・・・そうだ、この姫神のように・・・

 星吉昭は、1946年、宮城県若柳町(現在の宮城県栗原市)で生まれ、父親が尺八奏者であったこともあり、幼少から民謡やわらべ歌を身近に聞いて育ちました。
 高校のころからジャズピアニストへの道を目指し、さらにシンセサイザーに開眼し全国大会で優勝、さまざまな活動を経て、'76年に、故郷の東北の地である盛岡で作曲家として独立した、ということです。ちなみに「姫神(ひめかみ)」とは東北の山の名(姫神山)です。(姫神せんせいしょん「奥の細道」レコードジャケットの説明から)

 そして姫神・星吉昭は最初はジャズを目指していましたが、幼い時から慣れ親しんだ東北の民謡や神楽、祭り、郷土芸能をテーマにした曲を作りたくなったということです。本拠地に戻りだんだんと東北人の「血」が騒ぎ出したのだと思います。自分自身の根っこに”東北人”としての感受性が芽生えてきたのでした。そして'80年、同じ東北や北海道出身のプロ、アマで構成したユニット「姫神せんせいしょん」が結成され活動を開始しました。後に星吉昭のソロユニット「姫神」となります(本文ではこれら区別せず「姫神」=「星吉昭」とします)。

 山河は、人をして変わらしめるものがある、と電脳法師は思います。まして故郷の山河ならば、なおさらです。

 私自身も北関東の、福島との県境近くで、生まれ育ちました。那須連山はいつも自分を見おろし、時には強い風を吹かせ、別な日には機嫌の良い美しい姿を見せたりしながら、つねに抱き寄せてくれたのでした。「みすず曼荼羅」の「」のように、電脳法師にとって、山や自然はまさに原郷であり、自分の基準点なのです。ですから姫神の思いは良く分かります。

 そして電脳法師は「姫神の曲」と、劇的な邂逅をするのです。

◆「姫神の曲」

 姫神(星吉昭)は、日本、東北、岩手にこだわったシンセサイザー奏者です。その姫神が亡くなってちょうど一周年、まだ58歳の若さでした。


 電脳法師は、ある時何かをしながら、たまたまFM放送を聞いていました。そして気が付くと全く手が止まり、ある曲に特別に、強烈なインパクトを感じたのでした。その時はなぜそう感じたのかは分かりませんでしたが、とにかく印象的な曲でした。聞いていて、引き入れられ、鳥肌が立ち、全身がぞくぞくする、という感じなのです。思わず聞き入ってしまいました。
 リズムも、メロディも、テンポも、曲想も、何もかも「腑(ふ)に落ちる」うえに「琴線(きんせん)に触れる」という感じなのでした。

 人の多いパーティなどでの、あの独特なざわめきの中で、特に誰の声も聞いてはいないのですが、自分が前から大変好きだと思う人の声に突然気がつき、良く聞こえ始めそしてドキドキしながら耳をそばだてる、というような、ちょうどそんな状況なのです。

 とにかくその曲だけがよく聞こえたのでした。音楽でこれ程のことは、まったく初めての経験でした。何かの本で、ある人が「人を酔わせるもの、それは、酒とそして音楽だ」といっていましたが、このことが良く理解できました。

 そして、曲の終わりまで聞いて、演奏は「姫神せんせいしょん」ということが分かりましたが、肝心の曲名は分からずじまいでした。

 それから「姫神せんせいしょん」を手がかりに、レコードを集め、そしてそれを演奏するためのステレオ一式も買ってしまったのです。秋葉原まで買出しに行きました。そしてやっと目的の曲を捜し当てたのでした。

 「姫神せんせいしょん」のレコード「姫神」に含まれる「空の遠くの白い火」という曲でした。この曲は今でも好きな曲のひとつです。そして、同時に入手した他のレコード「奥の細道」や「遠野物語」「姫神伝説」を繰り返し聞きました。

