千葉監督とオーストラリアの試写会に同行して

石塚洋子


10月7日午後10時15分発の飛行機が、成田空港離陸寸前に私達の並びの席の椅子が壊れているのが分かり、修理のために2時間遅れてしまった。

8日、キャンべラに着いた時には待ち兼ねていた豪日協会のフイッシャー・ヒロ子さんたちが「大急ぎで!」と急き立てる。

無理もない、他ならぬ日本大使館の招侍による昼食会の時間にかなり遅れているのだ。空港事務所に交渉してもらって貴賓室の一部を借りて着替えをすませて車に乗る。

超スビードで走って、日本大使邸へ駆けつける。穏やかな感じの高橋大使夫妻に迎えられてほっとする。今回は石山制作委員長、千葉監督を始め、映画「愛の鉄道」の制作関係者、そして「奈良・キャンベラ姉妹都市協会」関係者で奈良日豪協会役員の吉田さん夫妻が日本から参加したので、私たちも便乗させてもらったという訳である。

オーストラリア側からも映画制作にたずさわった人や、対日本の仕事をしている人、豪日協会元会長カーメル・ライアンさん等20人くらいが招待されていた。和洋析衷のご馳走をつまみながら歓談されているところへ仲間に入れてもらう。大使は「今夕の映画を楽しみにしている」と言われる。主人は英語版のリーフレットと「雪中梅」をお渡しする。

「石塚さん」と声をかけられて振り向いたらビル・パターソンさんが奥さんと一緒ににこにこしておられた。覚えている人も多いと思うが、直江津の除幕式の時にカルバート・オーストラリア大使と一緒に来られた方で、事前調査も含めて2回上越へ来られている。昨年宮越市長が訪豪された時にも外務省の一員として面倒を見てくださったという因縁の深い方である。日本在任中で一番残った仕事は、直江津の除幕式に関わったことだと言われる。近藤さんに聞いたところによると、オーストラリアの人たちが、成田空港で入国手続きをスムーズにするために予め手筈を整えてくれたという。

大使館邸を辞してからはゆとりを持って、前日まで雨だったというキャンベラの、木々の縁が輝いている街並みを眺めながらホテルヘ送ってもらう。

試写会は夕方6時半からオーストラリア国立美術館の映写室で行われる。千葉監督夫人、吉田夫人、私の3人は試写会前のカクテルパーティーに備えて着物を着る。慣れないながらも気付けのお手伝いをする。

美術館に着いたら盛装した人たちが列をなして入場中だった。見覚えのある顔を見つけたので、近づいて「スーザン?」と声をかけたら、やはりそうだった。私が送った葉書をしっかり持っている。娘さんのジェスにだした葉書が戻ってきたので、聞いてみたら今はアメリカヘ行っているとのこと、ティムという息子さんが一緒だった。カウラのトー二一・ムー二一氏を見つけたので挨拶をする。ムー二一家では泊めてもらったこともある。高橋大使が在郷軍人会理事の1人を紹介してくださる。カクテルパーティーでのスピーチはケイト・カーネル、キャンペラ主席大臣を始めこ元捕虜として日本にもいたことのあるトム・ユーレン氏、このかたほ映画にも出演しており元大臣でもあるという。千葉監督はスピーチで直江津のことも話してくださる。300の座席はすぐにいっぱいになり、私たちは最後列で立ち見をした。

上映中は場面ごとにハンカチを顔に当てたり、笑い声が起こったりして日本の観客よりも反応が目立つので、聞くまでもなく感想を想像することができた。ホテルに戻ったら豪日協会の皆さんが夕食パーティーの準備をしていてくれた。ワインで乾杯して試写会の成功を喜び合う。

9日はグリフィン湖畔にできあがった“キャンベラ・奈良公園”の開園式に出席する。最初は“キャンベラ・奈良平和公園”になる予定だったのが、平和を取るようにと反対運動が起きて、平和の2文字が削られたのだ。新聞に出たので覚えている方もあるでしょうが、日本人が“平和”を唱えることに未だ反感を持つ人が多い。

行ってみると、吹奏楽団も出ていてお祭りムードだ。ここでもケイト・カーネル主席大臣が挨拶を始め、日本の法被を着て日本酒の樽割り等で活躍される。戦争記念館で働く日本人主婦の方に荷物の番をしてもらう。

戦争作家のパイパー・ローリーさんと奥さんのみさ子さんが「招待状ありがとう」と挨拶された。試写会にも行ったけれど忙しいそうだったから声をかけそびれたと言われる。

2年前に泊めてもらったホストファミリ一のアメリアさんにも会う。

終わった後に船上昼食パーティーがあり、食事を楽しみながらグリフィン湖畔を一周する。午後は小高い山の展望台と植物園を案内してもらってから、シドニーに移動するため空港へ向かった。

シドニーではもっぱらロッドさん(養蜂業)のお世話になるので、早速空港へ迎えに来てもらう。家から近くのホテルを紹介してくれる。
Father Glynn
パウロ・グリン神父

10日は千葉監督夫妻と一緒にハンターズヒルのマリスト・ミッション,センターヘ行く。トニ・グリン神父の弟さんのパウロ神父がおられる教会で、1949年に建てられてから、ちょうど50周年に当たる。その日は、記念祝賀ミサが行われるというので参加した。パウロ神父の御好意でロッドさんも一緒に昼食パーティーに招待してもらう。200人くらいの大パーティーだった。シドニーに留学している千葉監督の2人のお嬢さんたちがまぷしいくらいのびやかに明るく人なつっこいので、久し振りに若いということは素晴らしいと感ずる。シドニーの貿易会社で働いている北村さんにお会いする。流暢な英語を話されるので、何かと助かる。

