画家山田新一の素顔


1990年(平成2年)2月〜5月/宮崎日日新聞に30回に及び連載された特集
   

    彩 管 70 年 山田新一画伯の歩いた道

  

 

  
 山田新一の生涯を30回にわたりかくも紙面を割かれたことは宮崎日日新聞にお
いても稀な特集ではなかろうか。
 残された日記や手紙などからも、記録癖とも思える伯父の性格が垣間見られて懐
かしい。音楽、短歌にも関心があったというが、 生前伯父から息子のピアノレッス
ンについて手紙の中での助言が思い出されて可笑しかった。
「五、六歳が最適でしたが今からでもおそくない。毎月一回往復して世界的ピアニ
スト小生友人園田高弘氏の指導を受けさせなさい(西独フライブルグ音楽院、京都
芸大を半々に教えている)。芸術は二、三流の先生に教はっては駄目です。」
 いやいや、私たちは恐れ入ったのですが、新一伯父にとってはまともな気持ちで
あったのです。

  
     山田新一から届けられた書簡のファイル2冊

 息子が2歳11か月で心室中隔欠損症の根治手術を受けた際に、新一伯父の特
別なる愛を受けた。
 その後、私たち家族は近況を伝えたり、尊顔を拝しに京都へ伺ったりしたが、
伯父はいつも上機嫌で迎えてくださった。その間に、伯父から届いた手紙は83
通、その他個展の案内や京都新聞、日本経済新聞などに掲載された記事の切り抜
きな分厚いファイルが2冊になった。
 

   彩管70年  山田新一画伯の歩いた道   その1


 <1> はじめに
 洋画壇に存在屹立 魂は故郷・宮崎へ回帰

 卒寿(九十歳)をクリアした都城出身の洋画家 ・山田新一に、再び彩管(絵筆)を執
る気配があるというので京都に訪ねた。 しかし、病臥生活の山田に、しばらくの空白
を埋める気力はなく、ついに画布に向かう姿を見ずじまいだった。今も日展参与、光
風会名誉会員として洋画壇に屹(きつ)立する山田の存在、不壊の芸術性は郷里の宮
崎で推し測る何倍も大きく、高かった。すこぶる高い評価を得る一方で、常識に付き
合わず、己を曲げない生き方のために足跡が歪んで見られている印象も受けた。
いずれにしても、歴史的に日本画、工芸が息づいている京都に戦後、根を下ろした山
田が洋画壇で最も大きな影響力を持ってきた事実は否めない。そこで、最近しきりに
魂は故郷回帰へ向かっているという山田の独特の調べを持つ人生をたどりながら人間
が芸術を創造することの意義など考えてみた。 (古垣隆雄文化部次長)

   (略)
 明治三十二年、台北市で生まれた山田は父親の転任で日本に引き揚げてくる。小学
校を卒業するころ、 父親と同郷の上原勇作(のち元帥)に呼ばれ都城に帰ることを半ば
命令される。東京から一人、汽車で都城へ向かった山田少年を待っていたのは、質実
剛健の旧薩摩藩の気風と自由な雰囲気のあふれた旧制都城中学であった。そこで出会
った美術教師の野村房雄によって山田の人生が決まる。中学卒業後、上京し川端学校
に入学すると生涯の親友となる佐伯祐三を知る。大正7年、山田と佐伯はともに東京
美術学校'(のち東京芸大)へ。卒業後、間もなく韓国の京城第二高校に迎えられ、教壇
に立ちながら絵画制作に没入し、朝鮮美術展、文部省美術展、帝国美術院展などで首
席入選を重ねる。昭和三年、佐伯を追いかけるように山田はパリへ向かう。パリ時代
はサロン・ドートンヌや サロン・ド・チレリー をおもな舞台に作品を発表、キスリ
ングや藤田嗣治らと交流を深めている。 (略)

