地震が起きた日                                                                              岡森利幸  2012/2/7

                                                                 R2-2012/3/9

 

2011年3月11日(金)私は、秦野市から大船へ行っていた。大船駅から徒歩10分ほどの鎌倉芸術館の大ホールで、三国連太郎の古い映画2本の上映と、それに先立って本人が何某という映画評論家にインタビューを受けるという催しがあり、私は秦野市から東海道線の二宮駅に出て、いそいそと大船まで行ったのだ。二宮駅から大船駅までは約30分の電車の旅だ。この日、私にはもう一つの目的があって、朝早めに出かけた。

それは田谷洞窟を見物することだった。大船からバスに乗って、田谷洞窟を訪れた。そこは鎌倉芸術館とは別方向の地にあった。田谷洞窟にはちょうど9時に到着し、朝一番で中をゆっくり見ることができた。田谷洞窟は、その昔、修行僧たちが、その研鑽のために、こつこつと岩を削りながら、洞窟を掘り進め、その中で仏像や動物の像を彫り、仏教世界の様子を具現化したものだ。今では、お寺さんが管理し、一般人のために公開している。洞窟に興味があるなら、内部の照明設備も整っているので、あなたも観光気分で一度は訪れてみられたい。

洞窟入り口の看板

近くにあった神社も見て回ってから、帰りはバスを使わず歩いて大船駅に戻った。三国連太郎の映画会の開始時間にちょうどいいと計算した。ただし、私は大船駅から東に行くべきところを南よりに行ってしまい、結局、鎌倉芸術館へ着いたのは開始時間にぎりぎりだった。鎌倉芸術館は、文化会館のような複合施設で、別の部屋では絵画の展示などをやっていた。この日は平日だったが、多くの人でにぎわっていた。

私は例によって舞台の近くに前から二列目の真ん中の席を陣取った。登壇した三国連太郎さんは、衰えはあっても、姿勢もよく、まだ元気そうだった。三国連太郎さんと同じくらい年配の映画評論家との対話を30分ほど聞いた。それを聴いていた観客の多くの年代層も同じくらい……。この対話に関しては、そのあと観客から不満の声が漏れ出ていた。

「(評論家は)自分がしゃべるばかりで、三国さんに多くを語らせなかった」

対談中の三国連太郎さん

私もそう思った。そして映画が始まった。若い三国連太郎が新聞記者役で、離婚した高級官僚とその家族に、取材のためと正義感に駆られて迫っていく……。二本目の映画は、時代劇だった。

午後2時42分、その映画が始まってまもなく、大きな地震が大ホールを揺さぶった。それはゆっくりした横揺れで、長く続いた。こうした揺れは直下型ではなく、震源地が遠いものと私は決め付け、ここでは大したことはないと高をくくって、揺れがおさまるのを待った。まもなく、映画のスクリーンが真っ黒になった。停電になったのだ。その停電はしばらくすると復旧したようで、館内が明るくなった。頭上の天井を見上げると、ちょうど真上に、高い位置にぶら下がった照明設備や音響装置が大きくゆれていた。

〈あれがまっすぐ落ちてきたら、大変なことだなぁ〉と他人事のように思いながら……(*1)。

私の周辺にいた人々のほとんどは、逃げ出すように席を外していた。中には、椅子の間に体を入れて、胎児のような姿勢をとっている人もいた。

揺れがようやくおさまり、私は、映画の続きが観たかったから、その場の席に座っていた。しかし、スクリーンに映像が見えることはなかった。そのうち、場内の放送が「ホール内の皆様はホール前方に移動してください」などと、しつこく繰り返し始めた。それは人が話しているものでなく、あらかじめ録音されていたものを再生しているだけだった。

私は、大ホールの前方の観客席に座っていたから、そのままでいいのかと思い込んだのだが、あとで考えてみると、「建屋の前に出ろ」という意味で放送していたことに気づいた。

係員の誘導らしい誘導もなく、映画がいつまでも再開しないので、大ホールを出て廊下の一角にあったソファーに座っていると、同じように呆然と座っている人がいたので、会話を交わした。

