや。とても似合っていると思う」
「えっ?」
 里菜はまたまた驚いた。
 この人がそんなことを言うとは思わなかった。服なんか見てないし、もし見てても、褒めたりしない人だろうと思ってた――。
 竜は、自分でも自分の発言に驚いた様子で、口ごもりながら言い訳した。
「その……、このほうが君らしいと思ったんだ」
 これもまた意外な言葉だった。なんで、そんなことを言うんだろう――?
 最初にこの人と会った時はレンタルのパーティードレスを着ていた。その後、数回会った時も、毎回、それなりにおしゃれしていたし、服の傾向も違っていたはずだ。それなのに、この人は、自分の、どこを見てそう思ったんだろう――。
 思わず、訊ねていた。
「……どうして? どうしてあたしらしいと思ったんですか? 高校の頃は三つ編みにしてたんだけど、美紀にその話、聞いたんですか?」
「いや。でも、さっき、君が、その姿で駅に降りてきたのを見たとき、君がそういう青っぽい色の素朴なワンピースを着て髪を三つ編みにして野原に立っているのを、昔、見たことがあるような気がした。自分でも、なぜそう思ったのか分からない。すまない」
「『すまない』って……。別に謝ることないですけど……」
「いや、君の事を何も知らないのに決め付けるようなことを言って……」
 大真面目に言って、ふいと横を向いた。照れているらしい。
「いいえ。あたしも、このほうが自分らしい気がしたんです」
 そのまま、また会話が途絶え、ふたりとも、しばらく黙っていた。
 けれど、その沈黙は、決して気詰まりなものではなく、穏やかな、心地よい沈黙だった。

 里菜の膝の上で、猫が大あくびをした。
 眼下には箱庭みたいな田んぼ、ぐるりは新緑の雑木山。庭には八重桜。はらはらと降る、薄紅色の花びら。ぽかぽか麗かな春の陽射し。時が止まったかのような、小さな、穏やかな別世界。
 里菜は思わず、呟いた。
「ここ、いいところですね……。あたしも、こういうところに住んでみたいなあ」
 別に返事を期待したわけでもない、独り言のような呟きに、思いがけなく即答された。
「なら、住まないか?」
「え?」
「ここに、住まないか? 俺と一緒に、この家に。つまり、その……、突然で驚くとは思うんだが、もしよかったら、俺と結婚してくれないだろうか」
「……は?」
 里菜は絶句した。
 驚いた。もちろん驚いた。当たり前だ。確かに、あまりにも突然だ。
 美紀が想像したようにいきなり押し倒されたり強引に迫られたりするような事態はまずありえないと思っていたが――実際、そんなことになりそうな気配は全く無かったのだが――、それどころの話ではなかった。そこまでは、まあ、ありえないとは思うものの、それなりに予測可能な事態だったけれど、これは、それ以上にありえないほど飛躍した、想像を超える急展開だ。
 落ち着け、自分……。いくらなんでも、これはありえない。きっと冗談だ。四月一日はとっくに過ぎているけれど、この人、世間一般とちょっとズレてるみたいだから、この人の中では今日がエイプリルフールなのかもしれない……。
 そう思って、思わず聞き返した。
「あの……、冗談ですか?」
「まさか。本気だ」
 その表情はあくまで真剣で、眼差しは、静かながらも、たじろぐほど熱い。


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