2日間ホテルで泊まったが、遅くまでロッドさんの家で話し込んだりすると、戻るのが嫌になるし、朝は朝で迎えに来てもらう時間が無駄でもあるので、3日目からはロッドさんお家でお世話になる。

11日はジョン・クックさんの家へ昼会に招待される。息子さんのジョン・ジュニアも来ていたので除幕式以来4年ぷりの再会だった。主人は、直江津捕虜収容所の中や建物の様子を正確に記録して残したいと、質問をいくつも用意していったので、せっかくの食事中も食後のお茶の時間もかまわず質問攻めをしてしまった。私の通訳も辞書を引きながらの頼りないものなので、クックさんは余計に疲れる、ようだ。時々「食事が終わってから」とか「お茶を飲んでから」と言われても主人にはよく聞こえない、というより焦るので無視する。50年まえの記憶をたどるにもエネルギーの必要な80歳のクックさんにはさぞ辛かっただろうと反省する。

帰りは口ッドさんに千葉監督宿泊のホテル、ユニバース・ロッジまで送ってもらう。夕方7時からの試写会のためにまた、着付けも手伝う。前回よりはうまくできてほっとする。
早めにノースシドニーの日本文化センターヘ行く。13階ヘ行ってみたがだれも見えていない。ここは120名くらいしか入れないと言う。会場作りのための椅子運びを手伝い、受付の準備をする。

一番乗りはジャック・ミューディーさんでジェニーさんと一緒だった。思ったより元気そうだが、やはり92歳の年には勝てないとみえて、4年前の覇気はもうない。八木さんが訳された詩集をお渡ししたら嬉しそうに、「うん、うん」と何回も頷きながらページをめくっておられた。主人はここでも質問を始める。北村さんがおられたので大助かりだった。知らない顔が多い中でビル・カーさん夫妻を見つける。亡きフランク・ホールさんの奥さんと2人のお嬢さんたちが見える。ジョン・クックさん夫妻、息子さん夫妻もぎりぎりに駆けつけてくれる。カウラの日本庭園の造成に功績のあったドン・キブラー氏が来られる。映画の中でいかめしい将軍を演じた俳優が、カジュアルなTシャツ、サンダル姿で現れたのには驚いた。事務所の椅子を運んでも、まだ立ち見する人が多かった。

試写会の後、14階でシドニー日本領事館主催のカクテルパーティーがあったので、ミューディーさんたち一人一人に声をかけたら、全員が出席してくれた。

映画を見て涙ぐんでいる人も多く、特にフランク・ホールさんのお嬢さんたちが画面で父に会ったこともあって、私たちにも改めて挨拶をしてくれた。

会場には飲み物とお寿司、サンドイッチが用意されてあった。主人は北村さんに協力してもらいながら、まだ残りの質問を続けている。私はせっかくのパーティーなのにと気が気ではない。

ビルさんたちは、今マッジに住んでいるという。そこはモーロングに近くワインで有名な村である。8月に私の派遣団友達がホストファミリーと一緒に行ってきて「石塚さんの好きそうな所だよ」と教えてくれた。一度行こうと決めていた所だと話したら、奥さんがΓ是非ホームステイにおいで」と言つてくれる。直江津で亡くなった元捕虜の息子さんの家にホームステイするなんて、何とも不思議な気持ちだ。戦争中の女学生の自分に話したら何というだろうか?きっと「やめなさい」というに違いない。まして犠牲になった方々はと思うと複雑だ。とにかく必ず実現できるようにと祈る。

スピーチは中村総領事官が立派な英語でされる。ダンディーなドン・キブラー―氏が感激のあまりか言葉を詰まらせたのが意外だった。千葉監督は日本語で北村さんに通訳してもらう。何人目かに主人も指名されて前に出たが、北村さんがおられたので、安心して日本語でスピーチをする。最後にミューディさん、クックさんにも前に出てもらって一言ずつ話してもらった。

ビルさんのお父さんは、直江津で亡くなっておられるので、スピーチをしてもらえばよかったとか、アッシー君をさせてこき使ってばかりいるロッドさんにもと気がついた時はすでに遅かった。緊張のあまり気配りが足らなかったと反省する。
at Japan Cultural Center
シドニー日本領事館主催のカクテルパーティーにて
翌12日は伊藤日本文化センター所長主催の昼食会に招待された。中村総領事官、千葉御夫妻、主人と私、伊藤所長とスタッフの7名で和やかな会だった。伊藤館長は「上越市の井上副市長は私たちの仲間の一人で、4年間休職して応募して合格されたのだ」と言われる。「上越市での試写会には是非協力するようにフアックスを送りましょう」といってくれる。中村総領事官は20年前にインドヘ“マザーテレサの世界”を撮影に行った千葉監督と偶然の出会いがあったことを話され、忘れていた千葉監督を恐縮させるなど、おもしろいエピソードが話題に上がった。

緊張もしたが、千葉監督のお陰でめったに味わえない楽しいパーティー攻めにあったオーストラリアでの5日開だった。失敗も多かったが、元捕虜関係者14名に会うことができ、名前も間違えないで声をかけることができたので、私としては自分を褒めたいくらいに思っている。

映画の中でも言っているように、一人一人がお互いに知り合い、仲良くなれば絶対に銃を向けることなどできないし、それが戦争を防ぐ一番の方法だと確信できた旅でもあった。

私の人生で欠落している学生生活をオーストラリアで取り戻した様な旅でした。上越市からの2人も予想どおり何かを発見してきたようで、8月23日の朝直江津駅に着いたときも疲れを見せず生き生きとして見えたのは決して私の錯覚ではないでしょう。