『イルファーラン物語』番外編

エゴノキ平の春




(3)



「で、でも……」
 里菜は呆然とした。たしかに、自分もこの人と一生を共に過ごしたいと思っていたのだ。だから、ただ一言、はい、と、応えればいいのだ。この人とはじめて出会って以来、美紀にも後押ししてもらってガラにも無く頑張ってきたのは、この人の口からこの言葉を聞くためだったはず――。
 ……とは、思いつつ、さすがにこれは、あまりに急で、言葉が出ない。いくらなんでも、こんなに簡単にプロポーズしたり、それをすぐにOKしてしまったりしていいものだろうか――。

 竜は、戸惑う里菜を労るように、穏やかに言った。
「驚かせてすまない。嫌だろうか。嫌だったら、断ってくれていい。俺は、結婚するなら相手は君しかいないと思っているんだが、それは俺の勝手な願望であって、君に無理強いするわけにはいかないから」
「えっ、嫌とかそういうことじゃなくて……。だって、あたしたち、まだ、今日を入れて五回しか会ったことがないんですよ!? 美紀の結婚式の時と、美紀んちに呼ばれた時と、遊園地行った時と、映画見たときと、今日と。しかも、美紀の結婚式の時なんか、はじめましてって挨拶しただけで、それっきりだったし、美紀んちや遊園地でもほとんど口きいてないし、だからお互いのこと、まだほとんど何も知らなくないですか?」
 指を折って数えつつ懸命に言い募る里菜に、竜は淡々と答えた。
「確かに知らないといえば知らないが、俺は、自分が、君と共に暮らし、共に生きたいと感じていることは、はっきりと知っている。俺はそれで十分だ。それさえ分かっていれば、俺にとっては、他のことは、それほど重要じゃない。あと、他に重要なのは、君の意思だけだ」
「えーっ、だって、だって……。だって、そんな……。二人だけで会ったのはこれがまだ二回目で、まだ、手を握ったこともないのに」
「手を握ったことがないと結婚を申し込んではいけないのか?」
「……へ?」
「じゃあ、今、手を握ってもいいだろうか?」
 あくまで真剣な声音に押されて、思わず答えてしまった。
「いっ……? ……いいです、けど……」

 竜が、間に横たわるミュシカ越しに突然ぐっと身を乗り出して、猫の背中に置かれていた里菜の両手を取上げ、両手でがっしりと握った。
 力強い握手ではあるが、なんだか、恋人の手を握る握り方ではないような気がする……。いや、恋人同士でどうやって手を握り合うかなんて、今まで特にあらためて考えたこともないけれど……。
 (でも、これは違うと思う。どっちかっていうと、政治家とか外国の実業家とかのする、ビジネス握手?)

 大きな力強い掌から、熱の篭った眼差しから、熱意と誠意と力強さと頼もしさは、ひしひしと伝わってくる。
 とても誠実で、頼り甲斐がありそうだ。
 どこの社長だって、ふらふらっと、『この人の会社となら提携しても大丈夫かも』と思ってしまいそうな……。
 でも、里菜はあいにくと、どこの社長でもなかった。

 そんなことを考えながらも、両手を竜の手の中にしっかりと包み込まれ、その温もりを感じ、熱く真剣な眼差しに囚われて、やっぱり、ドキドキしてくる。
 手を握るなんて、特に意識するまでも無い、なんでもないことのはずなのに、あまりにも状況が不自然で、ぎこちないので、かえって妙に意識してしまう。
 どうしよう。なんかクラクラする……。赤くなっちゃってるかも……。