 戦後のスタートを光風会で切った山田は昭和二十四年には早くも審査員を務め、翌
年の第四回日展で「湖上客船」が最高賞の岡田賞に輝いた。同二十九年、日展で初め
て審査員を務め以後五回、五十年、日展参与、五十四年、光風会名誉会員、この間、
京都女子大、京都工芸繊維大、関西日仏学館で教授として後進を指導、京都市文化功
労者表彰やフランス政府から国家功労騎士十字勲章など受けている。このほか宮崎県
文化賞、都城名誉市民など。(略)

                

 <2> 出  生  強かった父の影響 「画壇」れい明期に育つ

  日清講和条約によって台湾の日本譲渡が決定、統治のための台湾総督府が開設され
たのは明治二十八年。山田新一の父・ 新助渡台は翌二十九年のこと。新助は鹿児島の
造士館(藩校で、のち第七高等学校)を卒業後、大学へ進む志を立てていたものの、祖
父の早苗が部下の働いた不正の責任を取って棚瀬(現在の高崎町)の戸長(村長)を辞職し
たことから大学進学を断念せざるをえなかった。やむなく、築地の工作学校に入り、
測量技師の資格を取って農商務省に入省した。台湾は日本にとって初めての海外領土
だけに総督府は人材を集めていた。 当時、各省庁は競うように逸材を台湾総督府へ送
り出しており 、新助は調査局の技術官吏(測量技師)としての転任だった。(略)

 質実剛健、伝統を重んじる気風の強い都城に生まれながら、新助は日本的な趣味を
好まず、例えば、邦楽では琴の宮城道雄を聞く程度、どちらかといえば西洋趣味、山
田の目をパリに向かわせたのも新助の血だったのかも知れない。熱心なクリスチャン
でもあった新助はよく讃美歌を口づさんでいたという。

 台湾総督府が設置されて四年後、新助が台湾に転勤して三年後の明治参弐年五月二
十二日、山田は台北市にあった総督府民政部の宿舎で生まれている。 新助は同僚の娘
・茂樹(しげき)と台湾で結婚していた。(略) 茂樹の祖父は幕末の土佐藩主・山内
豊信(容堂=大政奉還を建白、明治維新の議定・内閣事務総督)の側近、重心の妻だ
った祖母は自分で襖を開けたことがないほど手厚い扱いを受けていたようである。父
の武興(たておき)は高知で無尽会社(のち相互銀行)の頭取を務めたこともあるが
武士の商法″で倒産させてしまい、屋敷跡は現在、高知市民会館になっている。

 ところで、山田の生れた明治三十年代といえば、西欧では世紀末美術からフォービ
ズム(野獣派)が生まれた時期。のち、東京美術学校(東京芸大の前身)から死まで交
流の続く佐伯祐三がパリで師事することになるブラマンクやドランは、そのころ既に
激烈な色彩の冒険に乗り出していた。
 (略)
                

 <3> 幼年時代 負けず嫌い性格 スパルタ式だった母親

 山田新一の負けん気の強さは幼年期から隣近所の評判になるほどだった。(略)
山田には二人の弟がいた。二男の新二は十五歳のとき鴨緑江(中国)の材木置き場で
溺死した。三男の恵三は文武に秀れ、小学校六年生のとき台湾に遠征してきた早稲田
大学氷上部(アイスホッケー)を破ったほど。語学だけが苦手で入学試験に語学のなか
った松江高校を選んだ。東北大では実験物理学を専攻、旧制第二高等学校に勤務した。
物理の実験中、生徒が爆発させたフラスコの破片が顔面に刺さり出血多量で二十歳の
短い生涯を閉じた。(略)当時の山田は帝国美術院展などでの受賞が認められて収入
も増えていたことから、父・新助に代わって恵三へ毎月四十円の学資を送っていた。
亡くなった恵三の部屋を訪れた山田は山のように積まれたフランスの原書に愕然とす
る。「わずか四十円しか送ってやれなかったのに・・・あれほど語学が嫌いだったと
言っていたのに・・・」。