 そして直感したのです ――― 「姫神の曲」の世界は、これは”私の世界”でもある、と。


 ちょうどその頃、電脳法師は、東北での渓流釣りに熱中しており、東北を自分のホームグランドの一つにしていた時期でした。東北のあの自然や渓流、つまり奥三面(おくみおもて)や飯豊(いいで)山系、朝日山系、新発田(しばた)周辺、月山(がっさん)周辺、八幡平(はちまんたい)周辺等など、東北各地を岩魚(いわな)、山女(やまめ)を求めて放浪しました。そして温泉も。

 好きな温泉はいわゆる”秘湯”や”源泉”はもとより、とても温泉とは呼べないような温泉、つまり渓流を溯上(そじょう;注1)していたら、偶然温泉のたまっている淵があり、自分達で勝手にここは温泉だと決めて、淵にたまった沢山の落ち葉をかい出して、そしてその場で服を脱いでそこにつかる、というような温泉が、最高でした。川自体が温泉というところもありました。とにかく、東北というところは、温泉一つとっても懐が深く、いくら探索しても探索し尽くしえる所などではないのです。

 渓流釣りは、色々な困難や釣れない時も結構あります。先行者がいたり、日が高い時にはまず釣れません。渓谷はその「V」字型の構造上、上流域でのやや多めの降雨ですぐに増水し非常に危険な状態となり、あっという間に釣りにならなくなります。退散するしかありません。また止むを得ず、かなりの急流や増水した渓流を、重い岩を抱いて横断したこともあります。流されないためです。夏場は、蚊やブユなどで大変です。腕を伸ばしロッド(竿)を出したまま、じっと我慢し刺されるがままにしていることもしょっちゅうです。

 実は渓流釣りは、溯上や高巻(たかまき;注2)藪漕ぎ(やぶこぎ;注3)へつり(注4)など、とにかく移動が多く、釣っている時間は全体の12割でしょう。ほとんど次のポイントを求めての移動あるいは障害物の回避行動になります。

 しかし何があっても、それはそれで、渓流釣りは全く楽しいものです。また東北の山での夜の野営は、星が関東の数倍(!!!)よく見え、話に”星”を添えます。

(注1)溯上 渓流をさかのぼっていくこと=沢登り。
(注2)高巻 直接滝等を登らないで脇の上りやすい斜面や尾根へ迂回すること。結構きつい。
(注3)藪漕ぎ 斜面や尾根の藪や笹原の中を泳ぐようにかき分けて前に進むこと。
(注4)へつり 激流や深い淵で溯上不可能な場合、渓流の側岩にへばり付いて横に移動すること。

 釣りができるのはその沢、川にもよりますが、産卵時の禁漁の関係で、だいたい春分から秋分の間くらいです。つまり日本の山の、森の、そして渓流の最も美しい時期に釣りができるのです。あの新緑の木漏れ日の中の清冽な渓流を溯上しているだけで、満ち足りた気分を味わうことができます。また「みすず曼荼羅」の「木への想い」のように、釣りの移動のためにあのブナの森を歩くことも、また沢登りと同様何ものにもかえ難いものがあります。


「こんなところで死にたいと思わせる風景が、一瞬目の前を過(よぎ)ることがある」
(藤原新也「Memento-Mori」)

 あるとき、山形県の月山水系の、大鳥川を溯上していたときでした。小さいがやや水量の多い滝があり、少し手前の側壁を高巻して登っていたところ、滝の上側に出た瞬間、少しだけ広い場所が現れました。

 横は滝つぼであり、周りは新緑で鬱蒼としてはいましたが、木漏れ日が通るようなやや明るい場所でした。滝つぼを俯瞰する勇壮な景色と風にゆったりと揺らぐ新緑の葉の間を微妙に通過する柔らかな光・・・、その何ともいえない風景と光の出現に、思わず立ち止まり、腰を下ろし、そして仰向けになりました。そして、新緑の木々の葉を下から眺めました。太陽からの直接光はほとんど無いが葉脈が透けて見えるような、非常に明るい緑の木の葉が幾重にもゆっくり揺らぎます。

