オーストラリア訪問記'98
1998年7月31日〜8月23日


5回目のオーストラリア訪問   (石塚洋子)
ホームステイ   (小林 桂)
オーストラリア滞在記   (松橋 紘史)


5回目のオーストラリア訪問
石塚洋子


シドニーの空港に書いたすぐに、家で泊まったロジャーさんと西沢さんの家で泊まったジェニーさんが目に入った。モ−ロングから迎えに来てくれたのだ。再会を喜ぶ間も惜しんで、おんぼろミニパスの後ろに取り付けた荷物用の車に、一行13人それぞれのスーツケースを積み込む。

人間たちも前のパスに乗り込み、ロジャーさんの運転で出発。ほっと一息する。

at Sydney Airport
シドニー空港到着直後

8月1日土曜日午前9時、上越から参加したのは小杯桂さん、松構紘史君く高校生)、そして私の3人。奈良日豪協会の金沢さんをリーダーに、最年少は中一から年齢も様々な11名に同行させてもらっている。ほとんどが初めての顔ぶれとは思えないくらい打ち解けている。

車はシドニーの街を通り抜けハーバーブリッジも渡ってモーロングヘと向かう。雨上がりだというオーストラリアの空の下、懐かしい草原とユーカリの林が交互に現われる景色が続く。ジェニーさんが、途中で運転を交代してくれる。

マクドナルドで昼食を取り、ブルーマウンテンを見学し、モーロング・セントラルスクールに着いたのは午後5時になっていた。一部屋借りて着替えをして、6時からの歓迎会に出席する。ホストファミリーを中心に5、60人くらいの人が手作りの御馳走で迎えてくれる。

ガボン郡長、去年会った人達、上越へ来た人達、始めて会う人達みんなと挨拶をする。遠い外国へ来た気がしないくらい温かい雰囲気だ。お腹いっはい飲んで食べて、郡長からお土産までいただいてそれぞれホストフアミリーの家へ向かった。私はロジャーさんの家だったので、最初からあまり気を使わないですんだ。

with Roger's family
ロジャーさん一家と

翌2日は日曜日、午前中は審判をするロジャーさんのお供をして、子供達のラグビーの試合を見物。午後は奥さんも一緒にオーストラリアでは少ない標高1,000メートル余りの山ヘドライブ。途中のレストランでランチを御馳走になる。オレンジのペットフード会社へ勤めているという日本人家族に会った。道路に雪が残っていたので、途中から車をおりて頂上まで歩く。頂上に立って一瞬りするとパノラマのように景色も360度一回りした。

2日目は、モーロング・セントラルスクールの高校部に体験入学し、3日目は3,4人のグループに分かれて近隣の小さな学校を訪問した。その日は、オーストラリアでは珍しい大雨だった。上越からの2人も思いの外ホストファミリーにとけ込んで楽しそうにしている。

4日日に上越へも来てくれたミッシェルさんの御主人のマークさんに送ってもらってカウラヘ向かい、その日は、モーターインに泊まる。夕食が済んで部屋へ戻ったとたんに電話が鳴る。シドニーの元捕虜ジョン・タックさんからだった。「8月22日に都合が良かったら、昼食を一緒にしましょう」という。「喜んで」と返事をする。

翌日8月5日はカウラ事件54周年、日本人戦没者墓地で慰霊祭を行い、カウラ事件について学ぶ。また、カウラ事件で犠牲になったオーストラリア兵士の追悼碑の建立式にも出席した。私の友人マリオンさんがお礼の言葉を述べた。身内にあたる人だとか。元日本兵捕虜の高原さんや、映画「愛の鉄道」の千葉監督もスタッフと一緒に参加、取材もされていた。

千葉監督が、私に「元捕虜の方と会う予定はあるのですか」と聞かれたので、22日のお星にタックさんとお会いする予定だと話したら、是非取材したいと言われ、「それではクックさんと相談してから漣路します」と、電話番号を書き込んだスケュジュールをいただいた。

