画家山田新一の素顔

  高城と古戦場
 〜天正戦記に耀く勇将山田新介


   米寿記念山田新一画業70年展/1986年
   

  宮崎展 ■宮崎県総合博物館 /昭和61年8月 9日〜8月17日
  京都展 ■高島屋京都店    /昭和61年8月28日〜9月 2日
  東京展 ■高島屋東京店    /昭和61年9月11日〜9月16日

  1986年(昭和61)、宮崎日日新聞社主催、宮崎県総合博物館後援をもって
 「米寿記念山田新一画業70年展」が開催された。写真はその記念展に添えて出
 版された図録の表紙である。
 
  図録には、宮崎日日新聞社社長・若曽根方志氏、宮崎県知事・松形祐堯氏、
 宮崎県総合博物館館長・黒木淳吉氏、京都国立近代美術館長・河北倫明氏、
 美術評論家・田近憲三氏、美術評論家・朝日晃氏、画家・野口徳治氏から寄せ
 られた言葉が掲載されている。そのどれもが、山田新一を知る上でも欠かせな
 い言葉でつづられている。

  

   野口徳次氏から寄せられた言葉から<抜粋>

   先 輩 先 学 先 達 頌

                          野 口 徳 次

 山田新一先生は、私にとっては二重の先輩に当たります。一つには旧制都中卒と
して、それと芸大油画科。 当時は東京美校の西洋画科で 油画科と改まったのは私
などの在学中のことでした。西洋画科が油画科と、時の風潮で替っても、学校の教
科課程も教室も、巨匠を揃えた教授陣にも変動はなかったばかりか、校内食堂のお
ばさんも、修繕靴屋のおぢさんも、山田先生が画学生であったころと同じでした。
 この人たちは、藤田嗣治や萬鉄五郎どころか、青木繁や和田三造の生徒時代のこ
とも憶えていて、食堂の裏の高い煙突に、てっぺんまで登った生徒が一人いたこと
を、何かのつでに語ったことがあります。登ったのは若い日の山田新一先生で、心
配して、やっきになって止めたのが前田寛治であったと聞かされました。労働争議
で煙突男が現れる以前の話。何でもない若者の冒険と受取れば、それまでのことで
すが、ロッククライマーでもない限り、とても眺めるような煙突ではなかったので
す。この一見無茶苦茶な好奇心と決断が、いまは円満良識の山田先生の胸の底に、
なお秘められていることを、時に見受けことがあります。
 常識と従来の教養を否定するのが創造力で、冒険心に乏しい個性は画家になれな
いはずです。山田先生の同級生には佐伯祐三や江藤純平、舞台装置の伊藤喜朔など、   
個性の強い人たちがいますが、行動的な面では思い切りがよく、常にグループの先
頭に立つ存在であったようで、天正戦記に耀く勇将山田新介の血が、やはり受継が
れているのでしょう。
 新一先生には、折にふれて、古武士の風格と気骨が形に出てきますが、藤島武二
先生が山田新一先生によく目をかけられたのも、薩摩兵児の気風が、たがいに共鳴
したからでありましょう。
   (以下略)

  

  山田家は島津藩と少なからず所縁があるとは耳にしてはいたが、生前の
   新一伯父からは天正戦記の話は聞いたことはなかった。伯父にとっては誇
   らしいことだと思うが、口には出さなぬところが山田新一らしいところで
   あろう。しからばと、宮崎県史を取り寄せて「天正戦記」なる歴史のペー
   ジを開いて視た。         (2011年12月6日記)

   宮崎県の歴史散歩 

   高 城 と 古 戦 場

  児湯群木城町高城
  日豊本線高鍋駅バス木城行終点下車三分

     宗麟原供養塔
   

 高城
は木城町の中央部につきでた新納山(にいるさん)の先端に築城されている。
三面を険しい断崖でまもられ自然の要害といわれる。地理的に日向の中央部に位置す
るため、中世には財部城とともに軍事的に重要な拠点となった。

 高城が特に歴史に名をとどめたのは1578(天正6)年と1587(天正15)年の
戦いにおいてであった。

 1578(天正6)年の戦いは、伊藤氏を豊後において日向を掌中におさめた島津氏
と、伊藤氏のもとめに応じてというかたちをとりながら南進政策をおしすすめようと
する大友氏との戦いであり、九州戦国史上重大な合戦であった。この戦いののち島津
氏は九州制覇をめざして北進政策をとることになる。
 この戦いは1578(天正6)年4月にはじまった。まず大友宗麟の軍は土持氏の居
城延岡松尾城をおとし、8月には宗麟みずから3万5000の兵をひきいて豊後を出
発、延岡牟志賀に本陣を置いた。このとき大友軍は日向勢合わせて総勢5万といわれ
る。
 10月20日大友軍は怒涛のごとく南下し日向の拠点高城をかこんだ。
 高城の島津軍守将は山田新介(有信)で、援軍をあわせて約3000。高城は大友軍
の連日のはげしい攻撃にもかかわらず落城せず、大友軍は20日以上もここにくぎづ
けとなった。
 これよりさき、大友軍日向侵攻の報をうけた島津義久は、ただちに鹿児島を出発、
11月朔日に4万の兵とともに佐土原に入城した。両軍の決戦は11月12日大友軍
の高城川渡河とともに開始された。島津義久は兵を五軍にわけ、大友軍を前軍と中軍
(本陣)でささえながら側面攻撃によって三方から攻めたて、ついにこれをくずした。
くずれにくずれた大友軍は北へ敗走し、島津軍はこれを美々津川まで追撃した。
この間七里、大友軍の戦死者は道をうずめ、 場を失って竹鳩(だけく)の淵や美々津川
においおとされたのも数しれず、とくに十文字では大友軍の大将が多数うちとられて
いる。敗戦の報をうけた大友宗麟はすぐさま豊後に兵をひいた。

 つぎの1587(天正15)年の戦いは、全国支配を確立しようとする豊臣秀吉と九
州制覇の完成をめざす島津氏との合戦だった。この戦いののち九州における近世大名
の領城が成立した。
 まず1586(天正14)年、大友宗麟は九州制覇を目前にした島津氏の圧迫に抗し
きれず、豊臣秀吉にたすけをこうた。
 翌年、秀吉の大軍は肥後口と日向口に出発した。肥後口の総大将は羽柴長秀で総勢
20万。4月6日には耳川をわたって財部城をおとし、さらに高城をかこんだ。
高城の島津軍守将は山田新介で将兵1300.秀長は51カ所に砦を築いて高城を孤
立させ、島津氏の本隊にそなえ根白板に前軍をおいた。島津義久は4月16日に2万
の兵をひきいて根白板を急撃したが失敗し、戦力の相違をしって同月25日降伏した。
その間、高城は大軍にかこまれながらも落城しなかった。
 後年、山田新介が死んだとき義久は徒歩で棺のそばにつき葬儀に列したといわれ
ている。

 現在高城は城山公園となっているが入り口から頂上への道はけわしく、道端には
石仏がならび、頂上からは木城・高鍋が一望のうちにあって、戦国の往時をしのぶ
ことができる。高城のしたから川南へむかう道を湯迫から十文字に入ると、宗麟原
供養塔
(国史跡)がたっている。この塔は山田新介が大友軍の戦死者の霊をなぐさ
めるために建てたものといわれている。

 宮崎県の歴史散歩<全国歴史散歩シリーズ45>
  
著者:宮崎県高等学校社会科研究会歴史部会 発行者:野澤繁二
     
発行所: 且R川出版社

 

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