感情をぶちまける人                                岡森利幸   2009/5/11

                                                                  R1-2009/5/15

映画を見ていて気づくことの一つは、主人公たちの感情表現が大げさなことだ。特にハリウッド作品で、その傾向が目立つ。映画では、常に迫力が求められ、感情をむき出しにして、いわゆる迫真の演技をした方が感動的な作品になるかもしれないし、心の中の感情を体の動作で表現したりすれば、見る側には分かりやすいことかもしれないが、多くの映画で、登場する人物が、うまく行かないことの苛立ちやちょっとした不満を大げさに表現することに、私は気になっている。彼らは、不満を感じれば、手にしたグラスをポイと後ろに投げ捨てる。苛立てば、食べ物でも力いっぱい放り投げる。思い通りに行かなければ、地団駄を踏み、大声でわめき散らす。自分の至らなさや不運を嘆くのではなく、やり場のない怒りを何かにぶつける。

多くの場合、一瞬の出来事として感情の爆発が起る。感情によって体が勝手に動いてしまい、攻撃的で、破壊的な所作につながるのは、あまりにも短絡的すぎる。何とキレやすい人たちが多いことか。食べ物をぶちまければ、それで気持ちが治まるのだろうか。

私なら、そうしたとしても、その後に自己嫌悪に陥ってしまいそうだ。

映画などでは、観客は感情移入して、主人公の気持ちに共感することが多いのだが、主人公がそんな行為に走るのは、私は見ていて白けてしまうことが多い。主人公たちは大した理由もなく興奮していることが多いのだ。そんな興奮した感情を理解できるにしても、そんな彼らといっしょになって食べ物をぶちまける気にはならない。私は、ぶちまけたあとかたづけは誰がやるのだ、などとも考えてしまう。日本でもいくつかのホームドラマでも、激昂した男が、食器が並べられた卓袱台を一気にひっくり返すような場面があった。それらには、自分の権威を見せつけるための、示威的な行為の(パフォーマンス的な)意味も含まれていたようだが、それも似たようなものだろう。ハリウッドでは、卓袱台はないが、手にしたものを投げたりして感情を爆発させるのだ。

 

例えば、映画『マディソン郡の橋』。夫と二人の子どもたちが州の祭に行っていた4日間、一人留守の家を守っていた農家の主婦が、近くにある屋根付き木造橋の写真を撮りに来たカメラマンの男と知り合った。その男を家に連れ込んで、朝食をとっていた時のこと、彼女は「(世界中を飛び回っていた)男の過去の女たちと、その後に連絡を取ったりしているのか」という質問をぶつけたが、男から満足な答えが得られず、彼女は苛立ってきた。(おそらく、男が何を言っても、彼女は満足しなかったようだ。)興奮してきた女は、男の、まだ手をつけていない食べ物を皿ごと下げ、流しにほうり込んだ。

――〈おいおい、オレはまだ食べていなんだ〉と、男に代わって私はつぶやく。

 

『宇宙戦争』では、主人公の男が自分の二人の(なまいき盛りの)子どもに食事をとらせようとする場面だ。宇宙人が巨大なタコのようなロボットを操って地球に襲来し、街を破壊し、人々を殺りくし始めた。男の家族が住む町にも宇宙人たちが迫ってきた。男は家を出て避難する前に、子どもたちに腹ごしらえをさせようと、ありあわせの食べ物を子どもたちに勧めるが、手を変え、品を変えても、不安でいっぱいの(単に不機嫌なだけ?)子どもたちは、「いらない」と答える。いらだちを募らせた男は、ついに、そのパンやジャムを後方に力いっぱい投げつけた。

ガッシャーン

――その瞬間、子どもたちは宇宙人より、すごい形相をした父の方がよほど怖いと思ったのではないか。

 

 

一覧表にもどる  次の項目へいく

         敵国に売られた最新戦闘機V-143