午後モーロングに戻り、翌8月6日はモーロング・セントラルスクールの小学校へ体験入学し、各教室を訪問見学してこちらもお返しに折り紙、習字、お茶、そろばん等を披露し、歌も歌った。

モーロングで奈良日豪協会の男性2人女性1人が予定通り帰国したのだが、準備する3人のことを知った中1の女生徒がどうしても帰りたいと言い出し、残念にもギブアップしてしまった。

8月7日、例のおんぽろミニパスで700キロメートル南に位置する米作地帯のデニリクインヘ移動する。奈良日豪協会からモーロング・セントラルスクールに留学中の女生徒一人も加わって、一行は10名になる。ロジャーさん(副校長)と校長のバターソンさん、そして例のジェニーさんが交代で運転してくださる。

デニリクインではジェニーさんの妹のジュリーさんが待っていてくれた。上越では、近藤さんの家に泊まった人だ。森のキャンプ場に泊めてもちう。カンガルーを追いかけたり、鳥やポニーに乗ったり、キャンプフアイヤー、バーベキュー、ダンスを楽しみ古い遊覧般、新しいポート等にも乗せてもらった。

at the entrance of the world's largest euclyptus forest
世界一のユーカリ林の入り口にて

牧場も見学したが、何よりも驚いたのは米作農家の規模の大きさ。地平線まで続くヘクタール単位の田に飛行機で種を蒔くと言う。アジアを中心に大量に輸出を増やそうと考えているらしい。

8月9日の午後同じく米作地であるリ−トンヘおやつや飲み物をたっぶり積んでもらって200キロメートル移動する。夕暮れのリートン小学校の前で9日間も起居したロジャーさんやジェニーさん、校長のパターソン先生たちとのお別れは本当に寂しかった。

リートンでも、その後飛行機で行ったタスマニアのバーニー、そして本土へ戻つてキャンベラでもとても良い家庭に恵まれて過ごした。学校でもめんどうを見てくださる方がいて見学も順調だった。リーダーの金沢さんが持つ人脈の広さと、惜しまない努力のお陰と心から感謝する。

キャンベラのステイ先が、前豪日会長のカーメル・ライアンさんだったので、8月20日に日本大使館の佐藤駐オーストラリア大使の送別会にお供することができた。会場ではカウラ市長、トーニームーニー氏等にもお会いできた。他に私に興味を示してくれる人もあったので、大いに平和記念像の宣伝をした。自分の国を知らないで梅しい思いをしたと言う人は、上越市民の運動は国際的にも立派な事で自分たちの仕事もしやすくなると言ってくれた。

シドニーに看いたすぐタックさんに電話して、サーキュラーキーで会う事にした。千葉監督の取打も0。K。で一緒にお昼をご馳走になる。もう一度日本へ行きたいと言うクックさん。今回も行く先々で幸運と好意に恵まれた良い旅だった。


ホームステイ
小林 桂


広い、大きい、まぶしい、おいしい、豊か。旅の印象を一言で表すとこんなところでしょうか。

実をいうと深い思いいれはなく、英会話の力もないくせに、ホームステイがしたかったと、今更ながら思い起こして、夏の予定も立てないことだし、えい!とばかりに申し込んだのが、申し込み締切りの前日。石塚さんのお宅で申込書を書き殴りながち初めての募集案内をじっくり見たほどです。学生の交流が中心のようだったのてかなり気後れしながらも、「難しく考えることはないのよ」というお言葉を頼りに参加してしまいました。

こんないい加減な団員でしたが、奈良の協会の方々をはじめ受け入れ側のサポートのおかげで、不安だった日本文化の紹介も大過なく終え(ほとんど我流の怪しい茶道まで披露してしまいましたが)、学校訪問もホームステイも存分に楽しませていただきました。カウラの戦没者慰霊祭では献花役を仰せつかるハプニングもあったり、キャンベラでは日本語学科の大学生による歌舞伎のリハーサルで着つけ(またもや怪しげな)を手伝ったり、と毎日がぴっくり箱?でした。

visiting school
学校訪問

また、内陸部の農村部から主要都市、そして本土を離れてタスマニア島と、風土の全く異なる土地を訪問できたことも収穫でした。信号のない土の道路、大を幾つもつけたくなるほどの米作地帯、何時間走っても変わらない(すれ違う車さえ数えるほど羊とユーカリの点在するなだらかな緑の平原、街なかのクラシックな建物。タスマニアは海も山もいたる所が国立公園といった感じの美しい緑豊かを島で、もう一度行きたくなりました。

