賀 来 神 社 |
ぶらり 2006/12/29
大分川に架かる小野鶴橋の南、賀来小学校の隣に鎮座する賀来神社
賀来神社 大分市賀来58
賀来神社は私の先祖とは深いつながりがあるようだ。境内の石塔には
一族と思われる姓があちこちに刻まれている。我家の家紋の左三つ巴
は神紋と同じであるから神社との関わりがあったのかもしれない。
父と母の村里でもある。
本社の創始と祭神 |
当社の創始は社伝によると、仁明天皇の承和三年(836)である。
古来賀来善神王(ぜじんのう)宮とも称せられ、善神王すなはち武内宿穪命
(たけうちすくねのみこと)と建磐龍命(たけいわたつのみこと)のニ柱を
祭る。このうち建磐龍命は常時当社に鎮座せられるが、武内宿穪命は平時は
柞原八幡宮にあって主君格八幡さま(応神天皇)に奉仕し、秋季大祭の十一
日間(9月1日~11日)だけ当社に帰られる。
鎮守の杜の背後に由布山、鶴見山、高崎山を望む。橋を渡れば母の生家へ
秋季大祭と賀来の市 |
九月一日から執行される秋季大祭は賀来の里人にとっては、平素はましさ氏神を
一年にただ一度迎える重要な祭りである。ましてこの期間中にぎやかな賀来の市
がたつ。祭りは一般に農家で「田ほめ」「作頼み」「たのもの節供」などと称し
て稲の穂出 しを祈願する行事と して行われてきたのであるが、当社の祭りも賀
来の里人にとっては、そのような意義をもっていたのであろうといわれる。
文政五年(1822)の記録によると、賀来の市には府内から九州、四国各県、遠く
は京都や江戸から飲食物、玩具、日用雑貨をはじめ浄瑠璃興行、のぞき、辻軽
業などの見世物も出て、豊後の二大市として賑わっていた。
正殿の左側に立つ老木は大分市の名木に指定されているケヤキ
(指定番号37号/1974.2.1)
かって父の毛槍をふる姿に惚れ惚れした話しを母が聞かせてくれたが、境内に
立つと亡き両親の微笑ましき姿がまぶたに浮かぶ。
賀来神社卯酉の神事 The Holy "Utori no Shinji"Fostival at Kaku Shrine 6年に一度、卯年と酉年に催される行列神事で、柞原八幡宮に調度品を奉納した 大神宝調達という神事に由来し、 のちに賀来神社の祭神・武内宿穪命(善神王) が柞原八幡宮から自社に還幸する神事へと変化したものといわれます。9月1日 (もと旧暦8月1日)から11日間が祭礼期間です。明治維新後、府内藩主大給 家が大名道具を寄進してから大名行列の様式を取り入れ、俗に「賀来の大名行 列」と呼ばれるようになりました。行列は先徒士(さきがち)・槍組・鉄砲組・弓 組・総大名組・大道具の隊列に、神体を持つ儀杖(ぎじょう)の列が続きます。 総勢は210名から成り、先徒士・大道具は大人が担当しますが、他は子供が役 目に当たっており、かっての稚児行列の名残を感じさせます。 行列の中心は総 大名が、他に槍大名、鉄砲大名、弓大名がいます。大道具には大唐人傘・天目 槍(てんもくやり)・金紋先箱(きんもんさきばこ)・台傘・大鳥毛槍・島田頭(しま だがしら)・唐人傘・鳥毛槍・大熊毛槍があり、それぞれに勇壮あるいは軽快な 所作がみものです。 (正殿の前にたつ大分市教育委員会の案内から) |
見事な等身大の木彫の神馬