画家山田新一の素顔

 
 宮崎日日新聞に30回に及び連載された特集/1990年(平成2年)2月〜5月

  彩管70年  山田新一画伯の歩いた道  その2

     
 《写真》 文部省美術展の打ち上げの席で
   山田は左端。前列中央は童画家で売出し中の武井武雄

                

 <14>薔 薇 門 社7人で同人会結成 雑誌が第1回展を紹介

 大正十二年(一九二三)の春、山田らは東京美術学校(東京芸大の前身) の西洋画科
を卒業した。
   (略)
 間もなく同人会を結成して作品展を定期的に開く話がだれからともなく持ち上がっ
た。結集したのは同期生の佐伯祐三、江藤純平、佐々木慶太郎、石川吉次郎、深沢省
三、藤彦衛に山田の七人。佐伯のアトリエで会の名称について話し合ったが結論が出
ず、とうとう全員が泊まり込んでしまった。翌朝、外に出た山田は門がツルバラで覆
われている家を見つけ「薔薇門社はどうか」と提案した。インドのバラモン(婆羅門)
教と同じ語音の響きもあってスンナリ名前が決まった。この薔薇門社は同年五月、神
田の文房堂で第一回展を開き雑誌「中央美術」でも紹介されている。

 秋、休会の帝展(帝国美術院展)の代わりに開かれた御成婚記念・日本美術展に山
田は「裸婦」を出品して入選。ことさらの技巧をもてあそばず、背景を飾る装飾を避
け、ひたすら主題へ向かう後年の画風は既にこの時期に確立されていると言ってよい。
簡潔で、直截、抒情的な趣はその後六十年以上も貫かれていることになる。 
 
 ところで、東京美術学校を卒業した山田が初めて応募したのは帝展だが、当時のわ
が国の洋画壇の動向はどうだったのか?明治四十年(一九〇七)スタートした文展(文
部省美術展) は大正七年の第十二回で幕を閉じ、翌年には帝展に改組して再スタート
を切った。最後の文展の総入場者数は二十五万八千人を上回った。 しかし、こうした
盛況にもかかわらず文展への批判は大正初めからあった。いわゆる官展が美術家の社
会的地位を著しく高めたが、回を重ねるごとに情実を生み、次第に平均化した安穏通
俗な基準を中心に固まりかける傾向が出てきたのである。文展アカデミズムに対して
はっきり反対を表明した在野団体は二科会であり、大正三年には旗揚げしている。

 文展の持つ情幣を排除した改組帝展だったが、新たに誕生した帝国美術院会員の大
半は文展第一回以来の審査員や長老で占められ、東京美術学校入学前に師事した岡田
三郎助、同じく都城出身の日本画家 ・山内多門を育てた河合玉堂らが名を連ねていた。
そして、審査委員には山田の東京美術学校の恩師 ・藤島武二、後年、山田にアトリエ
を譲ることになる太田喜二郎らがいた。旧文展の審査員は会員に祭り上げられ、中堅
の作家が審査の実験を持つようになったことから、第一回帝展は洋画の入選作がわず
か六十九点という厳選ぶり。洋画の特選には高間惣七ら帝展時代に活躍する新人たち
が顔をそろえ、昭和初期の動向を予示する兆しが見られはじめるのである。つまり、
わが国の洋画の潮流が大きく変わった時期だが、山田はそうした美術界のうねりに流
されることもなく自由な雰囲気だけを求めて制作に熱中していた。

                

 <15> 関東大震災 新天地求め京城へ パリ目指した親友佐伯

 東京美術学校(東京芸大の前身)を卒業した大正十二年九月一日、山田は関東大震災
の強襲を受けた。この未曾有の大地震は、その後の山田の人生を大きく変えていく。
山田の住んでいた池袋は密集していなかったため類焼も倒壊も少なくて済んだ。(略)

 地震に怯える日々の中で、いつしか山田は「このまま東京に居たら絵がかけなくな
るのではないか」と深刻に考え始めた。そんなある日、朝鮮総督府林業技師・村山醸
三に出会う。父 ・新助の仕事上の友人である村山は「朝鮮には地震がない。しかも、
新設される官立の第二高校が図工教師を探している」と、しきりに渡鮮を勧めるのだ
った。当時の山田は東京美術学校を卒業したものの職に就かず研究科に籍を置いてい
た。(略) 山田は心を決め、大正十二年十一月、妻のよしらと京城へ向かう。山田
にしてみれば、ほんの腰かけのつもりの渡鮮であったが、そのまま終戦まで二十数年
間を京城で過ごすことになる。数日後、川端学校時代からの親友・佐伯も神戸港から
日本郵船の香取丸に乗りフランスへ旅立った。
  (略)

 ところで、関東大震災の九月一日から上野の竹之台陳列館では第十回二科展が予定
されていた。十回展を記念するフランス現代画家の作品が特別展示されるというので
前評判を呼んでいた。ピカソ、マチス、ブラック、ディヒイらの作品であり、我が国
における初期のヨーロッパ美術の紹介と言える内容だった。ピカソ、ブラックのいわ
ゆるキュービニズム(立体派)の初めての紹介であり、エコール・ド・パリ(パリ派)
と呼ばれる作家たちの作品に触れることができる初めてのチャンスであった。 しかし、
大震災のため東京展は急きょ中止され、京都、大阪、福岡を巡回した。同展にはヨー
ロッパ経験を持つ古賀春江や海老原喜之助、安井曽太郎らが作品を発表、パリの雰囲
気を再現した。ヨーロッパ志向が強まる中で山田は京城を、佐伯はパリを目指したの
だった。

                