「長い揺れでしたね」と私。

「三陸の沖が震源地らしいね」

「そちらの方は大地震だったかもしれないけれど、ここからは相当に遠く離れているし、それほど大きな揺れではなかったから、そろそろ映画を再開してほしいと思いますね」

「今日は、もうだめだね。映画はこれで打ち切りだろう」

私は、主催者側が映画を再開するのか、しないのか、はっきり言ってほしかったかったが、隣の人にそう言われて、しかたなく私は腰を上げて鎌倉芸術館の入り口ロビーに行った。ロビー内には人が多く群れていた。ふと見ると、係員が中央付近の床を仮の柵で囲い、人が近づかないようにしていた。上を見ると、大きなシャンデリアがあって、それが落ちても人を傷つけないように囲っていたのだ。そこで私は人々の話の中から、館内の明かりが灯ったのは、電力が復旧したからではなく、施設内の非常用電源によって明かりがついていることを知った。停電が長く続けば、その非常用電源も止まってしまうのだ。

建屋の前の広場にも、人がいっぱいいた。「建屋の前に出ろ」という放送があったようだが、それからどうすればいいかという指示は何もなく、人々はそこに群れているばかりだった。そのうち救急車が到着し、急病人を運ぼうとしていた。地震のごたごたで、急に具合が悪くなった人がいたのだろう。

多くの人々は鎌倉芸術館の建屋の前で立ったまま、動こうとしなかった。私は、こんなところに長くいてもしかたなく、主催者側が何か言うのを待つことをあきらめて、家路につくことにした。大船の商店街を通って歩いていると、尋常でない町の様子に気づかされた。停電が続いていたのだ。停電では店もパチンコ屋も商売にならないのだ。大船駅に着いてみると、人々がたむろしていた。鉄道は全面的に止まっており、いつ運転を再開するかのめども立たないというのだ。携帯電話が使えないらしく、公衆電話のところは長蛇の列になっていた。

「このぐらいの揺れで、電力も鉄道も通信もストップしたのでは情けないなぁ」と思いながら……。

「さて、どうやって家に帰ろうか」

小田急線は動いているかもしれないし、止まっていたとしても、JRより復旧が早いかもしれないと思い、小田急線が発着している藤沢駅に歩いて行くことにした。藤沢駅から相模大野を経由して秦野に帰るルートに期待した。藤沢駅まではバスが走っているかもしれないけれど、歩いた方が確実だ。歩いても1時間ぐらいだろうと思った。大船駅の売店で駅弁が売られていたので、残り少なくなった一品を買った。食べるものがあれば、心強い。

大船駅から藤沢駅までの道のりが意外に長かったことを思い出す。ゆっくり歩く気にもなれず、せかせか歩いた。途中不覚にも、川と線路に挟まれた袋小路に入ってしまい、今来た道をかなり戻って手前の橋を渡らなくてはならなかったことも痛かった。でも、その路地で、地震のために壁が崩れた建屋を見かけた。破片が通路にも散乱してた。その建屋が古いせいもあったが、写真に撮れば、話のタネの一つになったかもしれなかった。

午前中、田谷洞窟から遠回りして歩いた疲労が積み重なっていたようだ。持っていた駅弁は、小さな公園で食べてしまった。それなりにおいしかったけれど……。疲労困憊し、時間もかかって夕方にようやく藤沢駅に着いた。藤沢市では電気が復旧し、街は明るかったが、鉄道は止まったままだった。JR東海道線はまったく動く気配を見せなかったし、小田急線も止まっていた。駅の中は人でいっぱいだった。

寒い夜になった。私は駅構内をうろうろ歩いた。構内の食べ物屋は早々に店じまいをしていたし、公衆電話があるところは、相変わらず長蛇の列だった。広い駅構内で、頭上の高い位置にテレビがあって、大災害の発生を伝えていた。その映像を、多くの人が見上げていた。私は運転再開を待つしかなかったが、状況は悪く、いつ運行を再開できるか、まったく分からないというのだ。でも、もう歩いて帰るわけにはいかなかった。道路が渋滞しているようだから、家の者に車で来てもらうわけにもいかないだろう。一旦駅の外へ出て、街中のすいている公衆電話を見つけて、家には〈今夜は帰れない〉ことを告げた。

