敵国に売られた最新戦闘機V-143                             岡森利幸   2008/12/27

                                                                    R1-2008/12/30

最新といっても昭和十年代当時のことである。アメリカのボート社(Vought)は、開発したばかりの、星型空冷エンジン単発・全金属製・低翼・引き込み脚・単座席の戦闘機X-141がアメリカ陸軍に採用されなかったので、その一部を改造したX-143で他国への輸出を試み、アルゼンチンに売り込みに行って失敗した後も、他の買い手を捜していた。

その戦闘機の特徴をきいて、「ハッ」と気付いた人は、同好の士だろう。そうなのだ。太平洋戦争時の日本軍の、代表的な戦闘機の特徴そのものだ。その写真を見れば、日本を代表したゼロ戦(三菱零式艦上戦闘機、海軍機)や隼(中島一式戦闘機、陸軍機)と同じような形をしていることがよくわかる。細部を一つ一つ見ていけば、外観にいくつも相違点があるけれど……。

昭和16(1941)12月、真珠湾でゼロ戦などが猛威を振るったとき、アメリカでは、その機影を見てすぐに「ゼロ戦はX-143のコピーではないか」という疑惑が持たれた。撃ち落されたゼロ戦の残骸がハワイ・ホノルルにあったので、ボート社の技術者がそれを調べて(調べさせられて)、「外観は似ているかもしれないが、機体構造の細部はそれぞれ違う」という見解を示したという。(同じだと言ってしまうと、輸出したことが咎められた?)

当時、西欧諸国で戦闘機の開発競争が始まっており、最新の戦闘機の開発が急がされ、次々に高性能な戦闘機が出現していた。日本軍もその状況に遅れをとってはならないとあせっていた時期だった。ちょうど買い手を捜していたボート社のX-143に飛びつくように、海軍(陸軍という説もある)が戦闘機の技術資料として一機を175,000ドルで買い取った。当時は軍事技術や機器の輸出規制などなく、合法的な取引だった。今日では、先進技術が盛り込まれた最新の戦闘機を仮想敵国(あるいは敵対国)に輸出することは考えられないことだ。そのプロトタイプ(試作機)のX-143は昭和12(1937)7月に日本へ向けて出荷(船積み)された。

日本に着いた後すぐ、陸海軍共同で研究調査が行なわれた。航空機製造の技術者も細部に渡ってその構造を調べたという。それは技術資料として第一級のものだったのだ。特に、引き込み脚の技術については、得るところが多かった。空冷エンジンのカウリングや排気管の形状に関しても、結局は、類似したものがゼロ戦・隼に取り付けられた。ゼロ戦・隼がX-143のコピーとまでは言えないにしろ、その技術を基礎にして設計・製造されたことは確かだろう。X-143は、アメリカ本国では採用もされなかったダメな戦闘機だったが、日本の航空技術発展の一助となり、航空兵力に関して軍部に自信をつけさせたのだ。アメリカの最新鋭戦闘機は「この程度のものか」という変な自信もつけさせたかもしれない。

その後、隼は昭和13(1938)1212日、初飛行。ゼロ戦は昭和14(1939)41日、初飛行を果たした。

同時期、一方でアメリカでは、はるかに上を行く高性能な戦闘機の開発が進められていた。

 

参考資料、『歴史群像シリーズ、日本陸軍軍用機パーフェクトガイド1910〜1945』企画・構成・古峰文三、学習研究社

 

 

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         映画評「2001年宇宙の旅」