さて肝心のホームステイですが、言葉の通じないさぴしさ、孤独感は想像以上でした。度胸と愛嬌も必要なのでしょうが…。折り紙でお茶をにごしましたが、せめて芸の一つもできればと、その時ばかりは後悔しました。でもどの家庭でも(地域の方々も含め)温かい接待を受け、その心のゆとりと、家族はもちろん隣人も大切にする豊かな愛情には頭が下がる思いでした。そして、いいな、と思ったのが、子どもたちももてなし上手?だったことです。学校では人なつっこく寄って来て<れるし、家庭でも無口になりがちな私に気遣って声をかけてくれました。その一つ「Enjoy Yuorself」は忘れ難い言葉になりそうです。とにもかくにも、人こそが思い出になるということを改めて実感した旅でした。最後になりましたが、このような機会を与えてくださった日豪協会と関係者の皆様に、心から感謝申し上げます。


オーストラリア滞在記
松橋 紘史


去る7月31日から8月23日までオーストラリアに日豪協会一団員として行かせていただきました。帰って来た時に、自分なりに何か証言するのではなく体現できることを、今回の私の目標としてこの旅に臨みました。(このようなことを言っているうちは、まだまだ子供だということが、この旅を通し後になりわかるのですが)。そんな目標を掲げるのもつかの間、オーストラリアに着くと、私が一日で日本にいる時に得る情報や知識が、オーストラリアではわずか10秒間で飛び込んでくるという始末、整理しきれない頭を抱えながらこの旅で学んだこと、見たこと、聞いたことを少しでも体現することができなければ、言葉は悪いですが、ただの大馬鹿者だと思い、考えさせられました。
さて、この旅でいつも三日坊主の自分が一つだけでも何かを続けてやり遂げてみようと思い、自分なりにその日にしたこと、起こったことをこの24日間の間、ノートにつけていました。その中に幾つか自分が率直に感じたことのありのままを、自分なりの詩というか、文というかで表現しましたので、この文を書き恥ずかしながら私の報告書、かつ滞在記とさせていただきます。

---日本にはない、すっげ−いい景色を一人で眺めてて、無意識的、自分の知らないうちに、気付いたら心臓の音が、胸に手をあてなくても聴こえてきた。これって「あの太陽、きれいだ」とか「この草原どこまで続いてんの!」って変なクッションを挟まないでなんでもストレートに感じることができるようになっているのかな?視点を置く場所、感覚がストレートになってきているのかな?---

Hiro riding a horse

---初めて馬に乗り、初めて見るすばらしい景色...声がでなかった。ただ、今までの自分に「ざまあみろっ!どうだまいったかっ!」って言いたかった。古くさい言い方かもしんないけど、馬に乗っていると自分自身に素直になれる気がする。初めて自分の口から出た言葉が、日本語で「うおーすげーよお前」と自然に向かって吠えたことだった。---

この二つの文はモーロングで生まれて初めて馬に乗り、3時間の乗馬(乗馬等というそんなきれいなものではないが)をした日に書いたものです。小さい頃かちカウボーイに憧れていた自分が馬に乗りたった一人で片道1時間近くかかる丘の上に行き、見渡す限りの大自然いっしょに会話をしてきました。