小田急線では、ホームに止まっている電車を開放しているという。その中で座っていられるというので、改札を素通りして、車両の中の座席に座った。暖房が効いているから、いくらか暖かいし、ホームのベンチに座るよりずっといい。しかし、電車の中で一夜を過ごすことになるのだろうか。眠れない夜を過ごしそうだと思うと、少々気が滅入った。

私がこのまま電車の中にいることを覚悟していたとき、藤沢市が家に帰れない人のために寝る場所を用意し、そこへ行くためのビラを改札口付近で配っているという話を聞きつけた。他の乗客たちが話していた。近くの小学校と藤沢市の市民会館を開放しているという。つまり帰宅困難者(*2)のための対応をしてくれるというのだ。電車の中で寝るよりはましだろうと、私はその好意に甘えることにした。

私は、藤沢市の市民会館に行ったことがあって(正確に言えば、その隣の図書館に行った)、土地勘を持っていたが、それより近そうな大道小学校の方へ歩いて行くことにした。道順が印刷されたビラをもらって大道小学校へ行った。こんなときでないと、私のような男は小学校に入れないのだ。暗い中を進み、校舎に辿り着くと、市の職員らしい人に4階の教室に行けと案内された。入り口で名簿に記入してから中に入ると、その教室では帰宅困難者でもういっぱいだった。小さな机や椅子が後ろの方に寄せられ、教室の床半分ほどのスペースに30人ほどの男たちがここで仮眠することになる。私の後からくる人は、別の教室に案内されたのだろう。

私が午後8時ごろ来たとき、教室の黒板の脇にテレビがあって(テレビを観ることも授業の一環らしい)、それが「大震災」の状況を繰り返し伝えていた。大津波警報が列島の大部分にまだ出ていた。東北地方は大変な状況になっていたことに驚かされた。地震よりむしろ津波で多くの太平洋岸の市町村が壊滅状態になっていた。これには目を見張った。

テレビのボリュームが相当に大きかった。夜もふけてそろそろ眠りたい人もいると思ったので、私はでしゃばってリモコンを操作し、音量を落とし、照明を暗くした。しばらくして、誰も見ている様子がなかったので、テレビを消した。同じことを何度も放送していたから、聞き飽きた。このときには、まだ福島第1原発の事故の危機的状況についてはほとんど報道されていなかったと記憶している。ちょうどそのころ、冷却機能を失った複数の原子炉が、手がつけられないほど、すさまじい状況になっていたわけだが……。

私は、毛布一枚を借用し、狭いながらも、なんとか横になれるだけのスペースを確保した。暖房はないらしく、教室の中は寒かった。底冷えしてきた。後で、あまりにも寒いので、余っていた毛布をもう一枚もらって包まった。ほとんど眠れない夜をすごした。私が眠りについたのは明け方近くだった。でも、こうして横になれただけでも、ありがたい。藤沢市の対応に感謝したい。

そして明るくなって7時ごろ私が目覚めたとき、教室内には私以外に寝ている者はもういなかった。すでに鉄道が動き出し、彼らは朝一番の電車に乗って帰宅、あるいは直接会社に向かったらしい。私も起き出して、後片付けをしていた市の職員にあいさつをしてから、藤沢駅に向かった。

でも、このときJRの始発の電車はまだ到着せず、私は、やや遠回りになる小田急線に乗った。直接家に帰る必要はないことに気づき、途中下車し、寝不足で頭が朦朧となりながらも、日課としている公共施設場所に寄った。我が家に帰ったのその日の夕刻、暗くなってからだった。

 

*1天井からのぶら下げる構造は耐震性に問題があることが多い。毎日新聞夕刊2011年5月21日によると、当日、首都圏のホールなどで天井が崩落したケースは多かった。東京都千代田区の九段会館では2人が死亡し26人が重軽傷を負ったし、川崎市幸区の音楽ホール「ミューザ川崎」では、天井部分や内部設備が、たまたま催しがなく人的被害はなかったものの、空爆を受けたかのようにすさまじく崩落した。

*2 この日、首都圏では515万人が帰宅困難者となったとされる。さらに、毎日新聞夕刊2012年3月9日によると、30年以内にかなりの確率で起きると予測されている「首都直下地震」ならば、自宅まで10キロ以上の帰宅困難者は約1000万人いると見積られているそうだ。

 

 

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         電力館への惜別