 <16> ソウル時代 初出品で首席受賞 朝鮮美術界に大きき貢献

  (略)
 渡鮮翌年の大正十三年、山田は第三回朝鮮美術展(総督府主催)に「花と裸婦」を出
品し首席受賞した。鮮展の名で知られた朝鮮美術展は日本の文展(文部省美術展)に相
当する官展で、同国で一番の権威を誇っていた。日本人が初出品で最高賞を受けたこ
とは大変なニュースであり、山田にとっては晴れがましいデビューであった。その後、
特選を九回連続で受け、李王家昌徳宮から賜賞を授与。昭和十年に「推薦」、同十二
年には審査員となり、同十六年、総督府から美術功労者として木杯を贈られている。
鮮展で山田の技量を高く評価したのは審査員の和田三造であった。和田は白馬会絵画
研究所で黒田清輝に師事したあと文部省の留学生としてヨーロッパで洋画と工芸図案
を研究して帰国。日本標準色協会の設立に尽力し文化功労者にも選ばれ、帝国美術院
展文部省美術展の最高実力者になっていた。朝鮮美術展の審査も引き受け、同国の美
術水準を高めるなど功績を残している。

 ソウルに住む山田の目は日本の公募展にも向けられていて、大正十四年の帝国美術
展に「リューシャの像」を出品、入選。 これは、近くに住むロシア人の娘・
リューシャをモデルに描いた二十五号の油彩。簡潔で直截、抒情的な構成、色づかい
の中に熱気を鎮めた色彩の冴えがある。初期から近年まで山田の作品の中で風景画と
共に主流を占める人物画のモデルの大半は異国の女性。「リューシャの像」のように
異国の女性をモチーフにしながら、 なぜか山田の作品に東洋的な親しみ覚えるのは、
山田の心の深層に都城の風土、気質が根を張っているからに違いない。そんな山田の
双眸(そうぼう)を捉えた女性だから、山田の中の宮崎県人″がはっきり顔を作品にの
ぞかせているのである。 こうした画風が徹底した作品を日本の公募展にも送り続け、
昭和十六年には文展無鑑査となる。

 第四回の朝鮮美術展に 「美しリューシャ」首席入選した大正十四年、山田は上原勇
作元帥に呼ばれた。(略) 上原は李大王の国葬元帥代表として参列するためソウルに来
ていた。久しぶりの対面であった。鮮展でのトップ受賞を報告すると「今から見に行
こう」と上原が言う。
  (略)
 このときが上原にあった最後となった。

                

 <17> 京 城 時 代 "パリ熱 @}え難く 刺激与えた佐伯や里見

 (略)
 ときどきパリから届く佐伯の手紙で山田のパリ熱は否が応でも高まってゆく。東京
美術学校の先輩で 佐伯のパリ行きのきっかけを作った里見勝蔵が 大正十四年の春、
京城で検事をしていた兄を訪ねた折に、山田に会いに来た。そして、ブラマンク流の
フォーブ(野獣派)で山田の描きかけの四十号の油彩を目茶苦茶に塗りつぶし、激励し
てくれた。その時も山田は里見の自信に満ちた手直しを通じて未だ見ぬパリが持つ底
知れぬ芸術性に触れることができた。

 フランスがイタリアに代わってヨーロッパで美術の主導権を確立するのは、十九世
紀の半ば。 そのころからフランスは優位に立ち、気がついてみたら第一次世界大戦前
夜のパリは紛れもなく世界の美術の中心にあり、若い芸術家たちの憧れの的になって
いた。 そのころパリに集まってきたさまざまな国籍の芸術家たちを「エコール・ド・
パリの画家たち(パリ派)」と呼ぶ。

 山田が京城で高校の教壇に立ちながら朝鮮総督府主催の朝鮮美術展や日本の帝国美
術院展などに作品を発表していた一九二〇年代後半から三〇年にかけ、パリ在住の日
本人画家は一時五百人にも達した。のち宮日美展の審査委員を務めた山口長男による
と、 当時のパリには藤田嗣治を中心としたグループと、収集家で美術雑誌「フォルム」
を主宰する福島繁太郎の周囲に集まったグループに分けることができた。藤田のグル
ープには海老原喜之助や岡鹿之助、後者グループには伊藤廉、益田義信らがいて、山
口はどちらにも属さず佐伯祐三や荻須高徳らと一緒に行動していた。

 昭和元年(一九二六の春、佐伯は日本に一時帰国し、里見や前田寛治、児島善太郎
らと一九三〇年教会を結成した。有島生馬、石井柏亭の推薦で出品した二科展で二科
賞を受けた佐伯だったが、その年の夏に「日本はちょっとも面白くない。また近いう
ちにパリに行きたいと思っている」と書いた手紙を京城(ソウル)の山田に送っている。
翌年の昭和二年八月、佐伯は大阪の実家を出発、広島の厳島神社に参拝したあと下関
から関釜連絡船に乗り山田と約四年ぶりの再開を果たす。数日、山田宅に滞在した佐
伯がモスクワを経てパリに着いたのは八月十九日のこと。山田も佐伯の後を追いかけ
るように翌三月、パリを目指すのである。

                

 <18> 渡  欧 山口長男が出迎え 佐伯は肺結核で死の床

(略)パリに着いた佐伯から絵はがきが届いた。文面には「巴里についてまだ日がな
い。気も処(ところ)もおちつかない。毎日ブラブラしている。朝鮮では以外の御厄介
をかけてすまなかった。君の来るのを待つ」