 明治三十六年、新助に山梨県庁への転勤命令が出たため台湾を引き揚げる。山田は
四歳。 さらに一年後、青森の大林区署(営林署の前身)に移る。山田は青森師範付属
小に入学するが一年居ただけで一家は北海道の小樽に転任。(略)

 母・茂樹(しげき)の命令で山田は極寒の海水浴も怠らなかった。山田を海軍士官
学校へ進ませたいと願っていた茂樹はスパルタ式で育てた。(略)

 小学四年、山田が九歳のとき母 ・茂樹が急逝する。近くの医者が盲腸を子宮内膜炎
と誤診、新助が宇都宮から県立病院の内科、産婦人科の医師二人を呼んだのも手遅れ
だった。(略)ほどなく茂樹の妹・光(みつ)が義母として山田家に嫁いでくる。 光は
熱心なクリスチャンで、のち山田の芸術活動に大きな理解を示す。

 息子が東北大学法学部に進学した時には、新一伯父は大変喜んでくれた。
  そして、恵三氏の思い出をしみじみと聞かせてくださった。

               

 <4> 小学時代 「郷里から出直せ」 上原元帥に諭される

 明治維新、都城からは広い分野に人材を輩出したが、のち元帥となる上原勇作は筆
頭に揚げられよう。上原は安政三年{一八五六)、現在の都城市宮丸町で出生。鹿児
島の造士館をでたあと上京し、苦学しながら陸軍士官学校を首席で卒業した。さらに
フランスへ留学。軍人になってからも外遊が多く、陸軍きっての外国通として知られ
た。(略)

 その上原に山田新一が初めて呼ばれたのは明治三十九年つまり青森師範付属小に入
学する前後のこと。山田の父・新助は都城出身で農商務省の役人。軍人の上原と新助
の接点がいつ、どこにあったか山田は知らないが、同郷のよしみで親しい交際が続い
ていたのだろう。山田が呼ばれたのは青森湾が一望に見渡せる旅館で、上原は皇族の
一行の中に居た。日露戦争で第四軍参謀長を務めた上原は大勝をおさめて陸軍中将に
昇進していた。(略)

 明治四十四年、新助の転勤で山田の一家は栃木県の矢坂町(当時)に移っていた。
新助は営林署長。そこへ、偶然のように上原が宇都宮第十四師団長として着任、上原
と山田一家は一段と交際を深めることになる。(略)

 矢坂小学校尋常科の卒業を控えたある日、山田は上原に呼ばれた。上原は、いきな
り切り出した。「君は一人で都城へ帰りなさい。自分の郷里を知らないと立派な人間
にはなれん。私は幼年学校にはいるのに福山(鹿児島県)から大阪へ船で出て、そこ
から汽車に乗り継いで東京に行った。もちろん、一人で、だ」

               

 <5> 帰 郷 一昼夜の汽車の旅 栃木から都城中学に入学

 「君は一人で郷里(都城)へ帰りなさい」
明治四十四年、山田新一を呼んだ上原勇作・陸軍第十四師団長の命令には、質実剛健
の気風が残る都城で山田を育て、 将来は世界に通じる人物に仕立て上げたいと願う気
持ちが強くこめられていた。上が下のものを引っ張り上げる。いわゆる“薩摩のイモヅ
ル”式の目のかけ方であり、上原の同郷意識がうかがえる。(略)

 大正元年、上原は西園寺内閣の陸軍大臣になっていた。その年、栃木県の矢坂小学
校を卒業した山田は一人都城へ旅立つ。(略) 東京駅は建設中で、始発の新橋駅ま
で母の光(みつ)が見送った。新助の台湾総督府時代の上司で当時、東武鉄道管理局
長をしていた長岡半平のはからいで、少年の山田を初代東京駅長が二等車まで案内し
てくれた。(略)新橋駅を出発し一昼夜でようやく国分(鹿児島)に着いた。都城駅が
完成したのは吉松回 り日豊本線 ・谷頭―都城間が開通した大勝二年十月で、現在の
日豊本線 (鹿児島―都城―宮崎)が開通したのは昭和七年十二月のことである。
当時の都城駅周辺は桑畑と松の生えた荒地だった。国分駅で出迎えていたのは祖母の
タメ。(略)

