巨星の色紙 |
巨 星 の 色 紙 |
2枚の色紙との不思議な出合い
囲碁は「親の死に目に会えない」ともいわれるほどに面白いゲームである
と言われる。
私は中学生の頃に将棋を覚え、25歳頃に囲碁に出合うまでは将棋にはま
り込んでいた。社会人となって職場の同僚に囲碁の手ほどきを受けてから
は囲碁の虜となってしまった。趣味の中で一つだけ許すと言われれば躊躇
なく囲碁をとる。夢は地方新聞社のアマチュア本因坊のタイトルをと言い
たいが、雲をつかむような話しである。時折りに天井の升目が碁盤に見え
る時がある。棋書は100冊に余るほど買い求めたが一向に強くはならない。
米長日本将棋連盟会長が「私は棋士になったが、兄は頭が悪かったから東
京大学に進んだ」と言われたことがある。東大はおろか、私の脳細胞には
強くなれる因子が欠落しているのは確かなことである。
1994年6月8日、JR別府駅前の近鉄百貨店(後に撤退した)の 骨董市で
呉清源の色紙に出合った。神様のような呉清源の書に体がしびれてしまっ
た私は直ぐに財布をはたいて買い求めた。
それから12年後の2006年、宇佐市のMさんから今は亡きご主人のコレク
ションであった岩本薫の色紙をいただいた。
囲碁界の巨星である呉清源並びに岩本薫は存じていた。しかし、このお二
人が遠い昔に対局した機会が呉清源を誕生させたとは知らなかった。
あるとき、フリー百科事典『ウイキベティア』から出典された次の情報が
目にとまったのである。
呉清源と岩本薫の出会い
呉清源の原籍は福建省にあり先祖は代々官職についていた。5歳から父に
四書五経を学ばせられる。7歳のとき囲碁を教えられ、父が日本に留学し
たときに持ち帰ったり、取り寄せたりした棋書により学ぶ。数年で周りに
は対等の相手が出来るものがいなくなり、神童と呼ばれた。 11歳で父が
亡くなった後、「来今雨軒」で碁を打つようになって天才少年と評判にな
り訪中経験のある日本棋院の瀬越憲作らを中心に呉を日本に呼ぶことが相
談される。1926年に岩本薫六段と小杉丁四段が訪中し、呉は岩本に3子で
2連勝、2子で負け、小杉に2子で勝ちとなった。続いて1927年に訪中した
井上考平五段に呉は2子で勝ち、先で1勝1敗とし、瀬越はこの棋譜をみて
「秀作の再来」と述べたとされる。
巨星お二人の色紙が私の手にある不思議な出合いに驚くばかりである。
2007/8/20
呉 清源 書 (1943年) | 岩本 薫 書 (1957年) |
和気致祥
和やかな気持ちをもてば祥(さいわい)を得ることができるという意味です。
局前無人局上無石
十一世井上玄庵因碩の遺した文字で対局するときの心構えを訓えたもの。
勝負を争うよりは碁の真理を取り組めという意味に解してよいと思う。
呉 清源(ごせいげん 1914/5/19〜2014/11/30)
囲碁棋士。中国出身、日本棋院瀬越憲作名誉九段門下。
本名は泉、清源は通称名。全盛期には日本囲碁界の第一人者として君臨
し、「昭和の棋聖」とも称される。
木谷實とともに「新布石」の創始者としても知られる。
岩本 薫(いわもとかおる 1902/2/5〜1999/11/29)
大正・昭和の囲碁棋士。第3、4期本因坊で本因坊薫和を号する。島根県
出身、広瀬平治郎八段門下、1945年の第3期本因坊選で橋本昭宇本因坊
との挑戦手合いにおいて広島市郊外の五日市(現在佐伯区五日市町)で行
われた6番勝負の第2局は原爆下の対局として有名。囲碁の海外普及に尽
力し、また私財を投じた岩本基金によりサンパウロ、アムステルダム、
ニューヨーク、シアトルの囲碁会館設立に多大な貢献をした。
2007/7/1 日本経済新聞から