 昭和三年、山田は妻のよしを伴って渡欧、六月四に初めてパリの土を踏む。シベリ
ア鉄道で大陸を横断、パリに着くまでに十日もかかった。パリに山田を迎えたのは親
友の佐伯ではなく、東京美術学校の後輩・山口長男(たけお)だった。佐伯は肺結核の
症状が悪化していたのである。パリに到着する前、あらかじめ山田はモスクワから電
報を打っていたが、駅頭に佐伯の姿を見出せなかった時、不吉な予感がした。山口か
ら佐伯が既に病臥二カ月と聞き、ホテルに荷物を預けて佐伯のアパートへ急いだ。

 部屋に入るなり妻の米子が山田の手に飛びついた。「佐伯はどれだけ山田さんが来
るのを待ち続けていたことか・・でも、この数日具合が悪いんです。そこで随分勝手
なお願いですが、あまりたくさんお話にならないで・・・うれしさのあまり、また熱
が上がるといけませんので」。二度目のパリを目指した佐伯が、その途中に京城の山
田を訪ねてくれたのは前年の夏。まだあれから一年もたたないというのに佐伯の変わ
りようはどうだ。そぎ落とされた頬、白く痩せ細った腕、光のない目・・・佐伯
は多くを語らず「南ふらんすでも行って養生したい」と訴えるような口調で言った。

 もし佐伯が病気でなかったら、山田の師は佐伯の敬愛するブラマンクのはずだった。
そこで、山田はサロン・ド・チュイレリーの副会長を務めるアマン・ジャンに師事す
ることになる。(略)

 山田はパリの中心にアトリエを借りていたが、その二階に大分出身の彫刻家・日名
子実三が住んでいた。(のち日名子は宮崎県庁舎や平和台の八紘一宇の塔を設計する
などかかわりが深い)。
 (略)

      
    山田のアトリエでアマン・ジャン先生と山田新一
            1929年パリ リユ ダゲール

                

 <19>パ リ 時 代 師はアマン・ジャン 芸術の純粋性学びとる

 昭和三年(一九二八)、東京の川端画学校、東京美術学校を通じての級友佐伯祐三
のあとを追うようにパリを目指した山田新一。しかし、パリのガール・ド・ノー
ル(北駅)に山田を待っていたのは佐伯ではなく山口長男であった。(略)

 アマン・ジャンは一年の大半をパリのるクサンブール公園に近いアトリエで過ごし
ていた。 しかし、休養のためサランザール駅からヴェルダン方向へ二時間足らずのと
ころにある シャトウチェリーの別荘に滞在することもあった。そこはジョッフル元帥
が第一次世界大戦のときひん死の祖国を救って勝利に導いた″ヌマルの激戦″で知られ
るヌマル湖に沿った美しい町であった。アマン・ジャン家は数千坪の庭園を持ち、大
樹に覆われていた。七十歳を超えたアマン・ジャンが夫人,令嬢、そして二頭の愛犬を
伴って朝夕散歩する姿は一幅の絵を見る思いだったという。

 家族的処遇を受けていた山田はアマン・ジャンに何回も同行してこの地を訪れ、樹
間に置いたベンチで、当時高名なレスラー、シャバンヌ、ブルーデルらとアマン・ジ
ャンが交わす会話を聞いた。ある日、アマン・ジャンはカシの巨木の根元に打ち込ま
れた砲弾の跡をステッキで指しi示しながら「山田、独仏(ドイツとフランス)の宿縁は
いつ消去されるのであろう。これなどみんなマルヌ激戦のいたましい記念なのだが、
アトリエの壁やそこに掛けられている作品にまで銃弾のあとが残っているのを君は見
たはず。人間同士が殺し合うとは・・・それに比べて君たち日本人はなんという幸せ
者だろう。 世界を制圧するが如き勢いの乗って攻め立てた帝政ロシアさえ完全に屈服
せしめたではないか。日本こそ極東の夢の国だ」と言い、しばらく嘆息した。子供っ
ぽい羨望と憧れで日本をたたえるアマン・ジャンの言葉に山田は時々うなずきながら
聞き入った。
 (略)
 山田がアマン・ジャンに教えられたのは芸術の純粋性、つまり美術の世界には権威
主義など不要であるということだった。山田はアマン・ジャンの穏健な写実的画風を
学んだが、田近憲三(美術評論家)は当時の作品づくりについて「山田画伯が名画家の
アマン・ジャンに就かれたとき、その師の芳醇な静けさをとらないで、敢えて反対の
力強さへと進まれたのは師の芳醇の裏に沈めた力がたくわえられていて、そして、そ
れが洋画なるものの本当の重要性を痛感されたからではなかったか」と述べている。

 パリで暮らし始めた昭和三年、サラン・ド・ドートンヌに「ヴォーレアル風景」を
出品し、入選している。

                

 <20>パ リ 時 代 佐伯が30歳で客死 シャガールと交流図る

 山田が初めてパリの土を踏んだのは昭和三年(一九二八)六月四日。そのとき、パリ
のアパートに二カ月前から伏していた親友・佐伯祐三の肺結核は末期であった。間も
なく、佐伯は病床を脱け出し、ブローニュの森で倒れているところを発見、保護され
た。山田あての遺書もあったが、文章の体裁のない心の裡(うち)の乱れを書きつづ
ったものだった。(略)