 旧制都城中学(泉ヶ丘高校の前身)に山田は十八番の成績で入学した。他の学科は優
れていたものの、毛筆で書く作文が失敗であった。 題は「霧島山」。役人の父の転任
に伴い台湾―山梨―青森―栃木と移り住んだ山田にとって霧島の予備知識は皆無に等
しかった。「確か、山容の美しい山である、とぐらいしか書けなかったような気がす
る。もし作文の題が霧島山でなかったら十番以内では入学できたはず」と負けず嫌い
の山田は今も悔しがる。(略)

               

 <6> 都城中学 初めての油彩を描く 野村と出会い美術に傾倒

  (略)
 一年生のころは数学教師の蔭山(福留)亀之助の授業が面白くて成績も良かったが、
二年生から数学の成績が下降を始める。美術教師の野村房雄と出会ってから山田の関
心は美術だけに向けられるようになったからである。野村は仙台出身で東京美術学校
(東京芸祭の前身)を出たばかりの新進。校庭にイーゼル(画架)を立て、鮮やかな
印象派風の油彩、水彩を描いていた野村の姿が今も山田の脳裏から離れない。

 もう一人、中学生の山田に大きな影響を与えたのは英語教師のラトーレット。当時
の有吉忠一知事はアメリカから三人の英語教師を呼び、 宮崎、都城、延岡中学の三校
で英語教育に当たらせていた。これは、明治から大正にかけて三十四年間も宮崎県内
でキリストの教えを説き、盲学校の前身である日向訓盲院を立てたサイラス・A・ク
ラーク神父が知事に相談して実現した派遣制度であった。 ラトーレットはクラーク神
父の母校オハイオ州オベリン大の出身で、当時は東京でも珍しい真っ赤なオートバイ
で通勤する青年教師だった。(略)

 山田は、しばしば甲斐元町のラトーレットの下宿を訪ねて、アメリカの話などを聞
くのを一番の喜びにした。ラートレットは一年でアメリカへ引き揚げたが、後年、新
婚旅行で日本を再び訪れたとき山田と感激の対面をした。そのとき、山田は霧島をか
いた油彩を贈っている。「ラトーレット先生からどれほど国際的な感覚を養ってもら
ったことか。 美校を卒業したあとフランスを自分が目指したのもラトーレット先生の
感化が大きかった」。
 (略)
 山田は美術教師・野村房雄を通じてニュートンの油絵具やイーゼルを買いそろえた
が六円を超えた。山田が初めて描いた油彩は花器と椿で、さっそく野村に見てもらう
と「うん、よく描けている」と、ほめた。
都城中学の卒業が迫るころ山田は美術学校への進学希望を新助に打ち明けた。元来、
西欧趣味のうえ、同郷の友人である、上原勇作元帥が幼いときから山田に洋画の知識
を吹き込んでいるのを見てきた新助には反対する理由は、なかった。生母の茂樹は山
田を海軍士官学校に入れて上原のような立派な軍人に育つことを夢見ていたが、茂樹
の死後、新助に嫁いできた光(みつ)は山田自身の意思を尊重してくれた。

                

 <7> 画学校入学 藤島武二は″雲の上″ 美校の受験失敗で師事

 (略)
 大正六年{一九一七)、旧制中学を卒業した山田は、美術教諭・野村房雄の強い勧
めもあって東京美術学校西洋画科(東洋芸大の前身)を受験、結果は不合格。専門画
家を志す他の受験生たちは、中学時代から実技科目のデッサンの修練に励んできてい
たが、山田の場合、 美校受験を中学卒業目前に決めたことなどからデッサンを学ぶ時
間がほとんどなかった。

