映画評「ナッシュビル」                                     岡森利幸   2011/8/10

                                                                    R1-2011/9/25

1975年に製作され、当時一応の評判をとったアメリカ映画(監督:ロバート・アルトマン)が都内でひさびさに今夏に再上映されるとの新聞記事を読み、それに勧められるまま、観に行くことにした。その記事を書いた記者の評価も高かった(その他のメディアでもこの映画が紹介されていて、それぞれに評価が高い。中には最高ランクに評価されていた。ただし、評論家の高評価の割には、当時、興行的に成功しなかった)から、私は楽しみにしていた。私は、その題名「ナッシュビル」だけはかすかに覚えていて、大統領選挙のごたごたが描かれているというぐらいの前知識しか持たなかったが、見ごたえのある映画を期待した。

暑い盛りのある朝、見逃してはならないという気持ちで、私はいそいそと郊外から某私鉄の快速電車に乗り、新宿に向かった。早く家を出なければ、上映開始時間の10時15分に間に合わないのだ。

映画館の入り口がわからず、道に迷ったけれども、早めに映画館に到着したので、一番前の席に陣取り(自由席だった)、汗ばむ体を館内の冷風で涼ませながら、上映開始までしばらく待った。その間に、前面のスピーカーからはアメリカ音楽の数曲が繰り返し流されていた。それらの曲は、後から気づいたことだが、「ナッシュビル」の挿入歌だったから、映画館側の心遣いに少々感服した。

 

さて映画が始まると、人々が入り乱れて登場し、並行していくつかの話が進んでいく。まず、ルーフの前後に大きな拡声器を付けた選挙用の車が町の道路を走って来る。大統領候補の男が乗っているのだ。一方で、一人の中年の男がスタジオで音楽の制作にかかわり、自分の歌を吹き込もうとしている。その男は、伴奏のピアノに不満を持ち、(ただし観客にとってはそのピアノの良し悪しについてはほとんど判別不可)、やがてきっぱりとそのピアニストをお払い箱にしてしまう。この気難しい男が映画全編を通じて、一番まともな人だったりする……。

その後、場面が変わって、次々に女性の歌手らが登場する。彼女らに付きまとう男たちが出てきたりもする。場面の切り替えが早く、落ち着いてみていられないほどの性急さに、私はあっけにとられてしまう。ストーリーをまともに辿っていけなくなるほどだ。歌の場面が多いので、ミュージカル風な映画にもなっているのだが、その歌も途中で中断されることがたびたびあるので、聞いている側は、じっくりと耳を傾ける余裕もなく、いつ打ち切られてもいいように身構える必要がある。

誰が主人公なのか、わからないところも、この映画の難解さの一つだ。あの大統領候補の男も、中年男の歌手も映画の中心的人物ではあるけれど、主人公ではなかった。イギリスから来たBBC記者という設定の女性がたびたび出てきて、彼女が主人公かと思っていたら、そうではなく、コミカルな味をつけるためだけの脇役に徹していたことがあとになってわかる。彼女の言動は相当に「おかしい」が、アメリカ文明を皮肉っているようでもある。あえて主人公を挙げれば、特定の一人ではなく、4〜5人の女性たちそれぞれが主人公だろう。それぞれが主人公だとしても、主人公同士の関連性はないに等しい。

彼女らは、いずれも理知的な女性とは言えない。彼女らは、欲望のままに、あるいは誘惑にかられながら、懸命に生きている姿が描かれているが、どこか病的であり、哀れでもある。自由気ままなようでありながら、多くの制約を受けている。いずれも、ヒモのような男が付いていたりしている。そんな男たちは女たちの「悪さ」に怒ったり、会話がかみ合わないことへの不満や自分の思うようにならない苛立ちに声を荒げたりする場面が多くあり、鼻に付く。

道路上では些細なことで交通事故が発生する。それに巻き込まれた人々の腹立ちぶりや苛立ちぶりにも、観ている側としてはうんざりさせられる。車社会を強調するためか、配車になった車が山と積まれた広大な区域が背景に映し出されていたときには、カルチャーショックのようなものを感じた。

 

選挙のキャンペーンのために多くの人が集められたイベント会場で(人々は選挙演説を聴きに来るのでなく、余興目当てに来るのらしい)、歌手たちが仮設の舞台に登場し、歌を歌って会場を盛り上げていた。女性歌手が歌っていた最中に、観客の中に紛れ込んでいた一人の男に彼女が銃撃されてしまう。その彼女の鮮血の付いた、ぐったりした体が運び出された後でも(あの中年男の歌手が、流れ弾に自身が負傷していながらも、彼女の救護のためにまともに対応していた)、マイクを拾った別の女性が歌を歌い続けるという異常過ぎる冷静さの中で映画は終わる。この映画の真のねらいは、アメリカ社会の退廃ぶりと人々の神経の麻痺(まひ)ぶり(他人のことに無神経な人々)を見せ付けることで、観客をうんざりさせることにちがいない。(皮肉を込めて)

その最終的な場面で、女性歌手が突然にピストルで暗殺されてしまうのは、まったく意味がわからない。彼女が暗殺される理由は何もないからだ。状況から考えて、大統領候補としてキャンペーン中の政治家を狙ったものが、弾が逸れて彼女が巻き添えになったものとも考えられるが、そう推測していいものかどうかも定かでない。(映画では、男がわざと彼女を狙ったように、私には見えた。) 映画の中ほどで大統領候補のロバート・ケネディが暗殺された事件などが語られた場面があって、銃撃される予感(伏線)はあったのだけれど、映画の結末がこれでは、納得がいかない。大統領候補が撃たれたのなら、まだ話がわかる。なぜ彼女が撃たれたのかという説明もないし、ヒントすら示されていないから、観る側は、映画が終わったあとでも「不可解な気分」を引きずりながら、劇場を後にすることになる。一種の「後味の悪さ」が残るのだ。

これは往年の名作「グランドホテル」の手法にならった映画の一つだろう(群衆劇ともいうらしい。映画解説によると、この監督が得意としている手法とのことだ)が、この映画ではわざと話を複雑化したような、込み入った構成になっており、観客は頭の中で整理しなければ、とてもついて行けない。こま切れになった部分をつなぎ合わせるような努力が必要だ。アメリカの醜い面を見せつけるという監督の意図があったにしても、それなりの手法があったはずだ。映画全編が、ほとんど、どたばた劇になってしまっている印象だ。要するに、観客に対して不親切な映画なのだ。3時間近い(160分)大作なのに、内容的に乏しい。内容が盛りだくさんに見えたとしたら、登場人物が多く、場面の切り替えが早いせいだろう。印象に残る場面は、ほんの数場面の「性と暴力」でしかない。

私は最後までわけがわからず、呆然と観ているしかなかった。こんな意味不明の映画を高く評価する映画評論家の気が知れないし、彼らの間では難解な映画ほど評価が高いのだろうか、と勘ぐってしまう。映画評論家のウソにだまされた気分だ。私が評価すると、平均点以上の点数はとてもつけられない。(最下位レベルと言いたいところでもあるが、それでは主観的過ぎることになりそうなので……)

 

 

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