 山田が最後に佐伯を見舞ったのは死の前々日の昭和三年八月一四日のこと。写生で
ヴォーレアルに出かけていた山田は暑いパリに戻った。佐伯の一人娘で結核に侵され
ていた弥智子の衰弱を心配してホテルグラン ・ゾンム に行くつもりだったが、その
前に無性に佐伯に会いたくなって精神病院へ向かった。部屋に入ると佐伯は声も立て
ずに両目から涙を流した。静かに手を伸ばし、山田の手を取りながら 「山田君、えら
いお世話になった。すまなんだ」と大阪弁で言った。眼窩(がんか)の辺りが痙攣し
ていた。ちょうど病院の庭には真夏の太陽が照りつけ、山田はゴッホの「ひまわり」
を連想した。佐伯の魂が体から離れたのは、それから二日後のことである。
 (略)
 佐伯の遺体は娘の弥智子が療養中のホテルグラン・ゾンムに運ばれ、通夜のあとペ
イル・ラシューズ墓地に運ばれた。参列者は山田のほか山口長男、荻須高徳、萩谷巌、
木下勝治郎、大橋了介ら約二十人であった。 娘の弥智子の肺結核が父親の佐伯から伝
染したことはだれの目にも明らかだったが、その弥智子も佐伯のあとを追うように二
週間後、六歳六カ月の短い生涯をパリで終える。パリにつかれ、とりわけ壁を執拗に
描き続けた佐伯、 無機質の固い壁の上を結核がもたらす不安と苛立ちという佐伯の生
々しい感情が這いずり廻る作品群。日本でため込んだ才能の深と広がりをパリで一気
に昇華させた佐伯は、 こうして三十歳の若さで客死したのである。

 パリに暮らし始めて日の浅い山田だったが、陽気な性格は多くの画友を集めた。モ
ンパルナスのカフェでキスリングに会うと、いつも二人ともワインで顔を赤く染めて
いた。いつしか、山田は「モンパルナスのキスリング」と呼ばれるようになった。キ
スリングとはモデルをつとめてくれた女性を通じて知り合い、シャガールとは藤田嗣
治の紹介だった。山田と藤田を引き合わせたのは、 佐伯祐三を診ていた医師の児玉九
一。このほか、ザッキンやロート、ファボリー、ピカールルドウらと交流を保ってい
る。山田は師のアマン・ジャンから脱却して 自分の画境を切り拓くことに魂を傾ける
が、こうした果敢な姿勢は作品の深み、豊かさとなって表出されるようになる。

                

 <21> パ リ 時 代 仏の公募展で活躍 文豪宅の居候にもなる

 川端学校―東京美術学校(東京芸大の前身)を通じての親友・佐伯祐三が三十歳の
若さでパリに客死した昭和三年(一九二八)、パリの二十`郊外のヴォーレアルの風景
を描いた三十号の油彩がサロン ・ドートンヌに入選。翌年、サロン・ド・チュイレリ
ーには招待出品、サロン・ドートンヌにも二点出品して入選している。さらに、ニー
ス市のギャラリー 「バンチュール・モデルン」でルネ・モレスと二人展を開いたり、
自由な雰囲気のアンデパンダン展にも出品するなど旺盛な制作活動を展開した。

 山田の記憶によると、当時のフランスには官費・私費の日本人留学生が三百人は下
らなかったという。(略)

 文豪モーリス・メーテルリンクの住むオワズ河畔の邸宅の食客(居候)になったの
も昭和四年。メーテルリンクは当時六十三歳。既に「青い鳥」などの作品でノーベル
文学賞を受賞しており、象徴主義演劇の代表者でもあった。山田がふとしたことで知
り合った医師カムーズ随筆家、美術評論家でもあり、娘がメーテルリンクの後妻にな
っていたのだ。フランス人は「レ・ミ・セラブル」の著者ビクトル・ユーゴを最も尊
敬しており、メーテルリンクはユダヤ系のベルギー人だった。従って、そう騒がれる
こともなく、静かに暮らしていた。お茶の時間になるとメーテルリンクは自分のサロ
ンに山田を呼び雑談するのを楽しみにしていた。(略)

 メーテルリンクは大のアメリカ嫌いで知られていた。いくら山田が「日本に行きま
せんか」と誘っても「アメリカナイズされた日本など行きたくない」と言下に片付け
るのだった。
しかし、のちに ヒトラーによってユダヤ人は追放され、メーテルリンクはアメリカへ
移ってフロリダで死ぬ。山田は、つぶやく。「あれほどアメリカ嫌いだったメーテル
リンクが皮肉なことにアメリカで死んでしまった。人の宿命は予測がつかないものな
んだ」

                

 <22> 帰  国 注目の滞欧作品展 妻にキミを迎え再出発

 昭和5年(一九三〇)、山田は日本へ帰る決心をする。もっと永くパリに滞在し、
絵画の制作を続けるつもりだったが、京城(ソウル)時代に教職で貯めた資金は底をつ
いていた。それに当時、妻のよしと三人の子供たちを満州の父親に預けていた。
 (略)

 初めてパリの土を踏んだのは昭和三年六月。帰国するまでの二年間に、師のアマン
・ジャンからフランス印象派の雰囲気を踏襲、他の日本人画家のように先端の美しさ
に群がることもせず、ひたすら″重い″制作を続けたのであった。そのころ、既に山田
作品の骨格である簡潔な構図と強烈な調子、華やかな色彩効果、は確立しかけている。
たいてい、若い女性が屈託もなくイスに寄りかかっている。雰囲気を飾るいっさいを
避けて、ひたすらモデルに向かう。簡潔に描かれた姿態は逆に女性の生気、生活臭ま
で写し取ってしまう。覇気を包み込んだ逞しさは、とりもなおさず山田自身の逞しい
体質でもある。
 (略)
 この時期、人物だけに執着していたのではない。女性を描くタッチは風景画でも駆
使されている。表面はあくまでも簡潔に、力は内側に隠して感情的な魅力よりも、モ
リーフから放たれる印象を真正面で受け止めるたくましさから制作を進めている。こ
うした技法で完成した作品は、分厚い油彩の質感を与えながら、透明な大気を画面上
で再現してくれるのである。

 日本に帰国した山田は、その年(昭和5年)の帝国美術院展に「読後」を出品し入選。
東京・松坂屋と京都三越で滞欧作品展を開いた。(略)