 入試に失敗したため小石川にあった川端画学校洋画部にはいる。同校は東京美術学
校教授、帝室技芸員(皇族専属の美術家)の日本画家 ・川端玉章が明治四十二年に創
立した画塾で、山田が入校したころは洋画部も併設されて美校を受験する画学生のた
めの予備校的存在であった。山田ら新入生のデッサンの指導に当たったのは藤島武二。
鹿児島出身の藤島はヨーロッパ留学から帰国したあと明治四十五年、岡田三郎助と本
郷に本郷洋画研究所を創立し、東京美術学校教授のかたわら後進の指導に当たってい
た。 しかし、恩師の川端玉章の画学校に洋画部ができると同時にそこへ移り、若い画
学生たちにデッサンを教えていたのである。のち文化勲章を受け、芸術院会員まで登
り詰める藤島は、はつらつとした滞欧作品を相次いで発表、画壇の注目を浴びていて、
山田ら学生にとっては"雲の上″の存在に違いなかった。授業中、山田の背後から見て
いた藤島が黙ったまま線を描き直してくれた。「藤島先生がたった一本の描線を直し
てくれただけでデッサンが生き生き見え始めた。不思議な気分になったことをはっき
り覚えている」と山田は回想する。(略)

                

 <8> 画学校時代 佐伯祐三と出会う 周囲にユニークな人材

 川端学校に入学してしばらく山田は神田・小川町の下宿にいたが、通学に不便なた
め川端学校近くの素人下宿に引っ越した。間もなく山田の部屋には画学生たちのたま
り場となり、放課後は雑談に花を咲かせた。そんな級友の一人に田中常彦がいた。慶
応義塾出身の田中がどんな理由でデッサンを習いに来ていたか山田は今も思い出せな
いが、田中は後年、イタリアのマンドリンコンクールで優勝するなど我が国のマンド
リン演奏者の第一人者になった。田中は」せがまれて「タランテラ」を弾いたが、巧
みなテクニックに山田らは聴き入った。和服をだらしなく着てデッサンに来ていたの
は、のち作家となる今東光。また、アメリカ製のオートバイ・インディアンで通学す
る学生もいた。幸徳秋水の天皇制転覆計画が発覚、大逆事件に連座した大石誠之助の
甥 ・大石七分である。大石は本郷の菊富士ホテルから通っていたが、 そのころの菊
富士ホテルは久米政雄や広津和郎、宇野浩二、竹下夢二ら著名な作家や芸術家が集ま
る西洋スタイルの高等下宿だった。このように当時の川端学校はユニークな人材があ
ふれていた。

 大正六年秋、生涯の親友となる佐伯祐三が川端学校洋画部にはいってきた。佐伯は
大阪北野中学四年のころから梅田にあった赤松麟作の画塾に通っており、石膏デッサ
ンには目を見張るものがあった。のち肺結核による死への恐怖と政策を同在させなが
らパセチック(悲壮)な詩情をたたえる画面に鮮烈な閃光を放った佐伯の才能の深さ
と広がりは既に川端学校時代に逆のぼっても見られたわけである。
 (略)

 遅れて入校してきた佐伯を山田は「変わった奴だ」と感じた。いつも紺絣の着物に
小倉袴をだらしなくつけ、右手を懐に入れたままの恰好で歩く姿は目立った。こけた
頬に狭い肩幅。雨の日には濡れた番傘をわきに挟んで教室に入ってくる。だらしない
恰好はだれの目にも異様に映ったが、佐伯は周囲の視線には、まったく無とんちゃく
だった。
 (略)

 そんな山田と佐伯がいつごろから親しくなったのか山田自身思い出せない。靖国神
社の大鳥居近くの下宿から川端学校に徒歩で通っていた佐伯は、いつしか佐々木慶太
郎らと山田の下宿に立ち寄るようになった。また山田たちが二階の人体デッサン部に
行くときは神妙な顔で同行するようになった。無口な佐伯が佐伯以上に無口な藤島武
二を語るときだけは大阪弁でたたみかけた。東京美術学校教授の藤島が画学校にやっ
てきて指導するのは週に一回程度、藤島が教室に現れると緊張した空気がみなぎった。
「藤島先生の姿には後光がさしているみたいや」と佐伯は授業が終わるたびに嘆息し
た。後光とはいかにもお寺の二男坊らしい佐伯の表現であった。