 「この世界は何と美しいのだろう・・・」

 横は滝壷なのでごうごうとうるさい筈なのですが、なぜか非常な静寂に包まれているのでした。その時に先程の言葉が、突如、思い出されたのです。そして、

 「・・・ああ、ここでこのまま朽ち果てていったとしても、この自然と同化できるのであれば、それはそれでこんな幸福なことはないのかもしれない・・・」

 しばしの時間、この至高の場所での不思議な感覚に包まれていました・・・。

 「おい、どうした。こんな所で寝ていて。」

 連れの仲間が追いつき、そして、この至福の時間は終わりました。


 このように、何回も足を運びながら東北への思い入れが深くなり、さまざまな経験と認識が積み重なってきたので、何かを特別に感じうる感性や契機の受容機構のようなものが、自分の中にできていたのでしょう。ですから、ある「姫神の曲」をすこし聞いただけで感度が上がり、その「感性」と「契機」を始動させ、大きく「受容機構」を振動させることができた、と思います。これは、特別な周波数の振動が、あるものに対して伝わると、さらに大きく振動する現象である「共振」と同じようです。

 それからは、ほぼ毎年一回くらいのペースでリリースされる姫神のレコードを入手し、今度はどのような「東北世界」を表現するのだろうかと、期待したのでした。姫神が出した、ベスト版などを除くオリジナル曲は次のようです(電脳法師の手持ちのレコード、CDより):

Year
Recode/CD
曲名
1 '81 奥の細道 ありそ〈荒磯〉」「奥の細道」「リ・ア・ス」「紫野」「耶馬台国の夜明け」「Gun-Do」「岩清水」「行秋」「」「やませ
2 '82 遠野 春風祭〜遠野物語への旅」「水光る」「」「サムト」「早池峯〈ハヤチネ〉」「綾織〈あやおり〉」「河童淵〈かっぱぶち〉」「赤い櫛」「水車まわれ
3 '83姫神舞鳥」「七時雨」「貝独楽」「空の遠くの白い火」「月のほのほ」「えんぶり」「白い川」「花野」「
4 '83姫神伝説鳥のごとく」「うたげ」「遠い日,風はあおあお」「桐の花むらさきに燃え」「山神祭」「十三の砂山」「ハヤト」「北天の星」「雪女
5 '84まほろば青天(あおぞら)」「星が降る」「光の日々」「草原情歌」「まほろば」「夢幻夜行(まがどきをゆく)
6 '85海道海道を行く(パート1)」「砂の鏡」「貝の光」「明けもどろ」「与那国(ハイ・ドナン)」「綿津見に寄せて」「青,深く」「夕凪の賦」「流水」「海道を行く(パート2)
7 '86北天幻想大地炎ゆ〜秀衡のテーマ」「月のあかりはしみわたり」「平泉−空−」「白鳥伝説」「遠い音」「組曲『北天幻想』〜序〜北狼の群れ〜毛越寺〜北天を翔る〜常夜
8 '87雪譜細雪」「青らむ雪のうつろの中へ」「雪光る」「雪桜」「ひとひらの雪」「雪野」「雪中の火」「風花」「ましろに寒き川」「沫雪(あわゆき)
9 '88時を見つめて前奏曲−時をみつめて−」「1988」「(ひ)」「白い日は踊る」「カイロ」「テーマ−時をみつめて−
10 '89風土記春萌え〜せせらぎ清浄〜」「白山〜水,沁みる〜」「風の旅〜砥森の声〜」「五月の陽はみどり〜たせ小学校の午後〜」「空と雲と友と〜白い波〜」「〜もがり笛〜」「秋の二夜〜遠野ものがたり〜」「中野ばやしの夜〜のこり火〜」「星はめぐり〜雪わたり〜」「峰の白雪消えやらず
11 '90イーハトーヴォ
日高見
堅雪かんこ しみ雪しんこ」「つり鐘草は朝の鐘を高く鳴らし」「風のマント」「鋼青の空の野原/ケンタウル祭/本当のさいわい」「つめ草の明かり/あのイーハトーヴォのすきとほった風」「三十年という黄色な昔」「沼ばたけのオリザ」「大空の滝/くろもじの木の匂い/雪は青白く明るく水は燐光をあげ」「青いくるみ


