画家山田新一の素顔

 

        山田新一と戦争記録画

  

 山田新一と戦争記録画に関する記述や報道番組のいくつかを参考に供させてい
 ただきます。
画業70年の軌跡〜山田新一展(2002/1/9〜2/11宮崎県立美術館)に合わせて
 出版された図書「ー画業70年の軌跡ー山田新一展」の中に山田新一著述
 抄が資料として紹介されている。その著述の一つに 「戦争美術始末記」と題し
 た 昭和59年(1983)6月発行の光風会だより・第70回記念光風会展特集号
 寄稿した記述が収められている。
青木画廊(宮崎市)で開催された「山田新一と戦争記録画展」(1997年9月16
日〜21日)における、青木脩氏(青木画廊社長)の歪められた戦争被害「山田
新一画伯」
と題する記述。
1999年8月8日付毎日新聞/文化・批評と表現「戦争画」はいかに集めら
 れたか
と題して笹木繁男氏の記述。
1999年8月13日付の日本経済新聞の文化欄に掲載された「戦争記録画」
 守った画家
と題して青木脩氏の記述。
1999年11月7日に宮崎放送が放映した山田新一を語る「秘匿〜戦争記録
 画151点

2003年1月27日(月)19:30〜21:30 NHKハイビジョン放送における
 さまよえる戦争画〜従軍画家と遺族たちの証言
2006年8月13日付朝日新聞「社会」面の戦争画の秘密「十字架」に込め
 た気骨
と題する記述。
義弟のHP「迷宮藤田城」の山田新一と戦争記録画の記述。
                                詳しくは
   


   戦 争 美 術 始 末 記

  山田新一著述抄
<ー画業70年の軌跡ー山田新一展(出版:2002/宮崎県立美術館)>

 大正十二年美校卒業の秋、関東大震災に遭遇、官を辞して鮮満で事業を起こして
いた亡父の呼び寄せもあり、いまだ余震の続く池袋の家を畳んで京城(ソウル)に移
住したのが運の付き、その後二十三年間、(其の間に暫く渡仏させて貰ったが、)結
局は敗戦。外地在住者の悲惨と、原地大衆の歓喜のどよめきと異常な坩堝の中に毎
日が続き、外地引揚者の悲運を多数の家族と共にリュックサック一つを財産に、住
む当てとない祖国に舞戻る始末であった。

 京城では総督府主催の「鮮展」というのがあって、その第 4回、5回に南薫造、
辻永両先生が審査員に来られ、両回共首席受賞の栄に浴したばかりか、秋の帝展に
さえ連続入選の緒を開いて下さったのである。然し鮮展と光風会展とは毎春同時期
だったので、 残念なことに双方への出品を敢行することが出来なかった。

 戦争初期上海駐屯の馬淵中佐発案で、戦場の実際を後世に残すべく、最初に彼地
に招かれたのが藤島武二、小磯良平、江藤純平、南政善、鈴木英二郎、の精鋭で、
奇しくも光風会中心の観があったのも面白い。

 其の後戦線は拡大の一途を辿り、陸軍省報道部管下に 陸軍美術協会が誕生、藤田
嗣治会長、中村研一副会長以下画壇挙って馳せ参ず趨勢となり、日本画からも橋本
関雪、矢沢弦月氏等が、特に活躍されるのであった。

 將、佐官待遇の軍属として、勇躍第一線に向い激戦の地を画題に選び、二百号の
力作が次々に仕上げられ天覧に供された。朝日新聞社主催の「聖戦美術展」が各地
に開催され、国民の士気を煽ることになった。

 中には藤田氏の「ハワイ空襲」其他、中村研一氏の「マレー沖海戦」小磯氏の
「娘子関を征く」 宮本三郎氏の「山下、パーシバル会談」等幾多の卓越した芸術的
記念作としても、永く歴史にとどめられるべきものが残された。

 終戦後間もない炎暑の或る日、朝鮮軍報道部美術班長であった僕は、報道部長長
屋少將に呼ばれ、此の地で聖戦美術展開催の予定で、東京から回送された儘に放置
されてあった陸軍美術の重要作品六十八点を米軍進駐に先だって処分しなければな
らない・・・焼却以外に方法はなしと考えるが、と処理を一身に背負わされたが、
「焼却は瞬時です、燃し、あれ等の作品の制作は我国の最も誇るべき画家達が心血
を注で成し遂げられたものです。私も画家のはしくれ、焼却には忍びません。一切
を不肖山田にご一任ください。身を以て確保の道を講じます。」總べては僕一身に
託された・・・は良いが、とにかく膨大な梱包を解体、炎暑の中に同志の画家だけ
で、秘匿する作業の辛苦は言語に絶するものであった。