                

 <9> 美校に合格 佐伯4番、山田13番 1週間かけて美少女描く

 冬になって山田新一ら川端画学校の画学生数人は、本郷・春日町にあった岡田三郎
助の本郷絵画研究所夜間部にも通ってデッサンの勉強にピッチをかけた。当時の山田
らは、いわゆる浪人。毎月仕送りをしてくれる郷里の父母に申し訳なさを感じている
せいか、「もう、あとがない」という切迫した気持ちが次第に焦りを生み出すのだっ
た。わらにもすがる思いで山田らが求めた新しい師の岡田三郎助は、やはり藤島と同
じ東京美術学校教授。白馬会の創立に参加したあと渡仏、帰国後は黒田清輝の後継者
の位置にあった。(略)

 川端画学校に一年間学んだ山田、佐伯祐三らは大正七年春、東京美術学校(東京芸
大の前身)の西洋学科を受験。合格発表の日、山田と佐伯は上野駅で降り、美校へ向
かっていた。突然、「わしは落ち取る。怖い思いをして発表を見るのは嫌やから帰る」
と佐伯が言い出した。山田に遅れて画学校に入学した佐伯だったが石膏デッサンは師・
藤島武二流に面バリのテクニックを体得し、成績は常に上位で張り出されていた。ま
ず不合格にはなるまい、と山田は考えていたから、なんとか掲示板まで連れていくこ
とにした。「君が落ちたらだれが通るもんか。もし入っとったらどうすんね。かけて
もいい」「よし、おれが合格しとったら美校の正門から桜木町まで逆立ちして歩いた
るは」結果は佐伯が四番、山田は十三番で合格していた。約束通り、佐伯は小倉の袴
のまま校門から逆立ちして歩行を始めるのだった。袴が全部まくれて顔にかかり前が
見えない。
見かねた山田は何度も「もういいからよせよ」とストップをかけたが、とうとう佐伯
は美校の角まで逆立ちで歩き通した。(略)

 入学して間もないある日、山田、佐伯ら四人が上野・桜木町の山田の下宿で人物画
を描くことになった。モデルは若くて愛らしい″おみきちゃん″。 約一週間かけて四人
は十号から十五号の油彩を仕上げた。最後の日、一円ずつ出し合っておみきちゃんの
慰労会を開くことになった。おみきちゃんは煎餅(せんべい)やクッキーといった駄
菓子ばかり買ってきたので山田らは「どうして食べきれるか」と思案した。(略)

                

 <10> 美校時代 音楽、短歌にも関心 高橋邦太郎と文学談義

  (略)
 当時東京美術学校には風景のコンクールがあった。 二週間どこへでも好きな場所に
行き仕上げた作品は小林万吾(白馬会最初の会員で、のち帝国芸術会員)や長原孝太
郎(帝国美術院展審査委員)ら教授陣の批評を受け、それが風景画の成績になるのだ。
美校に入学した大正七年の秋、山田は佐伯ら四人で風景画をかくため千葉の御宿(お
んじゅく)へ向う。画架を立てたのはノルマンディ・エトルタの岸壁のような岬。文
部省美術展で特選を受けて話題になった多田羅義雄の「上総の海」モチーフの岬であ
る。それぞれの作品は宿に持ち帰り、座敷いっぱいに広げて批評し合い、手直しした。
色づかいに独自性の強い山田の作品に比べ、佐伯の油彩は印象派の色彩と光を意識し
ていた。のち佐伯が「美校五年間であの絵が一番好き」と語っているが、作品は現存
していない。

