・・・そうだ、この賢治のように・・・

賢治と「祈り」


 宮澤賢治は,明治29年(1896年)827日生まれで,没年は昭和8年(1933年)921日である.37歳の生涯であった(3738歳前後に逝く作家が多いのはなぜだろう?).

 電脳法師は,賢治という男にはたまげます.何といっても短い生涯のあいだにあれだけの量の「詩」や「童話」など,ほとんど暇なく書いたのでした.ちくま文庫の「宮澤賢治全集」では,全十巻で各巻700ページ前後です.

   賢治は,教師だったり,農事指導員だったり,家出したり,自分達のコミューンをつくったり,農夫のつもりだったり,オヤジと対立したり,そのわりにはオヤジのカネで「自費出版」したり(「注文の多い料理店」「春と修羅」),近くの農民に色んなことを教えたり,死の直前も肥料の設計を教えたりしているのです.その合間をぬってせっせと詩や童話そのほか短歌,俳句,歌詞,作曲,マニフェストそして肥料設計図,花壇設計図などを書くのでした.

 このエネルギーはどこからくるのでしょう.

 電脳法師は,賢治という男にはたまげます.とにかく怒りやすい性格だったのだ.作品のなかではいたるところに怒りや批判があります.

「いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾しはぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
・・・
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか」(春と修羅)

「なにを!おれはきさまらのような
一日一ぱいかたまってのろのろあるいて
・・・
さも大切な役目をしてゐるふりをして
骨を折るのをごまかすやうな
そんな仲間でないんだぞ」(もう二三べん)

「晋藤なんぞをつれて来て
この塩水をぶっかけてやりたい
誰がのろのろ農学校の教師などして
一人前の仕事をしたと云われるのか
それがつらいと云うなら
ぜんたい自分が低能なのだ」(林中乱思)

「えい木偶(でく)のばう
・・・
しゃちほこばって
おれの仕事を見てやがる
黒股引の泥人形め」(えい木偶のばう)

「町の方まで云いふらした
あの憎むべき「隈」である」(憎むべき「隈」弁当を食ふ)

「何をやっても間に合はない
・・・
そうしてそれも間に合はない
何をやっても間に合はない」(何をやっても間に合はない)

「くらしが少しくらゐらくになるとか
そこらが少しぐらゐきれいになるとかよりは
おれよりもきたなく
おれよりもくるしいなら
そっちの方がずっといヽと
何べんそれを聞いたろう」(火祭り).

この怒りや批判のパワーはどこからくるのでしょう.

 電脳法師は,賢治という男にはたまげます.何といっても詩以外で書いたのはほとんど「童話」ばかりです.といってもいわゆる子供が読む童話とはだいぶ趣が違います.
 思うに「童話」は「寓話」でしょう.寓話ならどんなテーマでも,何が主人公でも,賢治の思うままです.「賢治ワールド」は,寓話でしか表わしえないものなのかも知れません.どの童話でも賢治の強烈なメッセージがあります.「童話」でありながら,ある意味では相当残酷ですし,批判がきき過ぎています.

 「猫の事務所」の獅子や「土神と狐」の最後の場面や「注文の多い料理店」,「毒もみの好きな署長さん」「フランドン農学校の豚」「オッペルと象」など独特の「賢治ワールド」でしょう.

 この皮肉の効きすぎた,辛らつな寓話の根源はどこからくるのでしょう.

 しかしまた,全く別な世界も見せてくれます.例えば「やまなし」「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」そして「なめとこ山の熊」などは,賢治の地方の風景描写もおもしろいし,なにか,人間と動物,植物そして自然との一体感をもたらす不思議な世界を現前させてくれます.電脳法師は,また「よだかの星」や「銀河鉄道の夜」などは宗教的な童話かな,とも思います.さらに「なめとこ山・・・」などは,ある種哲学的な雰囲気さえあります.

 「やまなし」はビジュアル型短編です.色や動きがダイナミックに楽しめます.渓流釣りの経験のある電脳法師は,この「やまなし」の水中風景がじつに新鮮にイメージできます.

 「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」は個人的には,一番気に入っているものの一つです.このタイトルも気に入っています.主人公「タネリ」は,母親から用を頼まれていたのですが,陽炎(かげろう)に誘われて,ふらふらといたるところをうろつき回ります.行く先々のまわりの環境や動植物との係わり合いや,やりとりが活き活きして面白いのです.独特なリズムでの独り言のような歌のような言い回しは白眉でしょう.賢治はオノマトペ(擬態語)が得意です.もともとイメージが豊かな人間なので,そのバーチャルな情景は人を魅了します.ビジュアルとオーディオの相乗効果の四次元世界です.詩的な実況中継型童話といった趣です.賢治は野山を歩いたそのときのイメージをそのまま表したものでしょう.多分一気に書き上げたのです.

 「やまなし」と「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」の,この二つの作品は目で読むより,実は耳で聞いたほうが何倍も面白いことに気が付きました.むかしのFM放送の録音を持っているのですが,耳で聞く分,目は自由なので,目を閉じて聞くとタネリの見ている風景がまさに眼前に広がるのです.

 それにしても,この純化・結晶化したイメージの創造はどこからくるのでしょうか.

 賢治の「極めつけ」は,なんといっても最初に挙げたこの”詩「雨ニモマケズ」”でしょう.この”詩”は1931年(昭和6年)113日,その死のほぼ2年前の作です.非常に有名なので説明も要りません.電脳法師も子供のときからこの”詩”は知っていましたが,単純に偉人伝の典型的な「行動指針」かなと思っていました.東西南北,なかなか面白い対句だなあという印象でした.