 二年後、妻のよしが幼いころから患っていた心臓弁膜症のため亡くなった。その翌
年には父親の新助も失う。虚脱状態の山田を支えたのが下田キミである。キミは岩手
県盛岡市生まれ。 東京女子美術学校(東京女子美術大の前身)を首席で卒業した才媛で、
京都第二高等女学校長がわざわざ東京に出向いてきて同校教師になってくれるよう懇
願したほどである。山田と知り合ったころのキミは同校で美術を教えながら自分の制
作にも余念がなく鮮展(朝鮮美術展)で四回も特選を受賞していた。
 (略)
鮮展の参与に上り詰めていた山田と昭和八年結婚、一緒になったあとも二人の制作は
たびたび深夜に及んだ。キニは静物が中心で、とりわけアジサイを好んで描いた。の
ち山田と何回もパリやヨーロッパを訪れているが、風景画も多く残している。

   
    仁川捕虜収容所における英濠兵の作業 1943(昭和18)
   
     天津南海大学付近暁野砲戦闘図 1944(昭和19)

                

 <23> 従 軍 画 家 再び京城を目指す 朝鮮画壇のトップスター

 昭和5年(一九三〇)、パリから日本に帰ってきた山田は旺盛な活動を展開、帝国美
術院展などに作品を発表し画壇の注目を浴びる。しかし、渡欧前の六年間に朝鮮美術
展で築き上げた実績、人脈は捨て難いものがあった。再び京城を目指したのは日支事
変が勃発した昭和十二年のこと。
 (略)

 昭和十三年、陸軍美術協会員、朝鮮軍報道部美術班長で北支に派遣される。その後
十九年まで中支、台湾を回っている。(略)

 ところで、陸軍美術協会は昭和十四年に設立、主として陸軍省報道部の指導の下に
日支事変に従軍した画家、彫刻家を集めて組織された 会長は松井石根陸軍大将がつ
とめ、副会長は藤島武二、総務は石井柏亭、中沢弘光、橋本関雪の三人。いわゆる戦
争美術は太平洋戦争が勃発して本格化する。昭和十九年刊行の日本美術年鑑によると、
戦局が進むにつれ戦争の記録画や南方の風物画が展覧会の主流となり、工場や農村の
写生画がこれに次ぎ、そのほかには歴史画の傾向が著しく目立った。恒例の院展、二
科、一水会の由緒ある展覧会がいずれも中止された。というのも情報局が美術展覧会
取扱要綱を発表、美術報告会主催・共催以外の一般展覧会は情報局の承認が必要とな
り、二科会など解散する団体が相次いだのである。

 のち第一回県展(宮日美展の前身)の審査委員をつとめる須田国太郎が戦時中に戦
争画を論じて「いかに記録的に洗練された手腕を示そうと、もし芸術的感激を与える
ものでないならば、ただ非常時局の通行標にすぎない」と印象的な発言をしている。
戦時中の緊迫した情勢は一部作家を除いてはほとんど十分な制作をする機会を与えな
かったわけである。山田の従軍画家時代の作品も大半が記録性の強いもので、昭和十
八年に描いた「仁川捕虜収容所における英濠兵の作業(110×144a)が国立近代美術
館に収蔵されている。同十九年の「天津南海大学付近暁野砲戦闘図」(129×191a)
はアメリカに没収され、戦後、返還された。

 昭和二十九年、終戦。ある日、京城の陸軍報道部に保管されていた聖戦美術展の作
品のうち六十八点について部長が山田に 「この絵を速やかに焼却せよ」と命令した。
ところが山田は「燃えるのは一瞬でも、絵を描く苦労は大変なものです。私に預けて
ください」と答え、作品を韓国内の美術家たちに分散、保管させたという。山田のと
っさの判断で作品は焼却処分を免れたわけだが、同じ実作者としての心の痛みが大胆
な行動をとらせたに違いない。

 終戦で妻のキミら家族を伴いリックサック一つで日本に引き揚げてきたのは昭和二
十年秋のことである。

                

 <24> 終 戦 直 後 光風会でスタート 初出品の翌年に審査員

 昭和二十年(一九四五)の秋、 終戦で京城から引き揚げてきた山田と家族がまず
落ち着いたのは寝屋川(大阪府)だった。(略)

 着の身着のまま外地から引き揚げた山田は、絵をかくこと以外、何もできなかった。
(略)ある日、勧業銀行に勤めていた京城時代の友人が宝くじを売って生活資金づく
りを勧めた。妻のキミは大阪の高麗橋に宝くじを売る露店を出して山田の画業を支え
てくれた。宝くじ売りは約十カ月続いたが、キミは生前、「一日の売り上げ金を銀行
に届けるとき一番怖かった」と、しばしば昔を懐かしんでいた。

 京都へ家族で遊びに出かけた日のこと。映画を見たあとズルチン入りのしるこをす
すり四条通りに出たら、京城日報(日刊紙)の総務部長をしていた知人に出会った。
話すうちに、絵を描くのに環境が良い京都へ引っ越す話がまとまってしまう。京都に
移って間もなく、京城時代の知人で京都府の総務課長をしていた男の世話で妻のキミ
は美術教諭が欠員になっていた葵中学校に勤め始める。絵以外無頓着の山田も、定住
できる自分の家が欲しく思われてきた。そのうち、キミの給料百円の中から毎月十三
円を返済する条件で無尽会社から融資を受けて念願の家を買う。現在の左京区下鴨北
園町の自宅である。