 そのまま、しばらく、二人の間に間抜けな沈黙が流れた。
 ややあって、竜はそっと里菜の手を解放した。急に温もりが離れた手が冷たいに空気に晒されて、なんだか寂しい気持ちになった。それまで別に手が冷たいとは思わなかったのに、いったん、あんなぬくもりを知った後では、なんだかすごく寒くなった気がする。
 竜はあくまで真剣に言った。
「これで、結婚を申し込む資格が出来ただろうか」
 ヘンよ、ヘン、この人、やっぱりちょっとヘン……。
 そう思いながらも、つい釣り込まれて、あいまいに頷いてしまった。
「ええ、はい、まあ……」
「じゃあ、あらためて、結婚を申し込みたい。とはいえ、突然言われても、返事に困るのは当然だと思う。即答してくれとは言わない。が、とりあえず、検討してくれる余地はあるのだろうか? 俺は、ご覧のとおりのちょっと特殊な生活をしているし、収入も不安定だし、学歴は大学中退だし、親からは縁を切られたに近い状態だしで、普通一般の基準で言えばあまり条件が良いとは思えないので、その段階で君としては既に門前払いだといわれてしまえば、もう、しかたがないのだが」
「そ、そんなことはないですけど。収入なんて二人で働けばなんとかなるだろうし、竜さんがどこの大学出たか出ないかなんてあたしにはぜんぜん関係ないことだし……。でも、でも、あたし、まだ竜さんのこと、何も知らないし……」
「だったら、なんでも質問してくれ。どんな難しい質問でも、答え難い質問でも、誠心誠意考えて、出来る限り正直に答えるから」
 大真面目にそんなことを言われて、里菜の頭の中でもう一人の里菜が喚いている。
(変人よっ、変人だわ……!)
 そう思いつつ、つい、事態も忘れて好奇心が涌いてしまった。
「ほんとですか? ほんとに何でも正直に答えてくれるの?」
「ああ。自分でも、いくら考えてもどうしても答えが分からないと思ったことは『分からない』と答えるかもしれないが、それは、それが一番正直な答えだと理解してくれ」
 誠実そのものの、まっすぐな眼差し。
 ほんとかな。ほんとに、どんな質問でも答えてくれるのだろうか。
 それじゃあ、試しに、何か、とても難しい、答えにくいことを聞いてみようか。難しいことってなんだろう。例えば、何かすごく口に出し難いような、恥ずかしい質問でも、本当にちゃんと答えてくれるんだろうか。

 そういえば、ちょっと知りたいと思っていたこと、聞いてみたいことはある。美紀はこの人が『年齢イコール彼女いない歴』だろうって言ってたけど、それは本当なのかとか。もし付き合った人はいないにしても、今まで、好きになった女の子はいたのかとか……。
 でも、こんな真摯な眼差しで何でも聞いてくれと言われてみると、かえって、自分が本当にそれをそんなに知りたいのか、分からなくなってくる。
 別に、彼が昔、他の女の子と付き合ったことがあったとしても、誰かを好きだったことがあっとしても、だからどうだというのだ。別に関係ないじゃないか。自分だって他の男の人と付き合っていた。
 本当に知りたいのは、そんなことじゃないはず……。

 後で思えば、縁談を検討する際に確認すべき情報といえば、相手の年収とか、親との同居予定の有無とか、婿入りの可否とか、すき焼きにごぼうを入れるか入れないかとか(このあいだ、美紀の家に遊びに行って夕食をごちそうしてもらうことになった時、美紀と旦那がすき焼きの具を巡って壮絶な大バトルを始めて身の置き所のない思いをしたばかりだ)、そういうことなのかもしれないが、そのときはそんなことは全く思いつかなかった。
 思いついたとしても、訊きはしなかっただろう。
 里菜が知りたいのは、お金だの親だのすき焼きだののことではなく、もっと、竜本人に関することだ。

(この人について、知りたいこと……。何か難しい、答え難い、恥ずかしい質問……)
 もはや結婚の申込みとは何の関係もない、単なる好奇心と探究心だけが頭の中をぐるぐる回る。
 これは、あまりの急展開に心がついてゆけなくなっての、一種の現実逃避かもしれない。
 目が回るほどぐるぐるぐるぐると不毛な思考をめぐらせた挙句、突然思いついた、一番答えにくそうな質問を、里菜は思わず口に出してしまった。
「えっと、じゃあ、じゃあ、竜さんは、一日に何回、おならをしますか!?」

 口に出してしまってから、自分でもあぜんとして激しい後悔に襲われた。
 なんであたし、こんなこと聞いちゃったんだろう……。別にそんなことが知りたいわけじゃないのに。ただ、どんなに答えづらい質問にでも本当に正直に答えてくれるか、どんな恥ずかしいことでもちゃんと教えてくれるかを試してみたかっただけで……。だからって、こんなヘンなこと聞くなんて。ああ、恥ずかしい。消えてしまいたい。

 竜は、一瞬、豆鉄砲をくらったような顔をした。それから、深刻な顔で空中を見つめて黙り込んだ。大真面目に考え込んでいるらしい。
(こんな質問をされて真面目に考え込んでいるなんて、この人、やっぱり、ヘンよ、ヘン……。こんなことを聞いちゃったあたしのほうがもっとヘンだけど……)
 里菜の思考は、また、ぐるぐると空回りしはじめる。