Year
Recode/CD
曲名
12 '92ZIPANGU風,大循環に」「うら青く波涛は澄み」「光の海南」「東方 エルドラド」「金銀島」「白くひらける東のそら」「燐光」「天翔ける」「火振り神事ZIPANGUのテーマ)
13 '93(ほむら)風の祈り」「真秀にたかく月天」「炎の柵」「天地礼讃」「蒼い夢」「朽葉いろ北にありて」「風と星と青原と」「大地炎ゆ〜秀衡のテーマ(新ヴァージョン)」「雲はてしなく
14 '94東日流
(つがる)
十三(とさ)の春」「北の海道(うみみち)」「東日流笛(つがるぶえ)」「遠い唄」「十三(とさ)の砂山〜雁供養(がんくよう)」「『幻想・東日流』〜鎮魂(原題「あどはだり」)〜海の刻(とき)〜哀想〜月まんどろに〜十三夜曲(とさやきょく)〜風の子守歌(唄:オユンナ)〜流転(原題「あどはだり」)
15 '95マヨヒガ明けの方から」「琥珀伝説」「」「花鳥巡礼」「白鳥招来」「山の神」「日高見国」「都母之謡」「蒼月,中天にありて」「風のうた
16 '95浄土曼荼羅風の祈り」「大地炎ゆ」「慈覚大師 讃仰の御和讃」「唱礼(声明)」「琥珀伝説」「花鳥巡礼」「唐拍子(毛越寺延年)」「明けの方から」「求法心経(般若心経)」「浄土曼陀羅
17 '96風の縄文風の大地」「見上げれば,花びら」「草原伝説」「風祭り」「花かんざし」「祭り神」「たそがれ月」「山童」「天の湖」「森渡り」「見上げれば,花びら
18 '97風の縄文II
(久遠のとき)
風の彼方」「花の久遠」「祈り遥か」「この草原の光を」「春の風」「幻野」「十三の子守唄」「風恋歌」「虹祭り」「まほろば
19 '98縄文海流
-風の縄文III-
ダヤックの子守唄」「赤道伝説」「ガゼルの歌」「青天赤天」「神々の詩(海流ヴァージョン)」「森の語り」「」「南天の海原」「キリバスの天使」「 ひかりの雨
20 '99SEED」「風のこころ」「草原の舞」「相聞歌」「森の雫」「蒼い黄昏」「雲はてしなくVOICE MIX」「ダマト パラ」「空の海」「転唱
21 '00千年回廊千年の祈り」「はじまりの朝」「未来の瞳(TBS系ヒューマンドキュメント「未来の瞳」テーマソング)」「一人静」「帰らぬ日々」「旅路」「月あかりの砂のなかに」「死海」「独想(おもい)」「あの空の下に
22 '03青い花青い花」「あの遠くのはるかな声」「暁のかげろう」「コキリコ」「海の子守唄」「火祭りの夜」「朽葉の道」「海明かり(茨城県民謡「磯節」)」「雨のかんざし(宮城県民謡「さんさ時雨」)」「遥かなる旅路(アルバム・ヴァージョン)」「讃歌〜種山が原へ
23 '04風の伝説めぐり逢う星の夜」「海を愛した日」「風に消えた歌」「青い河へ最上_川舟歌」「砂山・十三夜」「潮騒」「野辺は澄み渡り」「大地はほの白く」「神々の詩_ブルガリボイス」「風の人

 これが姫神(星吉昭)のほぼ全てで、約200曲位あります。曲名を見ても、東北を中心にしていることが良く分かります。姫神の特徴は、音楽そのものだけではなく、その曲名のつけ方にもあります。「風祭り」「見上げれば、花びら」「天翔ける」「白鳥伝説」「峰の白雪消えやらず」「蒼月、中天にありて」「明けの方から」「桐の花むらさきに燃え」など多彩で、東北を表現するにはまさに最適で必須な表現である、と電脳法師は思います。

