WEB日記  私のお宝


私のお宝は、人気テレビ番組の鑑定大会に出すような貨幣価値はありません。
これはいつか値上がりするだろうと思って手に入れたものはありません。死後の
世界へ持ってはいけませんので、物に執着することはやめようと心がけています。
好奇心をもち続け、暮らしの中で感動を覚えると、物のほうから私の手元にやっ
てくることがあります。誰も興味を示してくれなくても、私にとってはお宝であ
るのです。 

       私のお宝  <1>

     巨星の色紙

 
  和 気 致 祥
     呉 清源 (1943年)
  
 和やかな気持ちをもてば祥(さいわい)
 を得ることができるという意味です。

 (1996年 別府近鉄百貨店にて)
 詳しくは 随想「巨星の色紙」

   
  局前無人局上無石
     岩 本  薫 (1957年)

 十一世井上玄庵因碩の遺した文字で
 大局するときの心構えを訓えたもの。
 勝負を争うよりは碁の真理を取り組
 めという意味に解してよいと思う。

 2006年・俳人南冨美子さんから拝領



    愛用の碁盤と碁石



 碁 盤(本カヤ)
 この碁盤は一木から4面取れたうちの一面を木材商の友人から1988年に
 譲り受けたものです。
          
碁盤を作る木材にはカヤ(本カヤ)、カツラ、イチョウ、ヒノキ(主に台湾産)、
ヒバ(主に米ヒバ)アガチス(新桂)などが使われる。碁盤を作るためには樹
齢数百年の大木が必要であり、カヤ製の柾目盤が最も高価であるが、近年はカ
ヤの大木は国内では非常に稀少となっている。相場としては板目盤で10万円弱
~100万円強、 柾目盤は希少価値が高いから100万円弱~1000万円超、 さら
に高いものは客観的な価格で対応しきれない碁盤もある。

 碁 石
 1979年に役員に就任した祝いとして義父豊作からいただきました。
          
 黒石/那智黒石
黒石は那智黒石(三重県熊野市で産する黒色頁岩または粘板岩が名品とされる。)
 白石/日向灘産のハマグリ
文久年間に日向灘沿岸(宮崎県)で貝が採取されるようになり、明治中期には
他の産地の衰退とともに市場を独占し、上物と珍重された。
現在は取り尽くされてほとんど枯渇してしまっている。黒石に対して白石は非
常に値が張る。高級品は貝殻の層(縞のように見える)が目立たず、 時間が経
っても層がはがれたり変色しない。


   名人大山康晴「将棋はやぐら」
  ●大山将棋5部作別巻の3
   
将棋はやぐら
 
(三一版 昭和45年10月10日)
 
    

 2008/6/30
日本経済新聞が主催する将棋の「王座戦」の棋譜を見るのが楽しみでした。
この頃は将棋招待懸賞「次の一手」が募られていました。たとえ正解手を当て
ても全国の将棋ファンが応募するから、当選するなどは思いもよらないことで
した。ところが七段富沢幹雄対八段加藤博二の対局から出題された次の一手の
当選者10人の中に私の名前があったのです。賞品は名人大山康晴の署名入りの
名人の著書「将棋はやぐら」でした。うかつにも、記念に切り抜いた新聞には
当時の日付を付け忘れたましが「将棋はやぐら」の発行日の昭和45年頃であっ
たと思われます。
将棋ファンにとっては垂涎の宝物をいただき、幸運に酔いしれたのです。
         
大山康晴は昭和27年、当時の木村名人に挑戦し、4勝1敗で名人位を獲得。以
後5期連続名人位を防衛し一五世名人位の資格を得る。現在までに名人戦,十段
戦、王位戦、棋聖戦の5大タイトルを、 通算五十六期の長きにわたって保持し
ている。
      (「将棋はやぐら」から抜粋)

      広辞苑<第一版>

 1955年(昭和30年)5月25日刊


広辞苑の出発点となる「辞苑」が誕生したのは、大正末期から昭和初期にかけ、
民族・民俗学や考古学の名著を多数世に送り出した岡書院店主の岡茂雄による。
1930年(昭和5年)末、岡茂雄は盟友岩波茂雄に相談のうえ、旧知の新村出に依
頼したのが発端となる。1935年(昭和10年)に「辞苑」は完成。刊行されるや
ベストセラーとなる。「辞苑」刊行後岡茂雄はすぐに改訂版の編集を新村出に
進言。しかし、完成の目途が立たない内に第二次世界大戦が勃発。戦後、紆余
曲折を経て、改訂版は岩波書店から刊行されることとなる。
書名は「広辞苑」と決まった。1955年(昭和30年)5月25日に岩波書店から初版
が刊行された。「辞苑」改訂作業開始より既に20年が経過していた。以来版を
重ね、2008年1月に発行された。第六版は24万語が収録される。製本の際に薄
くて丈夫な新しい紙を作るために、紙にはチタンが入っている。
  →要約は[Wikipedia]を参考にしました。


     丸太(化石)
   

   

種類:不明直径約70cm、長さ約55cmほどの丸太が化石化した大木の
一部分です。木の中心部分は石のように見える処と石炭のように見えると
ころがあり、表面の木肌は切り倒したばかりのようにきれいです。
年代は不明ですが、比較的新しいものだと思います。
     
 (蒐集日1980年頃)