 しばらく考えた後、竜は大真面目に答えた。
「……日によって違うと思う。今までそんなことは気にしたことが無く、回数を数えたことも無いので、よくは分からないが。でも、もしもそれが君にとって是非とも知る必要がある重要な事柄であるのなら、これからしばらく気をつけて数えて、平均を出してみるが?」
(ヘンよ、ヘン! やっぱり、この人、絶対ヘン! あたしよりヘン!)
 頭の中でもう一人の自分が喚きたてているのを聞きながら、里菜は答える。
「いえ、いいです、数えなくて……。ごめんなさい、変なこと聞いちゃって。ほんとはそんなこと聞きたかったわけじゃないんです。ただ、何を聞いていいか分からなくて、とっさに言っちゃっただけなんです」
「なら、よかった。分からなくて申し訳ないと思った。他には、なにが聞きたい?」
 これ以上何も聞かなくても、この人が本当に変人だということだけは、よくよく分かった。
 でも、最初にいきなりとんでもないことを聞いてしまったおかげで、どんな質問もこれに比べたらまともだと思えて、質問がしやすくなった気がする。
 ふいに、すんなりと、本当に知りたかった言葉が出てきた。
「何であたしと結婚したいって思うんですか? あたしが竜さんのことをまだ良く知らないだけじゃなく、竜さんもあたしのこと、まだ全然知らないのに。竜さんは、なんであたしがいいの? あたしの、どこがいいの? あたし、竜さんが思ってるような人じゃないかもしれませんよ? もしかして、竜さん、あたしがおとなしそうだから扱いやすそうだとか都合が良さそうだとか、思ってません?」
「そんなことは思っていない」
「なら、いいけど。あたし、よく、そういう風に見られるらしいんです。それ、はっきり言って、大勘違いなのに。あたし、けっこういろいろと、見かけによりませんよ?」
「ああ、分かっている……と思う。まだ知り合ったばかりでそんなことを言うのもおこがましいとは思うが、少なくとも、君の事を、おとなしいから御しやすいだろうなどと思っているわけじゃない」
「じゃあ、どう思ってるの?」
「『どう』と言われても……」
「あたしのこと、好きなんですか?」
「ああ、たぶん」
「……たぶん、ですか?」
 里菜の声に含まれる危険な兆候に、竜は気付いたのかどうか。あっさと答えた。
「ああ、すまない」
「『すまない』って……。なに、それ! 好きかどうか分からないのに、結婚したいなんて言わないで下さい! あたし、帰る!」

 里菜はいきなり立ちあがった。膝から転がり落ちた猫が不服そうな声を上げる。靴は履いたままだったから、そのまま庭に飛び出した。『帰る』と言ったって竜に車を出してもらわなければ帰れないのだが、そんなことは頭に無かった。とにかく憤然と歩き出したら、数歩もいかないうちに、いきなりぬかるみで足を滑らせた。
(転ぶ!)と、思った瞬間、背後から力強い腕に抱きとめられた。そのまま、無言で、厚い胸に抱き取られる。
 どうしよう、どうしよう……。

 ぬかるみで足を滑らせかけるという間抜けなハプニングのおかげで、里菜は一気に我に返っていた。竜への怒りはもう消えて、自分の衝動的な振る舞いが恥ずかしかった。いや、もともと、怒ったわけではないような気もする。考えてみれば、自分だって、一生を共に過ごす相手は竜しかいないと思いこんでいるものの、竜が好きなのかどうか、そういえばよく分からない。はっきりと好きだと言い切るには、まだ相手のことを知らなすぎ、自分の気持ちも把握しきれていない。きっと、竜も同じような気持ちなのだ。そんな状態で、安易に好きだと言えるほど、彼にとって、『好き』という言葉は軽くないのだろう。きっぱりと断言しないことこそが、彼の誠実さなのに違いない。自分の感情をとても深く掘り下げて真剣に分析検討してくれたからこその、あの答えだったのだ。竜に謝らないといけない。支えてくれたお礼も言わなければ。

 ……と、思いつつ、竜に背後からしっかりと抱きすくめられているこの状況は、何なのだ。
 竜の腕が、圧迫感拘束感を抱かせるほど強くなく、かといって簡単に振り払えそうなほど弱くもない絶妙の力加減で巧みに里菜を押さえ込んでいる。大きな身体が背後からのしかかっている。そんなに強く押さえつけられているわけではないはずなのに、どういうわけか、身動きが出来ない。
 何、これ? もしかして、何か、謎の武術の技?


(2)へ| |(4)へ>


『イルファーラン物語』目次ページへ
『里菜と竜兄ちゃん』シリーズ目次へ
サイトトップぺージへ