 また、曲名の中に多いキーワードは「光」「水」「風」「山」「祭」「雪」などです。それらのものは、単にあるだけではなく、東北の時空間の中でそれらにその役割を与え、いきいきといのちを吹き込んでいます。例えば「光」「あかり」など「ひかるもの」に関する曲名も、「雪光る」「水光る」「遠い日、風はあおあお」「月のあかりはしみわたり」「雪は青白く明るく水は燐光をあげ」「青らむ雪のうつろの中へ」・・・など、東北を東北たらしめるものとしています。東北の、あの時空が見せる一瞬の表情を再現しています。

 さらに「遠野」「十三(とさ、じゅうさん)」「東日流(つがる=津軽)」「日高見(ひだかみ=北上)」そして「イーハトーヴォ(=岩手;宮澤賢治)」など、固有の地名、しかも古い言い方もあえて使っています。いかに「東北」の”空間”や”時間”にこだわりを持っていたかが良く分かります。

 電脳法師も、姫神の目と同じ視線で東北の時空を見始めると、姫神と同じような東北の時空の感じ方ができるような気がします。姫神を知る前にも東北地方へは何回も旅をしていたのですが、「姫神の曲」に出会ってからは、電脳法師の目に映る東北は、何とも前よりも親しく、慕わしげになってきたのです。音楽というものは、想像以上に人に影響を与えるものかもしれません。


 電脳法師は、「姫神の曲」は、比較的初期の曲が好きです。姫神の、若い頃の、東北への想いが良く現れているからです。勢いがあって、ストレートにその東北への思いを、歌い上げているからです。よく作家、芸術家は、その若いときのものが一番面白い、といわれる事があります。これは当たっていると思います。洗練され過ぎない良さというか、そういうものでしょう。そして姫神は、一瞬の風景を、音でもってスケッチするように、それも抜群のリズムとメロディで、再現・再構成するのです。音楽によるオノマトペ(擬態語)かなと思います。そう、まるで宮澤賢治のようです。

 宮澤賢治は「東北の世界」を言葉でスケッチし、独特な世界(賢治の童話世界、詩的世界)を作り上げました。それも抜群の文字表現のセンスで。賢治については「みすず曼荼羅」では「賢治と「祈り」」で述べましたが、やはり東北人独特のエネルギーと世界観、自然観が有ると思います。

 この両者の共通項は、やはり東北人の「魂」なのだと思います。その魂の系譜は、東北のネイティブ人、つまり蝦夷(えみし)や、さらにさかのぼると縄文人へとつながります。死者の魂が帰るという山への信仰、素朴な動物や草木へのアミニズム、さまざまな魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界、そして”中央”への「反抗」と「敗北」そして「怨念」の歴史。柳田國男の「遠野物語」にはそのようなアミニズム、魑魅魍魎の世界が集められています。

 そして東北とは実際行ってみると良く分かりますが、東北の大地や山河によって、力が与えられ、清々しくされ(”祓い清められ”)、そして本質的には自分が再生(Reincarnation)されるような気がするのです。日本の伝統的な山岳信仰では、山にこもり、形式的に一旦死んで、そして生まれ変わるという修行があるようですが、まさにそのようなものです。

 電脳法師は、よく「姫神の曲」と賢治の童話とを勝手に組み合わせて、一人悦に入っています。例えば、賢治の「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」と姫神の「森渡り」(風の縄文 I)との組み合わせが、抜群に面白い、と思っています。タネリが森の中を渡り歩いていて、色々なものに出会うのですが、楽しいものや怖いもの、面白いものと出会う様子が、姫神の明るくそして極めて快活で、ある種の「東北的な雰囲気の」曲に乗って、浮かび上がります。

 この東北の健全な感性。縄文から受け継がれた森の思想、土の思想そして光の思想です。

 そしてそれは、きっとわれわれの中に流れる血と何らかの「共振」を起こすことでしょう。

2005.10.31 電脳法師  


・・・そして、この姫神のように・・・