・・・そうだ、この姫神のように・・・
電脳法師は、ある時何かをしながら、たまたまFM放送を聞いていました。そして気が付くと全く手が止まり、ある曲に特別に、強烈なインパクトを感じたのでした。その時はなぜそう感じたのかは分かりませんでしたが、とにかく印象的な曲でした。聞いていて、引き入れられ、鳥肌が立ち、全身がぞくぞくする、という感じなのです。思わず聞き入ってしまいました。 リズムも、メロディも、テンポも、曲想も、何もかも「腑(ふ)に落ちる」うえに「琴線(きんせん)に触れる」という感じなのでした。 人の多いパーティなどでの、あの独特なざわめきの中で、特に誰の声も聞いてはいないのですが、自分が前から大変好きだと思う人の声に突然気がつき、良く聞こえ始めそしてドキドキしながら耳をそばだてる、というような、ちょうどそんな状況なのです。 とにかくその曲だけがよく聞こえたのでした。音楽でこれ程のことは、まったく初めての経験でした。何かの本で、ある人が「人を酔わせるもの、それは、酒とそして音楽だ」といっていましたが、このことが良く理解できました。 そして、曲の終わりまで聞いて、演奏は「姫神せんせいしょん」ということが分かりましたが、肝心の曲名は分からずじまいでした。 それから「姫神せんせいしょん」を手がかりに、レコードを集め、そしてそれを演奏するためのステレオ一式も買ってしまったのです。秋葉原まで買出しに行きました。そしてやっと目的の曲を捜し当てたのでした。 「姫神せんせいしょん」のレコード「姫神」に含まれる「空の遠くの白い火」という曲でした。この曲は今でも好きな曲のひとつです。そして、同時に入手した他のレコード「奥の細道」や「遠野物語」「姫神伝説」を繰り返し聞きました。 そして直感したのです ――― 「姫神の曲」の世界は、これは”私の世界”でもある、と。
ちょうどその頃、電脳法師は、東北での渓流釣りに熱中しており、東北を自分のホームグランドの一つにしていた時期でした。東北のあの自然や渓流、つまり奥三面(おくみおもて)や飯豊(いいで)山系、朝日山系、新発田(しばた)周辺、月山(がっさん)周辺、八幡平(はちまんたい)周辺等など、東北各地を岩魚(いわな)、山女(やまめ)を求めて放浪しました。そして温泉も。 好きな温泉はいわゆる”秘湯”や”源泉”はもとより、とても温泉とは呼べないような温泉、つまり渓流を溯上(そじょう;注1)していたら、偶然温泉のたまっている淵があり、自分達で勝手にここは温泉だと決めて、淵にたまった沢山の落ち葉をかい出して、そしてその場で服を脱いでそこにつかる、というような温泉が、最高でした。川自体が温泉というところもありました。とにかく、東北というところは、温泉一つとっても懐が深く、いくら探索しても探索し尽くしえる所などではないのです。 渓流釣りは、色々な困難や釣れない時も結構あります。先行者がいたり、日が高い時にはまず釣れません。渓谷はその「V」字型の構造上、上流域でのやや多めの降雨ですぐに増水し非常に危険な状態となり、あっという間に釣りにならなくなります。退散するしかありません。また止むを得ず、かなりの急流や増水した渓流を、重い岩を抱いて横断したこともあります。流されないためです。夏場は、蚊やブユなどで大変です。腕を伸ばしロッド(竿)を出したまま、じっと我慢し刺されるがままにしていることもしょっちゅうです。 実は渓流釣りは、溯上や高巻(たかまき;注2)、藪漕ぎ(やぶこぎ;注3)、へつり(注4)など、とにかく移動が多く、釣っている時間は全体の1〜2割でしょう。ほとんど次のポイントを求めての移動あるいは障害物の回避行動になります。 しかし何があっても、それはそれで、渓流釣りは全く楽しいものです。また東北の山での夜の野営は、星が関東の数倍(!!!)よく見え、話に”星”を添えます。
釣りができるのはその沢、川にもよりますが、産卵時の禁漁の関係で、だいたい春分から秋分の間くらいです。つまり日本の山の、森の、そして渓流の最も美しい時期に釣りができるのです。あの新緑の木漏れ日の中の清冽な渓流を溯上しているだけで、満ち足りた気分を味わうことができます。また「みすず曼荼羅」の「木への想い」のように、釣りの移動のためにあのブナの森を歩くことも、また沢登りと同様何ものにもかえ難いものがあります。
あるとき、山形県の月山水系の、大鳥川を溯上していたときでした。小さいがやや水量の多い滝があり、少し手前の側壁を高巻して登っていたところ、滝の上側に出た瞬間、少しだけ広い場所が現れました。 横は滝つぼであり、周りは新緑で鬱蒼としてはいましたが、木漏れ日が通るようなやや明るい場所でした。滝つぼを俯瞰する勇壮な景色と風にゆったりと揺らぐ新緑の葉の間を微妙に通過する柔らかな光・・・、その何ともいえない風景と光の出現に、思わず立ち止まり、腰を下ろし、そして仰向けになりました。そして、新緑の木々の葉を下から眺めました。太陽からの直接光はほとんど無いが葉脈が透けて見えるような、非常に明るい緑の木の葉が幾重にもゆっくり揺らぎます。 「この世界は何と美しいのだろう・・・」 横は滝壷なのでごうごうとうるさい筈なのですが、なぜか非常な静寂に包まれているのでした。その時に先程の言葉が、突如、思い出されたのです。そして、 「・・・ああ、ここでこのまま朽ち果てていったとしても、この自然と同化できるのであれば、それはそれでこんな幸福なことはないのかもしれない・・・」 しばしの時間、この至高の場所での不思議な感覚に包まれていました・・・。 「おい、どうした。こんな所で寝ていて。」 連れの仲間が追いつき、そして、この至福の時間は終わりました。