    エカテリーナ宮殿の琥珀
  琥 珀 Amber
 
 2005/9/3
 ロシアのサンクト・ペテルブルグから30kmほど離れたプーキシン市
 にあるエカテリ-ナ宮殿の琥珀の間を訪ねた記念に求めたものです。
          
琥珀とは数千万年~数億年前、地上に繁茂していた樹木の樹脂が土砂などに埋も
れて化石化したものです。そのため、石の内部には昆虫や植物の葉ばどが混入し
ているものも珍しくはないようです。
 琥珀の間に使用された琥珀の総重量は6トン、約10万個に及ぶ。

     D51型蒸気機関車
 
 製造昭11年・全長19,730mm・幅2,936mm・高さ3,980mm
 石炭8.0トン・水20.0トン・動力1280馬力

   ORIENTEXPRESS

 
    (日立ORIENNTO EXPRESS’88来日記念品)
アガサクリスティ原作の映画など、数多くの映画の舞台となったオリエント・エクス
プレスは、優雅な概観に加えて、アールヌーヴォやアールデコの枠を凝らした美しい
インテリアに目をみはるばかり。マホガニーの内装、トルコ絨毯が敷き詰められた床
やステンドグラスの窓、寄木細工の壁、水晶のシャンデリアなど、まさに美術品の宝
庫ともいえる豪華さです。そのオルエント・エクスプレスがロマンと歴史を乗せて日
本へ。
 
この模型はK電器店からいただいたものです。

   GLACIER EXPRESS (スイス/氷河特急)

 

2003/9/4 純生と絢子はサンモリッツ~ツェルマットまで、全長270kmを約8時
間かけて走る氷河特急を前線走破した。特急といっても時速は34kmの観光鉄道で
のんびりと列車の旅を楽しんだ。
  
 この模型は、氷河特急の車中で記念に購入したものです。

     李朝白磁花瓶
 
 
かって朝鮮総督府の官吏であった義父が終戦後朝鮮から引揚げる折に持ち帰っ
たものと思われる。
義父の父は骨董の趣味をもっていたとの話を聞かせてくれたので、その蒐集の
中の一つであろうか。薄い青緑色であるから分院窯から出されたものであろう。
肌がごつごつした部分(写真の裏側)もあるが、私には人の温もりを感じさせる。
(1993年頃に義父からいただく)
             
中国で白磁が生まれるのは、6世紀後半の北斉の時代である。唐の時代に入る
と一気に流行し、青磁を凌ぎます。朝鮮半島は高麗時代を経て、14世紀末李
成桂によって起こされ500年以上つづいた李朝時代を迎える。高麗時代は青磁
が好まれたが、李朝では白磁が主役となった。 白磁は、中国・明初様式を写
した純白のものから、堅手といわれる灰色白磁、金沙里窯を中心に焼かれた乳
白白磁、そして分院窯における薄い青緑 色の白磁へと変遷してゆく。
李朝陶磁は柳宋悦らの民芸運動により、その魅力をわが国に紹介され数多くの
愛好家を生んだ。


     油 壺
 

  油 壺 (高さ7cm/幅8cm)
かなり昔に焼かれたものだと思う。日出町にあった老舗陶器店の主からいただいた。
花瓶ではなく女性の髪油を容れる「油壺」であることを知ったのはこのときである。
かって使ったであろう女性をほうふつさせる姿と絵柄に惹きつけられる。
                   (蒐集日1978年頃)

     小鹿田焼大鉢

   

小鹿田焼で特徴的な技法「飛び鉋」の削り目が美しい(直径60cm、深さ23cm)
この大鉢の使途はわかりませんが、古い時代に焼かれたように見受けられます。
素朴な雰囲気を醸し出して、生活の匂いが感じられます。(蒐集日1987年頃)
         
小鹿田焼(おんたやき)は、大分県日田市の、皿山を中心とする小鹿田地区で焼かれ
る陶器。その技法が1995年(平成7年)に国の重要無形文化財として指定され2008
年3月には地区全体が「小鹿田焼の里」として重要文化的景観に選定されている。

小鹿田焼の開窯/小石原焼(福岡県朝倉郡小石原村)の技法が伝わり、江戸中期の宝
永2年(1705年)に開窯したと伝えられている。現在は10軒の窯元があり、開窯
当時以来、一子相伝で小鹿田焼の技術や伝統を守り続けている。

柳宋悦とバーナード・リーチ/民芸運動を提唱したことで知られる柳宋悦が1931
年(昭和6年)にこの地を訪れ、「日田の皿山」と題して絶賛する内容の一文を発表
したこと、さらに、日本陶芸界に大きく名を残したイギリスの陶芸家、バーナー
ド・リーチも絶賛し、1954年、1964年に滞在して作陶を行なったことにより、小
鹿田焼は日本全国や海外まで広く知られるようになった。

小鹿田焼の技法/小石原から伝えられて以来、殆んど同じ技法で焼き続けられてい
る。主な技法は、打ち刷毛目、飛び鉋(かんな)、指描き、櫛描き、打ち掛け、流
し掛けなどがあり、中でも、小鹿田焼で特徴的な技法「飛び鉋」は蹴轆轤を回しな
がら、生乾きの化粧土に、鉄の小さな鉋の先が引っ掛かるようにして削り目をつけ
る技法である。

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