 御宿での写生旅行中、山田は身の回り品や書籍を補給するため一回、東京に帰って
いる。その鈍行列車で知り合い、六十数年も親交を保ったのが高橋邦太郎(フランス
文学者)である。どちらともなく三等列車の中で歩み寄り、いつしか文学談義を始め
ていた。 当時の山田は音楽と短歌に関心を寄せており、若山牧水や白鳥正吾らが出し
ていた雑誌「短歌と誌」に「常総の国の浪速村に時ありて我が汽車停る乗る人もなし」
を投稿している。 そのとき高橋は東京外語大の学生で、築地小劇場の小山内薫の片腕
として働いていた。肺結核の治療のため千葉・勝浦へ転地療養に行くところだった。
五十円の費用は芥川龍之介が出してくれたのだという。のち、高橋は明治維新前後の
日仏英関係の著書を多く出している。

 御宿のあと山田と佐伯は二人だけで伊豆の網代へ写生旅行へ出かけた。(略)

                

 <11> 学生結婚 新妻は絵のモデル 都城に残る「恵美子像」

 大正九年(一九二〇)、山田は名畑よしと最初の結婚をして池袋に住んだ。東京美
術学校三年在学中だったが、突然の結婚宣言に父親の新助は即座に「いいだろう」と
許した。よしは東京の下町・御徒(おかち)町の米屋の娘で生粋の江戸っ子。体の線の
美しい情勢で山田の絵のモデルだった。よしの一つ年上の姉・郁子は文豪谷崎潤一郎
の弟 ・精二に嫁いでいた。精二は早稲田大学文学部時代、西条八十(のち作詞家)と首
席を競った秀才で、卒業後は大学に残り助教授、文学部長をつとめている。

 よしとの間に恵美子、珠璃子(じゅりこ)、瓊那子(になこ)、瑠寧子(るねこ)の女の
子ばかり四人が授かった。外国女性に多いエミーに漢字をあてた恵美子、「ロミオと
ジュリエット」から命名した珠璃子、高千穂に天下ったとされる瓊瓊杵尊(ににぎの
みこと)にあやかった瓊那子、フランスの名優ルネ ・クレール語音を合わせた瑠寧子。
結婚後も山田よしをモデルにして数多く作品を描いたが、敗戦で外地を引き揚げると
きすべて紛失した。四、五歳のころの恵美子を描いた「恵美子の像」は都城の島津家
が収蔵している。よしは昭和七年(一九三二)、二七歳の若さで死去した。外見は丈夫
そうだったが幼いころから心臓弁膜症を患っていた。姉の郁子も一年後、同じ心臓症
で亡くなった。(略)

 山田が学生結婚した前後、親友の佐伯祐三も米子と築地本願寺で仏式による華燭の
典を挙げた。(略)
                

 <12> 美校二年 里見勝蔵に出会う 山田の絵ほめた上級生

 のちに独立美術協会を結成する里見勝蔵との出会いは東京美術学校二年のころ。
山田より三年先輩にあたる。あるひ、山田らが教室で制作していると上級生数人が騒
々しく入ってきた。描きかけの山田の絵を指摘して「この絵はなかなかいい」と乱暴
なほめ方をしたのが里見だった。その前後、山田はボラールの新版「セザンヌ画集」
を父・新助に頼み込んで買っていた。だれから聞いたのか、里見が寒い冬の或る日、
日暮里(にっぽり)の山田の下宿を訪ねて「セザンヌの画集を見せてほしい」と言う。
夕食の時間が来ても里見は見飽きた様子がない。感動で放心しているように山田は見
えた。丸善が当時の百円で入荷した高価の画集だったから、画学生にはとても手の届
かぬものであった。山田と里見は急に親しくなる。 生垣に囲まれた里見の家に集まり
絵をかき終えるとセザンヌ画集を開いて美術講義に入るのだった。セザンヌという画
家の存在は渡欧後の山田、佐伯祐三、里見らにとって貴重な指針となる。

