私は何様のつもりだ                                  岡森利幸   2011/7/27

                                                                  R2-2011/8/1

1.大人であること

私には、自分が大人になったと感じた瞬間が18歳のときにあった。それは鮮やかな啓示だったと思い込んだ。だから、二十歳の成人式にはあえて出席しなかった。でも、本当はそうでなかった。社会的に私は少しも「大人」ではなかったことが、某大企業の中で、私の長くも短くも感じられた会社勤めの経験で、何度か気づかされたり、直接教えられたりしたことが何度もあった。今私は、もう教えられる立場でなく、教える側でなければならないと自覚している。少なくとも、いたずらをしているような子どもに対して大人として注意するぐらいのことは、見てみぬ振りをするより、ずっとよいことだと考えている。科せられた仕事のしがらみも、経済的な制約もほとんどなく、自由な私は、自分や関係する組織の立場を守るためというより、よい社会のために考えている。

本題をカミングアウトする前に、補足しておくと、私は「人に見つからないように、道に落ちているごみを拾ってかたづけること」を趣味にしている。人から見ると「変なおじさん」かも知れないと意識している。ささやかながらも、悪をなくしたいし、善いことをしていたいだけなのだ。それを第一に心がけている。率直に言うと、過去には、人に言えないいくつかの失敗もあり、ごみ拾いはそのささやかな罪滅ぼしの意味もある。

大人が子どもを諭すように、私はあなたに「そんな罵詈雑言を吐いてはいけない」などと書いた。すると、あなたは何度も「テメーは何様だ?」と書いてきた。それは質問ではないことはもちろんだ。はっきり言えば、誹謗の一形態として質問の形にしているだけだ。あえてそれに答えると、「私は人生のアドバイザーのつもりだ」。

 

2.逆切れする子どもたち

大人が悪いことをしている子どもを叱ると、時には、逆切れする子どもがいる。一般にそれを「反抗期」という。学校内では、そんな子どもを先生が厳しく注意すると、体力的に勝る子どもが逆切れして先生に殴りかかる例が少なくない。「反抗期」が長いか短いかは、人にもよるし、周囲の環境にもよるのだろう。

私は、長かった寮生活や仕事上の関係で数々の人間関係を築き、あるいは解消してきたが、「大人」であるための一番大切なことは、「怒らないこと」と「恐れないこと」だと認識している。世の中にはいろいろな人がいるもので、礼儀もモラルも知らないかのようにいきなり怒鳴り出す人もいるし、充分に練り上げたつもりの提案書を一目見て、無言で突っ返す人もいるし、完全ダメ出しをする人もいる。小さなミスに対し、ねちねちと遠回しにお説教をすることを得意にしている人もいる。ある未解決案件の最初からの担当者であることを自認し、支援のために後から加わった私に口を挟まれたくないかのように、検討会で意地を張り声も張り上げる人もいた。それでも、私が丁寧に説明すればわかってもらえることが多かったのは、私が彼らに対して自分の怒りを抑えたからだと認識している。

ついでに言えば、私の書いた書類の内容に関し、あれこれ書き直しを命じ、上長自身の満足のいく表現に仕上がるまで、決して判を押そうとしない上長にも、忍耐や我慢が必要だった。そんな上長に対し、いつしか怒りの感情が湧き上がってくる。しかし、そんな部下の腹立ちを察していても、決して妥協しなかった上長が、結果的に有能だったりする。

そんな経験上「怒り」は抑えなければいけないものだから、私は数回、あなたにそれを注意した。注意されたことで、まるで反抗期の少年のごとく、「テメーは何様だ」と言い返し、逆に怒りをあおってしまったのだから、皮肉なものだ。(ぼやき) あなたは「おれは怒っている」と文面にたびたび書いた。自分の脳内で、怒りという低レベルな感情を高次機能の理性が抑えられなくてどうする?