 ある時期電脳法師は病気になり2ヶ月ほど入院をしたことがあります.そして無事退院をしました.この経験は,自分が気が付かなくても何かが変わるのかもしれません.
 そしてその後,何かのときに賢治のこの「雨ニモマケズ」を再び見て,ああ,これは”詩”ではないのだ,真の,本当の「祈り」なのだ,と気がつきました.全くどうにもならない切ない祈りなのです.

 賢治は19186月,22歳のときに「肋膜炎」の診断を受けた.そしてあと15年くらいの命との宣告を受けます.つづいて最愛の妹トシの発病(19192月)と死(192211月).おそらく賢治のなかに死との親和性が非常に高まった.そして童話は賢治の「肋膜炎」診断後から本格的に創作が始められたのでした.

「雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ熱サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ」

 賢治は本当に「健康になりたい,頑健になりたい」と思ったのです.これは病気になると痛いほど実感します.電脳法師は病気を経験したので,気が付いたような気がします.かえってずっと健康だったら,分からなかったかもしれません.体が弱くなると暑さがたしかにこたえます.風邪を引きやすい体質では,風にあたることが気になり,風を避けようとします.もちろん雨に打たれ体を冷やすことなど,もってのほかです.気温や着る物に常に気を配らねばなりません.

 私はあらゆるものと戦わねばならないのだ,人のためこの身をささげなければならない,そして期待に応えなければならないのだ.(・・・誰かこのわたくしの体を強くしてくれ・・・)

 と賢治は,強く念じ祈っています.これが本当に実感できるとこの”詩”の性質が見えてきます.最初の4行は,おそらくこれこそが賢治の祈りの核心部分です.

「慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテイル」.

 賢治は,思い込みが強くこうと決めたらなにがなんでもやってしまう性格なのです.人に何かしてあげなければならない,自分はあれもしたい,これも書きたい,と執念(慾)がすごく,またそれができないと,さっき述べたようにものすごい怒り(瞋)へと変わるのです.「イツモシヅカニワラッテイル」などできるはずもありません.世の中が青く見えるほどの怒りとは,どういう怒りなのでしょう.苦く感じる怒りとはどのようなものなのでしょう.最晩年の1933911日の教え子への手紙には,自分は「慢」の病気であった,と告白するのでした.

 農学校教師の地位を捨てて作り上げたコミューン「羅須地人会」での実践は,次のようにはいきませんでした.

「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンカヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ」
 結局その自己の身体の挫折のため,断念せざるをえませんでした.資産階級の家から出て自立したかったのに,結局再びその家の庇護を受けなければならなかったのでした.この挫折感,敗北感は察するに余りあることです.

「ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ」

 そしてここにいたって賢治は,絶対にできないことを祈るのです.ほめられる事を期待しそれに向かって小さいときから努力してきたのに,もはやそれをやめようというのです.人間のよって立つ所のものは,存在する理由,つまり役割であり期待であり,それはプライドと呼ばれるものです.全ての人は何らかのプライドを基本に生きています.それを捨ててまで,何をしようというのか.もはや電脳法師は何か痛ましさのようなものを感じます.

 最近自ら命を絶つ人が多いのですが,個別の要因は多々あるでしょうが,その本質は単純です.つまりプライドが傷つけられ,プライドが保持できなくなること(者)へのものすごい怒りです.この超絶したエネルギーでそういう事態となるのです.怒りの無い人は決して自ら命を絶つことはしません.

 賢治に,プライドを捨てて生きよ,といってもそれは全く無理です.まして自らプライドを捨てるなんていうことは,論外です.全くの自己矛盾でしょう.近くの農民を「えい木偶(でく)のばう」と怒りつけた賢治です.その矛先を自分に向けても,意味が無いのです.無意味なことを祈っているのです.
だから

「サウイウモノニ
ワタシハナリタイ」
とは詭弁か,まったくかなえられることの無い絶望の祈りなのです.

 賢治は技術者でもあるせいか,きわめて現実主義者です.理想主義者ならとうに敗北していました.この自らの存在を維持するか,自己のプライドを維持するか,ギリギリの狭間(はざま)で生きたのでした.電脳法師は,このあたりに賢治の創造のエネルギーの秘密があるような気がします.

 この”詩「雨ニモマケズ」”は,全部無いものねだりの,駄々ッ子のようなものではないでしょうか.あれがほしい,これもほしい.でも誰も何もしてやれないのです.自分でもどうしょうもないのです.自分で祈るほか何もありません.

 子供のときに母親から始終いわれ続けたトラウマ呪文

「人のために何かしてあげるために生まれてきたのス」

に全くはまり,それを忠実に実践するべくあがいたのでした(”献身病”).そして自らは不治の病の宣告を受け,妹の死に直面します.また裕福な質屋の家の,知的エリート(”高等遊民”)の優秀な長男という状況も,賢治の生き方をからめとります.賢治は,要するにジレンマあるいはトリレンマ,進退窮まった矛盾の中を生きたと,思います.

 電脳法師は,まったく賢治という男にはたまげます.

 身体の問題(肋膜炎),精神の問題(母へのコンプレックス=(”献身病”),父親にたいするコンプレックス(=乗越え不可な相手)),まわりの環境との確執(資産家の階級,農民,農地,宗教,・・・)と,この「問題の三位一体」を抱え込んだ人間・宮澤賢治の,これらの矛盾のなかからわき上がる怒りのものすごいエネルギーによって,その矛盾を突き抜け,彼の情念を結晶化させたものが,「賢治の詩」であり,「賢治の童話」であった,と電脳法師は思うのです.

2004.9.23 電脳法師

・・・そして、この賢治のように・・・