 佐伯と里見を引き合わせたのは山田である。(略) 初めのうちは里見に会うこと
をためらっていた佐伯だったが、里見の絵画への激しい情熱と気迫に圧倒され、 い
つしかパリで会うことを約束する仲になる。バイオリンを通じて意気投合、里見が第
一バイオリン、佐伯が第二バイオリン、美校の一年後輩で小泉八雲の長男・清がビオ
ラを担当、里見の家で音楽会を催している。プログラムもショパンからモーツァルト、
シューベルト、メンゼルスゾーンと本格的。山田らは陶然と聴き入った。

 のち、パリ時代の交流を里見が「近代の洋画人」に書いている。「佐伯は僕らが外
出している時、米子(妻)が家で聴いていられるように蓄音機が買いたいというので
僕はグラモフォンへ佐伯を案内し、一台買わせた。(略)里見は里見はフォービズム
(野獣派)の日本移植に功績を残している。

 昭和元年、佐伯はフランスから帰国したとき「だれよりも先にフランスでの成果を
見せたい」と山田に便りがあり、京城から駆けつけた。そのとき、滞欧によって才能
の深さと広がりを一段と見せる佐伯の作品に山田は目を見張ったが、そのとき佐伯は
「これはええぞ」とペトルシュカのレコードをしきりに勧めるのだった。

                

 <13> 美校卒業 手作りの画布使う 佐伯のアトリエで制作

 大正十一年(一九二二)の夏のころの話だ。山田は東京美術学校(東京芸大の前身)の
四年生なっていた。当時、西洋画科本科は五年生で、五年生に上がると卒業制作に追
われるため写生旅行ができなくなる。山田、佐伯祐三、級友の西内清顕を箱根・強羅
の写生旅行へ誘ったのは三年先輩の西村叡(さとし)である。貿易会社を経営してい
た西村の父に恩義を感じていた京都の電気会社の社長が箱根に建てた別荘を開放した
のだった。
 (略)

 その佐伯のアトリエでクリスマス・イブをやることになった。山田が提案したもの
で、お寺の息子の佐伯に西欧の誕生祭を持ちかけたのも茶目っ気の多い山田らしいエ
ピソードである。マスカーニの歌劇「カバレリア ・ルスチカーナ」をやることにし太
目の山田が女役を、細身の佐伯が男役を演じた。佐伯は大まじめなのにオペラはでた
らめなので招待者たちは抱腹絶倒。この中には、のち童画の第一人者となった武井武
雄大連女子美術大学学長をつとめる二瓶等らがいた。

 翌年、山田は五年生に進級した。夏休み以降は卒業制作に専念しなければならず、
山田はほとんど佐伯のアトリエを借りて描いた。(略)佐伯のキャンバスは手作りだ
った。初めのうち、山田はこのキャンバスに不安を感じていた。洗濯石鹸のアルカリ
分が顔料の種類によっては悪い影響を及ぼすのではないか、と山田は考えたからであ
る。佐伯のキャンバスは粗末なヒカワをアルミ鍋で煮立て、攪拌してよく溶けたとこ
ろボイル油を入れる。 さらに固形の石けんをワサビ下ろしですって混ぜる。しばら攪
拌して水と油のエマルジョン(乳濁液)ができたころこ胡粉を入れて完成、というもの。

 こんな荒っぽいやり方で出来る佐伯のキャンバスはニカワのツブツブがあったり糸
くずが浮いていたり、時には油やけのしみが残っているなど見かけはとても粗末だっ
た。しかし、山田が何枚かもらって油絵の具をのせてみるとドミアブソルバンドの布
のようで絵の具吸着がとても良く相当厚塗りしてもすぐその上に絵の具を重ねること
ができた。山田は、そんな筆触を初めて味わいながらキャンバスを手作りする佐伯の
絵画への魂の燃焼を見る。大正十二年春、山田、佐伯らは東京美術学校を卒業した。

 
   山田新一Top          彩管70年<その2>

楽しい  絵画