 戦前、日本にいたときの山田は文展(文部省美術展)や帝展(帝国美術院展)を主なる
制作発表の舞台にしていたが、戦後は光風会でスタートを切る。光風会は、明治二十
九年に鹿児島出身の黒田清輝らが結成した白馬会が同四十四年に解散したのを受けて、
翌年に佐土原藩士を父に持つ中沢弘光らが発起人となって創立している。いずれも黒
田清輝につながる画家たちであり、その後は児島虎次郎や辻永(つじひさし)らを加え、
官展の外郭団体として穏健な雰囲気を保っていた。光風会でいち早く山田を見出した
のが辻永で、戦前、朝鮮美術院展の審査員を務めたことのある辻は旧東京美術学校
(東京芸大の前身)では岡田三郎助に学んでいるが、キミも女子美術学校(東京女子美
術大の前身)を出たあと岡田三郎助に師事している。

 山田は昭和二十三年の第三十四回光風会展に「画友像」ほか一点を初出品し入選、
いきなり会員に推挙された。さらに翌年には早くも審査員と、異例の″昇格″を見せる
が、戦前に文展無鑑査、朝鮮美術展参与まで登り詰めていた山田の完熟した力量を考
慮すれば、山田の「初出品から二年目の審査員」は当然の処遇だったのだろう。

                

 <25> 再スタート 日展で岡田賞受賞 天皇が鑑賞「湖上客船」

 敗戦後の、わが国の美術の立ち直りは早かった。終戦の翌月の昭和二十年九月、文
部省と帝国美術院は文展(文部省美術展)の再開を決め。翌年春には文部省主催日本
美術展(通称日展)と改称して第一回展を開いた。絵の具の入手に困難を極めたにも
かかわらず第二部(洋画)には二百八十六点の応募があった。(略)

  一方、在野の団体展の再スタートも活発で、昭和二十年十月に川端龍子の率いる
青龍社がいち早く戦後初めての団体展を開いた。また二科会も東郷青児を中心に再開
の動きを見せ、同二十一年に展覧会を開催した。日本美術院や国画会、新制作派協会
なども前後して展覧会を開催。敗戦で引き揚げてきた山田は、光風会で戦後のスター
トを切る。(略)

 山田が新生・日展に初めて出品したのは翌年の昭和二十五年の第四回展で「湖上客
船」が岡田賞を受ける。(略)

 ところで山田が日展で受賞した岡田三郎助賞は主要公募展の優秀作に与えられた。
昭和二十五年から同三十三年まで続いている。 山田の受賞作「湖上客船」は琵琶湖
客船のデッキでくつろぐ女性を描いた作品。若い女性の姿態はひそやかな生気を放っ
ているように見える。モデルは都城中学時代の親友で琵琶湖汽船の専務をしていた岩
切正長長女・久美子。京都女子大で英文学を専攻、山田の世話で京城の高等女学校教
師をしていた才媛である。

 その年の日展は天皇・皇后両陛下が鑑賞いわゆる展覧御大問となった。芸術院会員
の山下新太郎が「湖上客船」の前で両陛下に山田を紹介、次のようなやりとりがあっ
た。

 山田「この絵は琵琶湖の遊覧船の甲板で描いたものです」
 天皇陛下「随分な力作だね。何日ぐらいかかったの?」
 山田「四十五日ぐらいかかりました」
 天皇陛下「フーム、随分と骨が折れるんだね」
 山下新太郎「このモデルは汽船の専務のお嬢さんで、長い間、このポーズをとらせ
 たそうです」
 天皇陛下「それは、さらに面白いね」

 当時、天皇陛下が一点の前にこれほど長く足を止め、作者と会話を交わしたことは
異例だったという。(略)

      
     辻 永先生と写生中の山田新一
            1957年和歌山/雑賀崎で

                

 <26> アトリエ入手 洋画研究所を建設展 担保は画業と妻の人柄

 
昭和二十五年の第四回日展で山田の「湖上客船」(都城市美術館蔵)は岡田三郎
助賞を受賞、わが国の洋画壇にいきなり屹立(きつりつ)する。翌年には日展委嘱とな
り、戦前に朝鮮画壇で展開した活動の軸を今度は日本で大きく振り始める。京城、
パリ時代は疎遠になっていた郷里・都城との距離も、このころから元に縮んできた。
 (略)

 かって帝展の審査員をつとめ、戦後は日展参与をしていた太田喜次郎(一八八三〜
一九五一)は西洋画団の重鎮だった。山田を太田に引き合わせてくれたのは南薫三で
ある。南は、朝鮮美術展の審査に来て山田の技量を高く評価した当時、帝展の大家。
南と太田はベルギー留学で同じ印象派の画家に師事したのが縁で親交を保っていた。
太田は優れた弟子に恵まれず、その分、山田を重んじてくれるようになった。

 そんな太田は高血圧に悩んでいたが、昭和二十六年に亡くなった。京都市北大路
新町にあった太田の紫野洋画研究所が石膏などの画材や一切の設備を含めて二十七
万円で売却されることになった。(略)

 
昭和二十七年、太田の研究所を譲り受けた山田は「ヤマダ洋画研究所」とし、自
分のアトリエもここに構える。同年の光風会に出品した「赤い服」は、この新しい
アトリエで描かれている。アカデミックな光風会にふさわしいロマンチシズムが画
面にあふれ、渋い色調で大作を破綻なくまとめている。
 (略)

                

 <27> パリ再び 画壇に新たな光芒 仏政府から2個の十字章

 第4回日展で油彩「湖上客船」が優秀作品一点に贈られる岡田三郎助賞を受けた
昭和二十五年(一九五〇)の九月、山田は地元の京都新聞に次のようなエッセイを
載せている。