「怒り」は、戦場では役に立つかもしれないが、一般社会では、危険なものになりうる。秋葉原の車道で、人々でにぎわう日曜日に、一人の青年のやるせない「怒り」が引き起こした凄惨な事件が、まだ記憶に新しい。「怒り」だけがその動機ではないのだろうけど……。つまり「怒り」の腹いせに、とばっちりを受ける人は大迷惑だし、その「怒り」の対象にされた人はたまらない。そして、それは自分にも不利益をもたらす。失うものも多い。怒って、何の得があるのだ? なに、相手に思いつく限りの罵詈雑言を浴びせれば、自分の気持ちが少しは晴れる? それだけか? (つい興奮、でもすぐに冷静に)

あなたのこれまでの経験上、私のように注意する人に出会ったことがなかったのだろう。あなたを叱り付ける大人たちが周囲にいなかっただけだろう。無責任にも、あなたの傲慢放縦な言動を、かれらは見てみぬ振りをしていただけだ。ほめるだけの、へらへらしている人はいたかもしれないが……。そんな人は、私に言わせれば、「大人」じゃない。

 

3.的外れな論評

あなたはネットの「神様」をきどり、他人を出し抜くために、あるいは他人を見下すために、雑多な知識を拾い集めているようにみえる。自分が優位に立っていなければ気がすまない性格なのだろう。業界知識を持たないことに少しも恥じ入ることをしない相手(つまり私)や自分の方が優位にあることを認めない相手、逆に、その断片的な知識の矛盾を推論で指摘するような相手に、自分の思うようにならないことで単純に立腹してしまい、とんでもないメールを送りつけはじめた。あなたがどこからか入手した知識の中から、相手を見下すためにちょうどよい材料、つまり相手に精神的なダメージを与えられそうな事柄ならば、ほとんど無差別に選んで、書き連ねてきた。さらに、相手が書いてよこしたメール文の一字一句に揚げ足を取り、けなしまくるという、誹謗するための常套手段を活用しながら……(私には、かなり常習的な行為もに感じられた。昔、私の部下にそんな若者がいたことを思い出す)。

あなたは、私が業界用語をろくに知らないことを心底から侮蔑したしたようだ。当事者の事情を大して知りもしないで新聞報道の内容だけで推論して「変な論評」を書くなという言い分に一理あることは認める。しかし、屁理屈を言えば、雑多な知識を寄せ集めても、洞察や推理がなければ、物の本質は見えてこないように思うし、私としては、たとえ、一片の小さな根拠に基づく、相当に「的外れ」な論評であっても、人それぞれの見解の「多様性」があっていいと思っている。時事問題にしても、新聞の社説のように、通り一辺倒な論評をするのは私の役割ではないから、やや別方向から見るように心がけている。

 

4.私はあなたの上長だ――と仮定したら

もし、私があなたの上長だと仮定し、コンプライアンス(あなたは何度もこの言葉を口にした)が聞いてあきれるような、あんな誹謗・中傷の嵐のごとき『匿名メール』を部外者に数多く送りつけたこと――私がそれをたしなめると、開き直って「オレを怒らせたのは、すべてテメーのせいだ。謝れ」。私が少しもひるまないとみるや、さらにヤクザまがいの言葉で恫喝してきた、「オレはネット上で何でも知っているのだ。テメー、オレをなめんなよ」――に感付いたり、あるいは告発によって知ったりしたならば、重要案件として上位の責任者に報告し、あなたには即刻、始末書を書かせる。

そんなことでは、ネット上ではともかく、実社会では人との関係をうまくやっていけるはずがないからだ。そんな不躾(ぶしつけ)な言動をする子どもがいれば、しかりつける大人がいなくてはならない。今、世界的に、ほめるだけの教育が盛んだから、あなたのように増長した人物が今後何人現れることだろうかと、私は危惧を感じている。

私がこの一文(おそらく他の人にも参考になるであろう)を書くきっかけになったことだけ、あなたに感謝しよう。

 

 

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