このように、何回も足を運びながら東北への思い入れが深くなり、さまざまな経験と認識が積み重なってきたので、何かを特別に感じうる感性や契機の受容機構のようなものが、自分の中にできていたのでしょう。ですから、ある「姫神の曲」をすこし聞いただけで感度が上がり、その「感性」と「契機」を始動させ、大きく「受容機構」を振動させることができた、と思います。これは、特別な周波数の振動が、あるものに対して伝わると、さらに大きく振動する現象である「共振」と同じようです。 それからは、ほぼ毎年一回くらいのペースでリリースされる姫神のレコードを入手し、今度はどのような「東北世界」を表現するのだろうかと、期待したのでした。姫神が出した、ベスト版などを除くオリジナル曲は次のようです(電脳法師の手持ちのレコード、CDより):
これが姫神(星吉昭)のほぼ全てで、約200曲位あります。曲名を見ても、東北を中心にしていることが良く分かります。姫神の特徴は、音楽そのものだけではなく、その曲名のつけ方にもあります。「風祭り」「見上げれば、花びら」「天翔ける」「白鳥伝説」「峰の白雪消えやらず」「蒼月、中天にありて」「明けの方から」「桐の花むらさきに燃え」など多彩で、東北を表現するにはまさに最適で必須な表現である、と電脳法師は思います。 また、曲名の中に多いキーワードは「光」「水」「風」「山」「祭」「雪」などです。それらのものは、単にあるだけではなく、東北の時空間の中でそれらにその役割を与え、いきいきといのちを吹き込んでいます。例えば「光」「あかり」など「ひかるもの」に関する曲名も、「雪光る」「水光る」「遠い日、風はあおあお」「月のあかりはしみわたり」「雪は青白く明るく水は燐光をあげ」「青らむ雪のうつろの中へ」・・・など、東北を東北たらしめるものとしています。東北の、あの時空が見せる一瞬の表情を再現しています。 さらに「遠野」「十三(とさ、じゅうさん)」「東日流(つがる=津軽)」「日高見(ひだかみ=北上)」そして「イーハトーヴォ(=岩手;宮澤賢治)」など、固有の地名、しかも古い言い方もあえて使っています。いかに「東北」の”空間”や”時間”にこだわりを持っていたかが良く分かります。 電脳法師も、姫神の目と同じ視線で東北の時空を見始めると、姫神と同じような東北の時空の感じ方ができるような気がします。姫神を知る前にも東北地方へは何回も旅をしていたのですが、「姫神の曲」に出会ってからは、電脳法師の目に映る東北は、何とも前よりも親しく、慕わしげになってきたのです。音楽というものは、想像以上に人に影響を与えるものかもしれません。
電脳法師は、「姫神の曲」は、比較的初期の曲が好きです。姫神の、若い頃の、東北への想いが良く現れているからです。勢いがあって、ストレートにその東北への思いを、歌い上げているからです。よく作家、芸術家は、その若いときのものが一番面白い、といわれる事があります。これは当たっていると思います。洗練され過ぎない良さというか、そういうものでしょう。そして姫神は、一瞬の風景を、音でもってスケッチするように、それも抜群のリズムとメロディで、再現・再構成するのです。音楽によるオノマトペ(擬態語)かなと思います。そう、まるで宮澤賢治のようです。 宮澤賢治は「東北の世界」を言葉でスケッチし、独特な世界(賢治の童話世界、詩的世界)を作り上げました。それも抜群の文字表現のセンスで。賢治については「みすず曼荼羅」では「賢治と「祈り」」で述べましたが、やはり東北人独特のエネルギーと世界観、自然観が有ると思います。 この両者の共通項は、やはり東北人の「魂」なのだと思います。その魂の系譜は、東北のネイティブ人、つまり蝦夷(えみし)や、さらにさかのぼると縄文人へとつながります。死者の魂が帰るという山への信仰、素朴な動物や草木へのアミニズム、さまざまな魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界、そして”中央”への「反抗」と「敗北」そして「怨念」の歴史。柳田國男の「遠野物語」にはそのようなアミニズム、魑魅魍魎の世界が集められています。 そして東北とは実際行ってみると良く分かりますが、東北の大地や山河によって、力が与えられ、清々しくされ(”祓い清められ”)、そして本質的には自分が再生(Reincarnation)されるような気がするのです。日本の伝統的な山岳信仰では、山にこもり、形式的に一旦死んで、そして生まれ変わるという修行があるようですが、まさにそのようなものです。 電脳法師は、よく「姫神の曲」と賢治の童話とを勝手に組み合わせて、一人悦に入っています。例えば、賢治の「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」と姫神の「森渡り」(風の縄文 I)との組み合わせが、抜群に面白い、と思っています。タネリが森の中を渡り歩いていて、色々なものに出会うのですが、楽しいものや怖いもの、面白いものと出会う様子が、姫神の明るくそして極めて快活で、ある種の「東北的な雰囲気の」曲に乗って、浮かび上がります。 この東北の健全な感性。縄文から受け継がれた森の思想、土の思想そして光の思想です。 そしてそれは、きっとわれわれの中に流れる血と何らかの「共振」を起こすことでしょう。
・・・そして、この姫神のように・・・
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