 「京都は日本のパリであって東京はパリではない。河原町と四条の交差する辺り
はモンパルナスやシャンゼリゼのグラングールバールのように近代建築にしてショ
ッピングとビジネスとレクリエーションの一大中心街にしたい。歴史的な建造物に
は世界に誇ってよいものもたくさんあるが、いずれにしてもパリ、フローレンス、
北京に比べると小味小型のものばかりで本願寺といえどもチッポケなものである。
高島屋の一階の角はパリのロトントやクポールのようにテラスのあるカフェにして
ほしい。三越は東京銀座の服部時計店以上の大きな時計台がほしい。もちろん電車
は廃止、バスと地下鉄だけにしたらいい」

 パリへの立ちがたい追慕。川端画学校、東京美術学校時代からの親友・佐伯祐三
が眠るパリこそ山田の魂のふるさとであった。中学時代の五年間を過ごした都城と
同時に、いつもパリ時代の記憶は新鮮さを伴って山田の脳裏を駆けめぐるのである。
しかし、山田が戦後初めて懐かしのパリを訪れるのはずっとあとの昭和三十九年の
こと。 妻のキミとパリのアトリエで制作に専念、かって佐伯が愛したパリの町角を、
美しいパリジェンヌたちを、まるで三十年の空白を埋めるかのように精力的に描く。
石畳を優しく包む透明な大気の中に身をゆだねながら練達の筆を進める。山田は素
材としてのパリについて「巴里の風土は輪郭の明瞭な割線をあいまいにした。具体
的に語ると、歴史のたい積が石組みのようにほとんど有機的に組み合わされていて、
そこに息づく人々の生活臭が石と石との間に浸透しているようだった」

 サロン・ドートンヌやサロン・チュイレリー、サロン・デ・アンデパンダンなど
戦前のフランス画壇でみずみずしい光芒を放ち、戦後再びパリに戻った山田に対し
フランス政府は昭和四十一年、芸術文化騎士十字章を、さらに同五十一年には国家
功労騎士十字章を授与した。このように戦後、京都に住むようになってからもほと
んど毎年のようにヨーロッパの土を踏み、青年時代と同じ情熱でキャンバスに向か
い続けた。山田が初めてパリの土を踏んだ昭和三年からの知人であった柳亮(美術
評論家)は「外遊のつど作調はみずみずしさを加え、歓喜にあふれた快活の度を増
してきた。それを見ると、いかに山田画伯が青春時代の見果てぬ夢との再会に心を
弾ませているかがはっきりわかる」 と山田のパリへの執着、その成果を見届けてい
る。(略)

      
            パリのアトリエでの制作

                

 <28> 開かれた目 関西洋画壇に貢献 美術館建設も呼びかけ

 昭和二十六年二月、郷里の都城で山田の個展が開かれた。前年に山田の「湖上客
船」が日展で岡田賞を受け、戦後の洋画壇委に華々しくデビューしたばかり。 個展
会場は中町にあった「さつま屋」。都城市立図書館が主催し、日向日日新聞社(宮
崎日日新聞社の前身)が後援。明治から都城出身の画家が山内多門や益田玉城、大
野重幸ら日本画家に集中したことを嘆く声が聞かれていたから、山田の岡田賞受賞
は大きな反響を呼んだ。(略)

 この年、山田は日展委嘱となり、大阪市主催の関西総合美術展の審査員を務める。
そのころ、世界的な美術コレクションで知られる松方コレクションが日仏文化協定
の調印によってフランス政府から日本へ寄贈されることが決定した。 山田らは関西
日仏協会員たちは同コレクションを収蔵する美術館建設運動を起こす。

 関西日仏学館(京都市東大路一条)の館長がマルセル・ロベール氏からシャルル
・グルボア氏へ交代、その歓迎パーティの席上、グルボア氏が「ピカソやマチス、
ルオーら西欧の巨匠の美術展は東京、大阪で開かれているのに、なぜ美術都市の京
都に来ないのか?」と発言したのがきっかけだった。そこで山田は「美術都市であ
り、非武装都市としてユネスコも認めている京都に松方コレクションを収蔵する美
術館を建てよう」と提案、全員が賛成したのである。 同年、文部省は昭和二十九年
度予算に一億五千万円を計上した。フランスから返還された作品はロダン「地獄の
扉」「カレーの市民」、クールベ「波」、ドラクロア「サルダルパールの習作」、
ゴーギャン「タヒチの女」、シスレー「水門風景」などであった。新しい美術館を
立てなくても京都には国立近代美術館が空いていた。 しかし、結局、文部省はのち
に上野に国立西洋美術館を建設して松方コレクションを収め、一点も京都には収蔵
されなかった。 このことは今でも山田の大きな心の痛みとなっているが「当時の京
都の画壇は伝統的に日本画が主流を占めていたこともマイナスに作用したのではな
いか」との見方もある。

 日本画に関して付け加えれば、山田は「師の物まね」と批判的だ。京都工芸繊維
大、京都女子大で教授を務めるかたわら関西日仏学館や」NK京都文化センターで
も美術を長年教えてきたが、山田は必ず日本画の体質、歴史の違いから話す。徳川
幕府の鎖国時代とヨーロッパのルネッサンス時代の比較に始まり、日本の閉鎖性が
伝統芸術の日本画から脱却できない理由になっていることを指摘したりする。都城
中学時代、英語教師ラトーレットによって西欧への目を開かれ、青年期を京城、パ
リに生きてきた山田にとって鎖国時代の遅れは洋画の底の浅さで計られると思える
のかもしれない。

                