---自分の言いたいこと、伝えたい気持ちがうまく伝えられない。俺は何て小さいんだろう、違う人類、言葉の違う人の中に入り初めて自分の小さいことに気づいた。---

これは初めてのホームステイの2、3日目に思ったことでした。ある程度ホストファミリーや異国の他の習慣に憤れてきて、日本のこと、自分の事、自分の身の回りのことを伝えたい時、単語が分からなかったり、忘れたり、文の構成がめちゃめちゃだったり、習慣が異なる故、生じる理解できないことをうまく表せなかったりと、とにかくうまくつたえられない自分に腹が立ちました。

---ここでは時間がゆっくりながれている。自然が俺をそうさせているのではなく、人が俺をそうさせている。日本では無駄な時間というものがないが、いや、人が作らないが、ここではポーッとしている時間が数多くある。ここの人は、もうすでに当たり前のようにあるのだが、その時こそ、そういった時間こそ大切だという。たしかにそう思う。---

この文は、ディニリクインという町でキャンプをした時に書いたものです。その日は、一日バスで町を見学をして、夜にバーベキューをする予定になっていました。見学が終わり、キャンプ場に戻ってくると、すでに6時過ぎなのにもかかわらず、肉を焼こうともせず、火を囲みながらのコーヒータイムがはじまり、約2時間後、ある程度会話が終わると、やっと肉を焼き始める。こういった日本人には無駄と思える時間をオーストラリアの人は大切にしている。そんな時、こんな風に感じました。

Hiro and Roger in Molong
モーロングでロジャーと

---ここではすべての働く人がカッコよく見える。牛の乳をしぼる人にしろ、古道具屋をやる人にしろ、車を運転する人にしろ。何でだろう?ずっと考えてみて、ここの人たちは自分の仕事に誇りを持っているからだなあと結論を下した。

紙切れのお金よりも命を相手にして財産をつくっている人達。自分の仕事を愛し、ハートがあって一生懸命仕事をする人達。日本人には少ないんではないでしょうか。

---こっちに来て"Thank you"や"Sorry"のありがたさ、必要さが分かった。日本で言う「ありがとう」や「ごめんなさい」にあたる言葉だ。相手の人のその言葉の取り方一つとっても"Are you all right?"の表面さと「こちらこそ」で人の裏をみる日本とではまったく異なっていて反省させられる。

オーストラリアの人は、あいさつ一つとっても心に裏がない。裏など考えなくとも十分だと思っている。日本みたいに、車の免許試験一つ取り上げてみても、試験を出す側は、試験を受ける側の裏の裏をつくような、いってみればひねくれた問題を出す。受ける側もそれにひっかからないように努力する。このようなことをしていては、心に裏がない挨拶、それを疑わない心はいつになっても、持つことができないのではないでしょうか。

---上手に英語が話せてもここの地に永住できない。俺はここの奴でもなけれは、オーストラリア人でもない。結局俺はどこの地にもなしめないただ一人の日本人なんだ。

この文は、文として書いてしまうと、自分に強く言い聞かせることになり怖く、心の中では思っているものの、なかなか書かなかった。いや書けなかった文です。この旅に行くまでは、アメリカに行けばアメリカ人になれ、オーストラリアに行けば、いずれオーストラリア人になれると思っていた自分に一番痛く感じられたことでした。

---今日本に着いた。何かよく解らないが、日本を発った時と様子が違う気がする。オーストラリアから戻って来たばかりのせいか。いや違う。オーストラリアで教わり、育った大きな心が自分が、自分の周りをそう見せているのではかいか。今までは、自分が醜い故に、周りも醜く見え、今までは自分が汚い故に、周りも汚く見えていたのではないのか。そう思ぅと、今まで自国をバカにしていた自分が、今まで自国を嫌っていた自分を、バカみたいに、嫌いに思えた。

私にとって、今回のオーストラリアヘの旅は、今までの人生、これからの人生に大きな影響を与えてくれ、そして大きな起点を見出だしてくれたと思っています。オーストラリアという広大な大地、そして住んでいる人々があまりにも大きすぎました。この場をお借りして、時間的にも気持ち的にもぬるま湯だった自分に熱湯というすはらしい機会を与えてくれた両親に感謝し、私の報告書、滞在記とさせていただきます。