 とにかくやり遂げ、前述の如く引揚げ、最初は友の情けで京阪沿線寝屋川の廃工
場に假寓、運命は運命を呼ぶとでも言うべきか、翌二十一年二月京都の現住所に引
越しのさ中に陸軍美術協会の解散事務所から連絡が来て、直ちにG・H・Q・に出
頭せよとのことであった。

 上京した僕は、O・C・E・長官ケーシー少將のCOMBAT-ART-SECTIN(野戦
美術班)で特別任用で、働かせることになり、アンダーソン大尉と僕と二人だけで、
日本の戦争記録画の一切を、可能な限り蒐集処理する役目を負わされたのである。
国内での任務を終え、往復共米軍のLSTにより博多、釜山と海路朝鮮へ入る。京
城に約二週間滞在、市の内外を毎日ジープで走り廻って、 六十八点は只一点の損傷
があっただけで、悉く集められ日本に持ち帰ることが出来た。

 既に東京都美術館の中心部四室が接収されて居り、京城から持ち帰った六十八点
を含む總数二百点のも及ぶ作品を、枠張り外しのカンバスのみとし、美術館の壁面
に張りつけるべく、アンダーソンと二人だけで、連日油汗を流しながら作業を行っ
た。秋になってG・H・Q・將校団の總見があり、全部をアメリカに送って、保管
する決定となり、アンダーソン大尉もそれに従って帰国した。僕はグレー少佐との
残務連絡の為、尚暫く京都、東京の往復を続けた。 (以下略)

 註記 アメリカに送られた戦争記録画は、数年前作品の大部分がアメリカから日
本に返還されて、東京国立近代美術館に収蔵されていると聞くが、いつか公開の日
も有り得るだろうか。
     昭和59年6月 光風会だより 第70回記念光風会展特集号

  


 「戦争記録画」守った画家

  1999年8月13日/日本経済新聞

    1999年(平成11年)8月13日付、
 日本経済新聞の文化面に青木脩氏
 (青木画廊社長/宮崎市)の手記
 が掲載された。
 青木氏は1974年宮崎市での山田
 の個展を手伝って親交が始まり、
 山田が1991年に92歳で亡くなっ
 た 後、日記、書画、写真などの
 遺品を託された。
 その譲り受けた資料をもとに歴史
 の秘話を紹介いただいた記述であ
 る。一部は山田の手記「戦後美術
 始末記」 (昭和59年6月・光風会
 だより)と重複するが、記録画を
 収集した当時、「売るのか」と中
 傷された山田の心情を取り上げ
 て事実の検証に供されてくださっ
 ている。

 <抜粋>
 「先輩売るのか」と中傷
  (略)
 山田さんは絵を救った英雄に映るだろう。しかし、時代の雰囲気がそれを許さな
かった。
 当時、戦争画は軍事裁判の証拠になるのではとうわさされ、画家の戦争責任論が
噴出していた。事実、画家の一部から「先輩や同志を売るのか」と中傷されたと言
う。それでも収集したのは「絵を守る」 という信念を持っていたからだ。
 自分自身、従軍画家だった山田さんは 「絵が政治に利用されたことは画家とし
て恥ずべきだ。でも、絵自体には画家の純粋な気持ちが込められている。戦争批判
とは切り離一作品として批評されるべきだ」と漏らしていた。また「社会が混乱し
ていたから、人々が混乱するのは当たり前。
 非難も仕方なかった。」と神妙に語った言葉が、印象深く残っている。(略)

  一般公開の実現いつ
 収集に触れた遺稿に、山田さんはこう心情をつづっている。「古傷に触れられる
ことはだれしも愉快な事でなく、私情においては忍び得ざる点も多々ありますが、
こうしたことによってこそ真の反省は成されるものであり・・」「こうしたこと」
とは事実をちゃんと検証し、後世に伝えることだ。
 そのために一般公開を望んでいた山田さんの願いは、いつ実現するのだろうか。
戦争画については未だ「戦後」は訪れていない。
                 (あおき・おさむ=青木画廊社長)