 <29> 独歩の精神 戦後も感銘与える 惜しい戦前作品の喪失

 戦後、なんの縁もゆかりもない京都に定住し、今日まで彩管(絵筆)一本で生き
抜いてきたことを山田は不思議に思っている。「東京美術学校(東京芸大の前身)を
卒業後、七十年になるが世に問う代表作もない・・」。これは、二十四歳から四十
歳代後半までの間の作品のことごとくを韓国に残して引き揚げたことへの悔しさに
つながる。朝鮮美術展で首席入賞を重ねた同時期の作品には、青壮年特有のしなや
かな感性で描かれたものが多いからに違いない。しかし、山田は同時代、多くの画
家たちが空襲の戦禍のために力作を灰にした不幸を思い、「襟を正して忍んできた」
と言う。

 戦前のパリ時代、親友の佐伯祐三が心から手を引いてくれた激烈なフォーブ(野
獣派)の陣営には入らず、戦後も日展、光風会を通じて恩師・藤島武二の衣鉢をそ
っくり受け継いで穏健な写実の世界に身を置いてきた。 「日展はアカデミックで品
よく美しく描くことに専念し、在野は個性を示そうとする」。山田はどちらにもと
らわれずにモチーフの持つ生動力と強靭さを尊んで絵筆を進めてきた。こうした姿
勢について「さまざまな運命的な人生がそれぞれの歩むべき道を歩ませる。それな
りに意義のある芸術の終着駅にたどりつかせるはず」と言い、ますます独歩の精神
を固める。モチーフに静かに山田流で向き合い、しかし、 描線は彫刻のように鋭く
深い作品で感銘を与え続けた。それだけに、佐伯祐三の作品のような激しさや、あ
えぎ、苛立ちはないが、簡潔で直截な作品は色彩の冴えと洋画の体質の逞しさを見
せて耀く。そんな山田の戦後の主な出来事を挙げてみたい。

 昭和二十三年=第三十四回光風会に「画友像」ほか一点を出品し入選、会員に推
挙。二十四年=光風会審査委員二十五年=第四回日展で「湖上客船」が岡田賞
受賞二十六年=日展委嘱二十七年=ヤマダ洋画研究所を開設二十八年=光風
会評議員、京都市美術展審査員二十九年=日展審査委員三十年=日展会員
三十三年=京都工芸繊維大教授三十七年=日展評議員三十九年=渡欧、パリの
アトリエで制作に専念四十一年=京都女子大教授、フランス政府から芸術文化騎
士十字章を授与四十二年=関西日仏学館教授四十三年=長期渡欧、リスボン
のアトリエで人物画の制作に没入。

 四十六年=光風会理事、京都市美術館評議員五十年=日展参与、京都府美術工
芸功労者として表彰される五十一年=東京と京都で喜寿記念回顧展、山田新一画
集出版、フランス政府から国家功労騎士十字勲章を授与、紺綬褒章、京都市文化功
労者として日本画の小松均とともに表彰される五十四年=光風会名誉会員五十七
年=郷里都城市で回顧展五十九年=置県百年記念事業として県主催で「山田新一
画業六十年展」六十一年=NHK文化センター美術指導者、宮崎、京都、東京で
米寿記念の「画業七十年展」、宮崎文化賞受賞六十三年=都城市名誉市民六十
四年=日展審査員を辞退。

                

 <30> 終わりに 郷里に作品寄贈 自分の意志と画風貫く

 先日、山田の郷里である都城の市立美術館にコンテナが送り届けられた。開梱す
ると二百点を超える油彩、スケッチブック、愛用の画架、数々の調度品、それに妻
キミの油彩と水彩約百七十点が詰められていた。一昨年、京都のアトリエを処分し
た際、作品の散逸を憂えた山田は自分の所蔵する作品のほとんどを都城市、宮崎県、
京都府立資料館、京都市立美術館へ寄贈することを決めていたのである。

 これらの作品は従軍時代の一点を除くと一九五〇年から七〇年代に制作されたも
ので、日展、光風会への出品作、あるいは出品作のための下絵が大半。日展と光風
会では山田の発表する女性をモチーフにした作品が買い年話題を集め、こうした作
品で山田はわが国の戦後の洋画壇に独自の磁場を築き上げた。その過程は今回寄贈
されたおびただしい作品からも理解できる。つまり、一点のムダがないのである。
作品に全く遊びの部分がない。下絵といえどもひたすら描写を進め、完璧で独立し
た一点に仕上げている。戦前の文部省美術展、帝国美術院展、戦後の日展のいわゆ
る官展に絶えず新しい道を切り開いてこれたのも、 頑なに自分の意志と画風を貫い
たからこそ。それは山田の一つの個性であった。(略)

 一昨年。山田はおそらく最後のパリ行きを果たし、風景画数点を制作した。九十
歳をクリアした昨年夏はモデルを呼んで三十号に向った。一般的に言って、高齢に
なるほど描きなれた自分の技法を守り安らかな制作に落ち着くものだが、山田の作
品は逆に近作ほど目をむく新鮮さと意欲を加えている。とりわけ、色調を抑えた作
品の中で赤色の出し方はいつも話題を呼ぶくらい。今年になって光風会の彩管(絵
筆)を執ったものの最後まで描き続ける気力と体力に恵まれず、ついに途中で断念
した。
 (略)
 アトリエを手放し、画材から所蔵作品までの一切を寄贈した今の山田には七十年
間の絵筆置いた潔さと静かな安らぎがある。目を閉じれば、親友・佐伯祐三との思
い出が時を溶かし垂れ幕のように落ちてくる。枕元から片時も離さない佐伯からの
手紙を反芻する毎日。「山田君の天才的な剛健さと心の良さと、ありのままの表白
と悩みつつあるものをつかまえんとする心の底の努力を私はいつも賛辞している。
自分はけして君から離れたくない。自分は君を得ていることを心の底から喜ぶので
す」
                             (おわり)

 
   山田新一Top      天正戦記に耀く山田新介

 楽しい  絵画