豊後国分寺跡 |
国指定史跡 豊後国分寺跡
ぶらり 2007/6/4
豊後国分寺跡復原想定図
国分寺(こくぶんじ)とは
奈良時代の天平13年(741)、聖武天皇は全国的な干ばつによる飢饉や
疫病の流行など社会不安が大きくなったため、仏教の力をかりて国家
安泰を願うために国ごとに経典を納めた七重塔と僧寺・尼寺をつくる
ように命じた(国分寺建立の詔)。
豊後国分寺では、天平勝宝8年(756)に武具等が下賜わされた26ヶ国
の中に豊後が見られることから、恐らくこの時期に建立されたと推定
できます。
総国分寺は東大寺で、正式には僧寺 が「金光明四天王護国之寺」・
尼寺が「法華滅罪之寺」といわれ、僧寺には僧20名がお かれ、封戸
50戸、水田10町が与えられました。尼寺は、尼10名がおかれ、水田
10町が与えられました。
大分市歴史資料館
四方を田に囲まれた豊後国分寺跡にある。
昭和62年(1987))4月15日開館
資料館では国分寺跡で発掘された遺物のほか、考古、歴史、民族の資料
を展示しています。
国分寺の伽藍配置
1.宗教活動に欠かせない建物:塔・金堂・講堂・鐘楼(鼓楼)・経蔵等
2.宗教活動の建物に付帯するもの:中門・南門・回廊等
3.僧の活動、生活に関係ある建物:僧坊・食堂・厨等
4.その他:雑舎等
国分寺の伽藍配置は、南門・中門・金堂・講堂などを南北に一直線上に
そろえて建てるのが一般的です。
この連ねた中心線を伽藍中軸線と言います。
今までの発掘調査で発見された遺構
金 堂 跡 |
昭和49年度(第1次)〜平成14年度(第8次)までの調査で、東西約182m・南北
300m以上の大規模な寺域や塔・金堂・講堂・回廊・中門・南門・西門・東門
・区画溝などの配置がわかりました。このほかにも僧坊・鐘楼・経蔵などがあ
ったと考えられます。また、平成10年度(第7次)調査で、9世紀初頭の梵鐘鋳
造抗遺構が発見されました。
金堂跡(現薬師堂)
金堂跡:本尊を安置した仏殿で、堂内を金色にすることからついた名前と言います。
現在の薬師堂の周りに約40個の礎石が残されていますが、当時の位置のままではあ
りません。基壇の地下部分は現存します。基壇は東西 32.6m、南北 21.6m。
この上に正面 25.16m(7間)、奥行 14.21m(4間)、軒の出 3.7mの重層建物
がありました。
七 重 の 塔 跡 |
七重の塔跡(現観音堂)
観音堂には市の文化財の十一面観音が安置されています。
七重の塔跡 Ruins of Seven-atoried Pagoda
金字金光明最勝王経(きんじこんこうみょうさいしょうおうきょう)を安置した、
国分寺のシンボル的なたてものです。塔はもともと釈迦の舎利(遺骨)を安置し
たものでしたが、奈良時代には釈迦の遺法である経典を納めるようになりました。
一辺10.66m(3間)の基壇や礎石、塔の中心柱を支えた心礎がほぼ当時のまま
現存します。総高67.3mの壮大な塔であったと推定されています。
講 堂 跡 |
講堂跡
基壇の規模は東西約27m(91尺)、南北約18.7m(63尺)で北側中央部に石積
みの階段状の施設がつくられていました。
基壇端部には礫石列(れきせきれつ)をつくり、これに接して瓦積みをした化粧
基壇です。基壇の版築は掘り込み事業をおこなわず、黒色土上面から版築をおこ
なっているのが特徴です。
建物は間口7間×奥行4間(東西20.7m×南北11.8m)が推定されます。
天平の伽藍の跡のねこじやらし 陽鳥
食 堂 跡 |
礎石建物でなく、大型掘立柱建物(おおがたほったてばしらたてもの)であることが
判明しました。建物跡は、南正面と東側面部の現状をそのままにして新旧の建
て替えがおこなわれています。
新建物跡のほうがひとまわり小さくなっています。
豊後国分寺の森
地蔵菩薩
明和8年(今から226年前)の作。俗に濡地蔵様として信仰されている。
す ぎ/大分市名木 指定番号24号
30年前は雄雄しき姿を見られた?
朽ちかけた案内板には次のように記していました。
(由来) す ぎ
樹齢700年、樹高 30メートル、幹廻り 6.3メートルの杉は地上 6mより
分枝し、その枝張りは一見に値する。鎌倉中期のころ植えられたものと
思われる。
当時は1220年前、聖武天皇の勅旨により国ごとに寺院を建て天下泰
平を祈願して建てられた寺の一部であるが、大友島津の兵火にあい荒廃
した。
昭和49年2月1日 大分市
(注)案内文は大分市歴史資料館作成の資料によりました。