 


  「十字架」に込めた気骨

 2006年8月13日(日曜日)/朝日新聞「国と私」

 
    2006年8月13日付/朝日新聞
  
   生誕100年記念「山田新一回顧展」
   青木画廊・1999年9月13日〜9月20日

 (写真)俘虜二人1943(昭和18)油彩・カンヴァス91.0×72.8
                  (有限会社青木画材店)
山田新一の描いた「俘虜二人」と青木修。完成前に2人は収容所からいなくなり、
山田は見せられなかったことを悔やんでいたという。

                  =宮崎市橘通西5丁目の青木画廊で

       「十字架」に込めた気骨

  戦争画の秘密

 画廊経営の青木脩(67)は90年ごろ、京都に住む洋画家、山田新一(91年に
92歳で死去)を訪ねた。山田は青木を倉庫に案内すると、紙に包まれていた油絵
を広げた。43年に山田が朝鮮半島で描いた「俘虜二人」。戦意高揚を狙う軍の意
向を受けて描いた戦争画だった。
 そして山田は言った。「この絵に込めたメッセージがわかりますか」。 絵には
「秘密」があった。山田は捕虜が実際には左胸につけていた横長の認識票を中央
に描き、ボタンの縦列と重ねて十字架に模したという。「何もしてあげられない英
豪人2人への贈り物だった。
 青木が山田を知ったのは75年、個展を手伝ったのがきっかけだった。日展など
で活躍していたが、人を寄せ付けない雰囲気に芸術家の気骨を感じた。親交を深め
るうちに山田は、自分の過を青木によく語った。
           
 フランス留学の経験を持つ山田は、力強いタッチの女性像や風景画を得意とした。
 38年までに朝鮮軍報道部美術班長となった。非国民と呼ばれたくない。戦争協
力せねばと思った。アトリエには「モデル」の兵士たちが訪れた。当時、軍は多く
の著名画家に制作を依頼。戦場や銃後を描いた絵の展覧会は各地を巡回した。だが
戦局は悪化。山田の四女、山本瑠寧子(75)=京都府宇治市=は「この負け戦」
と自宅で不機嫌につぶやく山田を何度か見た。
            
 連合国軍総司令部(GHQ)は戦後、戦争画を収集した。山田は自分がそれに協力
したというもう一つの「秘密」も青木に明かした。
 回収は米国で展示するためだったようだ。 画家たちを戦犯に問わないと米軍将
校に言われ、山田は涙が出たと語った。 回収に協力したのは、画家が軍の言うまま
に描いた絵ばかりではないと信じていたからだ。だが、他の画家たちから「先輩を
売るのか」「スパイか」と言われた。収集のことを表だって話さなくなった。
 収集された153点は70年、米国から日本に「無期限貸与」され、東京国立近
代美術館に保管されている。数点ずつ展示されてきたが、すべてが展示されたこ
とはない。「周辺諸国の情勢を考慮」「遺族の了解がない」などを同美術館は理由
に挙げる。全面公開のめどはいまも立たない。
           
 山田は戦争画の「秘密」をなぜ晩年になって青木に明かしたのか。
 山田の遺言で段ボール約5箱分のメモや手紙、日記類を青木は受け取った。戦争
画収集中や直後に書かれたとみられるメモや手記などから、山田の思いを捜した。
 《今更こうした古傷に触れられることは誰しも愉快な筈はなく、私情に於いては
忍び得ざる点も多々あります》
 《戦争美術製作に参加した人々の多くは、ゆがめられた愛国心を不幸にも身に擬
せられたのではないだろうか》
 下書きを繰り返したとみられる原稿には次の記述もあった。《美術家は追放され
ようが、迫害されようが、後世に己が作品を問うことが出来る》
 青木は「芸術家の生き様を通して、国が戦争に突き進むとき人間がどうゆがめら
れるかを伝えたい。戦争画から目をそらしてはならない」といった。
 宮崎市の自分の画廊で31日から、山田と戦争をテーマに企画展を開く。戦後
50年の夏から毎年続けている。
                           (敬称略)
   <朝日新聞 2006年8月13日8(日曜日)13版「社会」38>

  


 「戦争画」はいかに集められたか

 1999年8月8日/毎日新聞(夕刊)文化・批評と表現
   

戦争画」はいかに集められたか 〜知られざる遺稿に綴られた内幕〜

 日中戦争、太平洋戦争中に、画家が率先して、また軍の命令を受けて、膨大な数
の戦争記録画が描かれた。現在、東京国立近代美術館に保管されている戦争画は、
戦後アメリカに接収され、1970年に永久貸与という形で返還されたものである。
しかし、それらが誰の手によって、何のために集められたか、当時の占領軍は戦争
画をどう観ていたかなどについては、 戦後54年を経た今も必ずしも明らかになっ
てはいない。

 実は日本側からこの収集作業に加わった画家が、こうした経緯の一切を丹念に文
章に綴っていた。日米の関係者に対する配慮からか、当時発表を見合わせていたそ
れらが知られるところとなったのは、数年前、画家の逝去を機に、親交のあった画
材店主が宮崎市で企画開催した遺作展の会場に、その一部が展示されてからだっ
た。(略)

 この遺稿を残した画家は山田新一という。山田は佐伯祐三の画壇出デビュー以前
からの友人であり、『素顔の佐伯祐三』の著者でもある。遺稿は「天覧記録画の行
方」と「無題」の二部からなり、ほかに山田が立ち会った戦争画 151点のタイトル
と作者名の総リストが添付されている。

 記述によると、敗戦時に山田は京城(現ソウル)に軍の報道部美術班長として在
籍し、京城での第5回戦争記録画展を開催すべく準備中で、本国より到着した天覧
作品64点は貨物として京城駅に保管中であった。敗戦を迎え、上官の報道部長か
ら、戦争記録画の焼却を命ぜられた山田は、芸術品保持の精神を力説して最後は処
分を一任されたという。 そこで山田は、日頃から親しく付き合い、信頼関係のあっ
た朝鮮の美術家たちに訴えて作品を隠匿保管してもらい、日本に引き揚げた。

 この事実を、先輩で親しい間柄にあった伊原宇三郎に通知したところ、藤田嗣治
に伝わり、占領軍から呼び出された。GHQ(連合国軍総司令部)では、ケーシー
少将から「大作ですばらしい日本の戦争画の全てを収集せよ」 と命ぜられ45年
12月から嘱託として作業にあたることとなる。
 当時この作業に携わった日本側の関係者は、最初が藤田、次いで陸軍美術協会の
組織者だった住喜代志、最後に山田の3名であった。アメリカ側はマッカーサー総
司令部直属の美術班でケーシー少将の指揮下、班員にはアメリカの中堅画家もいた
という。

 「今、マッカーサー総司令部の手で一堂に蒐められた、これ等の天覧戦争記録画
が、やがて海を越えてニューヨークに、ワシントンに、世界各国の戦争美術と共に
展覧されることを知り・・再び相まみえ得る機会の無いことを知り・・・書き残す
こととした」。
「天覧記録画の行方」の冒頭の記述からも、アメリカは日本の戦争画の没収を、初
期の占領政策の重要な柱と位置づけていたことがうかがわれる。(略)

 東京都美術館をはじめ、全国各地の美術館の矢継ぎ早の接収は、戦争画の組織的
な廃棄・焼却・隠匿の前に手を打つ、まさに時間との闘いであったことを思わせる。
京城の戦争画は、山田が占領軍のアンダーソン大尉を同道役として46年5月初め
から1カ月超にわたり、邦人の引揚げの流れに逆らい、再訪して回収したものであ
る。(略)

 山田の遺稿には収集に当たったアメリカ側の、戦争画に対する興味深いコメント
も書き留めている。たとえば接収作業が九分通り進んだ段階で、検閲したケーシー
少佐が「こんなに沢山の凄い作品が全て軍の命令・資材の提供でのみ描かれたのか
?」と念を押して質問し、キャップのミラー少佐は「素晴らしい大作揃い、百数十
名の一流画家が陸海軍の令下に馳せ参じたことは、今次大戦各国に例がなく、作品
内容・技術とも卓絶したもの」と評した。
 (略)
  笹木繁男(ささき・しげお)=現代美術資料センター主宰

  

  山田新一Top          彩管70年

楽しい  絵画